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  作者: 櫻美
31/32

その三十一

その日の夜を私はどうやって過ごしたか

まるで記憶にはなかった。

ただ、日が暮れてからも部屋からずっと

海を眺めていた事だけよく覚えている。

次の日の早朝に目が覚めた私は

飛び起きて辺りを見渡し、次に窓の外を見つめ

昨日聞いた話や目にした光景が

全て事実だと改めて理解した私は

もう、いつでも正気を失いそうだった。

のっそりと立ち上がり煙草を吸いながら

数ヶ月前の記憶と重ねていた。

あの日、私が帰る日。どうして京子は

来なかったのだろうか?それとも、最初から

来る気などなかったのだろうか?

あんなに私に色っぽい声や顔、

女の顔で魅了しといてあれも全部

揶揄っていただけだとしたらよっぽど意地悪な奴だ。

そんな女の顔を帰る前に一目見といてやろうと

思い立った私は気がつけば砂浜の上を歩いていた。

吸い込まれるように海に近づき

そっと水に手を触れあまりの冷たさに驚いた。

指の半分ぐらいまでしか水に触れていないというのに

冷たさは手から腕に伝わり次に肩から胸や首へと

直ぐに頭のてっぺんまで広がり鳥肌がたった。

そして、私は益々あの女の事が分からなくなった。

こんなにも冷たくて寂しい海で、最後は 

何を思っていた?息が途切れる前に一瞬でも

生きたいと望まなかったのだろうか。

けれども、本当に聞きたいのはどれも違った。

ゆっくりと歩みを進め花が添えられている場所の

真ん前まで辿り着いた私は

「また来る」この言葉だけをこの場所に残し

また、来た道を引き返した。

自分が居たらきっと、

海から引っ張り上げてやったのに。惜しい事をした。

何度も何度も、邪魔をしてやったのに。

そして、あの女の美しい目を見て

「惚れている」と言ってやったのに。

旅館の敷地内に入ると見覚えのある人影を認めた。

その者は直ぐに私の存在に気づき

ほうきを動かすのをやめて「おはようございます」と

太陽みたいに温かい笑顔で私にこう言った。

気分では無いが無視をする訳にもいかないので

「おはようございます」と私も返した。すると

その男は私に近づき手を伸ばせば

届きそうな距離まで近寄って来た。

「お散歩ですか?」

「ええ」

「そうですか、寒かったでしょう?」

「ええ、朝は特に冷えますね」

「お茶を淹れますよ、さぁ早く中へ」

私を丁寧に旅館の玄関まで案内すると

私の履き物を揃え大事そうにそっと下駄箱へ入れた。

一足先に自分の部屋でくつろいでいると

少し遅れて男がお盆に湯呑みを乗せて

部屋を訪ねて来た。そっとテーブルの上に

湯呑みを置くと「どうぞ」と、優しい声で

私に茶を勧めた。湯呑みをそろりと持ち上げ

ゆっくりと口まで運び一口飲んだだけで

冷え切った体は充分なくらい温まった。

男はお盆を床に置き足は崩さないで

姿勢を正したままゆっくりと口を開いた。

「実は、貴方と少し話でもしてみたいと

思っていたんですよ。」

「私とですか?」

「ええ、貴方の話はよく聞いていましたから。」

「佳代ですか」

「はい、子供の頃から仲が良かったそうで。

それに、学生時代は恋人同士だったとか。」

「ええ、そうですけど。

何も面白い話なんて出来ませんよ。」

あまりにも要領を得ず回りくどい話出しに

少しやきもきしていた。

「前回来ていたのは、やはり佳代に会う為ですか?」

「まぁ、そうです」

「そうですか。今回は?」

私は返答に困ってしまった。

この質問の意図はわからないままだったが

非常に答えづらかった。何も言えないでいると

続けて男は「私達は似た者同士ですね。」

優しい声でぽつりとそう言った。

「貴方と私がですか」

「ええ」

「どうでしょう?私はそうは思いませんが」

「貴方も一人の人間を愛した事などないでしょう?」

「ありますとも、」

「京子の事もすぐに飽きたでしょう?」

何と返事をすればいいものか、

そう思ったのも事実だがそれ以上に

この男を不気味に思い居心地が悪くて仕方なかった。

続けて男はこう言う。

「あの女はやめておいた方がいいですよ。

とは言っても、もう何処にも居ませんが。

良いのは顔だけです。きっと後悔してましたよ」

「果たして、本当にそうでしょうか?」

「そうに決まっています。朝早くに殆ど毎朝

お会いになられていましたね、それからでしょうか?

京子の態度も随分変わりました。」

「それで?何処が貴方と似ていると言うんです」

「ハハハ、別に分からなくてもいいんですよ」

「貴方は京子を愛していなかったのですか?」

「そうですね、思い返せば愛した覚えなんて

一度もなかったかも知れませんね。」

「もしも私が、貴方に京子を下さいと言えば

貴方はくれましたか?」

「ええ、もちろん。あげますとも」


男は何の躊躇もしないですぐに答えてみせ

そして、清々しい笑顔を見せつけた。


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