壊れた世界1
一行は、生存に必要な最低限の物以外、荷物の大半を放棄した。
怪物から逃げるには、さすがに重い荷物を持ち歩くわけにはいかないからだ。
灯架は腰に下げた白鞘の日本刀の柄を時折確かめ、鏡子は手にした伸縮式のロッドの感触を確かめるように軽く振る。先頭を行く鏡子は、元軍人らしい淀みない動きで姿勢を低くし、周囲を警戒しながら進む。障害物の陰から慎重に先を窺い、安全を確認すると後続の灯架たちに手招きで合図を送った。
灯架、リアナ、そして小さなイリスも、鏡子に倣って息を潜め、可能な限り低い姿勢で続く。
三人が追いつくと、鏡子は再び先行し、斥候と誘導を繰り返した。あの銀色のモンスターは、赤い結晶に覆われた遺体から生まれる。その事実から、病院や集合住宅のような、人の密集が予想され、結果として遺体が多く残されていそうな場所は極力避ける必要があった。
その行動を繰り返し、やがて比較的大きな商業ビルの一つに辿り着く。
「五分ほど休息を取ります。その後、再び移動を開始します」
鏡子はそれだけ言い残すと、ビル内の階段を駆け上がり、上階へと姿を消した。より高い場所から周囲を見渡し、次の安全な中継地点とルートを確保するためだ。
それから言葉通りきっかり五分後、鏡子が戻り、一行は再び移動を開始した。先程と同様、鏡子の的確な先導により、特に危険な遭遇もなく、次の休憩予定のビルへと無事到着する。
再び移動……再び索敵……再び潜入……。
その単調で神経をすり減らす行動を幾度となく繰り返しようやく、最終目的地として定めた堅牢な高層ビルが視界に入ってきた。
そして、回転ドアが辛うじて原型を留めている六つ目のビルに侵入した、その時だった。
「……先客がいたようですね」
鏡子が静かに呟き、手にしたロッドを即座に臨戦態勢で構える。薄暗いエントランスホールの奥、瓦礫の影から不用意に顔を出したのは、金髪にピアスの、見るからに軽薄そうな若い男だった。
「ちょっ、姐さん!? 俺っすよ、滝沢尚吾! 覚えてますよね!?」
金髪の男――尚吾は、ロッドを構えた鏡子を見て目を丸くする。
「それが何か?」
鏡子は抑揚のない声で応じ、一切の躊躇なく尚吾へ向かって踏み込んだ。
「うわっ、ちょ、マジで待ってください! のわっ、本気ですか姐さん! 死ぬ、死んじゃいますって!!」
尚吾の悲鳴など意にも介さず、鏡子はロッドを鋭く振り下ろす。風切り音と共に迫る打撃を、尚吾は必死の形相で転がるように回避した。
「昔、バイク乗ってた姐さんに逆らって、ボコボコに締め上げられた悪夢が……へっ、どわーーーーーっ!!」
男が情けない悲鳴を上げた直後、その眼前を銀色の閃光が薙いだ。咄嗟に首をすくめて回避したものの、ロッドが壁に叩きつけられる轟音がすぐそばで炸裂する。
「ひ、ひぃ、ひ、ひ、ひ!?」
さらに、男が避けきれずに尻餅をついたその顔面目掛けて、今度は抜き身の日本刀の切っ先が横切り頬を冷たい風が撫でた。少し顔を傾けただけで触れてしまう冷たい刃金の輝きに男は完全に凍り付く。
「外しましたね」
優雅に刀を構えるのは、およそ戦闘とは無縁に見えるお嬢様然とした少女――灯架。彼女は心底残念そうに小首を傾げた。その様は、獲物をいたぶる猫の気まぐれさを想起させる。明らかに常軌を逸した挨拶に、尚吾の頭は混乱の極みに達していた。
「ああ、滝沢様でしたか。ご無沙汰しております」
鏡子がロッドを肩に担ぎ、しれっと言う。
「さ、ささ、最初から、言、いっていましたよねっ!! 俺だって!! 絶対、気付いていましたよね!!!」
どこから気づいていたのか、と問うまでもない。最初から全て承知の上での行動だった。この崩壊した世界では、場所によっては遭遇する生存者が必ずしも友好的とは限らない。相手によっては、初手で完全に組み伏せ、主導権を握った方が安全な場合もある。今日のこれは、そのための事前打ち合わせ通りの”挨拶”だった。やられた尚吾にしてみれば、堪ったものではないが。
しばらくして、ようやく尚吾の呼吸が落ち着いたのを確認すると、鏡子による尋問――もとい、お話し合い(という名の尋問)が開始された。
「まあ、よろしいでしょう。それで、滝沢様はなぜこのような場所に?」
相手の必死の抗議など特に気に留める様子もなく、鏡子は淡々と問い質す。尚吾は半泣きだ。
「……例の銀色の化け物が出たんで、ビルの外の様子を見ていたところっすよ……」
不貞腐れたように、小さな声で不満を滲ませながらも、尚吾は素直に答える。どうやら、鏡子たちのマウント取りは完璧に成功したようだ。
「詳細をお願いします」
「このビルは今のところ無事だったんで、周辺にいた怪我人なんかを集めて、ここで休ませていたんす。運よく医者の先生もいたんで、ちょっとした怪我なら応急処置くらいはできたんで。それで、変な連中が中に紛れ込んでこないように、俺らが見張りをやってたんすよ」
”変な連中どころか、とんでもなくヤバい連中が正面から乗り込んできたけどな!”という心の叫びを、尚吾は辛うじて飲み込む。
「ご迷惑をおかけするわけにはいきませんし、私達は早々に立ち去る事にしましょうー」
灯架がおっとりとした口調でそう告げる。
「それがよろしいでしょうね……ああ、尚吾。あなた方がここに留まるのであれば、このような主要な出入り口には、早急にバリケードを構築しておくことをお勧めしますよ…………っ下がりなさい!!」
鏡子の言葉が鋭い警告に変わった瞬間、ビルの回転ドアが内側から凄まじい力で破壊され、ガラス片と共にあの銀色の巨体がエントランスホールに飛び込んできた。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
反射にも近い速度で、灯架が抜き放った日本刀を閃かせた。鋭い太刀筋が銀色の巨体の左足を的確に捉え、膝下を断ち切る。
「尚吾! 患者の方々はどこにいますかっ!!」
バランスを崩して轟音と共に倒れこむ怪物を横目に、鏡子が尚吾へ鋭く問いかける。
「え、あっ、ほとんど一階の奥のフロアに集まっています!」
「くっ……!」
このまま放置すれば、一階にいる避難民たちは、この怪物の餌食になりかねない。非情な判断だが、見捨てるのが最も合理的な生存戦略だ。しかし、幼いイリスを連れて、この状況下で安全に離脱できるのか?
「尚吾! リアナとイリス、この二人をすぐに患者さんたちのいる安全な部屋へ案内なさい!」
鏡子が即断する。
「へっ、あ、は、はいっす!! こちらへ、お二人とも!」
尚吾は慌てて立ち上がり、リアナとイリスを手招きしてビルの奥へと案内し始めた。
「お嬢様は、私が奥へ行くよう指示したら、素直に従っていただけますか?」
鏡子が、残った灯架へ向き直り、静かに問う。
「そうですねー。私が足手まといにしかならないというのなら、もちろん喜んで行きますけど、鏡子さんはどう思いますか?」
灯架の挑発的な言葉に、鏡子は僅かな間も置かずに即答する。
「いえ。お嬢様のその剣の腕が確かであることは、残念ながら承知しておりますので」
「ふふ、正直なご回答、ありがとうございます。それに、この子もきっと活躍してくれますよ」
灯架はそう言うと、呼びだしたESデバイスを操作し、エクリプスアプリを起動させる。その中から呪術スキルを選択した。そして懐から取り出したのは、動物の骨を加工し、表面に古代の呪詛がびっしりと刻まれた白い棒状の符。
「来なさい、瑞鹿!」
灯架がその名を唱えると、骨の符は淡い光を放って床に落ちると共に砕け散り、そこから水色の燐光を放つ半透明の牡鹿が姿を現す。それは神話から抜け出してきたかのような、幻想的で力強い姿をしていた。
「鏡子、時間はどれだけ稼げばいいと思いますか?」
灯架が召喚した瑞鹿を背後に控えさせて尋ねる。
「負傷者の状況にもよりますが、リアナ様であれば適切な誘導が出来ることでしょう。ですから、およそ十分……いえ、十五分もあれば、上階への避難とバリケードの一次構築は完了できるかと」
しかし、怪我人の中には、自力で動くことすらままならない重傷者も多数いるはずだ。それを考えると、上層階に絶対安全とまではいかなくとも、籠城可能な区画を作り、そこに動けない者たちを優先的に移動させるのが最善策か。だが、正確な情報が不足している現状況では、奥へ向かったリアナたちの判断に委ねるしかない。
「では、とりあえず15分間、がんばりましょうか」
灯架はエクリプスを再度起動させ、今度は”卑弥呼”の占術スキルを発動した。数秒先の未来を予知する瞳が、鋭く輝いた。
「お嬢様、くれぐれも精神汚染にはご注意を」
「大丈夫ですよ。自分の限界は、先輩に教えてもらいながら確認してありますから」
灯架の言葉に頷き、鏡子もまた自身のエクリプス”Eclipse ver.Odysseus”を起動させる。その中からスキル”トロイの木馬”を発動させた。瞬間、鏡子の存在感が周囲の景色に溶け込むように希薄になる。
新たな銀色のモンスターが、破壊された回転ドアから雪崩れ込むように侵入してきた。
そこに、灯架の呼びだした瑞鹿が、力強い角を振りかざして突進する。巨体を誇るモンスターも、不意の獣の突撃には体勢を崩す。
瑞鹿に注意を奪われたモンスターの死角に、鏡子がオデュッセウスの認識歪曲で気配を希薄にしながら滑り込む。そして、手にした伸縮ロッドを逆手に持ち替え、その硬質な先端をモンスターの左胸――人間でいう心臓の位置――へ、体重を乗せて鋭く突き込んだ。ゴヂリ、と鈍い手応え。
「やはり、急所は人間のそれに近いようですね」
僅かな呻きと共に動きが鈍ったモンスターを見下ろし、鏡子は冷静に分析する。呼吸という概念はなさそうだが、肉体の構造的な弱点は共通していると考えてよさそうだ。
「ですが、数が多すぎますねー!」
ここまで多少の余裕を見せていた灯架の声にも、焦りの色が混じる。一体目を処理したのも束の間、怪物が破壊した回転ドアの向こうから、さらに次々と銀色のモンスターたちが押し寄せてくる。
「鏡子っ!」
「はっ!」
灯架の鋭い呼びかけに、鏡子が即応する。息を合わせ、新たにビル内へ飛び込んできたモンスターの一体に灯架が斬りかかる。日本刀が銀色の固い肌を深く切り裂き、火花を散らす。すかさず、そのモンスターの関節部へ鏡子がロッドを叩き込み、動きを阻害した。
瑞鹿が一体を引き受け、角と蹄で巧みに攻撃をいなしつつ時間を稼ぐ。灯架はその太刀筋の鋭さでモンスターの注意を引きつけ、鏡子が認識歪曲で翻弄しながら的確にロッドで急所や関節を打ち据え、確実に動きを削いでいく。三者の連携は、数で勝るモンスターの群れを相手に、辛うじて戦線を維持していた。
それを数度にわたって繰り返した後、戦況に僅かな変化が訪れた。
「……すぐに突撃してこなくなりましたね。どうやら、多少の知恵は働くようです」
鏡子がロッドに付着した銀色の体液を振り払いながら呟く。
これで少しは息をつけるが、決して楽観視できる状況ではない。破壊された回転ドアの向こう側、ビル外部には、先程よりも明らかに多くのモンスターが集結しつつあり、じりじりと包囲網を狭めてきているのが肌で感じられた。
「私達も、そろそろ撤退を考えるべきかもしれませんね」
「ええ、お嬢様の仰る通りです」
多少なりとも知恵が働くのであれば、灯架たちが捌き切れないと判断できる数が集まった時点で、一斉に総攻撃を仕掛けてくるだろう。そうなれば、些細なミス一つが命取りになりかねない。
「姐さん!! 灯架のお嬢さん!!」
その時、ビルの奥から滝沢尚吾が数人の若い男たちと共に、大きな事務机やロッカーなどを抱えて駆けてきた。
「リアナの姐さんが、これを持っていってバリケードの足しにしてもらえって! さすが姐さん、頭キレるっす!」
やけに鼻の下を伸ばし、興奮気味にそう叫ぶ金髪ヤンキーと、同じように目を輝かせている男たち。その様子に灯架達は”リアナさん、化粧落としたな”と勘繰る。素顔のリアナの美貌と知的な雰囲気に当てられているのが見て取れたからだ。
男のあまりの単純さに、鏡子は内心で深い溜息をつき、一発強めに殴ってやりたい衝動に駆られる。だが、彼らが運んできた資材は確かに役立ちそうだ。今はその衝動をぐっと堪える。役に立たなくなったら即座に鉄拳制裁、と心の中で静かに予定を立てはしたが。
「リアナ様は、他に何か仰っていましたか?」
鏡子が冷静に尋ねる。
「へい! 患者さんたちは順次上の階に移送中で、並行して下の階へ通じる大半の階段は破壊、もしくは封鎖して使えなくすると仰っていました。ほら、この見取り図の×印をつけた部分は、もう使えなくする手筈になってるそうです!」
尚吾が汗だくで差し出した一枚の紙。それはこのビルの簡易的な見取り図で、そこには避難経路として確保する一つだけを残して、全ての階段に赤いマジックで大きなバツ印が付けられていた。
「患者さんたちの避難状況は、だいたい何%くらい進んでいますかー?」
灯架がおっとりと尋ねる。
「えーっと、だいたい、もう40%くらいはイケてるっす!」
「滝沢様は頭が少々……いえ、バカなので、実際の進捗はその7割、つまり30%弱と考えた方が賢明でしょうね」
鏡子が間髪入れずに訂正する。
「姐さん!?言い直したら、ストレートな表現になっているっすよ!!」
尚吾が抗議の声を上げるが、そのやり取りが僅かに場の空気を和らげる。だが、それはあくまで灯架の精神的負担を軽減するための、鏡子なりの配慮。決して尚吾を思いやってのことではない。
完全に鏡子と尚吾の間には、揺るぎない主従関係――いや、支配関係が出来上がっている。今後もこのアンバランスな関係が変わることは決してないだろう。
「では、私達はこちらで引き続き牽制を行いますので、皆さんはバリケードの構築を急いでお願いします」
灯架がにっこりと、しかし有無を言わせぬ気品を漂わせて微笑むと、尚吾をはじめとする男たちは「おうっ!」と気合の入った返事をし、再び資材運搬に戻っていった。
そのお嬢様然とした立ち居振る舞いは、育ちの良さを感じさせる気品に溢れており、凛とした不可侵のオーラを放っている。それは普段のほんわかとした彼女とは全く異なる、もう一つの顔だった。
これぞ鳴海灯架の”よそ行きスマイル”。一体、猫を何枚被っているんだと呆れるほかないが、その演じ分けがあまりにも自然で完璧すぎるため、誰もその仮面に突っ込みを入れることすらできなかった。