天の岩戸4
盾では、コボルトの素早さに対処できない。 盾で動きを止め、槍で仕留めるという集団戦術は、もはや過去のものと化していた。
多少の訓練を積んだとはいえ、彼らは元々、戦闘の素人だ。教えられた戦術が通用しなくなれば、まともに立ち回れるはずがない。それを承知していたからこそ、その不足を補う存在を用意した。それが一軍だった。
盾を構える暁の旅団の部隊を突破しようと回り込むコボルトの足を、一軍の連携が止める。その後は、一軍自身が仕留めるか、体勢を立て直した他の団員たちが、数の力で押し潰す。
しかし、その防衛線ですら、永遠に続くことはない。
元が警官や自衛官といった戦闘訓練を積んだ者たちで構成された一軍とはいえ、モンスターとの戦闘経験などあるはずがない。さらに、エクリプスを用いた特殊な戦い方を要求される。一軍に選ばれた者たちでさえ、経験不足を補うほどの訓練が絶対的に足りていなかった。
戦場は、混沌と秩序が入り混じった異様な光景を呈していた。一般団員たちは必死に防御陣を組み、恐怖に耐えながら盾を支える。そのすぐ隣で、灰色のバイオアーマーを纏った一軍が、感情のない機械的な動きで敵を解体していく。だが、その防衛網の僅かな隙間を狙って、コボルトたちが絶えず襲いかかり、火花と悲鳴が絶え間なく上がり続けていた。一軍の一人がコボルトを足止めしている、まさにその横を別の個体がすり抜け、後方の部隊へと牙を剥く。
だが、そのコボルトの手足に、血のように赤い糸が音もなく絡みつき、一瞬だけその動きを完全に封殺する。次の瞬間、赤い影が疾風の如く通り過ぎると、コボルトの胴体は綺麗な断面を残して両断されていた。
「大丈夫、大丈夫」
由夜は、明るい少女らしい弾んだ声で、無邪気に笑っている。だが、その手で仲間を救いながら、同時に敵の命を弄ぶかのようなその姿に、一種の狂気を感じない者はいない。
「流阿のために頑張りなさい。わたくしたちも、ちゃんと手を貸してあげるから」
対して、返り血を浴びながらも、静かに妖艶な笑みを浮かべているのは麻衣。少女と呼べる年齢の身体に宿したその色香が、姉とはまた別種の、底知れない狂気を感じさせていた。
どちらも、常軌を逸した美しさと狂気を宿した存在。状況が違えば、人間にとっての脅威となっていたと、誰もが容易に想像できる。だが今は、その存在が頼もしい味方なのだ。
自分たちは、魔に魅入られてしまったのではないか。言いようのない巨大な流れに呑み込まれ、それでもこの場所で足掻くしかないのだと、多くの団員が、改めて自らの覚悟を問い直していた。
彼女たちに後方を任せ、ライオットは、斥候である梓と共に、メインプラントの天井の上にいた。梓に案内され、工場の屋根を伝い、銀色の樹の近くまで移動してきたのだ。
巨大な換気ダクトの影。足元の鉄板が、体重をかけるたびに不気味に軋む。
「ここからなら、中に入れるよー」
下に群がるコボルトたちに気づかれぬよう、梓が補修されていた天窓のボルトを手際よく外していく。彼女によれば、ここは隕石による破壊跡を、一時的に塞いだだけの場所とのことだ。
「……でも、入れるだけで、ここから出ることはできないから。死に物狂いで脱出しなよ……絶対に」
いつもの軽口は消え、真剣な眼差しで、梓はライオットに告げた。
ライオットは、眼下に広がる銀色の樹を目指して、天窓から工場内部へと飛び降りた。
眼下のコボルトの群れに、黒い影が落ちる。突然の襲撃者に気づき、何匹かが空を見上げた瞬間、ライオットは鋼鉄の床に轟音と共に着地した。衝撃で体勢を崩したコボルトたち。その隙を逃さずライオットが駆けると、両手に持った二つの戦斧が唸りを上げ、血飛沫の嵐を巻き起こしながら次々にコボルトを絶命させていく。
駆け抜けるたび、周囲の景色が戦場から焦土へと変わっていく。破壊されたバリケード、床に転がる薬莢、そして仲間だった者たちの無残なバイオアーマーの残骸。だがライオットの視界にあるのは、おびただしい数のコボルトの死体の山、そしてその中心で妖しい光を放つ、一本の銀色の樹だけだった。
その時、ライオットの目に、信じがたい光景が映る。
一体のコボルトを、銀色の樹から伸びた枝が、背後から音もなく貫いた。
そして枝に貫かれた瞬間、コボルトが一度、甲高い苦悶の叫びを上げる。だが、それはすぐに、肉が変質するような理解不能な濁音へと変わっていった。その身体を、銀色の液体が瞬く間に包み込んでいく。肉体が液体金属に覆われ、滑らかに、そして効率的に形を変えていく様は、おぞましくも、どこか神々しい。まるで、下等な生物が、より高次の存在へと昇華しているかのようですらある。
やがて出来上がったのは、銀色でこそあるが、ライオットたちが纏うバイオアーマーを思わせる姿だった。
「……俺たちを真似たのか」
あまりにも、自分のバイオアーマーに似た姿。あちらの方が生物的でこそあるが、目の前に起こった現実に、潜む危険性に警戒心を高める。
この銀色の樹は、自分達の武器を複製することができるのでは?それが出来るのなら、戦い方を真似る事は簡単なはずだ。もしも、それらが可能であるのなら──。
思考に生まれた一瞬の隙。
それを見逃さず、連携したコボルトたちが襲いかかる。ライオットはそれを二振りの手斧で容易く葬ったが、その直後、重くも甲高い金属の衝突音が響き渡った。ライオットと、先ほど生まれたばかりの銀色のコボルト、それぞれが持つ手斧が、激しく衝突しあった。
再び襲いかかってくるコボルトの群れに、銀色のコボルトは素早く姿を隠す。
速すぎる。その上、知恵もある。
他のコボルトの動きに隠れての、斜め上からの跳躍、瓦礫の影からの挟撃。その動きには一切の無駄がなく、単なる強化個体ではない。戦術という言葉を知っているかのようだ。死角からの攻撃を、ライオットは経験と研ぎ澄まされた勘で何とか払いのける。
肩をかすめた刃が、バイオアーマーの表面に激しい火花を散らす。反射的に斧を振り払うと、銀色のコボルトは紙一重でそれを躱し、素早く距離を取った。
「そいつは、俺の真似か?」
ライオットの視線の先で、銀色のコボルトが両手にそれぞれ手斧を構えた。その構え、足運び、そして回避のタイミング。見覚えがある。いや、見覚えしかない。鏡の中の自分と戦っているようですらある。
再び、二つの影が激突する。
斧と斧が交差し、耳障りな金属音が響き、火花が闇の中に散る。バイオアーマーによって増幅された筋力の衝突が、周囲の空気を震わせる。
どちらも速く、攻撃も重い。だが、僅かにライオットの方が力では上回り、僅かにコボルトの方が速度では上回っていた。見ただけなら互角。だが、相手には数の暴力がある。
自分の体力が削り取られれば、嬲り殺されるだけだ。
ライオットは一撃の威力で相手を仕留める必要がある。だが、失敗すれば、銀色のコボルトは、己の速度を活かしたカウンターの餌食となるのは自分だ。
銀色のコボルトに、致命の一撃を確実に当てるための一瞬を作り出すために、ライオットは己の技を繋げていく。
だが、致命の一撃が放たれる事は無かった。
『その銀色の犬は敵か?』
戦いの最中に通信機能を通して聞こえてきた声。ライオットはバイオアーマーのヘルメットの下で、小さく笑って答える。
「敵だ……ぶちのめしてやれ!」
『了承した』
その返答と同時に、頭上の影が動く。
銀色のコボルトが大きく後ろに飛び退くと、何かの気配を察して天井を見上げた。その目に映ったのは、工場の屋根に開けられた穴から、黒い影だった。
影は、手に持っていたいくつかの袋を、戦場にばら撒く。
ただの袋ではない。対コボルト用として作られた兵器。袋の動きに一瞬気づいた銀色のコボルトがの本能が、それが物理的な破壊力とは違う、質の悪い危険性を感じ取り、その場を離れて難を逃れる。だが、他のコボルトは、そういうわけにはいかない。
ビー玉や小石が詰められた布製の袋は、地面に落ちた衝撃で、いとも容易く破裂する。途端に強烈な刺激臭が拡散し、コボルトたちが一斉に悲鳴やうめき声を上げる。顔を覆い、後ずさりし、吐き気を催す。その場に蹲る者すらいた。
対コボルト用として、臨時で作られた特殊爆弾……臭い袋。
阿鼻叫喚の地獄絵図。バイオアーマーによって頭部を全て覆われているライオットには、その臭いは通用しないが、微かな化学臭をセンサーが感知している。外気に直接さらされたら、まともに立っていることすらできないだろう。
暁の旅団は工業区を解放していたため、袋の材料となる、廃液処理施設や、廃棄物置き場から硫化水素を集めるのは簡単な事であった。
「強い臭いで怯んでいるだけだ。効果は長くて十分程度だと思っておけ」
短く説明をすると、すぐさま流阿が銀色のコボルトに白兵戦を仕掛ける。流阿が両手に持った赤いナイフと、銀色のコボルトが両手に持った手斧の軌跡が、互いを仕留めんと激しく交錯した。
刃が空を切る音と、地面を蹴る音を残し、二つの影は徐々にその場から遠ざかっていく。やがて、わずかに競り負けた流阿を追う形で、銀色のコボルトもまた、工場の外へと駆けていった。
ライオットに迷いなどない。銀色の樹を守るコボルトが怯んでいる今こそがチャンスなのだ。しかし、このチャンスは永遠の物ではない。
臭いに苦しむ、数こそ多いが通常のコボルト。しかし、銀色の樹が再び赤い光を散りばめれば、数はすぐに戻ってしまう。最悪の場合、あの銀色のコボルトが、また生まれる可能性すらある。戦いは、長引けば長引くほど不利になる。
ライオットは、握る二振りの手斧に力を込め、呼吸を一つ整える。そして、残る全ての力を振り絞るかのように、銀色の樹への突撃を敢行した。




