リアリストの哀愁 ~足利将軍家短編 3代義満~
記念すべき(?)処女作の主人公は第3代足利将軍の義満(出家名は道義)です。
晩年は「あんなこといいな、できたらいいな」を何でも叶え、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」を地で行っていた彼ですが、唯一ままならぬことがあったとすれば・・・というコンセプトで書きました。
なお、こちらは一部を編集し直したものとなります。
オリジナル版はセックス描写を含むため、R18指定でノクターンノベルズに投稿しております。
よろしければ、そちらもご覧ください。
では、つたない文章ですが、最後までお付き合いください。
栄耀栄華を極め、誰憚ることのない権力者にも、ままならぬことはある。道義という僧形の男もまた、誰にも打ち明けられぬ寂しさを持て余していた。
だが、道義を取り巻く誰もが、彼にもままならぬことがあるなどとは考えもしないだろう。今しも道義はきらびやかな法衣を身にまとい、周囲には多数の従者を侍らせ、美しい大邸宅にあって、たくさんの花を愛でている。この国で並ぶもののない権力者であり、恐れ多くも帝ですら彼を無視することは許されぬ。そんな男に、いったい何の不足があるというのか。
今の道義、俗名足利義満にこの世で叶わぬものは何もないと言ってよい。では、彼の死後のことはどうか。50歳を迎えてなお壮健を誇るものの、己の寿命というものをとみに意識し始めた彼にとって、それこそがたったひとつままならぬことなのであった。
(将軍となって40年。余は乱れた世を治め、今の泰平をもたらした。幕府の威令はあまねく天下に発せられ、余に逆らおうなどという者などもはやおらぬ。だが、余の死後、天下は、幕府は、足利の家はどうなってしまうのか。)
悩む道義の両目には花が咲き乱れる庭も麗しい建物もおぼろに映り、色のない造形物にしか見えていない。
やがて、道義は裾をひるがえし、住まいである北山第への帰還を周囲に告げた。慌ただしく用意された牛車に揺られている間も、北山第に帰り着いても道義の悩みは一向に晴れず、むしろ募るばかりであった。
「父上。我ら日本の民はみな帝を奉じ、朝廷にお仕えすべき者。進んで明の皇帝に臣事すべきではありませぬ。ましてや、その冊封を受け、日本国王と称して帝をないがしろにするなど、断じて許されぬことでございます!」
「義持よ、そのような名分など大事の前の小事。天下を治めるためには、時に理に合わぬことも甘んじて受けねばならぬことがあるのじゃ。」
「それがしには到底理解ができませぬ!交易の利を優先し、本分を忘れるなど、あってはならぬことでございまする。」
「では、そなたは天下を治めるために必要な莫大な財をどのように得るつもりなのじゃ。」
「別に交易の利を否定する気はございませぬ。ですが、名分が立たぬのであれば、利が失われるのもやむを得ぬと申しておるのでござる!」
ただ名分論のみを語り、実よりも名を優先すると断言する息子に対し、道義はため息をついた。あの日から数日が経ち、なお苛まれる不安を解消すべく、後継者に擬している義持に道義死後の幕政について存念を聞いた結果がこれであった。
義持を幼い頃から嫡男として遇し、14年前に将軍職を譲り、8年ほど前からは実務にも関わらせてきた。やや気が短いのが玉に瑕だが、将軍としての振る舞いは堂々としたものであるし、諸大名の扱いにも並々ならぬ才の片鱗を見せている。いつの頃からか親子の仲は冷え、意見の対立も目立っては来ていたが、これまでは頼もしい後継者との認識にいささかも変化はなかったのである。
だが、義持が行おうとしている政策は、結局は道義が今ほどの権勢を持っていなかったころ、やむなく行ってきた政策に酷似しているのだ。すなわち、諸大名の利益を保護し、朝廷内部の案件は帝や公家に委ね、将軍は諸勢力の調整役として機能し、その均衡の上に君臨し、統治する。原点回帰と言えば聞こえは良いが、道義が40年間取り組んできた努力は水泡に帰すのである。
道義が将軍に就任したとき、わずか10歳に過ぎなかった。天下は麻のごとく乱れ、天皇家すら北朝・南朝の2つに分かれて争う有様であった。道義がまだ春王といった3歳のときには、敵対する南朝方に京都を占拠され、播磨国に落ち延びたことさえあった。
徐々に衰退しながらも苛烈に抵抗する南朝方との抗争を終わらせ、南北朝合一を成し遂げたのは道義である。「天に二日なし」という名分に従えば、どちらかを討滅するまで決して終わらない戦いであったが、リアリストの道義は名を捨てて実をとった。吉野を本拠とする南朝と粘り強く交渉し、今から16年前の明徳3年に両統が交互に即位することなどを条件に和平案をまとめ、三種の神器と後亀山天皇ら南朝皇族の京都帰還を実現した。
道義が抱えた難問はこれだけではなかった。約60年に及ぶ南朝との全国規模の戦いにおいて、幕府は各地方に有力な武将を配置して対応せざるを得ず、南朝を事実上の降伏に追いやったのも道義の代になって派遣された今川了俊や大内義弘らの活躍によった。彼らは在地での勢力を確実に強めていき、幕府が統制できない存在となりつつあった。特に南朝との戦いで武勲をあげた有力庶家の斯波氏は輿望を集め、遂には道義に迫って管領細川頼之を失脚させた。頼之こそは父義詮が後見としてつけてくれ、幼い道義を助けて将軍の権威を高めることに尽力し、道義が最も信頼する人物であったが、当時20歳の道義には為す術もなかった。
だが、道義は透徹した観察眼と辛抱強く待ちつづける忍耐を持った男でもあった。まず問題の根源が将軍権力の弱体であるとして、親衛隊たる御馬廻の強化に着手する。少しずつその規模を拡大し、遂には強固な結束を誇る将軍直属軍の奉公衆を作り上げ、次第に幕府軍の主力を各守護大名の軍から奉公衆に置き換えていった。
また、諸大名の利害が容易に一致しないことを鋭く見抜き、時期を選んで各個撃破していった。明徳元年に頼之排斥に関与した土岐頼康が死ぬと、その後継者争いに介入して土岐一族が分裂するように仕向け、反乱を起こした土岐康行を討って土岐氏から尾張・伊勢両国を没収、美濃国のみを領する小勢力に没落させた。
翌明徳2年には一族で11ヶ国の守護職を有し、「六分一殿」とまで呼ばれた山名氏を挑発して反乱を起こさせ、これに勝利して但馬・因幡・伯耆を除く知行国を没収してしまった。なお、この戦いの帰趨を決めたのは、道義が熱心に育成してきた奉公衆5千であった。
応永2年には今川了俊に上京を命じ、任地の九州から切り離しておいてから九州探題職を罷免し、ただ駿河と遠江の半国守護のみを保つ存在におとした。
最後に応永6年に反乱を起こした大内義弘を敗死させ、和泉・紀伊などを没収して大内氏の勢力を一時的に弱めることに成功した。
将軍就任から30年あまり。多くの分国を擁し、かつて統制に苦慮した有力大名の勢力を削ぎ、道義に対抗できる地方勢力はまったく姿を消したのである。
さらに、道義は寺社勢力や公家勢力にも手をつけていく。五山の制度を整え、白河院すら悩まされた興福寺の強訴を退け、子弟を有力寺院の門跡として送り込み、将軍による寺社の統制に成功した。武家として初めて源氏長者となり、准三后の宣下を受けて武家社会だけでなく公家社会の頂点に登りつめ、足利家初の太政大臣にも就任した。摂関家すら道義の偏諱を受けるほどで、道義が出家した際には追随して出家する者が武家だけでなく公家や皇族にまで相次いで現れた。
将軍権力をさらに盤石なものとするため、道義は内政機関である奉行衆と直属軍である奉公衆の強化を図り、それに要する膨大な財政的裏付けを明との勘合貿易に求めた。明皇帝の臣下として冊封を受けるかわりに莫大な交易の利益を得たのである。その富は朝廷工作や寺社への工作にも用いられ、北山第などの豪華な建築物にも注ぎ込まれた。
道義が約40年間にわたって営々と築き上げてきた権力は、武家・公家・寺社の頂点に君臨し、臣下の立場にありながらこの国を誰の掣肘を受けることなく支配する絶対的なものであった。
義持はこの路線のすべてを受け継ぐことなく、特に公家社会での地位を自ら放棄しようとするものに思われた。義持を下がらせた道義は、彼に将軍職を継がせたことを初めて後悔した。
(義持に後を任せれば、将軍はただ武家の棟梁として今より小さくまとまった存在となってしまうやも知れぬ。余が成し遂げた、何者にも侵されぬ地位は失われてしまうであろうな。)
自らの気宇壮大を強く自覚し、手にした並ぶもののない権勢を誇りに思う道義にとって、それは耐えられぬ未来像であった。
道義の苦悩と哀愁は知らずしらず面にあらわれていたのであろう。翌日、伺候した側近の三宝院満済は道義にある進言を行った。
「恐れながら、青蓮院にいらっしゃる春寅様は誰からも聡明な若君と仰がれておられます。しかしながら、かのお方はそれに奢ることなく、実に厳しく己を律して日々学問に励んでおられるとのこと。久しぶりにご対面遊ばされてはいかがでしょう。」
「ふむ。春寅の評判は余の耳にも入ってきておる。一度会ってみよう。手配をいたせ。」
「ははっ。」
数日後、道義は満済らを連れ、青蓮院に行幸した。早速、我が子春寅を引見し、問うた。
「余も50歳となり、そろそろ余の後のことも考えていかねばならぬ。そちには兄を助け、足利の家を守ってもらいたい。」
「それがしはやがて仏門に入る身。俗世に関わるつもりは毛頭ございませぬ。」
「では、聞き方を変えるといたそうか。そちはまだ出家しておらぬ身。出家せずに幕政に関わることとなったならば、朝廷のこと、寺社のこと、明とのこと、諸大名とのこと、どのようなことでもかまわぬ。存念を申せ。」
「それがしが政に関わるのであれば、より将軍の威権を強くすることを一番に考えまする。」
「明との関係はどうじゃ。」
「父上が必要と思し召して始められたことにございますれば、利を得るために続けるべきかと。」
「ふむ。そちは先ほど将軍の威権をより強くすると申したが、何をするというのじゃ。」
「恐れながら、いまの父上に逆らう者などおりませぬ。しかし、面従腹背の輩は必ずおりましょう。今からでもその者をあぶり出し、完膚なきまでに叩きのめして、幕府の威光を示さねばなりませぬ。それがしは災いの芽はすべて摘むべきと心得まする。」
「・・・そうか。貴重な意見、ありがたく思うぞ。これからも学問に励んでくれい。」
「ありがとうございまする。」
(こやつは確かに賢い。あるいは、兄の義持より余の考えを理解しうるかも知れぬ。だが、己に厳しい者は他人にも厳しいという。まさにこやつはその通りの男。時には耐え忍ぶことを知らねば、政は執れぬ。堪え性のない者に天下は持ち重りがしよう。予定通り出家させてしまったほうがよかろう。)
春寅の聡明さを認めながらも、あまりに生真面目に過ぎ、激情を持て余しているその性格を危険視し、道義は自らの後継者候補から外さざるをえなかった。
3月4日、春寅は得度して青蓮院門跡となり、義円と名乗るようになった。後継ぎから外した義円が義持死後にくじ引きによって第6代将軍足利義教となり、「万人恐怖」と誰からも恐れられる恐怖政治を展開し、遂には赤松満祐に暗殺されて、かえって将軍の権威を貶めてしまうことなど、神ならぬ道義には知る由もなかった。
義持・義円ともに後継者としての物足りなさを感じた道義には、事実上残された候補者が一人しかいなかった。数ある息子たちの中で最も寵愛する鶴若だった。
元来は鶴若も義円と同じく出家させる予定であり、梶井門跡が内定されていたが、道義は容姿端麗で巧みに笙を演奏し、貴族的な素養を身につけた鶴若を愛し、なかなか手元から離そうとしなかった。まだ政に関わったことがなく、その才は未知数ながら、素直で利発な鶴若ならば、道義の後を継ぐにふさわしい者となるやも知れぬ。道義はその思いに取り憑かれるとじっとしていられなくなり、矢継ぎ早に鶴若の身を飾りはじめた。
まず、2月27日、自身が出仕する際に鶴若を伴い、「童殿上」をさせた。元服前の童子が殿上するなど、異例のことだった。道義は一刻も早く鶴若のお披露目をしたかったのである。次いで、3月4日に従五位下に叙せられたのを皮切りに4月25日の元服までに従四位下左近衛中将にまで昇った。元服の儀もまた異例の格式であった。内裏清涼殿において内大臣二条満基を加冠役として執り行われ、親王に準じたものであった。官位もすぐに従三位参議に進められた。このため、元服して義嗣となった鶴若は「若君」ではなく「若宮」と呼ばれるようになる。
これには道義自身の野心も関係していた。彼は「太上天皇(上皇)」の称号を得たがっていた。天皇になったことのない道義が上皇となるのはおかしな話であるが、そんな理屈よりも上皇や法皇が受け継いできた「治天の君」という実質が狙いであった。治天の君は天皇家の家長のことであり、道義が治天の君となれば院政を敷いて天皇家すら思いのままにする事ができるのだ。そうなれば、道義はこの国においてすべてを超越した存在に昇華し、足利家もまた至高の家として天皇家・公家・寺社・武家の上に立つ存在となる。道義の野望の実現はもう目の前に迫っていた。
だが、道義にもままならぬことはあった。己の寿命である。義嗣の元服から2日後の4月27日、道義は病に倒れた。国家を挙げた治療と祈祷があったものの、病状は一進一退を繰り返しながら、次第に道義の命の灯火を吹き消していき、5月6日に遂に帰らぬ人となった。
つい数日前まで豪奢な生活を楽しみ、連夜女を御して健在を見せつけていた権力者のあっけない最期であった。臨終の際、道義の閉じた目から流れ出た一筋の涙は、何を悲しんで流されたものだろうか。己の最期のあっけなさか、己が築いた絶対的な権勢が後継者義持によって変質していくことか、それとも一転して不運な余生を送ることになった義嗣に向けられたものか。あるいは、道義自身にももはやわからなかったかもしれない。