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広いお風呂に憧れて  作者: イヌスキ
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ヤギ沢さん

 ヤギ沢さんは山羊です。やぎですがサラリーマンで独身です。


 ヤギ沢さんは毎日電車で一時間かけて通勤します。埼京線を武蔵浦和で乗り換えて、武蔵野線に、そして西国分寺から中央線に乗り換えて会社のある国立まで。この間の毎日同じ車両に乗り合わせるサラリーマン達にヤギ沢さんは密かに親近感を持っていました。「みんな疲れながらも頑張ってる自分が大好き」Mっ気たっぷりなヤギ沢さんは勝手にそう思うのでした。


 会社には駅から徒歩で十分です。ヤギ沢さんはいつも鼻歌を歌いながら歩くのが日課です。(♪黒山羊さんからお手紙着いた♫)そしてヤギ沢さんは思います。「今は電話が主流なのに…」って。そうして自分で突っ込んでは鼻歌を歌い、歌っては突っ込み、いつか訪れるかもしれないヤギ漫才に想いを馳せながら会社へと歩くのでした。


 会社に着くともう、ヤギ沢さんのお腹はペコペコです。「会社に着くなりお腹がペコペコなんて、なんてヤギだ」と皆さんは思うかもしれません。さらには「そんなヤギは即刻ジンギスカンだ」とキレやすい人は言うかもしれません。そこへ「いや、ジンギスカンは羊の肉だ」と色々と細かい人が細かい事を言って「なんだとこいつ」とか「なんだとこいつとは失礼な奴だなこいつ」とか言って喧嘩になるかもしれません。ですがそれは誤解なのです。


 そうです、ヤギ沢さんの仕事は会社の書類を「シュレッダー」(ただ食べる事が仕事というのが嫌なヤギ沢さんは、紙を食べる事をシュレッダーと呼びます)することなのです。だからヤギ沢さんはいつもお昼休みが来る頃にはお腹が一杯で、とても眠たいのでお昼寝をします。


「ヤギが一匹、ヤギが二匹…」ヤギ沢さんはとても寝付きが良いので、今までに最高で三十四匹までしか数えられたことがありませんでした。


 お昼休みの終わり五分前には仕事に戻るヤギ沢さんです。いついかなる時も五分前行動がヤギ沢さんの密かな自分ルールなのです。

「草食だからってノンビリゆったりしてるのは牛くらいなもんだ」と、世の中の草食系へのイメージに対して個人的には憤りを感じずにはいられないヤギ沢さんなのでした。


 今日の午後はもうあまり紙が出ないと上司の吉田さんに言われ、ヤギ沢さんは早めに帰れる事になりました。超ラッキーです。思わずヤギ沢さんは「メェ」と呟きました。(この『メェ』は人間で言うところの『よっしゃ』とだいたい同じ意味です)


 あんまり混んでいない電車はキラキラと輝いていて、普段はクールなヤギ沢さんもガッツポーズを辞さないかまえです。こっそり「メェ」と呟くヤギ沢さんでした。


 そして帰宅したヤギ沢さんはお風呂に入ります。そうです、それこそがヤギ沢さんの一日で一番の至福の時なのです。だけど、ヤギ沢さんには一つ気になる事がありました。それは、このお風呂が今一つ狭い事です。


 それさえ無ければな、と思うヤギ沢さんは毎日、お風呂を背中と足でメェメェと突っ張り広げようと頑張るのでした。


「ステンレスの風呂釜はきっと少しずつ広がる」そう思って疑わないヤギ沢さんの夢は、この風呂釜を広げて足を思い切り伸ばして浸かる事なのです。一生懸命メェメェと突っ張るヤギ沢さんは危うくのぼせそうになりながら、今日も憎きステンレスとの戦いを引き分けに終え、夜の十時ピッタリに眠りに着きます。そして広いお風呂で鼻歌を歌う夢を見るヤギ沢さんなのでした。



 本日もヤギ沢さんは働きます。もうヤギ沢さん的には月月火水木金金です。(これは一昔前に流行った魔法の言葉です)今日の仕事も会社中のミスプリントをやっつける事です。

 ヤギ沢さんは一つ「メェ」と呟くと、鬼のように(ヤギなのに)バリバリ「シュレッダー」していきます。右から左にやっつけていくヤギ沢さんの心の中ではハードロックがガンガン鳴り響いています。


 ヤギ沢さんお気に入りであるクリープハイプの社会の窓が永遠とリピートしています。もう、やめられない止まらないと、気持ち的には日本中の紙という紙を食べ尽くしてしまえそうな勢いでした。しかし、気持ちとは裏腹にヤギ沢さんの胃袋は限界でした。もうお腹が一杯です。紙が嫌いになってしまいそうです。


 その時でした。向かい側から「シュレッダー」の音と共に紙の山が消えていきます。あまりの辛さにとうとう自分は魔法が使えるようになったのか、とヤギ沢さんが思ったのもつかの間に彼は現れました。


「あっ!」


 そうです、隣の部署のヤギ山さんです。この会社で唯一ヤギ沢さんのアイデンティティを脅かす存在。


 黒山羊のヤギ山。


 新人の頃からの憎きライバルの登場にヤギ沢さんは力が込み上げて来ました。


「ここで負けるわけにはいかない」


 急いでヤギ沢さんは紙を口に詰め、一生懸命もぐもぐしました。しかし、ヤギ山は汗一つ無くバリバリ「シュレッダー」をしていきます。焦るヤギ沢さんをしりめに、ヤギ山は怪物の様に、あっという間に残りの紙の山をやっつけてしまいました。悔しさのあまりゲップが止まらないヤギ沢さんでしたが、負けは負けです。ヤギ沢さんは悲しい気持ちを切り替えるために、帰宅後のお風呂の事で頭を一杯にしました。


「そうだ、今日は森林浴の香りのバスクリン入れよう…」


  帰りの電車は満員でした。


 みんな疲れた顔の上に哀愁を浮かべているように思えたのはきっと秋のせいです。そうに決まってると、ヤギ沢さんは思う事にしました。もう、どれもこれも、何でもかんでも秋のせいです。ガラスの向こうでは、流れては消えていく夜の景色。そこに透けて映る自分の姿に、少しだけ淋しくなって、昔の事をあれこれ思い出してる間に眠ってしまうヤギ沢さんでした。


 一つ乗り過ごした駅で降りたヤギ沢さんはどうやってあのステンレスを広げてやろうかと考えながら歩きます。


「もっとお湯を熱くしたら良いか」いや、うっかりするとヤギ汁になってしまいそうです。

「角で押してみようかしら」穴が空いてはお風呂がそもそも台無しです。考えても考えてもステンレスとは引き分けでした。


 思いに耽っている間にどうやら家を過ぎてしまったヤギ沢さんです。知らない夜の住宅地は迷路のようで、ヤギ沢さんは戻ろうと思い来た道を帰ろうとしましたが、お風呂の事ばかり考えていたので帰り道が分からなくなってしまいました。そうです、ヤギ沢さんは迷い子になってしまったのです。


「こいつはマズイぞ」と、ヤギ沢さんは思いました。ヤギ沢さんは方向音痴なので、通り慣れた道でも朝と夜の違いで迷ってしまうのです。こんな夜こそは何としてでもお風呂に浸かりたいと焦るヤギ沢さんです。時刻は午後八時をまわっていました、「このままではマズイ。ああマズイマズイ」と、さらに焦るヤギ沢さんでした。



「マズイ、マズイって一体何がそんなにマズイんだ」と皆さんは思うかもしれません。さらには「食ってみない事には分からないから、ちょっと私に食わせてみなさい!」と、食い意地のはってる人は言うかもしれません。そこへ「マズイと二回も言っているんだからマズイに決まってる」と素直な人が割って入って来て一体全体なんの話だか分からなくなってしまう人もいるだろうと思います。


 そうです。これは食い物の話では無くヤギ沢さんのお話なのです。


 ヤギ沢さんは夜の十時ピッタリには眠ってしまう、常に規則正しい生活の持ち主なのでした。これから家に帰り着き、尚且つお風呂に浸かりたいヤギ沢さんには残すところあともう二時間しか時間はありません。困ってしまったヤギ沢さんはとりあえず歩くのでした。


 街灯の明かりが点々と夜の闇をかき分けて道を照らし出します。さっきから住宅地をうろうろとするヤギ沢さんの鼻には、お風呂のシャンプーの香りが、そして耳には楽しそうな声が、一人ぼっちで迷い子になってしまったヤギ沢さんの淋しさをこれでもかと募らせていきます。正直言って泣いちゃいそうでした。


 しかし、大人であり、すでに立派な雄であるヤギ沢さんです。ここで泣く訳にはいきません。悲しい気持ちを振り切るためにヤギ沢さんは一生懸命走りました。


 一体どこをどう走ったのか、どこに向かって走っているのかも分かりません。ただ悲しい気持ちから逃れるためだけに走りました。しかし、ヤギも走れば棒に当たるのです。


 ヤギ沢さんは行く手に人影を見つけたのでした。そして嬉しさのあまり「メェ〜」と声を上げました。すると人影が驚いて振り返りました。


「え、ヤギ!」


「ええ、ヤギです。ヤギで迷い子なんです」


藁にもすがる勢いで普段はクールなヤギ沢さんですが、思い切り手を振って人影へと向かいます。


「なんと、迷い子ですか」


「ええ、迷い子なんです」


ヤギ沢さんは二回も迷い子だと言いました。普段ならば恥ずかしくて言えない様な事でも今は緊急事態なのです。一刻も早い帰宅をしなくてはいけません。


「迷い子は私の専門分野ですよ」とその人影が言いました。ヤギ沢さんが街灯の元へたどり着くとその人影はなんと、犬のおまわりさんだったのです。

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