その三十二
春。辺りはすっかり姿を変え
皆は舞い散る花びらに見惚れて
自然と笑みを浮かべる。
忙しそうにしている者も桜の存在を認めると
歩みを止めて、暫く眺めたと思ったら
名残惜しそうな表情を浮かべまた歩みを進める。
あの日、男と話し終えた私は心が晴れないまま
どこにも寄り道せずに大阪へと帰った。
男は最後「それでは、また。」と。
私がまたこの場所を訪れる事を分かっているのだろう
久しく訪れてなかったからなのか
あの喫茶店の珈琲がどうしても飲みたくなった。
仕事終わりに立ち寄り扉を開けると
変わらない香りと景色。そして、マスター。
カウンター席に座るとすぐにマスターは
「珈琲で?」
「はい」
「ハハハ、少々お待ちくださいませ」
マスターの顔、声を聞くと不思議と安心する。
此処に来るといつもよりも素直で
穏やかな自分になれる。
煙草を吸い始めてすぐに私の目の前に
コーヒーカップが置かれた。
「どうぞ」
「頂きます」
そっとカップを持ち上げ香りを嗅ぐ。
あぁ、この香り。一口飲むと思わず微笑んでしまう。
様子を見ていたマスターは優しい声で
「お久しぶりですね、」と
味の感想は敢えて聞いてこなかった。
「そうですね、お元気そうで良かったです」
「ハハハ、元気過ぎるぐらいです。」
「ハハ、安心しました。」
「百歳までを目標にしているんです、
まだまだこれからです。」
それを聞いてまだまだ此処に通えると
嬉しく思っているとマスターから続けてこう言われた
「お客さんはお元気でしたか?
少しやつれたように見えるんですが。」
「ええ、ちょっと色々ありまして。」
「そうでしたか、生きていれば
良い事もあれば悪い事も沢山ありますからね。」
「そうですね、」
「もう、十年以上前になりますが
妻を病気で亡くしましてね。その時は
酷く落ち込みました。」
「そうだったんですね。」
「ええ、世の中を恨みさえしました。
何故自分の妻なのか。」
マスターはカウンターに両手をついて
深いため息をついた。こんなマスターを見たのは
初めてで、若造の自分には何と声をかけるべきか
わからなかった。マスターは暫くの間
自分の手元を見て次に顔を上げた時には
優しく私に微笑み
「でもね、気付いたんです。
こんな姿を妻が見たらきっと叱られるだろうって。
そこから考え方が少しずつですけど変わり始めて
二人の夢だった喫茶店を開く事にしたんです。」
「そんな事があったんですね。」
「ええ、今でもやっぱり寂しく思ったりもしますが
思い出がちゃんと心を温めて灯りをつけてくれますからね。」
話し終えたマスターの顔は優しくもあり
男らしくも見えた。
「歳をとるとつい話が長くなって、ごめんなさいね」
「いいえ、マスターの話を聞けて良かったです。」
「ハハハ、そうですか」
照れ臭そうに笑いながらマスターは
おしぼりで手元を拭くふりをしてみせた。
私は珈琲を飲みながらその様子を見ていると
マスターは何か思い出したのか手をぱちんと叩いて
冷蔵庫を漁り始めた。
「これ、長話に付き合ってくれたお礼です。
良かったら召し上がって下さい」
「手作りですか?」
「ええ、今朝試しに作ってみたんですが」
「凄いですね、美味しそう」
出されたものは手作りのプリンだった。
スプーンで取るとずっしりと重みがあり
口に運ぶと濃厚で優しい甘さとカラメルソースの
程よい苦味が広がり今まで食べたどのプリンよりも
一番美味しかった。
「すごく美味しいです、一番美味しい」
「ハハハハ、またまた」
「本当ですよ、きっと皆んな気に入ります」
「そこまで言うならメニュー化、
考えてみましょうかね」
マスターは微笑みながら白い髭を手でいじった。
私は珈琲を飲み干して立ち上がり
ジャケットと鞄を手に持ち席から立ち上がった。
「ご馳走様でした。また来ます。」
「ええ、お待ちしてます。」
扉を開けて外に出ると、後ろでいつもより
余計に扉がカランと音を立てた。
振り返ると珍しくマスターが外まで
見送りに出てきたので改めてお礼を言おうとすると
先にマスターが口を開いた。
「今日は年寄りに付き合って頂いて
どうも有難うございました。余計なお世話かも
知れませんが、無理はなさらず。」
「ええ、そうします。有難うございました。」
私が言い終えるとマスターは「それでは。」と
頭を軽く下げて再び店へと帰った。
そして、私も歩き始めた。
時刻は午後六時をとっくに過ぎていた。
辺りは暗くなり街灯や建物の光がよく目立った。
電車を降りて家の近くまで来ると静かな公園で
街灯に照らされた一本の桜の木があった。
ふらっと公園に入りベンチに腰掛けて
夜桜を独り占めしていた。
そして、思い浮かべるのは京子だった。
もう、会う事は出来ない。どこにも居るわけない。
京子は死んだ。今日まで普通に過ごして来たと
思っていたが、どうやら私は
酷く落ち込んでしまっていたらしい。
想いを伝えれなかった後悔と
救えなかった自分の無力さに傷ついていた。
けれど、マスターと会話をする中で気付かされ
今までの考え方はやめにする事にした。
これからも京子を思う。それだけで
私の心にパッと灯りを宿してくれる。
見上げると風に吹かれた桜の木が上品に
左右に揺れ花びらを散らせる。
その様を見た私は自然と笑みが溢れた。




