2の20の1「リリスと疑念」
(言い切れるんですか?
こっちのペースが正解だって)
(ああ)
(どうして?)
(それがジョッキーの仕事だからだ。
俺たちが正解だ。
正しいスピードで走り続ければ良い)
(けど、たとえばお姉さまだったら、
あれくらいのスピードは普通に出せるんじゃ……?)
たしかに。
ニャツキにとってはあれくらいのスピードは平常運転だろう。
だがこれは、普通のEランクレースだ。
(あんなバケモノみたいな猫が、そうそう居てたまるか。
わかったら落ち着け)
(っ……わかりました……)
先頭の猫が、左曲がりのヘアピンカーブに入った。
ゴーグル越しの狭い世界で、トップランニャーがリリスの視界から消えた。
本能的な焦りが、リリスに襲いかかった。
そのとき。
「あっ……」
リリスの体が、高く浮き上がった。
……。
「何……? カース攻撃……?」
観客席でねこカメラの映像を見て、オモリが困惑を見せた。
「違います……。あれはダウンフォースの制御ミスです」
オモリもリリスと同様に、ねこダウンフォースの訓練を行っている。
それでニャツキは隠さずに、事実を説明した。
今、ニャツキの顔は苦かった。
(リリスさん……あんな初歩的なミスを……)
リリスが犯したミスは、人が何もない道で転んだようなものだ。
心身がまともなら、まずありえないミスだ。
それをレース本番でやらかしてしまうとは。
ニャツキはぐっと歯を噛み合わせた。
……。
(何だ……!?)
突然にリリスが上空に跳んだ。
予想外の挙動に、ヒナタは焦りを見せた。
放り出されそうになるのを、なんとか手綱を掴んで耐えた。
落ニャすることなく、二人は地上に戻った。
(っ……すいません……。私のミスです……。
もうダメですね……すいません……)
走りを再開したリリスが、悄然と言った。
Eランクレースとはいえ、この大ポカが許されるほど、レースは甘くはない。
体が浮き上がった隙に、リリスは最下位にまで転落していた。
(ニャカメグロ……)
「…………」
「諦めてんじゃねえっ!」
ヒナタが肉声を張り上げると、リリスの体がびくりと震えた。
「ひうっ!?」
次にヒナタは、落ち着いた念でこう言った。
(こんな序盤で諦めてんじゃねえよ。
おまえはこのコースでいちばん速い猫だ。
勝ち目はじゅうぶんある。わかったらマジメに走れ)
(怒鳴らないでくださいよ……!?)
(マジメにやったら怒鳴らねえよ。さあ、走れ)
(走ってますよ!
先頭集団との距離は……?)
頭を下げるリリスの走り方では、前の状況を確認しづらい。
さらに彼女はゴーグルによって、視界が制限されている。
リリスは頭を上げ、位置関係を確認しようとした。
そのときヒナタが前かがみになり、リリスの頭を押さえつけた。
(頭を上げるな)
(ですが……)
(それはおまえの走りじゃねえだろ。
敵を見るのは俺の仕事だ。
おまえは走りに専念しろ)
(……わかりました)
リリスは視線を低く下げた。
そして操猫を頼りに、コースを駆けていった。
ヘアピンカーブを曲がると、直後に右100度のコーナーがあった。
次の左100度のコーナーを曲がり、直線に出た。
極端に低くしたリリスの視界では、レースの状況はほとんどわからない。
彼女を不安にさせないためか、定期的にヒナタが状況を報告してきた。
(ひとり抜いた。もうひとり。良し。良いペースだ)
(良いペース……? 本当に……?)
信頼関係が完璧なら、ヒナタの言葉はリリスを安心させただろう。
だが二人にとって、今回が初めての公式戦だ。
少しずつ、リリスの中で疑念が積み重なっていく。
疑いに苛まれたまま、リリスは左90度のコーナーを曲がった。
その直後、右曲がりの大カーブに入った。
カーブが終わると、左100度のコーナーがあった。
それを曲がるとすぐに右100度のコーナー。
続いてまた、左100度のコーナー。
レースはもう半分以上が過ぎているはずだ。
だがリリスには、レース状況がまったく掴めていない。
不安なまま、彼女は左70度のコーナーを曲がった。
次の直線の先にはヘアピンカーブがあった。
その先の左曲がりのスプーンカーブに入ると、ヒナタがこう言った。
(良いぞ。3位にまで上がった。
あと二人だ。行けるぞ)