一族
この頃の朝倉一門は、絶えず不穏な空気の中にあった。
永禄10年の加賀攻めは、家臣が加賀の一向一揆と手を結んで謀反を起こしたことがきっかけである。が、これは一門である朝倉景鏡が扇動したものとも言われ、朝倉家が一枚岩でないことの証左とされている。
そもそも義景自身の出自も怪しい。天文17年(1548年)3月に16歳で当主となったが、六角からの養子説もあり、就任前の経歴ははっきりしていない。だが、朝廷や幕府に対する影響力の他、若狭や加賀への進出等、その実績は歴代当主の中でも群を抜いており、実子であれ養子であれ、朝倉義景が有能な当主であることに違いは無い。
しかし、阿王丸死去後の義景は、判断ミスを繰り返し、やがて朝倉家を滅亡に追い込むこととなる。
永禄13年(1570年)、信長は若狭の武藤氏を攻めるとして兵を北へと向けた。だが、その軍は3万とも言われ、若狭の小豪族を攻めるには過剰なものである。
――まさか越前に?
以前の義景であれば十分反応できたであろう。
越前の入り口は敦賀郡であり、朝倉一門の朝倉景恒が守っていた。義景が景桓に対して注意を促したとしても、一門の軋轢から素直に聞いたか分からないが、完全な奇襲戦という形にはなり難かったのではないだろうか。
いずれにせよ、義景は若狭の武藤氏が自らの影響下にあったものの、無関係であるという立場に終始し、これ以上生意気な織田との軋轢を増やさぬようにしていたのである。
油断と言えばそれまでだが、織田が越前に来ないという確信に近い理由はあった。近江浅井氏からの情報が無かったのである。
浅井朝倉関係の深さについては今更語るまでも無いが、信長の妹が浅井長政に嫁いだ際、朝倉攻めに関する事前通告の取り決めがなされていたのである。京と美濃を行き来する信長が浅井家との関係を崩すのは自殺行為であり、浅井家から朝倉攻めの話が無いということは、信長が大群を率いた目的は上洛しない朝倉に対する示威行為であろう、と。
だが、元亀元年(1570年)、信長は突如として越前に流れ込み、瞬く間に敦賀一帯を制圧してしまったのである。
「近頃の殿は」
朝倉家中でよく聞く言葉である。
「精彩を欠かれておられる御様子」
山崎吉家ら年寄衆は、外交、軍事に秀でた義景の姿を見続けており、自らの「殿」の対応の悪さにも思うところがあった。
――景恒が死なば
――朝倉本家は安泰
義景がこのように考えていたかは分からない。浅井が朝倉を見捨てた可能性も捨てきれなかったのか、それとも何かの確認に手間取ったのか、派兵は遅れたものであった。
――御世継がおらぬ故
不満を抱きつつも好意的に見る吉家らはそう思う。
――余計に御分家の動きが気になるのであろう
今回の戦は朝倉家の悪い部分が露呈した形となってしまった。朝倉一族が抱える対立が最悪の場面で出てしまったのである。
しかし、義景は浅井家との関係を巧みに利用し、織田軍を撤退させることに成功する。
――御申様が
突如として越前に攻め込んだ織田家を、父が近江浅井家と挟み撃ちして追い返したと言う。
「くめ、真か」
四葩は侍女にそう尋ね、事の真偽を確認しようとした。
「はい。その様に」
「詳しゅう」
くめが言うには、織田軍は朝倉軍に釘付けであったが、浅井久政らが背後より攻め掛かり、織田軍は慌てふためいて撤退し、多くの犠牲を出したという。
「では、織田の大将も」
「いえ、織田殿は朽木殿の助けもあり、京に落ち延びたとのこと」
――それでは意味が無い
そこまで攻撃的な思考であったか分からないが、四葩には強い不安があった。
――敵は、生きている限り攻め寄せてくる
一向一揆と戦い続けた朝倉家ならではの思考である。一揆は退けてもまた生まれ、長く抑え込むには指導者を叩くしか無いのである。信長が生きているのであれば、また越前の地を荒らしに来るに決まっている、と。
――御申様はどのように
女の立場で国主に国の将来など聞くことはできないが、四葩は唯々、父が信長に勝利する日を望んでいたのである。
「くめ、御申様の戦のこと、織田の戦のこと、何かあれば疾く教えてたもれ」
四葩はそう言い渡すと、胸を軽く押さえながら部屋に戻ろうとしたが、
「姫」
というくめの言葉に足を止めた。
「夜は妖の刻にございますれば、憂いがあれば大きくされてしまいます」
くめは四葩の目を優しく見つめ
「されば、織田のことも戦のこともお考えにならず、ただただ目を瞑りなされませ」
と、続ける。
四葩はコクリと頷き、部屋に戻ると静かに床に就いた。