1 夜の演奏会
(1)
森髙秋子が三田村正彦に誘われてコンサートを聴きに行ったのは2月のある金曜日の夜のことだった。
曲目はマーラーの交響曲第9番、演奏時間1時間半の大曲である。当初、秋子はあまり乗り気ではなかった。クラシックは好きだったが好んで聴いたのはドピュッシー、ラヴェルなどのフランス音楽とモーツアルトで、マーラーなんて難しくてわからないと思ったのである。それでも一流オーケストラの生演奏なんてめったに聴けるものでもないし、何よりも気持ちの落ち込んでいる秋子のことを思ってくれる正彦の優しさがうれしくて行く気になったのである。
秋子は27歳、正彦は29歳。だが世間知らずの秋子と比べて正彦は世の中のことを実によく知っていて、実際の年齢以上の差を秋子は感じていた。
正彦については「遊び人」であるとか「女たらし」であるとか良くない評判を秋子は聞いていた。だが彼の秋子に対する態度は極めて紳士的だった。彼は秋子にとって頼りになるお兄さん的存在で恋愛の対象として考えたことは一度もなかったのである。正彦の悪友たちは、彼が秋子と付き合って1年以上になるのに未だに秋子に「手を付けない」ことをいぶかしく思っていた。
秋子は銀座の画廊に勤めていた。母の志津子がピアノ調律師だったこともあり、秋子は小学生の頃からピアノを習わされた。だが才能不足で大成することはなかった。それでもモーツアルトの「トルコ行進曲」などは弾けた。
(2)
マーラーの「第9番」は彼が死を予感して書いた最後の交響曲である。だが秋子にはオーケストラのすごい技術はわかっていてもその内容にはとてもついて行けなかった。そのうち秋子は日頃の疲れもあってついウトウトと居眠りをしてしまった。
気が付いたら局は最終楽章に入っていた。
それは悲痛な哀切の極みのような音楽であった。秋子の耳にはそれは亡き亡い人へのレクイエムのように聴こえた。
それは浮世の喜怒哀楽を超越したような癒しと慰めを秋子にもたらした。秋子の目から涙が溢れた。
曲は消えるように終わった。一瞬の静寂の後、潮のような拍手がホールを満たした。隣で正彦が「ブラボー」と叫んだ。
2人が会場を出ると街は雪だった。
「少し歩きましょう」と正彦が言った。2人は雪の街を肩を並べて歩いた。
秋子は先ほど聴いた音楽と街を覆い尽くす真っ白な雪が汚れきった世界を清めてくれたような気がした。
2人はとある喫茶店に入った。奥の席に着くと正彦が言った。
「マーラーはどうでした」
「素晴らしかったわ」と秋子が答えた。
「あたし浩太郎さんのことを考えていたんです。」と秋子が言うと
「あいつも罪な奴だな。みんなを泣かせて。」と正彦が言った。
秋子の婚約者、郡司浩太郎はひと月前に自殺した。遺書も残さぬ突然の死だった。
その日から秋子の涙の日々が始まった。昼間はまだ気が張っていたから良かった。夜になって1人になると止めどもなく涙が流れた。




