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「良くはねえよ」
夢があってジョッキーになった。
叶うなら、夢が叶うその時まで、ずっと走っていたい。
それが地位や名誉よりも大切な、ヒナタのエゴだ。
……エゴに過ぎないことだ。
「私だって嫌です。
シャルロットさんが言うからあなたに鞍を任せたのに、
負けて終わりだなんて、そんなのは嫌です」
「しょうがねえだろ。
無理に騎乗して意識を失ったら、
落ニャの危険だってある。
そうなったら俺たちだけじゃなく、
後ろの猫にまで危険が及ぶ」
「ランニャーは、
キタカゼ=ヒナタを轢くほどノロマじゃありませんよ。
あなた一人が無様に転がるだけです。
かってに死んでください」
「そうなったら、おまえは失格だ。
それで良いのかよ?」
「良くはないです。
けど、このまま終わるほうが、もっと嫌です」
「…………」
リリスが言葉を重ねるごとに、未練がヒナタの背中を引いた。
内で満ちていく願いが、彼の言葉を止めてしまった。
「一流のジョッキーはエゴイストなんでしょう?
それともあなたは、
益体もない二流のジョッキーなんですか?
チマチマとした言い訳を垂れ流してないで、
あなたの気持ちを聞かせてください」
心からの願いが、ヒナタの口から漏れた。
「俺は……ジョッキーを続けたい」
「よろしい」
リリスは上半身を高くすると、猫手でヒナタの頭を撫でてきた。
ヒナタにねこ体重を預けたまま、リリスはこう言った。
「私のお母さんが、ねこヒーリングを使うんです。
こんど家に来て、見てもらいませんか?」
「ああ。頼む」
話が済むと、リリスは出口に向かった。
「ありがとう。ニャカメグロ」
ヒナタに尻尾だけで答え、リリスは更衣室から出た。
「リリスさん。なぜ男子更衣室に……?」
更衣室の外で、リリスはニャツキと出くわしてしまった。
きりっとしていたリリスの顔が、一気にぐちゃぐちゃに乱れた。
「にゃっ!? これはやましいことは何もなくてですね……!」
「そうですね。
マジメなあなたなら、性犯罪に走るようなことはないでしょう」
リリスを信頼しているようで、ニャツキは話を軽く流した。
「さておき、今回のレースの話です」
「……はい」
負けたレースの話になり、リリスの表情がすっと硬くなった。
「ずいぶんと大きなミスをしましたね」
何の話なのかは、考えるまでもない。
リリスがねこダウンフォースを暴走させたことを言っているのだろう。
リリスはしゅんとしてこう言った。
「あれは……。
前の猫がどんどん先に行くのを見て、焦ってしまって……」
「あんなのは、ただの自滅です。
焦るようなことではありませんよ」
「……はい。キタカゼ=ヒナタにもそう言われました」
「なのに焦ってしまったと。
それとレースの後半にも、走りが崩れた場面がありましたね?」
「……はい。
キタカゼ=ヒナタが、今は3位だって言ったんです。
けど、前を見たら猫が四人いて、
話が違うと思ったので、混乱してしまって、
けどすぐに3位になったんです」
「前の二人は、もう終わった猫でしたからね。
ヒニャタさんは競争相手として数えなかったのでしょう」
「……はい」
「いちいちジョッキーを疑っていては、勝てるレースも勝てませんよ。
視線が下がる走りをするあなたの場合、なおさらです。
ヒニャタさんと合わないようでしたら、
新しいジョッキーを探したほうが……」
しゅんと縮こまっていたリリスが、急に頭を上げた。
そして揺らぎのない顔で、こう断言した。
「いえ。だいじょうぶです」
「…………そうですか」
ニャツキの右目が一瞬ひきつったことに、リリスは気付かなかった。
……。
後日。
トーキョー都の片隅。
ヒナタを乗せたねこリリスが、軽快に歩道を歩いていた。
「あそこが私の家です」
脚を止めたリリスが首を回し、ボロアパートに視線をやった。
遅れてヒナタも首を回した。
やけに年季の入ったアパートが、ヒナタの瞳に映った。
(ボロいな)
率直な感想を、ヒナタは口には出さなかった。
だがそんな彼の心中は、リリスにはお見通しだったようだ。
「オンボロだって思ったでしょう?」
ぴったりと、言い当てられてしまった。