エピローグ 壊れた世界の希望、その名は……
嵐のように派閥のトップの座を押し付け……もとい、託して流阿が屋上から飛び去った後、灯架たちはしばし呆然としていた。彼が言い逃げしたとも取れるその背中は、やけに清々しかったのを灯架は見逃していない。
やがて気を取り直し、隣のビルへ患者たちが慎重に移動し終えるのを見届けた灯架達も、後を追ってそのビルへと移った。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。陽がわずかに傾き始めた頃――。
「……予想していた通り、一斉に来ましたね」
リアナが、どこか諦観を込めた声で呟く。
視線の先、先ほどまで自分たちがいたビルの屋上には、おぞましい銀色の影が次々と湧き出ていた。奴らはビル内部の階段を駆け上がり、数を増やしながら屋上へと到達したのだろう。その動きは統率が取れているようでもあるが、同時にただ獲物を求める本能に突き動かされているようでもあった。
「バリケードを設置しておいて正解でしたねー」
「ですが、アレがどれほどの跳躍力を持っているのかは未知数です。警戒を怠らないようにしましょう」
鏡子が鋭い視線で銀色の群れを睨みつけながら、全員に注意を促す。
幸い、このビルと先ほどのビルの間には、絶望的なほどに広い亀裂が口を開けていた。それが現時点での最大の防壁だ。
モンスターたちは、対岸の灯架たちに気づいたのか、次々とこちらへ飛び移ろうと試みるが、その跳躍は虚しく空間を掻き、一体また一体と奈落へと落ちていく。どうやら、この距離ならば物理的に到達される心配はなさそうだ──その心配ないという言葉の頭には、”ひとまずは”とつくが。
モンスターの蠢動を監視しつつ、緊張感が張り詰めたまま、さらに時間が経過していく。疲労が蓄積されていく中、鏡子が短く告げた。
「……来たようですね」
その言葉とほぼ同時に、灯架たちがいるビルの屋上へと続く扉が開き、三人の男女が姿を現した。先頭に立つ女性は、怜悧な雰囲気と、どこか尋常ならざる眼光を宿している。
「魔王陛下の命により、皆様の救援に駆けつけました」
凛とした声で、リーダーらしき女性がそう告げた。その言葉に含まれた、ある単語に灯架の思考がピシリと固まる。
魔王などという、日常の中で聞くには、あまりにも衝撃的──もしくはイタイ名詞を聞かされたからだ。
聞き捨てならないその敬称に声を上げそうになるも、よそ行きの猫の皮を何枚も被った灯架が、そのような失態はない。穏やかに笑みを浮かべながら、彼女達の話に耳を傾ける。
それはリアナやイリスも同様だ。彼女達は同じように、そのような教育を受けてきたのだろう。また鏡子は、戦場を知る物であるが故に、予想外の出来事に感情を乱さないという、灯架達とは別の要因で表情を変えていなかった。
「陛下は絶対的な御力を示し、我らに新たな世界の秩序を与えて下さる方。あの方こそ、我らが主君にして、この混沌の世を照らす希望の光なのです!」
その瞳は、信仰心と呼ぶにはあまりにも強烈な光でキラキラと輝いていた。いや、もはやギラギラと形容すべきか。その輝きの奥底には、どこか粘つくような、常軌を逸した何かが渦巻いているのを灯架は敏感に感じ取る。
たった数日だけ目を話したら、狂信者を作っていた。
その事実に唖然とするも、灯架が内心の叫びを口に出すことはない。ただお嬢様然とした表情で、穏やかに笑みを浮かべ続けるだけだ。
だが、衝撃はそれだけで終わらなかった。女性はさらに恍惚とした表情で言葉を続ける。
「そして陛下は、こうも仰っておりました。”俺が唯一認める、この俺自身が従うに値する存在。それこそが灯架様である”と!さらに” 我らが魔王陛下を従える方……すなわち、灯架様こそが、真にこの世界を統べるべき、まさに大魔王陛下と呼ぶべきお方なのだ”とっ!」
高らかに宣言された、とんでもない称号。
これは仕返しなのだろうか?自分のヒから始まる趣味に巻き込んだと、若干の混乱と共に、軽くめまいを覚えたが、長年培ってきた完璧お嬢様としての外面は、決してそれを許さない。
灯架は、口元に完璧な淑女の笑みを浮かべ、穏やかな声音で目の前の女性の言葉を受け止めていた。内心の絶叫とのギャップが、もはや芸術の域に達している。
「まあ、そのような……」
戸惑いを隠しつつも優雅に対応する灯架を前に、女性はさらに熱っぽく語ろうとするが、それを制するように、彼女の後ろに控えていた男性の一人がそっと進言した。
「隊長、まずは状況のご説明と、皆様を安全な場所へご案内するのが先かと」
「……そうでしたわね。申し訳ありません、灯架様。陛下の素晴らしさと、我らが灯架様に忠誠を誓う事をお伝えするのに夢中になってしまいました」
女性は深々と頭を下げる。
こうして、灯架がなし崩し的に”大魔王”の称号を拝命したことにより、流阿から譲り受けた派閥における権限の移譲は、驚くほどスムーズに、そしてある種の熱狂と共に完了したのであった。
灯架の肩には、本人の意思とは全く関係なく、また一つ重たいものがのしかかったのだった。