第8話 ひなたと子犬。
「おかえり」
一歩先に家へ入った春が、嬉しそうな声で振り返りながら言う。すっかり機嫌も良くなって周りに小さな花がぽわぽわ見えてくる。
「今日体育で汗かいたから、先にシャワー借りてもいい?」
「いつも好きな時に使っていいって言ってるでしょ」
そう言われても一応ね、一応。
いつ見ても広い浴室。お風呂の液晶リモコンは覚えるのに苦労したし、設置されてるシャワーは普通じゃない。便利だけど、広い家は少し肌寒い気がする。
「シャワーありがと」
「ひなたもデザート食べて」
テーブルには何種類ものデザートが並んで、甘い匂いで溢れかえっていた。次から次へと美味しそうに食べていく彼女の胃袋に感心する。
「春が食べ終わったら勉強教えてほしい」
「いいよ、成績優秀な私にまかせて」
ドヤ顔をして自信満々に言うけど、全然格好ついてない。
「それは凄く頼もしい」
自分の口元を人差し指でトントンしてクリームついてるよと教えてあげる。少しして食べ終わった春は、満足気に伸びをしながらおっとりした口調で言う。
「お待たせー、勉強やろっか」
「うん、お願い」
そう言うと私の顔を覗き込み、本気で心配したような顔をする。
「急に勉強やる気になってどうしたの、もしかして熱でもあるの? いや、いいことだけど」
額に手のひらを当ててくるから、手で払いのける。
「違うからやめて。受験生だから勉強するんでしょ」
「あの勉強嫌いでマイペースなひなたが……」
今度は、溢れてもいない涙を拭う春。ほっといて鞄から出したノートを広げる。やっとふざけるのをやめる気になったのか、真面目な顔して覗き込んできた。
「……とりあえず今日は苦手な科目を少しずつ頑張ろっか」
静かな空間で春の優しく教える声が響き、ノートにひたすらシャーペンを走らせる。意外にも教え方が上手くて最初のうちはすんなりと頭に入った。けど、数学は躓くところが多すぎてみっちりと教え込まれた。
「夕食できたみたいだから、今日は軽くこのくらいにして行こう」
やっと嫌いな数学から解放されて、机に溶けるように伏せる。頭からはプスプスと湯気がでていそうだ。脳がグツグツ煮えてそうなくらい。
「そんな、まだ序の口みたいな」
ボソボソと呟いてると、私の体を起こして腕を引き食卓に向かう。
「教えるからにはしっかり教えるよ、ひなたがどこ受けるのか知らないけど。ちなみに、どこ受けるの?」
まだ完全に決まっているわけじゃない。地元から離れた場所にするのは確かだ。私はふにゃふにゃしたまま、ふにゃふにゃ答えた。
食事を食べ終え、少し休んで順にお風呂。
私があがると、春はリビングでくつろいでいた。
「なんでまだ髪乾かしてないの、風邪ひくよ」
「んー、ひなたに乾かしてもらおうと思って」
アイスの棒を口のにくわえたまま、ニッと笑ってる。
私はそれを取ってゴミ箱に捨て、洗面室に春を連れて行く。
「食べ終わったならすぐ捨てないと危ないでしょ、早くこっち来て」
「だから子供扱いしないでってば」
「じゃあ自分で乾かす?」
じっと私の顔見た後、頭をふりふりした春。
時々、本当に小さい子供なんじゃないかと錯覚する。
洗面室は開放的で、大きい鏡にお洒落な椅子。
そこに腰掛けた春の髪を一房手に取る。
ミルキーグレージュ色のゆるいパーマがかかっている髪。指と指の間をスルスルと滑らかに通っていくから、しっかりと手入れされているのがよくわかる。
「ひなた、オイル塗ってほしい」
春はオイルの瓶を片手に待機していた。手を差し出すとひんやりしたオイルが乗せられ、甘ったるい花のような香りが広がる。
「先につけてあげるからこっち向いて。両手で伸ばして、下からこうやって塗っていくの」
春の番が終わり、私の番が回ってくる。
見様見真似で春の髪につけていく。
「こう?」
「うん、上出来」
「じゃあ、乾かすよ」
毎日自分の髪乾かしているのに、人の髪となればそれなりに気を使うもので、慣れない手つきで私は忙しなく手を動かす。
そろそろ乾いたかな。
長い髪を軽くブラッシングして確かめていると、鏡越しに春と目が合う。口元を隠しながらクスクス笑っていた。
「なに」
「優しい手つきで丁寧にやってるから、可愛いなあって」
人の髪なんて乾かしたことないから、そりゃ真剣にもなる。
「もうやらない」
ドライヤーを片付けながらボソリ。そんな私をおかしく思ったのか、また笑う。別に、気の済むまで笑えばいいけど。
「ひなたにしてもらうの嬉しいから、またやってほしいな」
振り返って私の手首を掴みながら、上目遣いでうるうると訴えてくる。大抵の人はこの可愛い顔にお願いされたら、断るの難しいと思う。私も断る理由ないし。
「たまにならいいけど」
「嬉しい。ひなたは優しいね」
春が、呪文みたいに優しいって言うからだ。
ぎゅっと抱きつかれて、見えるはずのない尻尾がブンブンしてる。
「今日はもう疲れたから、髪乾かしたら歯磨きして寝る」
「まって、私も一緒に寝るから」
そそくさと寝る準備を済ませて一足先に春の広いベッドに寝転び、ぼーっと天井をみる。
ふと浮かんだ綺咲さんの横顔。
勝手にふわふわと浮かんで、勝手に消えていく。
右手をあげて、掴まれていた部分を見る。
手首の感触と不規則な脈の感覚は生々しく残ってるのに――。
「ひなた」
右隣から声が聞こえてベッドが弾む。
「んー?」
「私達の関係ってなんだろうね」
予想もしなかった言葉が返って来る。
「さぁ、今更?」
春はゆっくりと瞬きをして仰向けで天井を見つめる。
何かを思い出すように言葉を続けた。
「うん。あの日、私がひなたを見つけて、なんていうか、ほら」
歯切れ悪そうに語尾が小さくなっていく。
「関係……えっちな事を一緒に学んだ仲?」
私が答えると布団を被りながら、うーとか、あーとか、声にならない声を絞り出して悶えている春。
「それがどうかした? 後悔でも?」
「後悔とかじゃないよ。ただ私達の関係ってなんなんだろうなぁって、深い意味とかは、なくてね? 今更すぎるんだけどね」
掛け布団から目だけ覗かせて恐る恐る言ってくるから、うーんと数秒わざとらしく考える。
友達、セフレ……どれも違うような気がする。
改めて考えるとややこしい。
「春が飼い主で私が犬みたいな事? 基本、春が言うお願いとか忠実に聞いてる気がする」
「犬……ん? 犬? いや、猫だよ!」
私の冗談に、勢いよく放たれる言葉。
そこ? と思わず春の額を手のひらでペシっと軽く押す。
「懐いてくれたと思ったら、フラフラとどっか消えてくし、大人しく撫でさせてくれたかと思えば、急に冷たく爪立てるんだもん」
「えぇ。まあ急に消える事に関しては否定できない、かも」
早口で捲し立ててくるけど、爪立てた覚えはない。
「ほらね? 他の人にちょっかいかけられたり、迷子になっても私の飼い猫って分かるように、首輪つけとかないと」
腕を組みながら、ぶつぶつと一人で難しい顔をしながら言う春は独占欲が強すぎて困る。
「はいはい。そんな人いないし迷子にもならないから」
突拍子もない事言いだしそうだから、寝るに限る。
私と春の日常なんてそれ以上でもそれ以下でもない。




