挑戦 5
「よし、それでは『杜子春』の感想文に話を戻そうか」
「そうですね」
「桐原はなぜ芥川が『杜子春』を題材にしたのかわかるか」
「はい、それはストーリーの奇想天外なところですね」
「そうだな、これだけ起承転結が見事にはまった作品も珍しいかもな」
「先生、だけど一生遊べるお金があるのなら杜子春の行動もわかりますが、2,3年後に財産が底をついてしまうにもかかわらず、散在してしまう浪費癖のあるドラ息子を、いかに更生させるかという物語でもありますよね」
「面白いな、その請負人が仙人や閻魔大王なのか」
「そうです、普通無一文になったら誰でも後悔しますよ。だけど杜子春は別なんですね。心の中では死んだほうがまし、なんて考えているふりをしているけど、本人はまったくその気がない。
まともな人間なら無一文から大金が入れば懲りて貯金をしたり、いかに増やすか考えますよ。でも彼はどんちゃん騒ぎに使ってしまうんです。これはもうエゴでしかない。しかもですよ、自分の好き勝手にお金をばらまいているのに、いざなくなるとそれに群がリ、去って行った人間たちを薄情だと非難する。確かに金目当てはよくありませんが、彼らの行為は自分の欲望の裏返しということに杜子春は気づいていません。
ちやほやされるのは杜子春に魅力があるからではない、お金に魅力があるからです。分別をはき違えてるだけなんですね。こんな考えの人間が仙人になれるはずがありません。杜子春の心の中にはたぶん薄情な連中を見返してやろう、そんな気持ちがあったかもしれません。もし仙人になれたら人の人生なんて、赤子の手をねじるくらい簡単に変えられてしまうんですからね。
本物の仙人は杜子春を試したんですね。それも想像を絶するような過酷な試練だった。その策の真打が地獄の閻魔大王です。大王は杜子春のために究極の選択を用意した。それは彼の両親を徹底的にいたぶり、改心するまで追い詰めたことです。
その結果『何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです』という言葉に現れた。杜子春はこのとき初めて人間として生きる意味がわかったんです。自分のことは顧みずに息子のこれからを案じて、どんな苦痛にも耐え抜く父母の姿勢こそ、人間にとって一番大切なことだ、と。この人を思いやる気持ちが人間としての成長を生み、人類が継続して伝えてきた家族愛の姿です。
芥川は地獄の閻魔大王をうまく切り札として演出しました。原文にこのシーンがあるのかないのかは僕にはわかりません。だけど本当によくできたストーリーです。ここから僕はこの小説こそが、物語の核心ついていると感じたのです」
「桐原、おまえはいいな。5,6冊の小説を読んだだけでそこまで深く感じることができるのだから。俺なんかこれまで何百冊と小説を読んきたが、そこまで感じたことが一度もない」
「先生はひねくれているんです。僕は素直だから」
「こいつ、よく言ったな」




