プロローグ
「今朝、都内の住宅街で保護された30代と見られる男性について――」
朝のニュースが、淡々とした声で事件を伝えていた。
「男性は“自分は東京で生まれ育ち、今も普通に働いていたはずだ”と話しており、記憶にまったく曇りはないと強調しています。しかし、氏名・住所・家族に関する情報を含め、役所の記録や公的なデータベース上に一切の情報が見つかっていません」
テレビには、男性の後ろ姿が映し出されていた。
スーツに革靴――どこにでもいそうな会社員の風貌。
「本人は“そんなはずはない”“悪い冗談か、誰かの嫌がらせだと思った”と語っており、警視庁と都の関係機関が身元の確認を進めています」
違和感の正体がうまく掴めない。
日常の延長線上にあるようでいて、どこかに見えない継ぎ目があるような――。
テレビの音を切りながら、襟元を軽く整える。
おかしな話もあるものだ、と思いながら家を出た。
通勤ラッシュの車内。
いつも通り、つり革につかまりながらスマホを取り出す。
ロック画面に並ぶ通知のひとつが、妙に目に止まった。
『【速報】都内女子高生が家族4人を鈍器で襲撃。被害者全員が死亡』
思わず画面をタップする。
詳細はまだ錯綜しているようだった。逃げたという目撃証言。制服姿の人物が近所の防犯カメラに映っていたという未確認の投稿。
現場からは金属バットのような凶器が見つかったが、容疑者の所在は不明。
被害者は両親と弟妹だという。
指先が止まる。
なぜか、既視感のようなものが胸に引っかかっていた。
けれど、何がそれなのかははっきりしない。
ふと視線を上げると、車内のモニターでも「速報」の文字が流れていた。
周囲の誰もが見て見ぬふりをするように、顔を伏せてスマホを操作している。
通勤電車のいつもの風景に、何か小さな綻びが混ざっていた。
改札を抜けたところで、会社からのチャット通知が入った。
『10時からのMTG、11時に変更になりました』
画面を閉じて、スマホをポケットに戻す。
ほんの数秒、何かを思い出しかけた気がしたけれど、すぐに日常のリズムがそれを押し流した。
営業部に書類を届けに行く途中、一瞬、歩みが止まった。
規則正しく並ぶデスク。
その中に、ひとつだけ異様なほど整った席があった。
モニターは新品のように埃一つなく、椅子は微妙に引かれている。
「……あれ?」
誰かが辞めたのかもしれない。
でも、送別のメールも、何も届かなかった気がする。
そもそも、ここに誰が座っていたか、思い出せない。
見るべきでもないものを見てしまったような、変な寒気だけが背中を這う。
桂太郎はそのまま書類を置き、何も言わずに部署を離れた。
後輩が初めてクレーム対応に直面していて、ついこの前まで自分もそうだったな…とちょっと笑えた。
隣の席で震えた声の後輩に、
「まず、ちゃんと話を聞いてあげな」
とだけ言ってみた。
教えるのって難しいけど、悪くない。
会社にいるのが“慣れた”からじゃなく、“意味がある”と思えてきた。
ここ最近は、会社の提案フォーマットを少しずつ自分流にアレンジして、受注率が上がってきたのも嬉しい。
たまに、取引先から名指しで
「本間さんに相談したい」
と言われると、思わず背筋が伸びる。
夏には、次の大きな案件が来るらしい。
たぶん、また悩むし、また胃が痛くなる。
でも今の自分なら、逃げずに向き合える気がしている。
もう、上がりの時間だ。
デスクトップの電源を落として、コーヒーの空き紙コップをゴミ箱に放った。
モニターに映っていたのは、来週プレゼン予定の提案資料。
「あと3スライド、日曜にでも直すか」
なんてつぶやいて、スーツの上着を羽織った。
さっき見た後輩はまだ電話中。
背中越しに軽く手を挙げて「お先」と伝え、オフィスを出る。
新宿駅周辺、南口近くのビル前。
今日は同期の翔太と約束がある。
月イチの“疲れた自分を回復させる会”、勝手にそう呼んでる。
待ち合わせの立ち飲み屋、もう彼が先に着いてた。
「おーい桂太郎、今月も生き延びたか?」
「ギリな。そっちは?」
そんな他愛のない会話が、案外一番肩の力が抜ける。
ジョッキのビールが半分くらい減った頃、翔太がぽつりと聞いてきた。
「お前さ、最近なんか余裕出てきたよな。自信ついた?」
思わず笑ってごまかしたけど、ちょっとだけ、嬉しかった。
ほどよく酔った体で、夜風に当たりながら歩く帰り道。
AirPodsから流れてきたのは、学生時代によく聴いてたバンドの曲。
スマホにふと通知が入る。
「来週の打ち合わせ、時間変更お願いします」
クライアントからのLINEにちょっとだけため息が出る。
でも、すぐに「了解です!」と返して、ポケットにしまった。
「明日も、まあ、やるしかないか」
そうつぶやいて、家まであと数分。
帰ったらシャワー浴びて、YouTubeでNBAのダイジェストでも見よう。
一日を終える準備は、もうできてる。
自宅についた。
靴を脱ぎスーツを脱いで、リビングの床に無造作にバッグを置く。
無意識にテレビをつけたけど、音も画面もまったく頭に入ってこない。
それよりまずはシャワー。湯船には浸からない派だ。
全身から今日の空気を洗い流すように、少し長めにお湯を浴びた。
浴室の曇った鏡に映った顔が、ちょっとだけ柔らかく見えた。
タオルで頭をざっと拭いて、Tシャツとハーフパンツに着替える。
冷蔵庫の缶ビールを一本取り出して、プシュッと開けた音が、部屋に少しだけ心地よく響く。
NBAのダイジェストでも見ようとスマホを手に取ったその時だった。
スマホの画面の外側に違和感を覚える。
机の端に置かれた写真立てが、ふと目に入った。
……あれ?
祖父の写真によく似ている。
笑ってる、あの穏やかな顔。白いシャツにベストを羽織って、庭で撮ったと思われる一枚だ。
だけど、なぜここにあるのだろうか。
「……これは一体……?」
写真自体に見覚えはない。
実家の仏間に飾られていたものに似ているが。
自分の部屋に、しかも机のこんな目につくところにあるなんて――変だ。
そもそも、俺は一度もこの写真を持ち帰った記憶がない。
立ち上がって、写真立てを手に取る。
埃はない。つい最近、誰かが拭いたようにきれいだった。
「……母さん?」
小さくつぶやく。
GWの帰省中、母が勝手に入れていったのかもしれない。
それとも――いや、もっと前から、もしかしたら気づいていなかっただけ……?
少し背筋がぞわついた。
でも、不思議と嫌な感じはしない。
むしろ、懐かしい空気が、じわりと部屋に満ちてくるようだった。
じっと写真の中の祖父だろう人物を見つめる。
口元が少しだけ動いたような気がした。
もちろん錯覚だ。
でもその錯覚が、今夜はなんだか優しかった。
「なんで、今なんだろうな……」
問いかけるように呟いても、答えはない。
それでも、その問いかけ自体が、何かを繋いでくれている気がした。
写真をそっと元の場所に戻し、布団の上に腰を下ろす。
テレビを消す気もあまり起きなかった。
部屋の明かりを一段階落とし、再び写真に目を向け――
――ズキンッ
「……っ!」
こめかみを殴られたような激しい痛みが、頭の奥から突き上げてきた。
反射的に額を押さえる。
視界がぐにゃりとゆがんだ。
耳鳴り。
壁の時計の針が、妙に大きな音を立てて聞こえる。
まるで世界の音が、一瞬ですべて遠くなったような――そんな感覚。
「……なん、で……」
言葉にならない声が喉から漏れる。
膝が崩れ、ベッドの縁に手を伸ばすが、指先が空を掴んだまま力が抜けた。
そのまま、カーペットの上に崩れ落ちる。
視界はゆっくりと暗転していく。
その中でテレビの音だけがうっすらと記憶に溶け込んでくる。
「また、金や宝石、美術品、さらには国家備蓄や個人資産など、“高い価値を持つ物品”が世界中で突然消失する現象が確認されています。保管場所ごと消えるケースも多発しており、対策は難航しています。
さらに、各地の農地では原因不明の作物枯死や干ばつが発生。短期間で複数国に広がっており、国際機関は“前例のない規模の飢饉”の可能性を警告しています。」
ゆっくりと記憶が遠のいていく。
木材が頬を冷やす。
目を覚ますと、目の前には使われていない囲炉裏がある。
目が覚めると、そこは古びた古民家であった――。