路の館
アパートの前がなんだか騒がしいと思い、窓から身を乗り出した。
土曜の午前十一時、どこか沸き立つような春の週末の空気に乗って、覚えのある、食欲をそそる香りが隣の建物から漂ってくる。
打ちっぱなしのコンクリート平屋建て。越してきて半年になる今まで、一度も営業しているところなど見たことが無かった。
店名と「喫茶」という看板だけの謎の建物。三十分後、僕は行列の最後尾に並んで、周りの客におそるおそる情報提供を求めていた。
二度目の訪問の翌日、自分の勤務先に客としてやってきた理子に話をした。
「行きたい、絶対に行きたい!」
辛いもの好きの理子は、ことカレーに目が無い。そのことを担任するクラスの生徒や副顧問を務める吹奏楽部の部員たちにも公言しており、「スパイシー」という良いのか悪いのか分からないニックネームを付けられている。大人の魅力が中学生に刺激的なんじゃないか、とか宣っているが、語源が絶対に違うことは明らかだ。
「とりあえずジョイントのコルクは張り替えておくし、キーのバランスも調整するけど、正直買い替えた方がいいと思うよ。」
新入生用のクラリネットとサックスが足りず、倉庫に眠っていた古い楽器をメンテナンスして使いたいのだという。
「そりゃあ買えたらいいけど予算が無くて。創くんの腕で何とかしてよ。」
やれるだけのことはやってみると答える。
「来週の木曜日には仕上がるので、一度電話を入れてから来てくれる?」
得意先だし、こちらから運んでも良いのだが、工房は人手不足で理子の方から来てくれるなら、そのほうがありがたい。
「わかった。」
ニッと笑うと、カウンター越しに手を振って店を後にする。これからまた学校に戻って明日の授業の準備をするという。謎の店を訪れる日については後で連絡すると小声で伝えた。
喫茶「路の館」は、その実態はカレー専門店である。メニューも「中辛」と「辛口」しかなく、一応ご飯の大盛りだけはプラス五十円で指定できる。
「一見、家庭のカレーみたいな感じで、具はじゃがいもと玉ねぎとにんじん、それに鶏肉が入っているんだけど、カレーそのものはサラサラ。スープカレーよりも少しだけ粘りがある程度。一口食べるとなかなか旨味があって美味しいが、後からかなりの刺激がやってくる。半分くらい食べた時点では、これは最後まで行けないんじゃないかって思うけど、それを越えると不思議とスプーンが進むんだな。」
初回に並んだ時、前にいた中年男性から聞いた話だ。実際その通りだった。そして食べ終わると不思議な達成感とともに、また食べたいと思うようなある種の中毒性を持った味が、舌、というより体全体に残る。
その初回で、僕はアイスコーヒーを注文するという「失態」を犯した。女子大生くらいのアルバイト店員にオーダーした瞬間、店の中が静まり返ったのが分かった。四人掛けのテーブル三卓とカウンター六席の小さな店を埋めた客たちほぼ全員が僕を見て、「この初心者め」と声に出さずに呟いたのが分かった。
のちにマスターと言葉を交わすようになった僕はアイスコーヒーの話題を振ったが、マスターも苦笑いして、
「注文される方は、ほとんどいませんね。」
と答えたのみだった。
翌週の土曜日、理子は学校を抜け出して「路の館」にやって来た。数ある名店を訪れている彼女をもってしても、この日のカレーは絶品だったそうだ。このあとは午後の部活の指導に戻るという。多忙な教員の彼女にとっては日曜日だけが唯一の休みなのだが、あいにくその日は店のほうが定休日である。
「私は行ったことが無いんだけど、むかし東京駅の近くにあったっていうカレー店の味に似ているかもしれない。」
伝説のカレー店なのだそうだが、残念ながら十五年ほど前に閉店したらしい。
「不思議なのは、店のホームページも何も無いだけでなく、グルメサイトにもほとんど載っていないんだよね。」
営業時間は水曜と日曜を除く昼の十一時からカレーが売り切れるまでと店内に書いてあった。常連客の話だと、この半年だけでなく、何の前触れもなく長期休業をすることがあるという。
「SNSが苦手なんだって。マスターがそう言っていた。昔、いろいろ書かれて面倒な思いをしたからだってさ。」
教えておかないと理子はおそらく自分のインスタグラムに「路の館」のことを載せるだろう。店内には「写真撮影はご遠慮ください」と赤文字で書いてあったので料理や内装を撮影することは無かったが、外観の写真と文章の掲載を考えている風だったので、やんわりと指摘しておいた。
「ふうん…。じゃあ従うか。」
出禁になったら困るしね…。そう言って、僕と並んで近くのコインパーキングまで歩き、そこで別れた。
週に一度は店を訪れるようになり、常連の仲間入りを果たすと、僕はマスターとも気軽に言葉を交わすようになった。
「店の名前って、どういう意味があるんですか?」
分かるような分からないような名前だとは前から思っていた。マスターは僕の質問に、少しだけ間を置いた後、答えた。
「館という文字を使いたかったんですが、○○の館という飲食店はすでにたくさんあって、これなら無いかも知れないと思って付けた名前がこれだったんです。はっきり言って深い意味はないですね。」
そうなんですか? と再度問いかけると、ええ、それ以上でもそれ以下でもありません、との回答が返って来た。
「長期休業の間は、どうされているんですか?」
これにはマスターは即答した。修行に出ているんです、と。
「どこにですか? もしかしてインド?」
ほとんど冗談で聞いてみたのだが、マスターは正解、と答えた。
「南インドに行っています。数か月は帰ってこない。うちのカレーは南インドの料理をベースにしています。」
南インドのカレーがどんなものか、理子に聞かないと僕には分からない。
「本当にインドに?」
「本当です。」
マスターは小さく笑顔を浮かべて、それだけ答えた。その顔には、信じるも信じないも貴方次第、と書かれているような気がした。
二度目に理子と店を訪れた後、彼女が気になることを呟いた。
「あのマスター、どこかで見たことがあるような気がする…。」
もしかして伝説のカレー店の料理人とか? と僕が聞くと、そういうんじゃないと思う、と答える。じゃあ、どの方面で見たことがあるのかと続けて聞いたが、
「ちょっと思い出せないんだけど、写真で見た記憶があるような…。」
テレビに出ていたタレントとかでは無いらしい。個人的な知人ではと探りを入れると、そうではなく確かネットのニュースか何かで見覚えがある、と言う。
「逃亡犯とか?」
僕は、ほとんど当てずっぽに言ったのだが、彼女は少し考えてから、違うと思うけどどちらかと言えばそちら方面の方が近いような…と不穏な返答をする。
「長期休業にするというのは、捜査の手が迫ってきているから、なんて理由だったりして。」
おいおいやめろよ…。僕は彼女をたしなめる。マスターは良さそうな人だ。あのカレーはまだまだ食べたいし、そんな物騒な予想しないでくれよ…。
だが、彼女と別れて一人でアパートに帰る道すがら、店の前を通りかかった時、一人の若い女性から声を掛けられた。
「ご近所の方ですか?」
隣のアパートに住んでいる、と答えそうになったが思いとどまった。
「この店にはよく来られるんですか?」
ほぼ常連です、と言おうとして、二、三回入ったことがある、と答えた。
「マスターはどんな方でしたか?」
この時点で僕の頭の中にいろいろな想像が駆け巡る。この女性は探偵? 刑事? それともマスターの過去の女性…? そう考えていてふと思い当たった。これは取材だ。
ならば答えてはならない。
「過去にひどい目に遭いましてね。それ以来ネットなどのメディアにここが載ることを警戒しているんです。」
マスターはそう言っていた。寡黙で穏やかな普段の表情が、いつの間にか消えていた。
「SNS投稿禁止。見つけ次第、出禁とさせていただきます」との張り紙がレジスターの下に貼られている。それでも掲載されることがあると、店を閉めてしばらく「修行」に出るのだという。
「グルメ情報関連の方ですか?」
それならお引き取り願いたい。どのような目に遭ったのかは知らないが、よほど嫌な思いをしたのだろう。僕は完全に店の味方として、その女性に対峙していた。
「この店はネットに情報が掲載されることを不許可にしているようです。ですので、僕からこれ以上話せることはありません。」
そう答えてその場を離れようとしたとき、女性は少しだけ鋭い声で僕の脚を止めた。
「グルメサイトではなく、週刊誌のライターをやっています。」
名刺を差し出してきた。「文洋ジャーナル ライター 唐橋美郷」と書かれたそれを、勢いに押されて受け取った。
言おうかどうしようか迷った挙句、僕はマスターに知らせた。
「週刊誌の記者が張っていましたか。そうですか…。」
普段は営業が終わっているはずの土曜の夕方に明かりが灯っていたことが気になって、思わず入り口のドアをくぐった。マスターは店の片づけをしていた。カウンターの上には僕がもらったものとは違う、唐橋美郷の名刺がポツンと置かれている。ここにも来たようだ。
「これだけは信じてもらいたいんですけど、僕はその記者にはマスターや店のことは何も話していません。」
マスターは大きく頷いた。信じてはくれるようだ。
ふと見ると、一番奥のテーブルの脇に、旅行用トランクが置かれていた。
「来週月曜日からは、またしばらく休業です。」
せっかく常連になっていただいたのに残念ですけど、カレー好きの彼女にもよろしくお伝えください…。
立ったままの僕をカウンター席に座るように促すと、マスターは一杯のコーヒーを僕の前に置いた。
「誰も注文しないけど、結構自信はあります。良かったら…。」
湯気の中から、快い軽みの味を予感させる香りが立つ。口にすると、その香りのとおり、すっきりとした酸味と苦みが口の中に広がった。
「こんなことを聞くのは失礼かもしれませんし、答えたくなければ…すいません。」
コーヒーをカップの半分ほど飲んで、僕は聞いた。
「この店のことを、どうしてそんなに知られたくないんですか?」
マスターがかつて何者だったのかは、記者の唐橋からおおよそ聞かされていた。
貴方は口が堅そうだから、と前置きして彼は話し始めた。
「現役でプレーしていたのは、もう十年以上前のことです。大学を出てプロになって、近いうち代表の合宿に呼ばれるよ、なんていう話も聞くようになった頃でした。」
国内で強豪といわれるサッカークラブに入団し、レギュラーとして順風満帆な選手生活を送っていたという。
「相手の女性が既婚者だということは知らなかった。別れた後で週刊誌に暴露記事が載りました。僕のせいで家庭が崩壊したと。こっちは独身で、声をかけてきたのはファンだった女性の方なのに、世間的には僕が悪者になりました。それはまあ仕方がありません。知らないで交際していたことを釈明し、話し合いで関係を終わらせたことはクラブを通して説明しました。」
だが、相手の女性はそこから一方的な言い分で彼を責め始めたという。
「別れ際に僕が暴力を振るったと女性はブログを通じて発信し続けました。僕が僅かな口止め料と引き換えにそれら一切を口外しないように脅したとも、メディアを通して発言したりしました。それは全く事実ではありません。」
だが、たとえ事実無根でも、それを言い続けることで事実であるかのように世間が認識し始めることはある。次第にメンタル的にも追い詰められプレーにも精彩を欠くようになると、もはやクラブは彼を守ってはくれなかったという。
「移籍した二部リーグのチームでは最初からサポーターの反発に遭いました。なぜあんな奴を獲得したのか、と。その声に反応するように、クラブのOBだった監督は僕を次第に起用しなくなり、結局一年で契約を切られました。」
この先はもうサッカーと関係のない人生を送りたい…。大学時代に趣味が高じて調理師の免許を取っていたことから店を開くことを思いついたという。もともと一つのことを極めるのが性に合っていた。多様なメニューを考えるよりカレー一品で勝負することにして、縁もゆかりも無い街で素性も明かさず開業したところ、それなりに評判になった。
「でもグルメサイトに掲載され、雑誌でも紹介されるようになると僕だと気づかれて、昔のことを蒸し返していろんなことを書かれるようになったんです。」
店に苦情や無言の電話がかかりはじめ、当時運営していたホームページの掲示板にも、あらぬ中傷が書き込まれるようになった。
「僕も生きていかなくてはなりません。サッカーから足を洗い、全く違う仕事に就いて軌道に乗り始めたと思ったらその事までも世間に拡散される。僕をいまだに責める人間はおそらく当時のサポーターたちではない。全く無関係な人間です。けれどもう諦めました。仕方がない。世の中というのはそういうものだと…。」
しばらく本当に修行に行きます、とマスターは言った。南インド…? それは内緒です。どこかでまたカレー店を開くかもしれないし、開かないかもしれない…。
コーヒーはすでに飲み干した。僕は滅入る気持ちを言葉に乗せる。
「理不尽ですよね…。僕はここのカレーが好きなので、店を開けたらすぐにでも食べに行きます。」
そういう声はうれしいですね…。マスターは呟くと厨房に入り、しばらくして戻って来た。
「最終営業日のカレーです。よかったらご馳走します。」
賄い用として取っておいたものだろうか。驚いて、お代はお支払いします、と言ったが、彼は頑なにそれを拒んだ。
「旅支度がありますので、裏にいます。」
僕がそれでも代金を置いていくと思ったのか、彼が戻ってこないため食べ終わった皿を厨房まで運ぼうと持ち上げた時、メモ書きが目に入った。
“お皿はそのままで良いです。あとでバイトしてくれている姪が片付けに来ます。僕はもう出発しました。”
いつの間にか、トランクがその場から消えていたことに、僕は気付かなかった。
※ ※ ※
アパートの荷物を運び出し、引越し業者に託すと、車に乗り込みキーを回した。
新居はここから車で十分ほどの場所を選んだ。理子の勤める中学からも自分の職場からも近い場所で、2DKの賃貸物件となる。彼女が先に行って搬入の指図をすることになっている。僕も今からそこへ向かう。
出発しようとして、ふとエンジンを切り車から降りる。数メートルだけ歩き、隣の建物の前に立つ。初めて店に入ってから一年、最後にカレーを食してから半年が経過していた。
「建物が、どうかしましたか?」
不意に後ろから声を掛けられた。振り向くと小柄な老人が立っていた。
「いえ…今日で隣りのアパートから引っ越すんですけど、以前ここに美味しいカレー屋があったっけ、と思って…。」
老人は複雑な表情で、僕に言う。
「家賃は払い続けてくれているんです、店はやっていないのに。もったいないなと思うんですけど、私らとすればありがたいことですから。」
どうやらこの建物のオーナーらしい。
「ということは、まだ借主はカレー屋さんのままなんですか?」
ええ、と老人は頷く。
「関係者らしき方がたまに風通しに来ているみたいで、室内もきれいに保ってくれています。ただ、今までは長くても数か月だったのが、今回は半年を過ぎでも閉まったまま…。連絡先は知っているので、どうするか聞いてみるつもりです。使わないのなら契約を切った方がいいですよ、と…。」
それを聞いて僕は笑顔で答えたらしかった。
「もう少し、待ってあげてもいいと思います。」
またすぐに休業するかもしれませんけどね…。
老人はそれに対して何か言いたそうな表情を見せたが、僕は軽く会釈すると車に戻り、再びキーを回してその場を後にした。