第6話 夢の残り香。
家に着いてあの人が帰ってきてない事に安堵し、夕飯の準備に取り掛かる、っていうほど準備することはないけど。
まだ夕飯には早いので、軽く家事を済ませる。時計に目をやると丁度いい頃合いになっていて、オムライスを完成させた。
「できたよー」
「はーい」
「走ると危ないでしょ」
手をあげたままダッシュしてくる弟に、ちょんと脳天チョップを軽くしておく。嬉しそうにオムライスとサラダを運ぶ弟。
久しぶりに「いただきます」と一緒に手を合わせる。
「この上にかかってるチーズソースとケチャップ大好き!」
惜しい。
ケチャップじゃなくてデミグラスソース。
「ふふ、よく噛んで食べなよ」
「はーい」
弟は話したいことが沢山あったみたいで、ほとんど喋りっぱなしだった。
一粒も残さず綺麗に食べてくれた事に嬉しく思いながら、食器を洗い流して「少し休んだらお風呂に入っておいで」とソファに寝そべっている弟に声をかける。
片付けも終わったし、部屋で勉強でもしよう。
そう思った矢先――玄関から物音が聞こえた。
空気が一変して、バクバクと上がる心拍。
体が凍りつくような緊張が走り、ドアを開けようとした指先がヒヤッと小刻みに震えだす。
「よぉ〜、どこ〜?」
酔ってる時の大きくて甲高い声。
近づくでろでろとした喋り方に虫酸が走る。
先に開けて動いたほうがいいと分かっていたけど、久しぶりの感覚に迷ってしまった。
ドアが開き、リビングに入ってきた母親と目が合う。
陽のために買ってきたであろう夕飯を手に。
面倒を起こしたくない私は「おかえり」と、水分があまり残っていない雑巾から水を絞り出すように声を出す。
ブワッとアルコールの匂いが鼻腔を刺激する。
鬱陶しそうに髪をかき上げ、据わった目で私を見て鼻で笑う。
一秒でも早くここから立ち去らないと――陽が見てる。
なんとか目を逸らし、泥が纏わりついたように重い足を動かして、母親とドアの間をすり抜ける。背後の視線が鋭く背中に刺さって、今にも伸びてきそうな手から逃げるように階段を上がる。
真っ暗な中、足の力が抜けて床に体を丸める。
吸って、吐いて。冷たくなった指先を握りしめる。
自分の部屋なのに、いつも居心地が悪い。
小さい頃から何一つ変わらない奇妙な部屋。
電気をつけ、鞄からスマホを取り出そうと手を突っ込む。
掴んで取り出したのは筆箱とノート。
情けなさに、シャーペンを持つ手が震える。
“春がいるから大丈夫”そう言い聞かせるようにシャーペンを持ち直し、床にノートを広げて手を動かし続けた。
時間を忘れて集中してたら弟が「今、お風呂入れるよ」と教えてくれた。リビングに行くとテーブルに突っ伏した母親が目に入る。息しているのか分からないほど、微動だにしない。
化粧はボロボロなのに、髪の毛だけはいつも綺麗で。
背中を覆うように真っ直ぐ腰まで伸ばされた金の色。
この状態になるとそれなりに大きい声を出しても起きない。
伸ばしかけた手を引っ込めて、そっと毛布をかける。
お風呂に入った後、寝落ちするまで勉強した。ほとんど絵を描いていただけだけど。
結局、寝不足のまま静かに支度して早めに家を出る。どこかしんみりとした空気に、薄暗い秋を実感しているとスマホが震えた。
『今日は会えない?』
数秒打つ手が止まる。
陽は大丈夫そうだし、いいかな。
『会える』
『じゃあ泊まりね』
『うん』
いつも勝手に話が進んで、勝手に決まる。
春がいなかったら、私はどうしてたんだろう。
時々、後ろを振り返って歩いてきた道を確かめるけど、
足跡が見当たらなくて進んでいるのか不安になる時がある。
見慣れた道を歩いて、慣れたように学校の門を通る。
いつもより早く着いた教室は、ひんやりと静かだった。
光に照らされて舞う埃は日中にみえる星みたいで、教室独特の匂いが鮮明に感じ取れる。長く感じた中学校生活もあと半年程度で終わるのか。
自分の席に座って少しだけ目を瞑る。
――今はただ、早く大人になりたい。
小さい頃は、どんな大人になりたいかを考えていたのに。
暖かく、天気の良い日。
病院の庭に設置されたベンチに座っていた。
「ひなちゃんは、大きくなったら何になりたい?」
風に吹かれた髪を耳に掛け直しながら、
眩しい笑顔に、嬉々とした声で聞いた女の人。
「絵を描く人!」
その人に、いつもぴったりくっついてる女の子。足をブラブラ揺らしながら、スケッチブックとクレヨンを持ち、楽しそうに話していた。
「いつも上手に描けてるもんね。先生ひなちゃんの描く絵、好きだよ」
「見たまんまをかくんだよー! とーかせんせぇも、やってみる?」
「そうできる事が凄いんだよ。見た物をそのまま描くってね、とっても難しいと思うの、私もできない!」
本当に凄いんだよって、会う度にいつも褒めてくれた。
「おとーさんはもっーとすごいの! わたしも、もっとすごくなりたい」
女の子は両腕を広げて、円を描くように動かす。
「ひなちゃんもなれるよ、お父さんよりもっーと! ねっ?」
女性もそれを真似て、無邪気に笑っていた。
「じゃあ、すごいの描けたらせんせぇに見せてあげる」
「うん! ひなちゃんの瞳に映る素敵な絵、先生待っとくね」
儚い香りとともに、約束だよと指切りを交わした。
――覚めてほしくない夢だった。
そう思うほど、すぐ冷めてしまう。
寝る気はなかったのに、机に突っ伏したまま考え事していたらいつの間にか寝てしまっていた。教室を見回してみるけど、誰もいない。
……おかしい。
この匂いは、綺咲さんなのに。
確かめようと席を立つ。何かが落ちて足元を見る。
その答え合わせをするように、机の下に転がった飴。
なんで? とすぐに湧いた疑問は、騒がしくなり始めた教室に埋もれて、頭の片隅にベタベタと飴が張り付いたまま授業が始まった。




