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s.f.01(魚にならない)

   銀の魚


 沙緒里が魚になる。

 全く考えたことが無かったわけではないが、それでも真剣に考えたことでもなかった。

 相手を選ばないその病は、僕が患う可能性も十二分にあったのに、わざわざ沙緒里を選んだ。

 神様は信じない。そうすれば裏切られることもない。けれど誰の所為にすることも出来ない。


   *


 沙緒里と僕は、幼なじみだった。沙緒里は僕の家からちょうど斜向かいの、赤い屋根の家の一人娘だった。

 子供の頃の沙緒里は喘息持ちで身体が弱く、だから冬の殆どはベッドの上で過ごすようなものだった。

 学校から帰った僕は、自分の家に帰らずに沙緒里の家へ行く。そして、ベッドから一歩も出られないでいる沙緒里のかたわらで、今日一日の出来事を、せがまれるままに話すのだった。

 沙緒里は大人しい娘だった。ワガママなんて、殆ど云わない。けれども、この時だけは違う。

 沙緒里は僕の話を聞くのが好きだった。

 僕は、瞳をきらきらさせながら話に聴き入る沙緒里を見るのが好きだった。

 だから、たいして話し上手とは思えないが、それでも沙緒里の為に話すことは少しも苦ではなかった。僕の話が終わると、今度は沙緒里が、今日読んだ本について、小さな声だけど、教えてくれた。

 ──読み終わったの分かっちゃうとお母さんに怒られるから内緒だよ。

 寝てなきゃいけない沙緒里が読書に励んでいたのは、僕ら二人だけの秘密だった。何度も何度も同じ本を読むのは沙緒里の秘密だった。

 秘密はもう一つある。

 僕は時々、少ないこづかいで学校帰りにお菓子を買ったりした。チョコレート、キャンディ、砂糖菓子。二人でこっそり、食べるのだ。


   *


 年と共に沙緒里の身体は丈夫になった。

 僕らはベッドのかたわらから、公園、そして喫茶店へと場所を移した。その頃には、ただの幼なじみではなく特別な感情を、僕は沙緒里に抱くようになっていた。

 高校を卒業する頃には沙緒里を苦しませた喘息なんて、もう殆どなくなっていた。そう云えば、肌身離さず持っていた携帯用の吸入器を使うのを、僕はもうずっと見ていない。

 沙緒里は、彼女の伯父の経営する小さな喫茶店で働き始めた。そして僕は、町の役所に勤めていた。僕は、沙緒里のいる店で昼食を摂るのが日課だった。

 長い髪を束ね、かいがいしく働く沙緒里を見て、僕はいつも暖かな想いを感じていた。スカート姿しか見たことの無かった沙緒里も、この頃にはジーンズを履いて、それはとても健康そうに見えた。

 僕は喫茶店にいるあいだ、ただ沙緒里のことばかり見ていた。そしてときどき振り返り、微笑みかける沙緒里を愛しく思った。思えば、僕らにとって一番幸せな時間だったのかもしれない。沙緒里は夏の終りに病気になった。

 僕は治療をすすめた。沙緒里のお母さんに僕からそう云うよう頼まれただけでなく、それは僕の本心だった。けれども、沙緒里は首を横に振った。一回四種四錠を朝晩と、高価な、けれども効果の程は良く分からない薬を服用する。

 小さな吸入器を持たずに外出など出来なかった生活をずっと続けていた沙緒里は、ここにきて治療を拒んだ。

 沙緒里は大人しい娘だった。沙緒里が自分の意志を他人に伝えることなど殆ど無かった。だから、彼女の両親はそんな娘の頑なな意志に少々面食らったようだ。

 沙緒里が入院してから、僕は毎日のように病院に足を運んだ。

 沙緒里はいつも暇そうにしていた。ベッドに腰掛け、足をぶらぶらさせて、日がな一日、窓の外を見る。あんなに好きだった本も、いっさい読まずに。

 ベッドのかたわらで、僕は幾度か沙緒里を説得しようとした。だが、がんとして沙緒里は考えを変えようとしなかった。理由を訊いても、答えなかった。むしろ、その話になると、沙緒里は少し、むくれて見せた。そんなとき、僕は困惑と裏腹に、何処か新鮮な気持を憶え、そんな沙緒里を場違いな程に、愛しく思った。

 沙緒里は二週間で退院した。

 治療する気がないのだから、入院する意味がない。そう云って見舞いに行った僕に荷物を持たせ、帰宅した。僕はただ、云われるままにした。

 家に着くと、沙緒里は僕が沙緒里のお母さんに事情を説明する合間に、何も云わずさっさと自分の部屋にこもってしまった。

「しょうのない子ね」

 沙緒里のお母さんはため息をついた。それから、僕は沙緒里のお母さんにすすめられたお茶を飲みながら、頑固になった娘の話をした。

 帰り際、僕は沙緒里の部屋に寄った。扉を叩いて呼びかけても、声は返ってこなかった。だから僕は、そっと扉を開けて、沙緒里の部屋に入った。

 明かりもつけず、暗い中、沙緒里はベッドの上にうつ伏せになっていた。

 子供の頃から幾度となく尋ねた、沙緒里の部屋。暗くても分かる。壁の一面が本棚で占められており、それは歳月と共に大きくなって、今のようになったのだ。

 この壁の一面を本で覆い隠す事が出来たら沙緒里の病気は良くなるのだと、子供の頃、なんとなく僕は思っていた。

 壁一面が本に埋め尽くされた頃、確かに沙緒里は元気になった。元気にはなったが──魚になろうとしている。

 僕が布団をかけてやろうと近づくと、沙緒里は首だけ動かし、僕を見た。暗がりの中で、長い髪がはらりと波打って見えた。

「起きていたんだ」

 僕の言葉に、沙緒里は小さく首を動かした。僕はベッドに腰掛け、沙緒里の頬にかかる髪を梳いてやった。沙緒里の頬は、暖かくも、冷たくもなかった。

「退院の理由、教えてよ」

 僕が云うと、沙緒里はやはり、むくれて見せた。「入院する意味がないもの」

「何でさ」

「何でも」

「どうしてなんだ? このままじゃ──、」

「魚になる?」

 僕は頷く。「治るかもしれないじゃないか」

 沙緒里は首を振った。「治るんじゃないの。ただ、魚にならないようにするだけ」

「それじゃ駄目、なの、か?」

「駄目よ」きっぱりとした言葉。「ただ、魚にならないようにするだけなんて。見たことある? 治療しているヒト」

「いや」僕は首を振った。

「見ないほうがいいよ」沙緒里は顔を、シーツに埋めた。

 僕は沙緒里の髪に触れる。とても細くて、柔らかくて、僕はずっと触れていたいと思った。

「また来るよ」

 暗がりの中、沙緒里が少し、動いた。

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