石山
木曽川は美濃から流れている。
四葩達はこの木曽川の上流から荷に紛れて川を下り、まずは長島を目指したのである。既に四葩の姿は襤褸に塗れた立派な乞食であり、美しかった髪も少年の様に短く切られ、誰が見ても越前から落ち延びる姫には見えない。
荷を運ぶ水夫も一向宗の信者であり、長島に向かうと言えばあっさり載せてくれたのである。
――これで
生きられる、と思ったのか、荷に体を預ける四葩の目から抑えきれないものが溢れてきた。それは父への思いや失われた生活への悔しさでは無い、命懸けの苦しい山越えが終わったという安堵であった。
着の身着のまま館を抜け、くめが言うままに苦い葉や草を食べ、美しい着物を捨て、異臭のする襤褸を纏い、焼かれた一乗谷を見て実感した「死」に怯えながらの逃走である。船に乗り、緊張の糸が解けたのであろう。
そして涙が止まると、四葩の胸にはこれまでに抱いたことのない、重く、ドロリとした感情が沸き上がってきた。
――何故裏切った
越前を守るため、一門を始め家臣が纏まれば織田を押し返せたであろう。何故見捨て、何故裏切ったのか。
戦国だから、と言えばそれまでであるが、四葩には分からない。彼女にとって越前がこの世の全てであり、越前のために朝倉家が存在すると思っていた。事実、朝倉家は11代に渡って越前を守り、室町期における名門として栄え続けたのである。
――裏切り者が
くめから聞いた、裏切り者達を思い出す。信じられないことに、越前は裏切った前波吉継(名を改め桂田長俊)や富田長繁らが治めているという。
四葩から見れば、裏切り、越前攻めの内通をし、その功績で領主になったとしか見えない。
事実、信長からすれば地縁や論功行賞の兼ね合いもあり、更に今後の寝返りを誘発させる広告塔として妥当なところであったろう。
――父への、朝倉家の恩を忘れたか
忘れてはいまい。だが、戦国に生きる者として、自らを庇護するだけの力がある者に仕えねばならぬ。落ち目の朝倉と心中する者が正しいか、早くに見切りを付けて生き残る者が正しいか。
前波や富田らは朝倉よりも織田を評価し、その知識を活かすことで取り立てられただけである。
ただ、四葩から見れば裏切り以外の何物でもない。ましてや滅亡の道を歩んでしまったとなれば、その憎しみは敵以上に裏切り者に向くであろう。
船は長島に向かい、ここで四葩もようやく髪を整えることができた。この頃の長島は織田家と幾度か争っており、本来であれば船での出入りなど難しい時期であったが、大湊では足弱衆と呼ばれる女子供の輸送を認めており、四葩のような立場は比較的容易に入ることができたのである。
無論、これは信長の方針ではない。在地の武将達が一向宗に肩入れしたまでのことで、信長がこの事実を知った際は激怒し、自治町の寄合衆が殺されている。
いずれにせよ、四葩はここで整えられるだけの身形を整え、再び石山に向けて船旅を続けた。越前から付き従った者は、くめを除いて皆長島に残ることとなったが、四葩には本願寺の身形の良い侍が付き従うこととなり、既にその身が本願寺のものであることを薄々感じられるようになっていた。
――このような
石山の名を聞かされ今日ここに至るまで、四葩は純粋な岩山を想像していた。話の通じぬ一向一揆への蔑みもあったであろうが、岩山をくり抜いた縄文時代のような、世間知らずの幼子が荒唐無稽な地を想像していたのである。
しかしどうであろうか、石山は海運も良く街も発達し、後の豊臣政権の中心となるに相応しい一大都市を形成していたのである。色眼鏡で本願寺を見ていた四葩達も、その認識を改めざるを得なかった。
「姫」
そんな驚く彼女に声を掛けてきた人物がいる。恐らく逃亡劇の差配をした人物であろう、男はもうすを被り、見事な刺繍の施された法衣を纏い、輿の中の四葩に対して本願寺の現状を分かりやすく説明してきた。近畿地方の現状、これから嫁ぐ教如のこと、そして織田との関係など。いずれも簡潔で分かりやすく、また、男の話し方には品があり、不安と驚きの中にいる四葩の心を落ち着かせてくれた。
「左様か」
男に対する感謝の気持ちはあるが、四葩はどのように言葉に表せば良いか分からない。無言でいるべきなのか迷った挙句、出てきたのは素っ気ないものであった。だが、四葩の声を聴くと、男は安心したように一礼して輿を少し離れ、引き続き警備としての務めを果たしている。
――これで良かっただろうか
頼る者の無い異国の地で、敵を作ってしまったのかと悩む。だが、これまで独り立ちとは縁遠かった四葩には、これが精一杯のことであった。
本願寺の後継者である教如と、滅びたとは言え越前朝倉家の姫との婚姻である。二人の祝言は厳かに、かつ盛大に行われ、寺内やその周辺はちょっとしたお祭りのようであった。滅亡と逃亡を経験した四葩に配慮した結果でもある。
新郎となる教如は若武者という言葉が似合う偉丈夫で、小柄な四葩とは互いの体格差を強調するような組み合わせであった。教如はより逞しく、四葩はより可憐に映る、似合いの夫婦と言えよう。だが、
――分からない
四葩には自分の置かれている立場が未だに良く分からなかった。
突如として家が滅び、着の身着のまま山を越え、船に運ばれ気付けば祝言である。人生のあまりの急展開に禍福は勿論、状況理解さえ追いつかない。しかし、分かることが二つだけあった。
――ここが私の家なのだ
本願寺家が自らの家であり、自分は本願寺の姫であるのだと。
――憎きは、織田
越前でも摂津でも、織田が自らの人生に大きな影を落としている。
大変遅い投稿でございます。
こんなに日が経っているのにお気に入り登録して下さっている奇特な方々、申し訳ありませんでした。