作戦までの日常2
流阿に嬉しくも、それ以上に胃が心配になる今後を伝えた後、そのまま部屋割の話へと移る。
「部屋は、僕の部屋を使ってくれればいいから」
流阿の言葉に、灯架はにっこりと淑女の笑みを浮かべたまま小首をかしげた。
「先輩ー。美少女様を自室に連れ込んで、一体何をなさるおつもりでしょうかー?」
そのどこか芝居がかったセリフ回し、一体どこで仕入れてくる知識なのか?灯架のことだから”ヒ”で始まる趣味の産物なのだろうな、と流阿は結論付けた。
「そういうんじゃなくて、僕はもうこの部屋をほとんど使ってないから、灯架さんたちに使ってもらおうっていうだけだよ」
「では先輩は、普段どちらでお休みになられているのですかー?」
灯架の純粋風な問いに、流阿はこともなげに答える。
「そうだねー……移動先の拠点で空き部屋を借りられることもあるけど、ほとんどはその辺の適当なビルの屋上か空き部屋だね。周りを確認できれば夜襲にも対応しやすいからね。それに最近は、襲撃されにくい場所を見つけるのが少し得意になって来たんだ」
シン……と、部屋に一瞬の、そして重い沈黙が落ちる。灯架、鏡子、リアナの三対の瞳が、憐憫の情を込めて流阿に向けられた。
「先輩。失礼ながら、少々……いえ、かなり野性化が進んでいませんか? 今おっしゃったこと、野良猫の生態と一致しておりますが」
「そんなことは…………あれ?」
灯架に告げられた真実。流阿はここ数日の己の行動を省みる。夏の夜風を肌で感じながら、人気のないビルの屋上で周囲を警戒しつつ仮眠をとる日々。銀色のモンスターだけでなく、他のエクリプスユーザーからの襲撃にも常に備え、五感を研ぎ澄ませていた記憶……確かに、文明人の生活とはかけ離れている。
「先輩、まずは落ち着いて深呼吸を。そして暖かいお布団と屋根のある、文明社会へお戻りになりましょう、ね?」
灯架が、聖母のごとき慈愛に満ちた瞳で優しく諭す。その姿はまるで雨に濡れた子猫を保護──やはり、野良猫扱いをしている。
「だ、大丈夫だから!ほら、これからはなるべく移動先でもちゃんとした室内で休めるところを見つけるようにするから!」
あっ、だめだこの人。と灯架は内心で静かにこめかみを押さえた。しばらく見ないうちに、この先輩は確実に野生を取り戻しつつある。代償として、文明社会から、思考が離れつつあるのがハッキリした。
そして同時に思った。先ほどのイリスへの対応は手慣れていたが、あれは自信がついたのではなく、単に野生児化して人間的な遠慮が無くなっただけだったと。
「灯架さん?」
「いえいえ、なにも言っていませんよー。それよりも、先輩の明日のご予定をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
猫化しかけている先輩を、どうにかしないと思いながらも、灯架は話しを本題へと戻そうとした。
「とりあえず斥候として、もう少し先のエリアまで足を伸ばして、周囲の状況を確認してこようかと……」
「そのさい、どちらでお休みになられる予定なのでしょうか?」
「ちょうどいい、廃墟のビルがあって……あ」
「先輩、お願いですから文明社会に帰ってきて下さい。戻ってこないと、首輪を付けてお散歩しますよ」
この人、取り戻した野生に脳髄まで侵食され始めているのではないだろうか? 灯架は本気で流阿の行く末が心配になってきた。いや、むしろこの状況を楽しんでいる節もあるが。
「……少し、真剣なお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
不意に、灯架の表情から悪戯っぽい笑みが消え、凛とした指導者の空気が彼女の周囲に立ち昇る。普段の彼女とは異なる、その場の雰囲気を支配するような威圧感。その急な変化に戸惑いつつも、流阿はゴクリと喉を鳴らし、背筋を伸ばして彼女の言葉に耳を傾ける姿勢をとった。
「色々と対処すべき問題は山積しておりますわ。ですが、今の私達が最優先で行わなければならない、喫緊の課題がございますの。それは何だとお思いになりますか?」
「そうだね……やっぱり、飛谷ノを奪還するために、一緒に戦ってくれる仲間をもっと増やすこと、かな」
意外にも的を射た、そして真面目な答えが流阿から返ってきた。どうやら脳の全てが野生に支配されているわけではないようだ、と灯架は少しだけ見直す。しかし、彼女の答えは否だ。
「それも非常に重要です。しかし、それよりも緊急を要することが、私と先輩にはあるのです」
「……銀色のモンスターに関する詳細な情報を集めること……いや、それは議会が専門チームを組んで進めているか。食料や医薬品の確保は……いや、これらは僕や灯架さん限定の話じゃないか。……ごめん、分からない」
それなりに思考を巡らせてはいるものの、野生化しつつある魔王陛下(笑)の頭脳では、正解には至らなかったようだ。
「ええ、よろしいでしょう。私が教えて差し上げましょう。私と先輩は、今この瞬間も、とてつもない危険に晒されています。それを防ぐには、早急に決めなければならない事があるのです……それは! 派閥の名前ですっ!」
バン!と、灯架が力強くテーブルを叩く。
「このままでは、遠からず魔王軍という名前が、私達の派閥についてしまうのは目に見えています!そうなれば、先輩の魔王、そしてわたくしの大魔王という、少々……いえ、かなり問題のある尊称も、その悪名高き魔王軍という名称と共に、世間に認知されることになるでしょうっ!!」
「あぁ……そうか。うん、確かに、それは……非常にまずいな。というか、もう手遅れな気が……」
流阿は、これまで全力で現実逃避してきた問題に真正面から向き合わされ、ズキリと痛むこめかみを指で強く押さえた。
「その最悪の事態を回避するためには、どこかの誰かがおかしな名前を提案して、それがなし崩し的に定着してしまう前に! 私達自身が、まともで、格好良くて、そして何よりもわたくしのセンスが光る素晴らしい名前を付けてしまう必要があるのです!」
灯架の言葉には、並々ならぬ決意と、切実な思いが込められていた。よほど大魔王呼びが彼女のプライドを傷つけているらしい。年頃の麗しい乙女に、そんなラスボス感満載の禍々しい称号が与えられてしまっては、当然の反応と言えるだろう。もっとも、その元凶の一端は目の前にいる魔王陛下(笑)なのだが、彼女はそれを指摘するつもりは毛頭ない。
「ええ、ですからご安心くださいまし!このわたくしが、ここまでの道中、不眠不休でいくつも素晴らしい名前の候補を考えておきましたので!」
自信満々に胸を張る灯架。その手には、びっしりと何かが書き込まれたメモ帳が、高々と掲げられている。
「……ちなみに、大変申し上げにくいんだけど……ヒで始まる趣味関連のネーミングは、無しでお願いしてもいいかな……」
流阿が、今後の生活に危機を感じながらも、頭をよぎった可能性を恐る恐る口にした。
「………………」
灯架の自信に満ち溢れた表情に、見るも無残な亀裂が入った。そして、部屋を支配する重い沈黙。どうやら、彼女が寝る間も惜しんで考案したという名前のリストは、その全てが輝かしいまでに”ヒ”で始まる趣味に関連するものだったようだ。
「お嬢様。そもそも論として、ご趣味を派閥の名前に採用してしまいましたら、それが公の事実として認知されてしまい、もはや秘密にすることが不可能になるかと存じますが、その点はいかがお考えで?」
すかさず、今まで黙って成り行きを見守っていた鏡子が、冷静沈着かつ致命的な追撃を、美しい微笑みと共に繰り出す。
「………………」
灯架は、手にしていた血と汗と涙の結晶であるメモ帳を、そっと静かにテーブルの上に置くと、ふっとどこか儚げな、全てを悟りきった賢者のような笑みを浮かべた。
「……残念ながら、わたくしの用意した珠玉のネーミング案は、いささか時代を先取りしすぎていたようですね。ここは一度白紙に戻し、皆様で改めてフレッシュな知恵を出し合うことにしましょう。その後に、派閥の主要な方々とも意見を交換し、コンセンサスを得るのがよいでしょうねー」
灯架は、実にスムーズに、先ほどまでの熱弁と自信を綺麗さっぱり無かったことにした。その鮮やかすぎる変わり身の早さたるや、流石と言うほかない。こうして、魔王軍(仮)の名称問題は、ひとまず暗礁に乗り上げ、振り出しに戻ったのだった。
「たっだいまーーー!」
まさにその時、そんな深刻な話し合いの空気を微塵も読まず、やけに明るく元気な少女の声が、リビングの扉の向こうから響いた。
「ただいま戻りました」
続いて、もう一つ、対照的に落ち着いた、しかし芯の通った少女の声が聞こえた。ガチャリとリビングのドアが開き、二人の少女が姿を現す。
「あ、流阿ー。お客さん?」
灯架たちにとっては初対面の少女たちだった。
一人は、快活そうなツインテールを揺らし、大きな瞳を好奇心で輝かせている、いかにも勝ち気そうな少女。もう一人は、艶やかなストレートヘアーを肩まで流し、物静かで大人しい雰囲気を漂わせる少女。
二人とも陽光を思わせる亜麻色の髪をしており、瞳も同じ柔らかなブラウン。どことなく雰囲気がよく似ていて、姉妹なのかもしれない。どちらも灯架よりは少しだけ年下、といったところだろうか。
流阿が、少し困ったような、それでいてどこか諦めたような表情で口を開く。
「ああ、紹介するよ。こっちが、ここに来るまでにお世話になったっていう、鳴海 灯架さんと、境 鏡子さん。それと、織紫亜 莉亜那さんと、織紫亜 依利栖ちゃん」
そして、入ってきた少女たちを示す。
「で、こっちが比良那 由夜さんと、比良那 麻衣さん。……えっと、成り行きで、ここで一緒に暮らしてるんだ」
最後の方は、何かを誤魔化すように、あるいは気にしないでほしいと願うかのように、ごにょごにょと小さく呟いた。
「よろしくねー」
ツインテールの由夜が、人懐っこい笑顔で無邪気に言い放つ。
「……よろしくお願いします」
ストレートヘアーの麻衣も、控えめながら同じように挨拶する。
ピシッ、と。灯架の完璧な笑顔の仮面の奥で、何かが凍りつく音がした。しかし、それを微塵も顔に出さないのは、さすが長年猫を被り続けてきた名人のなせる業と言うべきか。
「私達、流阿の婚約者だから!よろしくねー!」
由夜が、とんでもない爆弾発言を、太陽のような笑顔と共に投下する。隣にいた麻衣もまた、こくりと小さく、しかし明確に頷いた。
「……やはり、ロリコンでいらっしゃいましたか、流阿さん」
鏡子が、温度の感じられない声で、しかしその目は明らかに面白がって流阿に宣告する。
「て、手は出していないよ!?絶対に!ただ、隕石のせいで無事な部屋が本当に少なくて、特にこの二人が僕に懐いてくれていたから、保護する形で一緒に暮らすことになっただけで……!」
「手は出してない……ですか」
流阿の必死の弁明を、鏡子はあえてゆっくりと反芻する。その涼やかな顔は真剣そのものであり、心の底から流阿を心配しているようにも見えるが、その実、この状況を最高に楽しんでいることが透けて見える。
「ほ、本当に、未成年者保護育成条例に抵触することは何もしていないから!」
「未成年者を理由なくご自宅に連れ込んだ時点で、条例違反として問題視される地域もあると伺いますが、そのあたりはいかがでしょう?」
「ぇっ……うそ」
もはや何も否定できない。流阿はがっくりと肩を落とし、その場で崩れ落ちそうになった。流阿が遊ばれている現場から少し離れたところでは、イリスと双子が早速何やら話し込んでいる。
「流阿はわたくしの嫁」
イリスが、小さな胸を張って堂々と主張している。どことなく威厳を感じるのはいつも通りだ。それに対し、由夜はきょとんとした後、にぱっと笑った。
「ふーん。じゃあイリスは、私と麻衣のお嫁さんでもあるんだね」
「うん」
あっさりと受け入れたイリス。彼女達の間で、複雑な婚姻関係が成立したようだ。
「なんて愛らしい……」
その様子をうっとりと眺めて、リアナが両手で頬を押さえている。一見すると温かく向けられていた自愛深い目であるのだが、過剰なまでに熱がこもり過ぎている気がしなくもない。
そして、さらに一人──この混沌とした状況を、少し離れた場所から静かに観察している人物がいた。
『どうしましょうかねー。どちらも非常に面白そうですが……このまま高みの見物と洒落込んで、両方の顛末を見届けるのも一興ですね』
──どちらのグループにも属さず、最適な立ち位置と介入のタイミングを虎視眈々と計算する灯架。流阿の部屋は、こうして一瞬にして、中々に味わい深いカオスな空間へと変貌を遂げていた。




