ハーレム幻想(ファンタジー)~なぜ私はハーレム作品を書き続けるのか~
子どもの頃から貪るように本を読んできた。
理由は色々あったけれど、身体が弱く外で遊ぶことが難しかった私にとって――――読書はその場に居ながら様々な世界を体験できるものだったから。我が家には読み切れないほどの本があったから。他人と関わることもなく、気を遣うこともない、そんな時間が楽だったからということが大きかったように思う。
私は人の心がわからなかった。良かれと思ったことはすべて空回りして――――無自覚に周りの人を傷つけてしまう。
私にとって人とその他の生き物との間に差は無かった。むしろ人は嫌いだったかもしれない。ほとんどの生き物とは心や感覚が通じるのに、人間はどうしてもわからなかった。人生の大半――――私は人間なんて滅んでしまえば良いと思っていた。正直に言えば今でも少しそう思っている。
わからないものは怖い。なぜ好意を持たれるのか? なぜ怒らせてしまったのか? わからないまま関わることは恐怖でしかなかった。だから読書に傾倒した。本を読んでいる間は、少なくともその心配をする必要が、迷惑をかけることがなかったから。
でも――――本を読むのが楽しいことばかりだったわけではない。
私は99%楽しくてもたった1パーセント嫌なことがあれば楽しかったはずの99%も100%真っ黒に塗りつぶされてしまう極端な子どもだったから。
世界中の名作を読んでガッカリして――――次こそはと期待して裏切られることの繰り返し。
求めていた物語は決して見つからない。
いつしか気付いた。
そうか――――いわゆる名作というものは私の求めているものではないのだと。
誤解して欲しくないのだが、本も物語も好きだし感動だってする。そうでなければ読み続けることなど出来ない。
心が動くからこそ失望や絶望は深い。ワクワクするから期待してしまうから裏切られたと感じてしまう。
いわゆる名作とは――――人の心を激しく揺さぶるもの――――のことを言うのだろう。
だがそれは――――私が求めているものではなかったというだけのことだ。
中学生になる頃には、あれほどあった家の本も、学校の図書室の本も――――読める本はあらかた読みつくしていた。
あれほど読んでいた――――呼吸のような存在だった本を読まなくなったのは、いくら探しても見つからないことに醒めてしまったからかもしれない。
決して読書が無駄だったとは思わない。
私は本を通じて人というものを学んだ。相変わらずわからないままだったけれど、少なくとも疑似的な理解のようなものは身に付いたような気がする。その結果――――より人間に失望する――――いや、正確に言えば期待しなくなったというべきか。
そして探し求めるものは見つからなかったが、その過程で求めるものの輪郭が少しずつ見えてきていたのだと思う。当時ははっきりと意識していたわけではなかったが、今思えばその頃から私はなにも変わっていないのだ。
思春期に入った私は、映画やドラマ、マンガやアニメを観るようになった。
エンタメならば私の求めるものがあるかもしれない。そう思っていたのだが――――
結論から言えばトラウマを量産しただけだった。
私は――――登場人物が皆幸せになる物語が欲しかったのだ。
主人公とヒロインが幸せになる物語はたしかにハッピーエンドなのかもしれないけれど、二人が結ばれるために他の登場人物が犠牲になってしまっては意味が無い。
私はいつだって脇役に感情移入していた。だが――――脇役が幸せになる物語はまずない。あったとしても、適当な相手役をあてがわれるのがせいぜい。主人公と結ばれることなどあり得ない。
勘違いして欲しくないが、主人公がメインヒロインを捨てて脇役を選んでくれては意味が無い。
何かを犠牲にして得たハッピーエンドに意味は無いのだ。
私は一度だけ人を好きになったことがある。
小学生だった私のそれを恋と呼べるのかはわからない。
でも――――物語の主人公みたいだって思った。
ひとりだけ輝いていて――――信じられないくらい優しくて――――静かに笑う人だった。
私と同じくらい生き物に詳しくて――――読書が好きな人だった。
そして――――私と同じように身体が弱い人だった。
私にとって恋は呪いだ。
切り替えることなど出来ない。このまま一生変わることはないだろう。
だから思ってしまうのだ。
なぜ一人を選ばなければならないのか?
嫌いならわかる。それはどうしようもないことだから。
でもそうでないのなら、同じくらい好きなのなら、選んで欲しくない。
選ばれなかった人間は一生その報われぬ想いを抱えて生きてゆく。
忘れたり切り替えたり乗り換えたり――――少なくとも私にはその感覚は理解できないし、そういう価値観は存在しない。
悩むくらい好きな人間を――――そんな地獄に突き落としておきながら幸せになれるとは思えない。
時代の要請で作られた価値観に縛られて――――生涯未婚率が過去最高を更新し続けるこの時代において――――本来自由である創作の世界においてまで――――なぜそんな残酷なことがまかり通っているのだろう?
数年前コロナ禍において――――私は小説投稿サイトの存在を知り、ハーレム作品というものを知った。
衝撃だった。私の思っているのとは違っていたけれど、これだって思った。
全員幸せになるならハーレムしかないじゃないか。
現実では難しいのなら創作の世界で実現すれば良い。
リアリティなんて知ったことか。創作って本来そういうものじゃないのか?
ハーレム作品というと拒絶反応が結構すごい。エッセイにも定期的にハーレム作品をこき下ろすものが投稿される。
でもそれで良いと私は思う。人の数だけ理想があって考え方や価値観もある。
私が受け付けないものがあるように、ハーレム要素が駄目な人もいて当然だ。
私は――――求めるものがそこにしかないからハーレム作品を書く。
同じ人を好きになること、同じ作品や物を好きになること、どこに違いがあるのか?
もっと楽しく――――もっと幸せに。
ハーレム作品を書くのは意外と難しい。
いつか満足できる作品が書けるようになりたいと思う。
創作は楽しい。創作はやめられない。
あれほど探し回って見つからなかったものが――――自分の中にあると信じることが出来ているから。
私の幸せはこの手の中に。
ハーレムという幻想を――――私は今日もせっせと書き続ける。