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因果応報の咎人  作者: 藤田ニキ
和室
2/2

始まりの部屋

冷たい感触が頬をかすめた。それが木の床だと気づいたのは、まぶたの裏にかすかな明るさを感じ始めてからだった。


ゆっくりと目を開ける。古びた天井、黒ずんだ梁。焦げたような匂いが鼻先をかすめ、桂太郎は一瞬、自分がまだ夢の中にいるのではないかと疑った。


「……っつ」


上体を起こそうとした瞬間、首のあたりに鈍い痛みが走る。寝違えたような違和感。それでも手をついて、何とか体を起こす。


目線が自分の腕へと落ちる。布の感触。見慣れない袖の形に気づく。


——和服?


胸元に視線を落とす。灰色の地味な生地が、帯で留められていた。旅館の浴衣にも似ているが、それよりもしっかりとした造りだ。いつもの部屋着とは明らかに違う。


周囲を見渡し、息を呑んだ。


自分ひとりではなかった。床には、同じように横たわっている人間が四人。男女二人ずつ。皆、落ち着いた色合いの和服を身につけていた。まるで何かの演出で統一されたように。


その中央には囲炉裏。まだ微かに温もりを残しているようで、灰の上にかすかに熱の名残が漂っていた。ただの古道具とは思えず、空間全体に奇妙な重さを与えていた。


その時、すぐ隣にいた男が咳き込みながら目を開ける。


「……ここ、どこだ……?」


その声がきっかけになったのか、他の者たちも次々に目を覚ましていく。戸惑い、驚き、沈黙。誰もが互いの顔を見まわすが、見覚えはないようだった。


ロングヘアの女が眉をひそめる。


「……部屋? でも、こんなとこ……」


「誰か、知ってる人とか……いない?」


メガネをかけた女性が問うが、皆、首を横に振った。顔も、名前も知らない。完全な他人同士。


桂太郎は小さく息を吐き、名乗った。


「……本間桂太郎。二十三歳。普通の会社員です。さっきまで、自分の部屋にいたはずなんだけど……気がついたら、ここにいて」


次に名乗ったのは、眼鏡をかけた女性だった。

彼女は指先で無意識にフレームをいじりながら、どこか所在なげに周囲を見渡していた。


「……森下理沙です。32歳。都内で、事務の仕事をしています」

言葉を選ぶように、一瞬言葉を止め、視線が部屋の隅をさまよう。

「……たしかに、家で寝ていて……でも、どうして、こんな場所に……?」

語尾がかすれ、彼女はそっと眼鏡を押し上げた。指先がわずかに震えていた。


その隣で、やや無理に明るさを取り戻そうとするような笑みが浮かんだ。

小柄で動きの多い男が、首の後ろをかきながら言う。


「……安斉直樹。28歳、営業マンです。えっと……昨日は、たしか電車で帰ってて……」

眉をひそめ、何かを思い出そうとするが、すぐに苦笑い。

「……どこから乗ったんだっけ。あれ……マジで、思い出せねえ」

冗談めかして肩をすくめたが、和服の袖口を握る手には無意識に力がこもっている。


三人目はしばらく黙っていた。

だが、他の者の視線が彼に向くと、重い口を開いた。


「……志村、剛。四十五だ」

低くくぐもった声。腕を組んだまま、目を伏せる。

「……仕事は……まあ、別に言う必要もないか。気づいたらここにいた。それだけだ」

どこか怒りにも似た警戒を滲ませながら、言葉を切る。


最後に、少女が口を開いた。

彼女は膝を抱えるように座り、髪が顔の半分を隠している。


「……川嶋葵。たぶん……高校二年、です」

声は小さいが、よく通る。不自然なほどに感情のない口調だった。

「……気がついたら、ここにいて……でも、前のこと、うまく思い出せなくて」

袖を強く握る指先が白くなっている。

「怖いってわけじゃないけど……なんか、全部、変。気持ち悪い」


その「気持ち悪さ」は、言葉にならない形で、場にいる誰もが感じ取っていた。

――ただならぬ空間。なぜか、記憶に霧がかかる感覚。

そして、目の前にある囲炉裏の残り火が、まるで“誰かの記憶の残滓”のように揺れている。

共通点は見当たらない。ただ、「気がついたらここにいた」という事実だけが全員に共通していた。


少しの沈黙のあと、森下がぽつりとつぶやいた。


「……ていうかさ、なんで全員、こんな格好?」


桂太郎は改めて自分の袖を見下ろす。灰色の地味な和服。確かに、自分で選んで着た記憶はない。


「旅館の浴衣みたいだけど……しっかりしてるよな、これ」


安斉が自分の袖口を引っぱりながら言う。志村が眉をひそめる。


「誰かに着せられたのか? 寝てる間に?」


「……でも、起きた時、乱れてなかったよね。帯とか、ちゃんと締まってたし……」


森下の言葉に、場の空気がひとつざわつく。誰も答えないまま、囲炉裏の火の名残がかすかに揺れていた。


それはまるで、―最初からこの姿で、ここに存在していたーかのような、不自然な整合性だった。


ふと囲炉裏の上に目をやる。吊るされた鉄瓶が、音もなくわずかに揺れていた。


「……夢ってことは、ないよな?」


誰かがぼそりと呟く。だが、誰も答えない。現実なのか夢なのか、それさえも判断がつかない。ただ一つ確かなのは空気の重み、床の冷たさ、鼻をかすめる残り香——どれもが、あまりに生々しかった。


囲炉裏の部屋には、言葉のない時間が流れた。誰かが口を開こうとしては、押し黙る。その沈黙を裂くように、ある音が響く。


カチ、カチ、カチ……


壁にかかった丸時計が、秒を刻む音を鳴らしていた。だが、針は12時を指したまま、動いていない。


「……時間、止まってる?」


森下が時計を見上げながら呟く。メガネの奥の瞳が揺れていた。


「音はしてる。でも針は動かない。……変ね」


その言葉が、じわじわと脳に沈んでいく。時間が流れていないかのような錯覚。


桂太郎は座布団の上であぐらをかき、囲炉裏をじっと見つめた。頭の奥がまだ痛むものの、意識ははっきりしている。不思議なほど身体は動く。


「ねえ、これって……閉じ込められてる、ってこと?」


ぽつりと声を上げたのは川嶋だった。髪が顔の半分を隠し、伏し目がち。声に強い棘はないが、張りつめた空気が伝わってくる。


「……あるいは、試されてるのかもな」


安斉直樹が苦笑混じりに言う。軽口のつもりなのか、笑みはやや引きつっていた。


「いや、でもさ。誰が何のために……って話になるよな。実験? 誘拐? 超常現象? どれもピンとこねえ」


志村が無言で顎をしゃくる。視線の先、部屋の隅に古びた文机がある。上には写真立てがひとつ、ぽつんと置かれていた。


「……あれ、最初からあったか?」


桂太郎が立ち上がり、近づこうとした、その時だった。


ガシッ


川嶋が桂太郎の袖を強く掴んでいた。無表情に見えるその顔に、かすかな怯えの色が浮かんでいる。


「ダメ。見ないで……」


「……え?」


彼女は小さく首を振る。


「見たら……戻れなくなるかもしれない」


空気が凍りついた。森下が慎重に尋ねる。


「川嶋さん。あの写真……あなた、見たの?」


だが葵は口をつぐんだまま、唇を噛んでいた。


桂太郎はそっと彼女の手を外し、意を決して写真立てへ歩を進めた。足元の床が軋む。机の上に手を置き、ガラス越しに中を覗き込む。


そこに写っていたのは——自分だった。


見覚えのあるTシャツ。背景は、あの夜の自室。ビールを開けた、あの瞬間。


「……これ、俺……?」


声に出した途端、冷たいものが背を這う。悪質な鏡のいたずらかとも思ったが、それでは説明がつかない。それはただの写真ではなかった。 意識の奥に、生ぬるい何かが指を差し込んでくるようだった。こちらの記憶をなぞり、上書きしようとする。まるで存在そのものが、じわじわと侵食されていく——そんな、警告。


「……俺も、見る」


隣で安斉が覗き込む。その顔が、一瞬で驚きに染まる。


「これ……俺だ。通勤中の、地下鉄の中……」


「全員、そうなのかしら」


森下の視線が、志村に向く。だが志村は静かに首を振った。


「俺は見ない。見るべきじゃない。今は、まだな」


桂太郎がふと顔を上げると、川嶋が震える唇で何かを言おうとしていた。


「川嶋さん、君は……」


「……誰かが、見てるの」


その瞬間、カチカチと鳴っていた時計の音がぴたりと止まった。


——音が、消えた。 空気の中に、誰かの息づかいすらも溶けていく。



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― 新着の感想 ―
xからきました! なんというかぞわぞわ感がありますね! ミステリーという感じなんでしょうか? 謎が深いですねー
謎が多いですね
Xから来ました。 始まり方が意味深で興味深いですね……底しれぬ怖さが感じられました。 ☆とブクマもさせて頂きました♪ まだ始まりなので、更新を楽しみにお待ちしてます
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