始まりの部屋
冷たい感触が頬をかすめた。それが木の床だと気づいたのは、まぶたの裏にかすかな明るさを感じ始めてからだった。
ゆっくりと目を開ける。古びた天井、黒ずんだ梁。焦げたような匂いが鼻先をかすめ、桂太郎は一瞬、自分がまだ夢の中にいるのではないかと疑った。
「……っつ」
上体を起こそうとした瞬間、首のあたりに鈍い痛みが走る。寝違えたような違和感。それでも手をついて、何とか体を起こす。
目線が自分の腕へと落ちる。布の感触。見慣れない袖の形に気づく。
——和服?
胸元に視線を落とす。灰色の地味な生地が、帯で留められていた。旅館の浴衣にも似ているが、それよりもしっかりとした造りだ。いつもの部屋着とは明らかに違う。
周囲を見渡し、息を呑んだ。
自分ひとりではなかった。床には、同じように横たわっている人間が四人。男女二人ずつ。皆、落ち着いた色合いの和服を身につけていた。まるで何かの演出で統一されたように。
その中央には囲炉裏。まだ微かに温もりを残しているようで、灰の上にかすかに熱の名残が漂っていた。ただの古道具とは思えず、空間全体に奇妙な重さを与えていた。
その時、すぐ隣にいた男が咳き込みながら目を開ける。
「……ここ、どこだ……?」
その声がきっかけになったのか、他の者たちも次々に目を覚ましていく。戸惑い、驚き、沈黙。誰もが互いの顔を見まわすが、見覚えはないようだった。
ロングヘアの女が眉をひそめる。
「……部屋? でも、こんなとこ……」
「誰か、知ってる人とか……いない?」
メガネをかけた女性が問うが、皆、首を横に振った。顔も、名前も知らない。完全な他人同士。
桂太郎は小さく息を吐き、名乗った。
「……本間桂太郎。二十三歳。普通の会社員です。さっきまで、自分の部屋にいたはずなんだけど……気がついたら、ここにいて」
次に名乗ったのは、眼鏡をかけた女性だった。
彼女は指先で無意識にフレームをいじりながら、どこか所在なげに周囲を見渡していた。
「……森下理沙です。32歳。都内で、事務の仕事をしています」
言葉を選ぶように、一瞬言葉を止め、視線が部屋の隅をさまよう。
「……たしかに、家で寝ていて……でも、どうして、こんな場所に……?」
語尾がかすれ、彼女はそっと眼鏡を押し上げた。指先がわずかに震えていた。
その隣で、やや無理に明るさを取り戻そうとするような笑みが浮かんだ。
小柄で動きの多い男が、首の後ろをかきながら言う。
「……安斉直樹。28歳、営業マンです。えっと……昨日は、たしか電車で帰ってて……」
眉をひそめ、何かを思い出そうとするが、すぐに苦笑い。
「……どこから乗ったんだっけ。あれ……マジで、思い出せねえ」
冗談めかして肩をすくめたが、和服の袖口を握る手には無意識に力がこもっている。
三人目はしばらく黙っていた。
だが、他の者の視線が彼に向くと、重い口を開いた。
「……志村、剛。四十五だ」
低くくぐもった声。腕を組んだまま、目を伏せる。
「……仕事は……まあ、別に言う必要もないか。気づいたらここにいた。それだけだ」
どこか怒りにも似た警戒を滲ませながら、言葉を切る。
最後に、少女が口を開いた。
彼女は膝を抱えるように座り、髪が顔の半分を隠している。
「……川嶋葵。たぶん……高校二年、です」
声は小さいが、よく通る。不自然なほどに感情のない口調だった。
「……気がついたら、ここにいて……でも、前のこと、うまく思い出せなくて」
袖を強く握る指先が白くなっている。
「怖いってわけじゃないけど……なんか、全部、変。気持ち悪い」
その「気持ち悪さ」は、言葉にならない形で、場にいる誰もが感じ取っていた。
――ただならぬ空間。なぜか、記憶に霧がかかる感覚。
そして、目の前にある囲炉裏の残り火が、まるで“誰かの記憶の残滓”のように揺れている。
共通点は見当たらない。ただ、「気がついたらここにいた」という事実だけが全員に共通していた。
少しの沈黙のあと、森下がぽつりとつぶやいた。
「……ていうかさ、なんで全員、こんな格好?」
桂太郎は改めて自分の袖を見下ろす。灰色の地味な和服。確かに、自分で選んで着た記憶はない。
「旅館の浴衣みたいだけど……しっかりしてるよな、これ」
安斉が自分の袖口を引っぱりながら言う。志村が眉をひそめる。
「誰かに着せられたのか? 寝てる間に?」
「……でも、起きた時、乱れてなかったよね。帯とか、ちゃんと締まってたし……」
森下の言葉に、場の空気がひとつざわつく。誰も答えないまま、囲炉裏の火の名残がかすかに揺れていた。
それはまるで、―最初からこの姿で、ここに存在していたーかのような、不自然な整合性だった。
ふと囲炉裏の上に目をやる。吊るされた鉄瓶が、音もなくわずかに揺れていた。
「……夢ってことは、ないよな?」
誰かがぼそりと呟く。だが、誰も答えない。現実なのか夢なのか、それさえも判断がつかない。ただ一つ確かなのは空気の重み、床の冷たさ、鼻をかすめる残り香——どれもが、あまりに生々しかった。
囲炉裏の部屋には、言葉のない時間が流れた。誰かが口を開こうとしては、押し黙る。その沈黙を裂くように、ある音が響く。
カチ、カチ、カチ……
壁にかかった丸時計が、秒を刻む音を鳴らしていた。だが、針は12時を指したまま、動いていない。
「……時間、止まってる?」
森下が時計を見上げながら呟く。メガネの奥の瞳が揺れていた。
「音はしてる。でも針は動かない。……変ね」
その言葉が、じわじわと脳に沈んでいく。時間が流れていないかのような錯覚。
桂太郎は座布団の上であぐらをかき、囲炉裏をじっと見つめた。頭の奥がまだ痛むものの、意識ははっきりしている。不思議なほど身体は動く。
「ねえ、これって……閉じ込められてる、ってこと?」
ぽつりと声を上げたのは川嶋だった。髪が顔の半分を隠し、伏し目がち。声に強い棘はないが、張りつめた空気が伝わってくる。
「……あるいは、試されてるのかもな」
安斉直樹が苦笑混じりに言う。軽口のつもりなのか、笑みはやや引きつっていた。
「いや、でもさ。誰が何のために……って話になるよな。実験? 誘拐? 超常現象? どれもピンとこねえ」
志村が無言で顎をしゃくる。視線の先、部屋の隅に古びた文机がある。上には写真立てがひとつ、ぽつんと置かれていた。
「……あれ、最初からあったか?」
桂太郎が立ち上がり、近づこうとした、その時だった。
ガシッ
川嶋が桂太郎の袖を強く掴んでいた。無表情に見えるその顔に、かすかな怯えの色が浮かんでいる。
「ダメ。見ないで……」
「……え?」
彼女は小さく首を振る。
「見たら……戻れなくなるかもしれない」
空気が凍りついた。森下が慎重に尋ねる。
「川嶋さん。あの写真……あなた、見たの?」
だが葵は口をつぐんだまま、唇を噛んでいた。
桂太郎はそっと彼女の手を外し、意を決して写真立てへ歩を進めた。足元の床が軋む。机の上に手を置き、ガラス越しに中を覗き込む。
そこに写っていたのは——自分だった。
見覚えのあるTシャツ。背景は、あの夜の自室。ビールを開けた、あの瞬間。
「……これ、俺……?」
声に出した途端、冷たいものが背を這う。悪質な鏡のいたずらかとも思ったが、それでは説明がつかない。それはただの写真ではなかった。 意識の奥に、生ぬるい何かが指を差し込んでくるようだった。こちらの記憶をなぞり、上書きしようとする。まるで存在そのものが、じわじわと侵食されていく——そんな、警告。
「……俺も、見る」
隣で安斉が覗き込む。その顔が、一瞬で驚きに染まる。
「これ……俺だ。通勤中の、地下鉄の中……」
「全員、そうなのかしら」
森下の視線が、志村に向く。だが志村は静かに首を振った。
「俺は見ない。見るべきじゃない。今は、まだな」
桂太郎がふと顔を上げると、川嶋が震える唇で何かを言おうとしていた。
「川嶋さん、君は……」
「……誰かが、見てるの」
その瞬間、カチカチと鳴っていた時計の音がぴたりと止まった。
——音が、消えた。 空気の中に、誰かの息づかいすらも溶けていく。