愚か者の話をしよう
愚か者の話をしよう。
救いようのない程、馬鹿な男の話を――――。
「シェイマス様!」
一人の令嬢が、息を切らして僕の元に駆け寄ってくる。
上品に切りそろえられたストレートヘアに、アメジストのような紫の瞳。爪は綺麗な薄紅色に染められ、側に居ると花のような甘ったるい香りに包まれる。
令嬢の名前はミランダ。我が国の聖女であり、伯爵家の令嬢だ。
「会いたかった、シェイマス様!」
「会いたかったって……朝、一緒に通学しただろう?」
城内に部屋を与えられたミランダは、毎朝僕と一緒に通学している。それなのに、学園内で僕の姿を見掛ける度に、彼女はこうして満面の笑みで駆け寄ってくるのだ。
「それでもお会いしたかったんです。良かったぁ……こっちの道を通って正解でした!
これからどちらに向かわれるんですか? わたしも一緒に行きたいなぁ」
そう言ってミランダは、僕の腕へギュッと抱き付く。上目遣いでこちらをそっと見上げてくるその表情に、まるで小動物の相手をしているような気分になってくる。僕が小さく笑えば、ミランダは満足気に瞳を細めた。
「殿下」
その時、ミランダの反対側から、鈴の音のように可憐な声音が響いた。
「ああ、エーファ」
そう言って目配せをすれば、エーファはほんのりと下を向く。
エーファ・キャラハン侯爵令嬢――――僕の最愛の婚約者だ。
太陽の如く輝く、美しく柔らかな髪に、エメラルドのように透き通った緑色の大きな瞳。真っ白な肌、薔薇色の頬、理知的な眉に、非の打ちどころが無い程整った目鼻立ち。上品で控えめで、小柄だけれどそこはかとなく漂う色香。
こんな女性、世界広しと言えども他には存在しない。僕は口の端を綻ばせた。
「わたくし、席を外した方が良いのではないでしょうか?」
エーファはそう言って、ほんのりと首を傾げる。彼女の視線の先には僕へ絡みついたままのミランダが居た。
「どうしてそう思うんだい?」
言いながら、僕は眉間に皺を寄せる。
エーファは馬鹿が付くほど真面目で、賢くて、控えめで、場の空気を読める女性だ。彼女はミランダが僕の側にやって来ると、こんな風に遠慮して距離を置こうとする。
(僕の婚約者は他でもない、エーファなのに)
ミランダは僕のことを兄のように慕っている。幼い内に城に連れてこられたから、家族からの愛情に飢えているのだ。年も近く、共に行動することが多い僕を頼りにするのはどうしようもない。
だけど、僕自身がそう思うのと、エーファが思うのとでは話が違う。
エーファはもっとワガママになるべきだ。
自分以外の令嬢が僕に近づくことを嫌だと思っていいし、文句を言って然るべきだし、僕に甘えてくれて良い。寧ろ困らされるぐらいが丁度良いのに、エーファはとにかく聞き分けが良い……というか、本当に自己主張が少ないと思う。
(僕はもっとエーファに甘えられたい)
そう思うからこそ、僕はミランダのワガママを適当に流しているのに、エーファは未だに本心を見せてくれないのだ。
「――――――差し出がましいことを申しました。申し訳ございません」
そう言ってエーファは恭しく頭を下げる。
「そんなこと、言ってないだろう?」
僕達はあと二年もすれば結婚する間柄だ。そんなに畏まる必要はない――――というか、畏まって欲しくない。そう思うと、どうしても不機嫌な声音になってしまう。
「そうよそうよ。変な風に勘繰られて、シェイマス様が気の毒だわ。
シェイマス様、エーファ様の言うことなんて気にしちゃ駄目ですよ?」
そう言ってミランダがニコリと微笑む。僕は思わず小さなため息を漏らした。
「別に、気にはしないよ」
僕はただ、エーファに頼られたいだけ。素直になって欲しいだけなのだから。
「……そうですか」
エーファは僕を見上げつつ、ほんのりと頬を染めて微笑む。その愛らしい表情、仕草、彼女の全てに、身体中の血がザワザワと騒いだ。
(早くエーファと結婚したい)
僕の数歩後ろを歩く彼女を振り向きつつ、心からそんなことを思った。
***
学園が休みの日には、エーファは城に通って妃教育を受ける。
「失礼いたします、殿下」
「ああ、終わった?」
その日のカリキュラムを終えると、エーファは俺の部屋を訪れてくれる。それが十年前、婚約を結んで以降破られたことのない、僕達の約束だった。
「はい。お待たせしてしまいましたか?」
エーファはそう言って美しく微笑む。
「いいや、全く待っていない」
答えつつ、僕は小さくため息を吐いた。
本当は、すごく待ち遠しかった。
エーファは既に未来の王妃に相応しい素養を身に着けているし、本当は妃教育なんてもう必要ない。だけど、こうでもしないとエーファは自ら僕に会いに来てくれない。だから、未だに妃教育が終了していないと言って城に呼び続けていた。
僕からすれば、エーファが鳴らすノックの音さえ愛おしく、彼女が登城した日には一日中ソワソワとして落ち着かない。そういう時は、一人部屋の中をウロウロと彷徨ったり、耳を澄ませつつ、本を読みながら過ごしている。公務を片付けながら待つことも多い。
「シェイマス様の言う通りです。本当に、全然待っていませんよ?」
けれど、今日に限っては、いつもと違う待ち方をしていた。
「――――ミランダ様。いらっしゃっていたのですね。御機嫌よう」
エーファはほんのりと目を丸くしつつ、優雅に挨拶をする。ミランダはそっと目を細めると、ソファから立ち上がった。
「御機嫌よう、エーファ様。わたし、シェイマス様と一緒にお茶を戴いていましたの。とっても楽しかったわ」
そう言ってミランダは僕の腕をギュッと抱く。
「シェイマス様ったら、わたしのためにご自身でお茶を淹れてくださったのよ? お茶菓子だってこんなに沢山用意してくださったし、色んなことをお話してくださって……本当に夢のようなひと時だったわ」
ミランダは上目遣いで僕のことを見つめつつ、グイグイと手を引っ張る。
「そうでしたか。それは……良かったですね」
エーファは困ったように微笑んでから、僕からそっと視線を逸らす。
「このぐらい、当然だ」
僕はミランダを連れてソファに腰掛けつつ、エーファにも向かいに座るよう促した。
それから侍女を呼び、エーファの分のお茶を準備させる。自然と大きなため息が漏れた。
(エーファはどうして言い返さないんだ?)
お茶だろうがお茶菓子だろうが、エーファにこそ、良いものを用意しているに決まっている。そんなもの、一目見ればわかるはずだ。
それなのに、エーファはミランダの言うことを笑って受け流してしまう。
彼女の奥ゆかしさは愛しく思えど、こと僕に関することは別だ。もっと自己主張をしてほしい。僕に愛されていると胸を張って欲しいと思う。
そっと目配せをすれば、エーファは僕の気持ちなんてちっとも気づいていないようで、愛らしい笑みを浮かべつつ、ほんのりと身を乗り出した。
「お二人でどのようなお話をしていたのですか?」
「そうねぇ……お仕事の話が主だったかしら。ほら、わたし達はエーファ様と違って、既にたくさんの公務が割り振られているでしょう? 国民からの重圧や期待も抱えているし、互いにしか分からない苦労があるのよね」
ミランダはティーカップを手に取りつつ、口の端を綻ばせる。それから続けざまに口を開いた。
「それにしたって、シェイマス様は本当にすごいわ。皆が感服しているもの。シェイマス様がいれば、我が国は安泰だって。歴代のどの王よりも優秀だって、専らの評判ですわ。
おまけにビックリするぐらいカッコよくて! 国民皆がシェイマス様のことを尊敬し、愛しているんですわ」
ミランダはそう言ってウットリと目を細める。僕はミランダを横目で見つつ、心の中で小さく笑った。
(僕なんかより、エーファの方が余程すごい)
エーファは賢く聡明で、常に努力を惜しまない。何か国語もの言語をいとも簡単に操り、文化や芸術、歴史や経済のみならず、医療や科学分野にも詳しい。
彼女のすごいところは、部屋の中で学ぶだけでなく、色んな所へ足を運ぶところだ。その道の専門家たちに話を聞いて回り、知識を知識で終わらせない。そんなエーファのことを、僕は心から尊敬していた。
僕が歴代最高の王になれると言うなら、エーファはそんな僕を遥かに超越している。未来まで含め、歴代最高の王妃となるに違いない。
「――――それなのに、エーファ様は全然シェイマス様のことを褒めないんですってね! 信じられないわ」
ミランダの不機嫌そうな声音が響き、僕は思わず顔を上げる。エーファ自身も、困惑した様子でこちらのことを見つめていた。
「褒めるなんて……わたくしは、その…………」
「ご自分の方が優れているとでも思っているのかしら? シェイマス様がお優しいから良いものの、婚約者を立てられないなんてあり得ない。どうかしていると思うわ」
「――――ミランダ、止めろ」
(エーファのことを悪く言うのは許せない)
横目でミランダのことを睨めば、眉根を寄せて瞳を潤ませる。
「シェイマス様……だけど…………」
「僕は別に、エーファに褒められたいだなんて思っていない」
キッパリとそう口にし、僕はエーファを見つめる。
エーファは、王子だからというだけでチヤホヤする大人とも、見た目とステイタスだけで僕に言い寄る令嬢たちとも違う。本気で僕を想い、敬ってくれている。そうと分かっていて、エーファに褒められたいと思う筈がない。
「そっかぁ……そうですよねぇ」
ミランダはそう言って瞳を輝かせると、僕の元へと擦り寄ってくる。
(――――どうしてミランダが喜ぶんだ?)
ほんのりと首を傾げつつ、僕はエーファを見つめる。
僕が喜ばせたい相手はこの世でただ一人、エーファだけだ。それなのに肝心なエーファはいつもの様に、ただただ美しく微笑んでいる。
「殿下……」
僕を呼ぶエーファは美しく、あまりにも愛おしい。今すぐ抱き締めたくて堪らなかった。
(結婚したら――――)
僕がエーファを幸せにしよう。
この腕でエーファを抱き締めて、僕が彼女を笑顔にする。全力で守るし、何よりも大事にする。僕の愛情はエーファだけのものなのだと、一生をかけて伝えていきたい。
(早く明日が来ればいい)
エーファと歩む未来が欲しい――――そんなことを心から願った。
***
けれど、それから数日後のこと。
そんな僕の願いは跡形もなく消えうせてしまった。
「――――父上、それは一体、どういうことでしょう?」
目の前には僕の両親に加え、エーファや彼女の両親、それからミランダや側近の数人が並ぶ。心臓がバクバクと嫌な音を立てて鳴り響き、動揺から息が上手く吸えなかった。
「言葉通りの意味だ。
今この時をもって、おまえとエーファの婚約は破棄する。
シェイマス――――おまえは聖女ミランダと結婚するように。以上だ」
「冗談、ですよね?」
僕の腕に抱き付くミランダをそのままに、僕は声を震わせる。全身から血の気が引くような心地がした。
「冗談の筈がないだろう」
そう口にする父上は真顔だった。
僕はミランダを引き剥がすと、父上の前へと躍り出る。眉間に皺を寄せ、首を横に振りながらゴクリと唾を呑み込んだ。
「お待ちください! 僕達の婚約は十年も前に結ばれたものです。それなのに、どうして今更そのようなことを……? どうして僕に相談もなく、勝手にお決めになったのですか⁉」
膝がガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうだった。僕を見つめるエーファはとても悲し気で、今にも泣き出しそうに見える。
(嫌だ……嫌だ、嫌だ!)
エーファを諦められるはずがない。手放せるはずがなかった。
「侯爵家から予てより、結婚を辞退したい旨の申し出を受けていたのだ。エーファが『自分はシェイマスの妃に相応しくない』と」
「辞退⁉」
愕然としつつ、僕は叫び声を上げる。エーファを見れば、彼女はそっと目を伏せた。
「そんな馬鹿な……」
「だが、それが事実だ。
折よくミランダから『おまえの妃になりたい』と申し出があった。だから私は、エーファとの婚約を破棄し、ミランダと婚約をさせるのが最善だと判断した」
「しかし……エーファが妃に相応しくないだなんて、そんなこと、ありえません! エーファほど素晴らしい女性は居ない! 父上だってご存じのはずです!」
あまりにも荒唐無稽な話に、僕は思わず笑い声をあげた。
「エーファは妃教育の全てで優秀な成績を修めている! 講師たちのお墨付きだ!
第一、大事なのは能力だけじゃない。エーファなら国民に寄り添える、心優しい妃になってくれます! 彼女以外に務まる筈がありません!
大体、王妃としての素養が無かったとしても、僕はエーファが良いのです! エーファ以外にはありえません!」
言いながら僕はエーファの元へ駆け寄り、彼女の手を握る。細く温かな手のひらが震えていて、目頭がグッと熱くなった。
「殿下」
エーファがそっと僕を呼ぶ。
エーファの声を聴くだけで、胸を掻きむしりたくなるような愛しさと切なさに苛まれる。今すぐ僕の腕の中に閉じ込めたいし、喉から手が出るほど彼女が欲しくて堪らない。
「エーファ! エーファからも何とか言ってくれ! 不安なことがあるなら、僕が何とかする! 君が自信を持てるように、僕が……」
「殿下、そうではないのです」
エーファはそう言って首を横に振る。彼女の美しい瞳に、薄っすらと涙が溜まっていた。時が止まってしまったかの如く、僕は目を奪われる。心臓が音を立てて軋んだ。
「わたくしはどうしても……あなたの妃にはなることはできません。
わたくしはずっと、醜い嫉妬に駆られてきました。劣等感に苛まれ、人にはとても聞かせられないような黒い感情に支配されて……そんなわたくしでは、妃には相応しくないのです」
「…………嫉妬?」
僕には彼女の言葉が信じられなかった。エーファはいつだって朗らかに微笑んでいて、嫉妬や劣等感と言った感情とは無縁のように見えたからだ。
呆然とエーファを見つめる僕に、彼女は悲し気に微笑む。それがまるで『もうどうしようもない』のだと突きつけられているかのようで、僕は大きく首を横に振った。
「エーファ、僕は……」
「殿下が見ていたのは、本当のわたくしではありません。わたくしは殿下の思うような女ではないのです。
わたくしのことを想うならば、どうかこのまま行かせてください。これ以上嫌な女になりたくはない。自分を嫌いになりたくないのです」
そう言ってエーファは涙を流した。僕は思わずエーファを抱き締める。胸が痛くて堪らなかった。
「エーファ……僕は君が好きなんだ」
心からの想い。だけど僕は、それがエーファに届くことは無いと知っていた。
彼女の苦しみに気づかなかった――――気づこうともしなかった僕だ。『これから先は大丈夫だ』と無責任に口にすることはできない。
(僕は馬鹿だ)
現に今だって、僕はこの状況を受け入れられずにいる。悪い冗談だと――――嘘だと思いたかった。
(嫌だ……嫌だよ、エーファ)
けれど、エーファは僕の胸を押し、小さく首を横に振る。涙に泣き濡れた頬が紅く染まり、意思の強い瞳が僕を見上げる。
エーファに僕の言葉は届かない。どれだけ想っていても、今の僕にはどうすることもできないのだと思い知った。
「さようなら、殿下」
そう言ってエーファは、涙を流しながら笑う。しっかりと繋いでいたはずの手が、ゆっくりと離れていく。心の中にエーファの笑顔が焼き付いて、僕は前が見えなくなった。
***
翌朝、希望と絶望を胸に僕は目覚めた。
(夢であってほしい……)
寝台で一人頭を抱えながら、胸がザワザワと騒ぐ。
目を瞑るのが怖かった。目を開けるのが怖かった。
僕の隣にエーファが居て、いつものように微笑んでいる――――そんな夢を見たい――――それが現実だと思いたかった。
けれど、現実と言うのは残酷だ。
「おはようございます、シェイマス様」
底抜けに明るい声音を響かせ、僕の部屋にミランダが入ってくる。僕付きの侍女達が皆困惑した表情で、彼女の側に付き従っていた。
「ミランダ……どうしてここに?」
「嫌ですわ、シェイマス様。わたしはあなたの婚約者ですもの。誰よりも先におはようの挨拶をしたかったんです」
そう言ってミランダはニコニコと屈託のない笑みを浮かべる。胸が勢いよく抉られるような心地がした。
「――――すまないが、出て行ってくれないか? 今日はもう少し休みたい」
僕はそう言ってため息を吐く。
普段ならとっくに起き出し、朝の鍛錬に出掛ける時間だ。けれど、今の僕には指先を動かすことすら億劫だし、怠くて辛くて堪らない。
それに、悪いのは僕だと分かっていても、ミランダの顔を見たくはなかった。嫌でも現実を思い知らされるし、一緒に居ると、胸やけを起こしたかの如くムカムカする。
春の陽気のように柔らかで温かなエーファが懐かしくなって、涙が零れ落ちそうになった。
(エーファに会いたい)
気づけば僕の足はエーファの元へと向かっていた。
庭師に花束を用意させ、僕は馬を走らせる。胸がバクバクと鳴り響き、喉のあたりに得も言われぬ感覚が込み上げる。
(昨日の僕ではダメでも、今日の僕ならば何とか出来るかもしれない)
僕はまだ、肝心なことを何一つ、エーファに伝えられていない。
身を焦がすような愛情も、感謝も、後悔も、謝罪も、未来への願望も、何一つ伝えられなかった。
(僕は馬鹿だ)
そう思うと、何だか笑えて来てしまう。
滑稽で愚かな、恋に我を忘れた男。僕をそんな風にできるのはこの世でただ一人、エーファだけだ。
侯爵家に着くと、普段通されるサロンやエーファの部屋ではなく応接室へと通された。それだけでも胸を潰されるような心地がするのに、エーファの父親が僕に告げたのは、もっと残酷な現実だった。
「留学⁉」
「ええ。殿下との婚約が破棄されましたし、学園に残るのは辛かろうと思いまして……。陛下の口添えをいただいて、隣国に留学することになったのです」
「そんな……」
それっきり、僕は口を開くことが出来なかった。開けば最後、叫び出してしまいそうだったからだ。
己をギュッと抱き締め、奥歯をグッと噛みしめる。走り出したくなるような、身体を掻きむしりたくなるような衝動。目頭が熱く、天を仰いだまま、顔を下ろすことが出来ない。
「本当に、俺は馬鹿だ」
それ以外の言葉が見つからなかった。
***
あれから三年の月日がたった。
僕は王太子にはならなかった。
父上をはじめ、重臣や側近たちからも説得を受けたが、愛する女性一人幸せにすることのできない人間が国民の父親であって良い筈がない。謹んで辞退した。
ミランダはその後、僕の心が自分に向くことは無いと悟ったのだろう。或いは、王位に就かない僕には興味がなくなったのかもしれない。僕達の婚約は正式には結ばれず、今では他の男性との結婚に向かって動いている。
(だが、それで良い)
残念ながら僕はエーファ以外の女性を愛せる気がしない。ミランダや周囲の人間が結婚を諦めてくれたことは、ありがたいことだった。
留学が終わって以降も、エーファは隣国に留まっている。彼女の母親が隣国出身だったのがその理由だ。
王子である僕が簡単に国を出られる筈もなく、あれ以降エーファに会うことは一度もできていなかった。
エーファの家には、今でも定期的に手紙を送っている。けれど、読んでもらえているのかは分からない。彼女からの返信は、一度だってなかった。
(エーファは今、どうしているのだろうか?)
毎朝目が覚める度、エーファに会いたいと心から願う。何処へ行ってもエーファを探してしまうし、彼女の声が聞こえた気がする。笑顔が見たいと思うのに、寧ろ忘れてしまいたいとさえ思う。エーファを手放したあの日に――――もう一度一からやり直せたら――――そんなことを願ってしまう。
けれど、エーファを忘れられることは無かったし、時間が巻き戻ることも無かった。
***
(――――こんな夜会、出るだけ無駄だ)
王太子の位は辞退したものの、最低限、割り振られた公務は熟さなければならない。隣国の皇太子を迎えた歓迎の宴。そんなもの、僕にはどうだって良かった。心の中で深々とため息を吐きつつ、僕は偽りの笑顔を浮かべる。
その時だった。
ドクンと大きな音を立てて心臓が跳ねる。
(まさか、まさか……!)
チラリと視界の端に映った輝く金の髪。たったそれだけの情報だというのに、僕の足は自然と動き出した。
一歩進む度に甘やかな香りが近づき、目頭がグッと熱くなる。
凛とした佇まい、優雅な所作。後姿だが、僕が見間違うはずがない。
「エーファ!」
呼べば、彼女はゆっくりとこちらを振り向く。それから穏やかに目を細めて僕を見つめた。
「殿下……お久しぶりです」
涙がポロリと零れ落ちる。公の場だというのに、止められない。
「エーファ、戻って来たんだな!」
この三年間ずっと空っぽだった心の中が、温かな何かで満たされていく。
エーファはあの頃よりも、ずっとずっと綺麗になっていた。まるで大切に磨き上げられた宝石のように光り輝き、あどけなさの代わりに大人の女性の色香が漂う。けれど、上品さは損なわず、まるで女神のような美しさだった。手を伸ばしたい。抱き締めたくて堪らなかった。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ございません。色々とすることがあったものですから」
「そんなことは構わない! 本当にエーファなんだな!」
僕は言いながら涙を拭う。エーファは柔らかく微笑んだ。
エーファが今、ここに居る。彼女にまた会うことが出来た。それ以上に大事なことなんて存在はしない。
「ずっとずっと、会いたかった」
心からの想いを口にすれば、エーファはそっと目を細める。それから、ゆっくりと視線を横に動かした。
「実は、殿下にご紹介したい人が居るのです」
「紹介? 僕に?」
「ええ。この度、婚約をすることになったものですから」
そう言ってエーファは、彼女の隣に並び立つ男性を見上げる。
僕は大きく目を見開いた。
「初めまして、シェイマス殿下」
そう口にするのは、神秘的な紫色の瞳をした美しい男だった。エーファはウットリと彼を見上げつつ、ほんのりと頬を染める。胸が痛くて堪らなかった。
「隣国の皇太子、イアン様ですわ。留学先で知り合いましたの。わたくしのような至らぬ女に、本当に良くしてくださって……」
「至らない所なんて何一つないよ。エーファはこの世の誰よりも素敵だ。君と婚約が出来て、俺は本当に幸せだと思っている」
エーファの薬指には、大きな宝石のあしらわれた指輪が光っていた。笑い合う二人の手は、傍から見ても固く結ばれている。
(僕はあんな風にエーファを笑わせてあげることが出来なかった)
後悔が胸に込み上げる。
何もかもが間違っていた。遅かったのだと思い知る。
(それでも僕は……)
「婚約おめでとう、エーファ」
涙を堪え、僕はエーファに微笑みかける。エーファは大きく頷きつつ、僕のことを見つめた。
「ありがとうございます、殿下」
僕は二人に小さく会釈をすると、ゆっくりと歩を進める。やがて、エーファの隣へ差し掛かった時、そっと身を屈めた。
「……これからもずっと、君のことを想うよ」
そう口にすれば、エーファは目を丸くして、今にも泣き出しそうな顔で笑う。
それは彼女を手放したあの日、心に焼き付いた表情にそっくりで。
これからの彼女が幸せであってほしいと心から願う。
だけど時々で良い。僕のことを思い出してほしい。僕の心は未来永劫、エーファだけのものだから。
「さようなら、殿下」
けれどその時、エーファがそう小さく呟くのが聞こえてきて。
(本当に、僕は馬鹿だなぁ)
流れる涙をそのままに、僕は声を上げて笑うのだった。
この度は本作を読んでいただき、ありがとうございました。
もしも本作を気に入っていただけた方は、ブクマや評価(下方☆☆☆☆☆)、いいねや感想等でお知らせいただけますと、創作活動のモチベーションに繋がります。
改めまして、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。