Project - 4『Smork on the Water』
冷蔵庫というものは実に重いものだ。
持ち上げるのも一苦労であるが背負うとなればさらに過酷さを帯びる。昭和の“三種の神器”のひとつ、“冷蔵庫”。大きさにして370L。ステンレス製のスリー・ドアで180センチ弱、僕の背丈よりも少し高い。ちなみにカタログなどにあるこの冷蔵庫の容量を表す“L”とはリットルを指す。
僕はそれを背負ったまま東中野の唯一の商店街であるギンザ通りを走っていた。近所の住民が小さな紙製の旗を振って東京マラソン宜しく「頑張って~」と僕に声援を送っている。その中には僕がよく行く飲み屋のおかみさんの姿もあった──おかみさんについてはぜひ第一話を参照して頂きたい。冷蔵庫を背負って商店街をひた走るなど物理的にどう考えても無理があるうえシチュエーションがシュール過ぎて事情がうまく飲み込めない。
僕はバカバカしくなり「こんなことやってられるかぁ!」と冷蔵庫を空に向かって放り投げた。こんなに巨大で重いものを放り投げるというまたまた非現実な展開にも関わらず僕はそれほど驚かない。なぜならこれは夢だからだ。冷蔵庫は高く高く上昇すると今度は重力の法則により墜落した。凄まじい轟音が鳴り響き僕はビクリと飛び起きる……かと思ったが、まだ目覚めなかった。
「おめでとう!」と和服姿のおかみさんが毛布をかぶせてくる。額からは滝のような汗がぼたぼた流れ落ちているというのになぜ毛布?
しかもなにがおめでたいのやら意味不明にもほどがある。さすがは夢──
「暑いです、おかみさん。暑いです!」と僕は身悶えた。
「ふふふ、ほら、もっと熱くなっていいのよ。さあ、城之内さん。ほらもっと熱くなって、城之内さん。うふふ」
そんな風におかみさんから官能的に攻められるのは決して悪い気持ちではない。ないのだが状況が滅茶苦茶すぎる。所詮は夢──
蒸せかえるような暑さにこらえきれず僕は毛布をまくりあげるとビリビリと引き裂いた。
「……ひどい」
おかみさんはまるで突然別れ話を切り出された少女のように悲しげな顔でうつむいた。その表情に僕は少しドキッとしてしまったわけで。するとおかみさんは今度は僕に向かって本を投げつけてきた。バッサバッサと。何十冊も。文庫本類はそうでもないのだがハードカバーや辞典類はなにげに痛い。てゆーかヒジョーに痛い。
「ひどい! ひどいわ! 私がせっかく……。女の気持ちを踏みにじるなんて最低! このごくつぶし! ろくでなし! この鬼畜米英!」
「痛いです、おかみさん。痛いです!」と涙ながらに訴えかけると今度は消防ホースで水をぶっかけてくる。
「冷たいです、おかみさん。冷たいです!」
ああ、めんどくさい……。夢なら早く覚めてくんないかな──
ごろごろという音が天空から響いてきた。雷かと思ったが違った。どうやらこれは猫が喉を鳴らす時の音だ。宇宙がどうやって始まったのか?──その謎と同じく未だ解明されていないというミステリアスなその音。そういえば人はなぜ夢を見るのか──その謎だって解明されてはいない。
── × ─── × ─── × ──
目を開くとリョーマの顔があった。
僕の胸の上にちょこんと鎮座し、首を傾げて僕の鼻をちょいちょいと突っついている。もはや毎朝恒例になりつつあるこの儀式だがそんなにこの鼻が気に入ってるのであろうか。
「暑いよリョーマ……君はまるで毛布みたいだよ。いやあ、ひどい夢を見た──」
リョーマが僕の額を肉球でぐっと押さえつけてきた。
「?」
まるで巨大な鉄板をおでこに乗っけられた時のようにピクリとも動けない。立ち上がることができない。客観的にこの状況を説明してみると、つまり現在僕は猫にマウントポジションをとられていて、さらにその小さき前脚によって額を押し付けられ起き上がることができない──といったところだ。これはあれだな、どうやらまだ夢から覚めきってないのだろう。
「えーと、リョーマくん。この手を、いや前脚かな? ──どうか退けてはもらえないだろうか……」
だが、その願いは聞き届けられることはなかった。逆にリョーマはぐいと前脚をつき出してくる。
変な声が出た。自分でも聞いたことのないような“あぎょん”だか“ぬふん”だかそんな声だった。
あまりそのような状況に陥った経験がないので自分がどのような体勢をしているのかしばらく判断がつきかねた──が、僕の頭はどうやら仰向けのままベッドの床板をぶち抜いているらしい。「あー、ベッドの下、汚いなー。掃除しなきゃなー」などと、冷静な観察をひとしきり終えた僕はさほど自慢でもない腹筋を使ってむくりと起き上がった。
床は水浸しとなり本が散乱していた。僕が眠っている間に本棚が倒されたらしい──何者かによって。
なぜ床が水浸しなのだろうと探り辿ってみるとキッチンでは水道管が破裂したかのごとく水が勢いよく吹き出していた。あるべきはずの蛇口が見当たらない。と、思ったら床に転がっていた。どうやら破壊されたらしい──何者かによって。
前屈みになって蛇口を拾い上げようとした時、足元に巨大な芋虫のようなものが見えた。
「…………」
巨大な芋虫に見えたのはシャウエッセンだった。僕はシャウエッセンが子供の頃から大好物なので冷蔵庫の中のストックは欠かしたことはないのだ。…………冷蔵庫?
嫌な予感がしたので振り返ると、そこにはもはや原型をとどめぬほどに──完膚なきまでに叩き潰されたと思われる“もと冷蔵庫”のような鉄の塊が煙を上げている。……そう、何者かによって。
水浸しになった床に電気が通り感電するおそれがないとも限らない。念のため僕は長靴を履くことにした。
夢とは現実の一部を具現化した幻想的なイリュージョンである──そう誰かが言ったような気もするが、この部屋の状況すべてが先程の夢とリンクしているのはもはや偶然とは思えない。僕が眠っている間、“誰か”がこの部屋をこのような惨状にした。そして僕は夢を媒介にしてそれを察知していた。そういうことになる。
つまり──
僕はベッドの上からこちらを見ているリョーマと目が合った。リョーマは口の周りをぺろりと舐めまわす。
そうか、腹が減っていたのか。ならばそう言ってくれればいいのに。そんなにシャウエッセンが食べたかったのなら僕がこの人間特有である二つの器用な手で悠々と冷蔵庫のドアを開き、さらには軽く湯煎でもしてパリッと美味しくもてなしてあげたのに。
少なくともこの先週買ったばかりの最新型の冷蔵庫を木っ端微塵に破壊する必要などなかったはずだ。
絶賛床上浸水中のフローリングの上を僕はじゃぶじゃぶとその足で渡るとベッドに辿り着いた。そして脇腹に一つだけ黒い斑点のある小さなその白猫を抱き上げる。ベッドにぽっかりあいた穴と冷蔵庫を交互に見比べて僕はホッと胸を撫で下ろした。部屋に備え付けの安い床板のベッドでよかった。もう少し固いものだったら僕の頭はひょっとしたらあの冷蔵庫と同じ運命にあったかもしれない── このリョーマのぷにぷにした肉球によって。
まったく馬鹿げた、とても非現実的な想像であることはよくわかっている。この小さな子猫がどれだけ無邪気に暴れ回ろうとキッチンの蛇口を破壊することはできない。本棚だって倒すことはできないだろう。ましてや冷蔵庫を鉄の塊になどもっての他である。本来なら。
間違いなくこれは先日のアレと関係している。僕はとっくに察していた。
“エデンの果実”を絞った後のあのピンク色の怪しい液体。あれを舐めたことによる何かしらの影響、もしくは副作用。
過去に起因したことから現在を推測し、物事の流れを含んだうえで現時点での事実と照らし合わせる。本来なら驚き、慌てふためねばならない場面であり、「あっはっは、そんなバカな……」と首を振るところである──が、僕は驚かない。なぜならそれがどんなに薄く、どんなに非現実的であろうともそこに“起こる可能性”がある以上、“起こったこと”を冷静に認めないわけにはいかない。
なぜなら僕は“科学者”なのだから。
窓を開け、キメ顔で遠くに見えているS区都庁を眺めているとまるでゲッターロボのオープニング・ソングのごとくドアをガンガンガンガンと乱暴に叩く音が聞こえてきた。
「おい、コラ! いねーのか? 開けろ! 何やってんだテメー! おい!」
玄関口には部屋の中の人を呼び出すためのブザーという現代機器がこれ見よがしにわざわざ設置されている。なのに彼がゲッターロボな理由は何か? それはブザーが漏電によりショートしているか、もしくはドアの外にいる彼がよほど怒りを露にしているかのどちらかでしかない。そして、この状況でそれほどまで怒りにかられる状況にある人物は誰か? それは一人しかいない。階下の住民である。
僕は溜め息をつくと、ジャブジャブとその足で玄関のドアに辿り着くまでに理路整然とした謝罪の言葉をあれやこれやと考えていた。