2 声を胸に秘めて
なんて日であろう。ラキが気づいた時はまだ日中だったが今は陽が傾いて、辺りが暗く影を落としていくのを瞼の向こうに感じていた。
突き刺さるような痛みの雨の勢い。奪われた身体の自由。いっこうに経緯を思い出せぬまま屋外に倒れていた。
そこには路上を叩きつけていた音もあったはず。
不思議と人々が行き交う足音だけを耳の奥に残している。
こんなにも強い雨が降っているのに誰の足音も急ぎ慌てる様子が窺えなかった。
「……なんとも不思議だな」塞がっていた目と口がようやく自由を取り戻す。
それはまるで自分にだけ降り注いでいて、周囲の者には関係がなかったかのように通り過ぎてしまったのだ。あの時、救急車の手配を誰もしてくれなかった。人が路上に倒れていてぴくりとも動けないでいるというのに。
天空の怒りとも思えたその仕打ち、やっとその衰えを感じてきたのでゆっくりと目を開けてみた。
顔回りに張り巡らされていた得体の知れぬ土砂降りベールが嘘のように消えた。
あの雨はすっかりと止んでしまった。
直視している空には何故か満天の星々が輝いている。
ぼくはただ強い雨に打たれていただけだったのかと、ラキは拍子抜けする。
だが顔の部品に麻痺症状は見られない。手足と胴体は今も動かない。
事故なのか、そうでないのか。
表情筋を駆使して顔体操を試み、目から下の無事を確認する。
ついでに眼瞼挙筋と眼輪筋に日常の運動をさせて見た。
つまり、瞼をパチパチと上下させている訳だが。
これも異常はないようで、ほっとしている。
後頭部に痛みが走る。
硬いアスファルトの上で仰向けに寝転がっている。
道行く人の足音は一切聞こえず、車両の通る気配もなく、静寂が漂う。
「……真っ暗闇ではないのか」むしろ、眩しいぐらいだ。
他に誰も居ない。「……ぼっちはいつものことだが」日常がそれだから居なくてほっとした。意識が戻る前はどれぐらい眠っていたのか。
「どうして……?」
随分と、この問いを繰り返している。何のための戦か知らぬが長丁場だった。
つぎは「体が動かない」というのだ。
そして、「ここは何処なんだ?」と。
周囲の状況確認を取りたい。
懸命に首を回そうと努力するが──
「……痛っ……ッ!」その拍子に思い出せたのは夏休みに入ったばかりのぼくの大好きな季節ということ。
絵に書いたような存在感うすうすの陰キャ。髪型など気にしてもだれも振り向かない。だから夏はいつも坊主頭だ。
「こんなことなら……髪を切るんじゃなかったな」
後頭部が痛い。当たり前のことだが路上にふかふかの枕はないから。
出血をしていないか心配だ。
「いま頭を動かそうとしたから……そこに痛みを覚えたみたいだ」
髪の毛が恋しい。擦り傷男子にキュン死するのは確か顔だったと思う。後頭部は格好悪いから止めてほしい。ラキの表情にそんな悔しさが滲んでいた。
雨に打たれてずぶ濡れのはずだが、短髪ゆえ、すっかり渇いたことだ。
首下の上下半身はどうなったか不明。もう一度立ち上がれないか試す。
「……ゆっくりだ。そっと動かすのだ」
周囲の景色に見覚えがないか、それを知りたくて。ゆっくりと上体を起こそうと試みるのだが。
やはり、どうしても首から下の身体がぴくりとも動かない。
いったいどういう悪夢なのだろうかと焦りを隠せないで困り果てていた時だ。
「おい、そこの勘違い転生男! そんな所に寝そべって何してるのだ?」
頭上から若い女の声がした。「……なにを勘違いしただって!?」
だ、誰だ?
全く聞き覚えのない声だ。
「ぼくのことを一方的に知っている系の知り合い?」……なのか。一方的なら知り合いとは言わぬがな。
頭上といっても彼は寝そべっているから。頭のある方向から近づいて来る。そちらへ目をやり、どんな人物かの確認ができない不安に見舞われる。
だが窮状からの脱却が先決だ。ぜひとも救急車を呼んでもらおう。
こんな急場を凌いでもらうのに後で会えなくても困る。名前だけでも知りたいとラキは相手に素性を意識させるように声を掛けた。
「そこの……いや通りすがりの幸運の女神よ、どうか手を貸してはくれぬか?」
「お! 如何にも……わたしは、そちの女神様である!」
し、知らん。
聞くんじゃなかったと。
ラキは速攻で苦虫を嚙み潰したような顔になり、拒絶反応を示した。
しかし窮状は脱したい。もう喉が渇いて死にそうだ。
アブない奴かも知れぬが、ここは一つ、取りあえず助けてもらおう。
ラキは開き直り、再度駆け引きに出る。
「わかった女神様。……とにかく助けてくれ、礼は弾むから、な!」
女神と名乗った者は彼の顔を覗き込むために近づいた。
そして上からのぞき込んで来た。
路上に転がる彼と女神の顔の向きが互い違いのほうを向いている。
女神はかぐや姫のような美しい黒い長髪と瞳。その髪先がラキの頬に触れる。
その黒い瞳には先ほど見ていた夜空に輝く星屑が広がって見えた。
魂を吸い取られそうな美形にラキの心臓の鼓動は時間を忘れて一時停止をする。
め、女神というより、
「天女さま……」聞こえなかったと思う、今のはぼくの心の声だから。
その瞬間、ラキはもう全てがどうでも良いいとさえ感じてしまった。




