さよならヤギ沢さん
カコーン…カコーンと、広い中庭から鹿威しの音が聞こえます。森閑とした静寂の中でヤギ沢さんはお風呂に浸かっていました。
しかし、ここは馴れ親しんだ埼玉ではなく、軽井沢の別荘です。
森閑とした森の中では、鳥の声が都会に疲れたヤギ沢さんの心を癒やしてくれます。やっぱり真昼間から入るお風呂は最高だなあ、と思いながらヤギ沢さんはメェメェと鼻歌を歌いました。
「ああ、幸せだなあ」と広いヒノキ風呂いっぱいに体を伸ばして、今台所で昼ご飯を作ってくれている彼女の事を思いました。
彼女は美人で、身長が高くて、手が野球のグローブみたいにデカくて…ん、おかしいなあ、なぜか変なイメージが割り込んできます。ちがうちがう、と頭をぷるぷる振りもう一度、物思いに耽ります。
そう、彼女は…ええっと…彼女は…あれ、ええっと、彼女は…どんな人だっけ。と、ヤギ沢さんは急に彼女が思い出せなくなってしまいました。その時台所から彼女の声が聞こえてきました。
「やぎやぎー、会社から電話よー」
「今お風呂だから、後にしてー」と、ヤギ沢さんは返事をしましたが、「重要な電話らしいから今すぐだってー」と彼女が言います。「わかった、ちょっとこっちに電話持ってきてくれー」と、言った後で、良かった彼女はちゃんといるじゃないかと安心したヤギ沢さんでした。
トントントンとお風呂場のドアがノックされます、磨りガラスの向こうでは女性のシルエットが薄っすらと透けて見えました。そこでヤギ沢さんは自分が裸な事に今になって恥ずかしさを感じて「あ、あ、ちょっと待って」と、タオルで股間を隠そうとしました。が、しかし、「えっ、何か言った」と、お風呂場のドアががらがらと開き美人の彼女が入って来ました。
「キャー」
と、悲鳴を上げたのは勿論、ヤギ沢さんの方です。なんと、彼女は裸の上にエプロン姿の上司の吉田さんだったのです。
「えええ、よ、吉田さん」
狼狽えたヤギ沢さんはお風呂場でひっくり返りました。大サービスです。
「だ、大丈夫、やぎやぎ!」
慌てて吉田さんがヤギ沢さんを抱き起こそうとします。
「キャーキャー」とヤギ沢さんは手足をバタバタと必死に動かしましたが、時すでに遅し。太い腕に抱きかかえられてしまいました。
「もう、やぎやぎの恥ずかしがり屋さん」と吉田さんがはにかみ、熱いキッスを…そこでヤギ沢さんは気絶したのでした。
真っ暗になった視界が段々と開けていきます。はっとなってヤギ沢さんは目を覚ましました。「よ、吉田さん」呻き声を上げながら辺りを見渡すとそこは中央線の電車の中でした。
しかし、いつもと違い皆全裸にネクタイでシャンプーをしています。ゴシゴシと頭を洗っているのです。皆が一生懸命にゴシゴシとシャンプーをしているのに、自分だけシャンプーをしてない事に気付き急いでヤギ沢さんはシャンプーをしましたが、いくらゴシゴシしても泡が立ちません。
「おい、君、泡が足りてないじゃないか」と、隣の男性がヤギ沢さんに気付きました。「はい、すみません。どうしても泡が立たないのです」とヤギ沢さんが言いました。
「なんだと、それは一大事だ!聞こえましたか皆さん!」とその男性は車両内の人々に声をかけます。
「ああ、それは一大事だ」と皆口々に呟き、「早く彼に泡をわけてやろうではないですか」とわらわらと人がヤギ沢さんの周りに集まって来ました。それはもう異様な光景です。
「よし、それでは皆さん、彼に泡を」と、隣に座っていた男性の掛け声とともに大量の泡がヤギ沢さんに降ってきたのです。
「もう大丈夫です、皆さん、もう大丈夫ですから!」というヤギ沢さんの声は大量の泡で掻き消され、ヤギ沢さんがあわあわしている間に車両は大量の泡で満たされてしまいました。
「うーん、うーん」と呻くヤギ沢さんはなぜだか急に寒くなって、目を覚ましたした。そうです、ヤギ沢さんがグッスリとドラム缶で眠っている間に朝がやって来てしまったのでした。もう既にドラム缶風呂のお湯は冷めていて、水風呂のようです。
「うう、寒い寒い」と、ドラム缶から這い出たヤギ沢さんはパンツを絞り、それで身体を拭きました。
派出所に全裸で戻り、上着を羽織り、ズボンを履いていると、ヤギ沢さんの携帯が鳴りました。
「はい、もしもし、ヤギ沢です」
「ああ、ヤギ沢くん、今日は紙が全然でないからお休みして下さい」
と、事務のおばちゃんからの電話でした。ヤギ沢さんは小さくメェと呟き、迷い子だったことも忘れて、今日は朝からお風呂に入ろうと思い、スキップをしながら嬉しそうに家へと帰るのでした。
朝陽に照らされてキラキラ光る街並みに、チュンチュンと鳴くスズメの声、ヤギ沢さんの休日はまだ始まったばかりです。お風呂の事を考えると一人でにうふふっとにやけてしまうヤギ沢さんでした。
迷い子のヤギ沢さんが、この後ちゃんと家に帰れたのか、そして、お巡りさんとチワワ部長がどうなったのかはまた別のお話し。
おしまいおしまい。