その二十九
海辺まで来た私は一応辺りを見渡したが
やっぱりまだ居ないようだった。
女どころか私以外誰も居る気配がなかった。
まだ薄暗く、刺すような寒さを感じながら
一人で歩いていた私は妙な寂しさ、不安を覚え
まるで現実から疎外され灯のない世界へ
弾かれてしまったようだった。
砂浜に腰を下ろしずっと遠くの方を眺めながら
女が来るのを大人しく待っていたが
どうも一人でいると考え込んでしまう。
昨日みた男は間違いなく上原だった。
佳代の話だと京子の婚約者だと記憶している。
だが、男が抱いていた女はまったく違う誰かだった。
何故だか昨日からその事ばかりを思い出す。
その光景を思い返す度に私は、それならば
私が欲しいと、思い続けるばかりだった。
休息のつもりで来た旅だったが
ちっとも心は休まらなかった。しかし、
自分の本心を知り、見つめ直す事が少しは
出来たような気がしていた。
胡座をかきその上に頬杖をつきながら
再び海を見つめ直し女が来るのを静かに
待っていたがいよいよ辺りは日が昇り
明るくなり始めてしまった。
周りに時計こそないので正確な時間は
分からないものの、私がここへ来てから
軽く一時間は過ぎているようだった。
薄暗い辺りに不安を覚えていた私だったが
明るくなった辺りを見ても不安を覚えていた。
少し場所を変えようと思い立ち上がり
足早に歩き出してみたが一向に姿は現れず
後ろを振り返ると自分の足跡だけが
砂浜に残されているだけだった。
もしかして私を揶揄って何処かで身を潜めて
こちらの様子を伺っているのではと考え
「おい、揶揄っているならさっさと出て来い」と
木々に向かい恥ずかしい思いをしながらも
叫んでみたが、返事もなけりゃ姿も見当たらなかった
風が吹き、木々は揺れ葉っぱ同士は擦り合って
かさかさと寂しく音を立てる。そうか、
私だけだったのか。心が舞い上がり女の言葉を信じて
待っていたが、揶揄われていたのだと気づくと
恥ずかしさと悲しさで顔を上げていられなかった。
諦めた私は乱れた髪を軽く手で整えて
旅館に戻る為に引き返してまた砂浜の上を
歩いていると少し離れた所から必死に
私の名前を呼び腕を大きく振っている者が現れた。
一瞬期待はしてみたもののすぐに違う誰かだと
気づいてしまった私は心底がっかりとしていた。
その者は私の側まで駆け寄ってきて
「やっぱりここにいた、朝ごはん支度できたよ?」
「うん、丁度戻ろうと思ってた所」
「本当に海が好きね、」
「いいや、今日で嫌いになったよ」
「どうして?」
「なんとなくね、今って何時ぐらい?」
「もう、七時ぐらいよ?」 「そっか」
「早く戻ろう。ふふ、髪の毛乱れてるよ」
微笑んで私の髪を整える佳代を見つめながら
心の中でどうして佳代を選ばなかったんだろうと
どうして意地悪な女を好きになったのだろうと思った。
「よし、帰ろう?」 「うん」
名残惜しい気持ちがあるせいか
佳代は動き出したと言うのに私は振り返り
海を見つめ、そして辺りを見渡したが
やっぱり姿はなかった。
「ひでちゃん、どうしたの?行くよ?」
「ああ、うん」
私は諦めてしまい重い足取りで
佳代の後に続いて歩き出した。佳代は
私が歩き出したのを確認すると向き直り
再びゆっくり歩き始めた。
佳代が頭につけている簪の
黄色い花の飾りが風で揺れ動く様を見ながら
私は再び旅館へと戻って来た。
着いてすぐ朝食を運ぶと言われたが
食欲なんてものはなかったので飯は断り
ただ時間が過ぎていくのを煙草を吹かして
大人しく部屋で待っているだけだった。
部屋から眺める海はいつもと変わらないように
思えたが、嘲笑われているようにも思えた。
やっと灯りを取り戻せそうだった私の心は再び
光を失い静かに暗闇へと戻っていった。
時間が許す限り部屋で京子を待っていたが
結局最後の最後まで姿を現す事はなくて
時間が来てしまったので私は旅館を後にした。
見送りで数人いた。その中に
上原もいた、もちろん佳代もいた。
二人は平気な顔をして私がタクシーに
乗り込む姿を見守り、動き出したタクシーを
姿が見えなくなるまで見送った。
帰る前に佳代からは
「やっぱりひでちゃんとは一緒になれない」と
言われたが、もう何とも思わなかった。
なので「そっか」と短い返事で済まして帰って来た。
何の為に行ったのか、何を求めていたのか
自問自答しながら家に辿り着いて
部屋に入ると明美の荷物はなくなっており
物音一つしない静寂に包まれた部屋で
ソファーに腰掛けていると目頭が熱くなり
勝手に涙が溢れ出した。




