作戦までの日常4
煌々と輝く満月が、まるで巨大なスポットライトのように、破壊された街の残骸を静かに照らし出していた。
臨時議会が置かれたビルの屋上。吹き抜ける夜風は肌寒く、鉄骨の匂いを運んでくる。その縁に、一人の男が佇んでいた。
上質なスーツを身に纏い、眼下に広がる闇を見下ろすその男こそ、灯架の兄である鳴海 錬耶だ。その政治家としての卓越した能力と、女性たちの溜息を誘う整ったルックスで、この混沌とした状況下においても多くの支持を集める若き実力者だ。
「君たち、待ち人が来たようだ。少し席を外してもらえるかな?」
彼の穏やかな、しかし有無を言わせぬ声に、背後を固めていたスーツ姿のボディガードたちが音もなく一礼し、屋上から下がる階段へと姿を消した。
静寂が戻った屋上に、男は楽しげに語りかける。
「やあ、月がキレイな夜だね」
「月の美しさを褒め称えるのは、女性を口説くときの常套句だったと記憶しているが?」
男が声をかけた先にあった影が、ゆらりと揺れて応えた。闇の中から、まったく別の男の声が響く。
「いや。意外と、孤高のヒーローを口説くのにも使えるかもしれない。そうは思わないかい? 流阿君」
「生憎、俺には不発だったがな。そのヒーローがもし女であれば、あんたのような色男にコロリと惚れていたかもしれない」
「はは、それは残念だ」
カラカラとした笑い声と共に、影の中から流阿が姿を現した。その足取りに、常のような気負いや緊張の色はない。
権力者との謁見という、本来であれば胃が痛くなるようなシチュエーション。その重圧を乗り切るため、流阿は事前に自らのエクリプスで精神に一種のブーストをかけていた。思考をクリアにし、恐怖心を麻痺させるその作用は、副作用として気分を妙に高揚させ、普段なら絶対に言わないようなキザなセリフすら、スラスラと口にさせてしまう。
なお、自分が今や、目の前の男と渡り合えるだけの派閥のトップになっているという自覚は、まだ彼には存在しない。
「さて、これは妹君から、愛しのお兄様へのラブレターだ」
ついでに、少しばかりハイになっているせいで、流阿はそんな軽口まで叩いてのける。
「ふふ、それはどうも。わざわざ届けてもらって、すまなかったね。未だに兄離れの出来ない、可愛い妹で本当に困ってしまうよ」
軽口に軽口で返しながら、錬耶は流阿が差し出した封筒を、優雅な仕草で受け取った。その目は、流阿という青年を値踏みするように、興味深げに細められている。
「帰ったら、灯架によろしく伝えてくれ。あまり兄を心配させるな、とね」
「了承した。伝言料は、今度美味い酒でも奢ってもらうとしよう」
最後の言葉を残し、流阿は再び身を翻す。来た時と同様、その姿はあっという間に屋上の闇へと溶けて消えた。
一人残された男は、数秒間、流阿が消えた闇を見つめていたが、やがて小さく笑みをこぼすと、踵を返してビル内に設けられた私室へと戻った。
執務机の柔らかなライトの下、男は受け取った封筒の封を切る。中から現れた数枚の便箋に、素早く目を通していく。
「ふむ。やはり灯架たちは、彼の派閥に正式に合流したか……ほう、あの郷枝もあちらに……。これは面白いことになってきた」
口元に浮かぶのは、愉悦の笑み。
彼の脳裏では、飛谷ノ奪還後に行われるであろう、血の流れない、しかし血よりも残酷な権力闘争の盤面が、いくつものパターンで構築され、シミュレートされていく。灯架の行動、流阿という駒の価値、そして郷枝という新たな変数が、彼の描く未来図をより複雑で、より刺激的なものへと塗り替えていくのを、彼は心から楽しんでいた。
密会の翌日。空に高く浮かぶ太陽が、その強い光で大地を照らしつけている。
隕石が降り注いで以来、活気を失っていたゴーストタウン同然の街並み。しかし、多くの人々が集うこの飛谷ノドーム周辺だけは、僅かながら人の営みがもたらす活気が戻ってきているように感じられた。
だが、それは平和な日常が戻った証ではない。じきに訪れるであろう飛谷ノ奪還作戦に向け、人々が準備に勤しむ喧騒であり、誰もが死と隣り合わせにあるという緊張感を内包した、かりそめの賑やかさでしかなかった。
一人の男が、そんなドームへ向かって歩いていた。流阿だ。
彼の目には、ドーム前の広場で、黙々と訓練に励む様々な人々の姿が映る。屈強な男性もいれば、しなやかな体つきの女性もいる。まだ幼さの残る少年少女から、歴戦の傭兵のような風貌の熟年者まで、その年齢層は実に幅広い。彼らは皆、流阿がなし崩し的にトップを務めていた、現在は灯架がトップである派閥に属する者たちだ。来るべき作戦の際には、前線での戦闘や、後方での支援など、様々な役割が彼らには求められる。
飛谷ノドームとその周辺は、各派閥が使用できる時間帯が厳密に決められており、今は彼の派閥が基礎訓練を行う時間だった。
やがてドーム内部へと足を踏み入れる。本来であれば開閉式であるはずの天井は、無残に開け放たれたままだ。
これは電力問題に起因する。未だに潤沢な電力を確保できないこの状況では、巨大な天井を閉じてしまえば、内部の光源を確保することができない。昼間はまだしも、夜間であっても、月明かりがある分だけ、天井を開けている方がまだマシなのだ。そもそも隕石の直撃で天井の一部には巨大な穴が開いており、雨避けとしての機能すら期待できない。ならば、中途半端に閉じておくよりも、いっそ完全に開放してしまった方がよい。それが、議会の出した合理的な結論だった。
特に大規模なイベントが行われているわけでもないドーム内にいる人間はまばらで、流阿が目当ての人物たちを見つけるのはさして難しくなかった。観客席の一角に陣取る彼女たちの元へ、彼は歩みを進める。
「先輩、帰りましたねー」
その集団に近づくと、最初に口を開いたのは灯架だった。
「ただいま」
流阿が短く返事をすると、灯架はそれきり黙ってしまい、じっと彼の身体を見つめてくる。なんとも居心地の悪い視線だ。
「……なに?」
この奇妙な沈黙と視線から早く逃れたい一心で、流阿は真意をうかがった。
「先輩、なかなか将来性のある筋肉をしていますねー」
男性が口にすれば、間違いなくセクハラとして訴えられても文句の言えないセリフが、麗しい少女の口から、さも当然のように放たれた。
「それセクハ……いや……」
思わず、その変態的な発言に一歩後ずさりしてしまったが、この少女の性格をある程度理解しているというか、すっかり毒されている流阿は、僅かな思考の停止を経て、その言葉の裏にある真意を即座に理解する。
「……もしかして灯架さんの趣味的な視点での話?」
「ええ。トレーニングメニューを工夫すれば、きっと画面映えのする素晴らしい筋肉になると思いますよー」
やっぱり、そっち方面の話だったか。
趣味を隠していると公言している割には、このような公の場で堂々と口にして良いのだろうか、と流阿は一瞬思ったが、周りを見渡せば、いるのは灯架に鏡子、リアナにイリスといった、いつものメンバーだけだ。観客席には他に数人の姿も見えるが、この距離であれば会話の内容まで聞き取られる心配はないだろう。
「ははは、そう……それで、彼らの訓練の進捗はどうなっているかな?」
苦笑いを浮かべながら、形式的な礼だけは返し、この話題がこれ以上あらぬ方向へ転がらないよう、すぐさま本題に入ることを促した。
「そうですねー。その前に一つ、よろしいですか。わたくしがヒミコのエクリプスの所有者だというのは、当面の間は隠しておく予定ですので、今回のように身内しかいない場所で、この手の話しはお願いしたいのですが」
「了承したよ」
ヒミコのような、複数のメンバーを管理・登録できる特殊なエクリプスは、流阿の知る限りでも極めて希少だ。この世界でその力がどういった価値を持ち、どういった危険を招くのか、はっきりするまでは公にしない方がいい。その判断は、説明されずとも流阿にもよく理解できた。
「では、訓練の結果については、私がご説明させて頂きます」
鏡子が、控えていた位置から一歩前に出る。
「やはりヒュームの方々を、即戦力として前線に投入するのは難しいようです。ですので、大半の方は作戦の際には後方支援部隊に回っていただくのが現実的かと。それと、一つ気になることが」
ヒューム。それはエクリプスのバージョンの一つで、流阿たちの持つ神話の登場人物の名が刻まれたエクリプスとは異なり、固有のスキルを持たない。だが、超感覚や、他者の防御領域に干渉してダメージを通せる能力など、基本的な性能は流阿たちのものと変わらない。
「ヒミコのアプリに登録したヒュームの方についてですが、ハーフヴァンパイア、あるいはハーフビーストという種に変更できるようになっていました。ヒミコのエクリプスからしか変更は行えませんが」
「ハーフヴァンパイアにハーフビースト……なんか、ファンタジーゲームに出てきそうな名前だね」
名前からして、半人半吸血鬼、半人半獣人といったところか。そういえば、半吸血鬼はダムピールと呼ばれることもあったな、などと、流阿は内心でどうでもいい知識を反芻した。
「これらを、仮称として種族変更と呼ぶことにしました。また、何名かにご協力いただき、現在その検証を行っております」
なお、その協力者たちは、日頃の素行に問題のあった者たちを、灯架と鏡子が話し合いという名の脅迫によって説得し、双方円満?に納得の上で被験者となってもらっている。
「それで、何か分かったのかな?」
「身体的な外見の変化は確認できませんでした。ですがエクリプスの使用時に、どちらの種族もヒュームのままよりも身体能力が向上しました。特にハーフヴァンパイアは持久力が、ハーフビーストは瞬発力が顕著に高くなっております。ただ……」
ここまで聞く限りでは、メリットしかないように思える。しかし、鏡子の口調には僅かな懸念の色が滲んでいた。やはり、そううまい話ばかりというわけでもなさそうだ。
「どちらの種族もエクリプスを使用し始めると、精神面に影響が出るようです。ハーフビーストとなった方々は、精神汚染が進むと気性が少々荒くなる傾向にあります。対してハーフヴァンパイアの方は、感情の起伏が乏しくなり、冷淡になられた、との報告を受けています」
一見すると、それは明確な欠点と言える。だが、気性が荒くなるというのは、戦場において恐怖心を麻痺させ、弱気になることを防ぐというメリットにもなり得る。その点は、普段から意図的に精神汚染を利用している流阿には、痛いほどよく理解できた。一方で、冷淡になるというのは、どんな影響があるのだろうか?少し考えた結果、おそらく冷静に物事を判断できるようになるのでは、という結論に至った。
「じゃあ、計画を実行するときに、その種族変更を導入することになるの?」
肉体的なメリットだけでなく、精神面でも立場や使い方によってはメリットになり得る。どちらも計画に組み込む価値は十分にありそうだ。ただ一つ、どうしても拭えない不安な点があるが。
「それは判断が難しい所ですね。検証する時間が短すぎますので。もう少し検証期間を設け、他に重大な不安要素が見られない場合は、作戦に投入する予定でおります」
鏡子の言葉は、流阿の抱いた懸念と一致していた。やはり、未知の力には相応のリスクが伴うということだろう。
鏡子はそこで一度言葉を切り、手元のタブレットを操作した。次の議題に移るための、自然な間だった。
「なお、ハーフヴァンパイアとハーフビーストへの変更機能が解放されたのは、おそらく、由夜様と麻衣様を登録した影響、そしてハーフビーストに関してはライオット様を登録した影響かと思われます」
異世界人である由夜と麻衣、そしてライオットの登録が、新たな種族への変更機能のトリガーになった。その可能性は、状況を考えれば十分にありうると流阿も思った。由夜と麻衣は自らをヴァンパイアと名乗り、ライオットはビーストであると、本人たちがそう言っているのだ。ちなみにライオットとは、双子と共に流阿と行動を共にするようになった、自称さすらいの料理人である。
「異世界人……いや、そう呼ぶのはもう失礼か」
「そうですねー。もう同じ世界で過ごしているのですし」
流阿の呟きに、灯架が返す。彼女が視線を向けた先には、観客席の別のブロックで、呑気にパンを頬張る双子の姿と、その近くで黙々と身体を鍛えるライオットの姿があった。自分たちと同じように訓練をし、食事をし、生活している。彼らを違う世界の人間だと区別することの方にこそ、違和感を覚えるべきなのかもしれない。
「あと一つ、ご報告が。メンバーの登録者数が1000名を超えた時点で、各メンバーに役職を与えられる機能が解放されました」
「……そんなにいたんだ、ウチの派閥」
流阿のうんざりした声に、灯架が知りたくなかった情報を付け加える。
「残念ながら、今の段階で、あくまで私のアプリに登録した方だけですよー」
「……そうなんだ」
これまで、怖くて正確な数字から目を背けてきた派閥の総メンバー数。その一部が1000名。その膨大な人数の中に、あのギラギラした目を持つ狂信者たちが、一体どれほどの割合で含まれているのだろうか?流阿は、そのことが気になって仕方がなかった。
「それで役職についてですが、いくつかありますねー。いわゆる内政向きのものが大半なので、この場で詳細をお伝えする必要はないかもしれませんが、一応、魔王様にはご報告しておきませんと」
灯架が話に入り込み、鏡子の代わりに説明を始めた。その結果、やはり、というべきか、魔王vs大魔王の不毛な戦いの火蓋が切って落とされてしまう。
「その中に、大魔王っていう役職があったら、それは灯架さん専用になるんだろうね」
「でしたら、魔王があった場合は、先輩専用になりますねー」
そういった二人の視線の間には、ピリピリとした火花が散っているかのようだ。
「お嬢様、執行官についてお伝えしましょう」
このまま二人のじゃれ合いを続けさせていたら、いつまで経っても話が進まないと判断したのだろう。鏡子が、冷静な声で話を促す。
「そうでしたねー。役職にはいくつかあったのですが、その一つに執行官というものがありました」
「執行官、か」
その名前からして、穏やかな役職ではなさそうだと感じる。だが、その情報だけでは、具体的な内容を判断することは、流阿にはできなかった。
「ええ。この執行官に任命された方は、一定の条件はあるようですが、他の方のエクリプスを使えなくさせることが出来るようです」
「それは…………」
灯架が語った執行官の能力。それは、流阿がずっと懸念していた最大の問題を解決しうる、あまりにも大きな力だった。それ故に、突如として現れたその情報に、彼の脳の処理が追い付かず、思わず言葉を詰まらせてしまった。
「執行官の力であれば、エクリプスを使った犯罪に、ようやく有効な対抗手段ができたということですねー」
そうだ。流阿の懸念。それは、エクリプスを使える犯罪者をどうやって裁くのか、ということだった。ヒュームであればまだしも、強力なスキルを持つ能力者相手では、通常の刑務所では対処が難しい。
だが、流阿がこの問題を真剣に考えていたのは、決してこの世界の行く末を案じてのことではない。
彼の行動や思考は、いつだって驚くほど一貫している。
いずれ必ず、自分に報復をしに来るであろう、あの飯田という男をどうするのか。
あの男に対抗するため、強い立場を得なければならない。自身も、もっと強くならなければならないと思い、これまで動いてきた。そして今、執行官という、切り札になりうるカードが、目の前に現れたのだ。
「先輩、やってみます?」
灯架の軽い口調での申し出。一見すると、それは流阿が目指すものと一致しているようにも思える。だが──
「僕はやめておくよ。執行官なんて、絶対に恨まれそうだからね。顔を隠して裏仕事ができるような人が向いてるんじゃないかな?」
──流阿は、良くも悪くも目立ち過ぎた。今の彼が執行官となれば、飯田以外の、新たな問題を抱え込む可能性が高すぎた。
「そうですよねー。魔王陛下では、目立ち過ぎますからー」
「大魔王陛下も、表舞台で輝くべき方だから、執行官のような裏方の仕事には向いていないだろうね」
再び、視線の間にピリピリとした火花が散り始める。その横で、またじゃれあいが始まった、と鏡子は誰にも気づかれぬよう、小さく溜め息をつくのだった。




