犬のおまわりさん
犬のおまわりさんが本当に居るとは知らなかったヤギ沢さんですが、自分の姿を省みたら別に普通かもしれないなと思いました。
それに「おまわりさん」というだけで、無条件にも頼もしく思えたので、ヤギ沢さんは安心しました。
さっきまでの淋しさはどこ吹く風です。
泣きそうだった事以外は素直にお巡りさんに話しました。
「なるほど、なるほど」お巡りさんはしきりにうんうん頷いて、尻尾を楽しそうに振りました。「そいつはお風呂のせいですねえ、では取り敢えず署でお話を」と、ヤギ沢さんを連れて派出所まで戻りました。
派出所に向かう道の途中でお巡りさんは携帯電話を取り出して、何処かに電話を掛けました。
「ウー、ワンワン、ワワワンワン」
(あー、もしもし、本官ですが)
「ワンワオーン、キャンキャン、キャイン」
(ヤギ一匹確保、至急派出所へと戻り、晩飯を)
「ウー、ガルガル雄ヤギ、キャンキャンヤギ汁」
(炭火で、いえいえ雄ヤギです。是非ともヤギ汁で)
ヤギ沢さんはその時、あんなに焦って走り回る必要が無かった事をお巡りさんの携帯電話を見て思いました。
そうです、焦らずに落ち着いてGoogleで検索すれば良かったのです。ですが、今さら自分で調べてまた迷い子になるよりは、このままお巡りさんについて行って最寄りの駅から電車に乗る方が安心だと思ったのでした。
犬語は良く分からないヤギ沢さんですが、雄ヤギとヤギ汁は聞き取れました。しかし、それはきっと身元の確認とかだろうと、あんまり深くは考えずに、あともう少し頑張れば入れるお風呂の事で頭はいっぱいでした。
大変ピンチに陥ったヤギ沢さんですが、まさか、自分がこれから晩飯にされそうだとは思いもしませんでした。
派出所に着くと、入り口付近から湯気の柔らかい温かさが漂って来ました。時刻はこの時既に午後九時二十分です。目をしぱしぱとさせて、本当は疲れてもう眠たいヤギ沢さんです。
「では、ここで上着とズボンを預からせて貰います」ヤギ沢さんは素直にお巡りさんに上着とズボンを預けます。パンツ一丁になりました。
「よろしい、では次に手足を洗います。洗い終わったあとは、この専用のクリームを身体に塗り込みます」
あれ、これどこかで聞いた事あるなあ、と思うヤギ沢さんでしたが丁寧に手足を洗い、いい匂いのクリームを身体に塗り込みました。
「おい、これはあの有名なレストランの話じゃないか!」と皆さんは思うかもしれません。または、「まあ、美味しそうだから今晩はヤギ汁にしましょうかしら」と晩飯の献立に迷っていた主婦がヤギ汁を作るかもしれません。そこへ、「なんだ、母さん今晩はヤギ汁か、じゃあ久々に寝かさないよ」とお父さんが元気になり、「きゃっ、いやだわお父さんったら、もう良い歳なんだから程々にね」と再び夫婦仲が燃え上がるかもしれません。ですが、このお話しにはそのような効能は残念ながらないのです。悪しからず。
そうです、ヤギ沢さんは今まさにヤギ汁一歩手前の状況なのでした。大大大ピンチなのです。
しかし、ヤギ沢さんは不気味と静かでした。それはもう、お巡りさんがヨダレを垂らそうが、尻尾をブンブン振ろうが、お構いなしの静けさでした。
そこで、さすがにお巡りさんも怪しみだします。
このパンツ一丁のヤギはどうしたもんかと、普通はおかしいと思うはずだと。そしてかなり心配になったのです。「こいつは逆に我々を食うつもりなんじゃないのか」と、疑心暗鬼にかられたお巡りさんは、ヤギ沢さんを見つめました。
目の前の眠たそうにぼんやりとこちらを見つめ返すヤギは不気味な沈黙を守っています。
「あっ!?」
その時お巡りさんは思い出しました。
この目は獲物が隙を見せるその瞬間を今か今かと狙う目つきであるということを。そうと思うともう、この目の前のパンツ一丁のヤギが怖くて堪らなくなりました。狩られる側から狩る側へと華麗なシフトチェンジ、こいつかなりデキる。
お巡りさんの脳内では、派出所の前はもう食うか食われるかの修羅場と化したのです。焦ったお巡りさんは部長を呼ぶ事にしました。
「ウー、キャンキャン、キャイン」
(部長、チワワ部長、怖い、このヤギ怖いです)
すると、派出所の奥から獰猛な返事が返ってきます。
「グルルル、グオオ、グーグーグワン」
(何をやってんだ、早く連れて来い、もう僕ちんはお腹がペコペコなのだぞ)
「キャンキャン、クゥン、キャン」
(分かりました、でも、何か怖い)
「グオオーン、バウン、バウワン」
(この臆病者、もういい、僕ちんがやるぞ)
すると、「どうぞこちらへ」と太くて低い声がして派出所の中からちょこんと、ちんまりとした年寄りのチワワのお巡りさんが顔を出しました。
「今月は派出所ピカピカ週間なので、いろいろと面倒かもしれませんが最後に一つお願いします」と言ってヤギ沢さんを派出所の裏へと促しました。ヤギ沢さんは素直にそれに従います。
「さあ、どうぞどうぞ、ドラム缶風呂です…風呂です…風呂…」
風呂という言葉だけがヤギ沢さんの眠れる脳味噌に響き渡りました。
「メ、メエエ!!」(お、お風呂だ)
「キャ、キャイン」(く、食われる)
急に声を上げたヤギ沢さんに驚いたお巡りさんの尻尾と耳が下がります。
その横を亡者のようにヤギ沢さんは抜けて湯船に飛び込みました。
ザバーンとお湯が溢れてたちまちの間に、熱していた火を消してしまい、その光景をボケっとドラム缶の真横で見ていたチワワ部長をもお湯が押し流してしまったのでした。
「ん〜、メェェエ」(ん〜、うはぁぁあ)
「ヒャン、ヒャン!ヒャン、ヒャイン」(あっちい、あっちいよぉおおん)
熱湯を頭からモロにかぶってしまった、チワワ部長は「ぐええ」と呻きながらひっくり返り表へと流されてしまいました。
「キャンキャンキャイーン」
(部長、待って、チワワ部長ー)
と、お巡りさんも後を追ってかけて行きました。辺り一面は湯気で真っ白くぼやけ、モウモウとしています。
その中心では、不気味な煙突のようにさらにモウモウと湯気を吐き出すドラム缶が静かに佇んでいました。