娘(人間)の行動が不可解すぎる!9
ある日、魔法使いの女が訊ねてきた。
「あなたって、人の言葉が分かるの?」
その問いに対して、フェンリルは頷き、答えた。
「わかるわ。
ただ、はなすことは、―が―」
「苦手ってこと?」
フェンリルは頷く。
「な―か、うまくはな―な―」
何となくの雰囲気で理解しているのか、魔法使いの女は「ふ~ん」と堪えた。
フェンリルもついでなので訊ねてみた。
「あなたのまほう、どうやっ―るの?」
「魔法?
これのこと?」
魔法使いの女は右手を持ち上げた。
その手のひらから、黒色の魔力がにじみ出る。
フェンリルが頷くと、魔法使いの女は思案げに続ける。
「それほど難しくはないけど、わたくし以外で成功した者は、何故か一人しかいないのよね。
やってみたいの?」
「やく―たつの?」
「役に立つけど、人間にとってだから何とも言えないわね」
そう言いながら、魔法使いの女は色々と実践してくれた。
遠くにある物を取ったりして見せてくれた。
器の形にして、そこに水を出して見せてくれた。
その水を沸かして見せてくれた。
一番驚いたのは、誤って切り傷を作ってしまった召使いの傷を、魔力で覆い治して見せた時だろうか。
流石のフェンリルも目を丸くしたものだ。
とはいえ、汎用性があることは認めつつも、フェンリルにとって有用に思えるものは無かった。
ただ、甘くて美味しい焼き菓子に噛みつきつつ、戯れにそれを魔法使いの女に習った。
しばらくすると、うっすらとだが、白色の魔力が靄のようにわき上がるようになった。
柔らかな表情の魔法使いの女が、それを「とても綺麗ね」と言ってくれた。
フェンリルはよく分からないが、それがとても嬉しかった。
しばらくそんな日々を過ごしていたある日、焼き菓子を食べ終えると魔法使いの女が言った。
「わたくし、もうそろそろ帰らないといけないの」
「か―る?」
「ええ、一年後にまた、ここに戻ってくるけど、その時に、会えないかしら?
お茶をしましょう」
フェンリルとしても、もう少し、一緒にいて、焼き菓子を食べたいという思いはあった。
だが、自身の縄張りに戻らなくてはならないという思いもあった。
(この魔法使いにも縄張りがあるんだわ。
であれば、お互いあまり縄張りを不在にするのも良くないわね)
そう思い、頷いた。
魔法使いの女が、鎧姿の女に手を借りて立ち上がると、フェンリルの前に立った。
そして、このようなお願いをしてきた。
「ねえ、あなたの毛に触れても良いかしら?」
「――?
なん―?」
「だって、あなたの毛、とても柔らかそうなんだもの」
他の人間に言われたら、恐らく不快に思っただろう。
ひょっとしたら、前足で叩いたかもしれない。
ただ、魔法使いの女なら別に良いと思った。
「―つ―よ―わよ」
とフェンリルは頷いて見せた。
焼き菓子のお礼としても良いし、望むなら、抜け毛の幾本かを与えても良いと思った。
だけど、魔法使いの女はそのような物を望まなかった。
ただ、フェンリルの頬を、その小さな手で優しく撫でるだけだった。
「気持ちが良いわ」と嬉しそうにする魔法使いの女に、フェンリルも悪い気はしなかった。
しばらくすると、手を離した魔法使いの女は「じゃあ、また一年後」と微笑んだ。
その年からフェンリルは、年に一度、魔法使いの女に会いに行くようになった。
そして、例の焼き菓子を共に食べた。
晴れの日は芝の上で、雨の日は屋根の下で食べた。
風が強い日は、魔法使いの女の家に何とか入り込んだこともあった。
窮屈だったけど、魔法使いの女が可笑しそうに笑っていたし、フェンリル自身も楽しかった。
魔法使いの女が、「別のお菓子を出しましょうか?」と言ってくれた時もあったが、フェンリルは首を振り、例の焼き菓子を頬張り、お茶を飲んだ。
フェンリルは人間の言葉が上手く扱えなかったし、魔法使いの女は多弁でなかった。
だから、殆ど話すことなく時が過ぎていった。
だけど、フェンリルはそれを苦痛に思わなかった。
ただ、風に揺れる枝葉を眺めた。
ただ、陽光に照らされる山々を見つめた。
ただ、漂ってくる草花の香りを感じた。
椅子に座る魔法使いの女の傍らにいるだけで、不思議と退屈には思わなかった。
フェンリルはただ、何とも言えない心地よさに身を任せていた。
魔法使いの女は数日過ぎると、「じゃあ、また一年後」と言って帰って行った。
そして、約束通り一年後、戻ってくる。
フェンリルはそれが当たり前の事のように思い始めていた。
幾年か過ぎた。
その年も、魔法使いの女は現れ、いつものように椅子に座り、フェンリルと焼き菓子を食べた。
そして、何日か過ぎた後、いつものように魔法使いの女は言った。
「……わたくし、もうそろそろ帰らないといけないの」
「そうなの?」
「ええ」
そう答えながら、魔法使いの女は椅子から立ち上がろうとする。
その年の魔法使いの女は、何故か体がずいぶんと重そうで、その時も、鎧姿の女だけでなく、召使いの女にも支えられてようやく立ち上がっていた。
フェンリルは少し心配になったが、魔法使いの女から感じられる魔力は相変わらず強大だったし、その漆黒の瞳には強い光が見えていたので、大丈夫だろうと思っていた。
それでも、少し辛そうにする魔法使いの女の為に、フェンリルは触れやすいように顔をそっと近づけた。
魔法使いの女は柔らかく微笑みながら、手を伸ばし、フェンリルの頬に触れた。
その手のひらはいつもより少し、ヒンヤリしていた。
だけど、いつも通り優しい触れ方だった。
「じゃあ、”またね”」
と魔法使いの女はフェンリルから手を離す。
そして、振り返りもせずに家の中に入っていく。
いつも通りだった。
別れの挨拶は少し違っていたけど、いつも通りだった。
フェンリルはその背が見えなくなるまで、見つめていた。
一年経った。
いつものように、足を運んだフェンリルだったが、魔法使いの女はいつもの椅子に座っていなかった。
焼き菓子はあった。
だから、フェンリルはすぐに現れるだろうと、初めて魔法使いの女の家を覗いた時と同じ場所で待った。
だけど、魔法使いの女は現れなかった。
(縄張りで何かあったのかしら?)
今更ながら、魔法使いの女の縄張りの位置を聞いておけば良かったと思った。
(でも、大丈夫よね。
あれほどの魔力を持っているんだもの。
たぶん、一年後には戻ってくるわ)
そう、自分を納得させた。
また一年経った。
だけど、魔法使いの女が座っていた椅子は空だった。
見覚えのある人間や召使いはいる。
焼き菓子やお茶の用意はされている。
だけど、居ない。
魔法使いの女が居ない。
フェンリルは不満に思った。
『焼き菓子が食べたいんだけど』
とじっと見つめながらボヤいた。
視線の先にある魔法使いの女の椅子は空だった。
それから、何年も、何年も過ぎた。
だが、魔法使いの女は現れない。
フェンリルは何年も、何年も待ち続けた。
ただ、焼き菓子とお茶”だけ”が揃うその場を、不満げに眺めた。
『縄張りが狙われて動けないのかしら?
時々居るのよね、そう言う煩わしい輩が』
『縄張りが天災によって荒れてしまったのかもしれないわね。
そういうの、困るのよね』
『ひょっとしたら、子供が出来たのかもしれないわね。
人間の年齢は分からないけど、そういうこともあるかもしれないわ』
そんなことを呟きながら、フェンリルは魔法使いの女が座っていた、あの椅子を眺めた。
そこに、あの魔法使いの女が現れることは無かった。
何年か過ぎた頃、いつものようにフェンリルは魔法使いの女の家を眺める場所にたどり着いた。
いつも通り、いつも通りだった。
ただ、その日はいつもと違った。
召使いや鎧を着た者の数が普段より多かった。
焼き菓子とお茶はいつも通り並び、そして……。
あの椅子に座る者が居た。
『っ!?』
息を飲んだフェンリルは、そして、目を凝らした。
黄金色の長い髪、漆黒の瞳の女……。
魔法使いの女――それに似ているだけの女だった。
魔法使いの女より小さい。
若い――恐らく幼いのだろう。
あの椅子に座りながら、辺りを興味深げに見渡していた。
そして、召使いの女に焼き菓子を切り取ってもらい、それを受け取り、嬉しそうに頬張っていた。
『……ああ、ああ』
何より保有する魔力が少ない。
いや、人間にしてはそこそこある方なのかもしれない。
だが、あの魔法使いの女の――世界を威圧するかのような膨大な魔力からしたら、塵のようなものだ。
『……ああ、ああ』
それに、あの魔法使いの女のような気高さがない。
あの魔法使いの女のような柔らかさがない。
あの魔法使いの女のような温かさがない。
あの魔法使いの女のような――。
フェンリルは首を大きく振った。
何度も、何度も。
あの魔法使いの女と違う者が、あの椅子に座る意味を知り、フェンリルの知らない何かが、襲いかかってきた。
それは、フェンリルの知らない感情だった。
胸が締め付けられるように痛くて、苦しくて……。
目が焼けるように痛い。
見たくない。
魔法使いの女以外があそこに座る姿なんて、見たくなかった。
「うぁおおおん!」
それは、言葉ではない。
ただの絶叫だった。
踵を返すとフェンリルは自分の縄張りへと駆けた。
何千年も生きたフェンリルが――最強の神獣が――逃げるように駆けた。
フェンリルはそれ以降、魔法使いの女の家には寄りつかなくなった。
――
『……もう二度と、会うことはないと思っていたお菓子だけど、まさかこんな近くで出会うことになるとはね』
一時期フェンリルが夢中になったほど美味しい焼き菓子である。
広く作られるようになるのも当たり前かと思った。
『問題はあの子からあの焼き菓子を送られそうな事ね』
フェンリルは困ったように眉を寄せながら、遠見の魔法陣を眺める。
そこには、焼き菓子を作ったと思われる人間と交渉し、沢山購入しようとするサリーの姿が映っていた。
あの母親のことが大好きな娘のことである。
当然、フェンリルの場所にもお裾分けをしようとするだろう。
『でも、今はまだ、食べたいとは思えないのよね……』
フェンリルは悲しげに呟いた。
どうしても、あの魔法使いの女の事を思い出し、胸が締め付けられるように苦しかった。
ただ……。
『サリーが送ってくれるんだもの、粗末には出来ないわね』
フェンリルは苦笑した。
ただ、その目はとても柔らかいものだった。
赤ん坊のサリーを初めて見た時、魔法使いの女の姿がよぎった。
子供を産んだばかりで母性が高まっていた。
だが、育てようと思ったのには、確実に魔法使いの女に会えない寂しさがあった。
もっとも、サリーは魔法使いの女とは似ても似つかぬ感じに育っていった。
落ち着いた魔法使いの女とは違い、泣いたり笑ったりと忙しい娘に育っていった。
知的な魔法使いの女とは違い、突飛なことをして、フェンリルを困惑させる娘に育っていった。
滅多に触れてこない魔法使いの女とは違い、何時もくっつき、甘えん坊な娘に育っていった。
だけど、フェンリルはそれで良いと思った。
この子は魔法使いの女ではない――違う存在なのだから。
『……そうよね。
うん、サリーが送ってくれた物は、母親として、全て食べるべきよね』
フェンリルはそのように、決意をしていた。
だが、遠見の魔法陣越しに驚くべき様子を目の当たりにすることとなる。
サリーが、フェンリルの愛娘が、黄金色の羽の彼女がわざわざフェンリルのために切り分けていた焼き菓子に、人間が食事の時に使う金属の棒を突き刺し、持ち上げるとパクリと食べてしまったのだ。
『……え?
……え?』
フェンリルが呆然としていると、転送陣に何かが送られてくる気配を感じた。
放心したまま視線を向ける。
視線の先にはフェンリルが待ちに待った――サリーの料理があった。
『……』
フェンリルはしばらくそれを見つめると、スススとそれに近づき、噛みついた。
柔らかな噛み心地と、濃厚な肉汁が口一杯に溢れる。
生肉では味わえない香ばしさと、程良い香辛料の味が口の中はもちろんの事、フェンリルの鼻も楽しませてくれた。
フェンリルは黙々と食べきると、その大きな舌で皿も綺麗に舐めきった。
終えると、静かに洞窟の出口へと歩を進める。
そして、外に出ると、力一杯に吠えた。
『美味しい!
美味しいけどぉぉぉ!』
うぁおおん、というフェンリルの叫びは、夜の闇にただ、響いて消えた。




