8〜10章 カタカナ語数大幅に減少 8/03/2018
第八章
紅葉の散った十一月半ば、短期間のコンサルタントの仕事が一通り終わった時、突然イアンに新しい仕事の見積もりが飛び込んで来た。イアンはそのことをゲイルと相談した。
「就職にもつながりそうな新しい仕事ができそうだけど、それはピッツバーグなんだ」とイアンが言った。ゲイルはイアンには顔も向けず、テレビを見ながら
「あなた一人で行って、私ここにいるから」と、言った。
「二週間おきに帰宅できる様になっているから、それほど悪くはないな?」
「戻って来る必要はないし、週末戻って何をするっていうの? 自分一人で引越してしまえばいいのに」と、ゲイルは冷たく言った。イアンは唇を噛みしめたまま、しばらく黙っていた。
「ピッツバーグの仕事はたったの三ヵ月の契約だから、アパートなんか借りれやしないから、安モーテル住いだよ」
「就職できるようにしたらいいのに?」と、ゲイルは冷たく言った。
「おい、そんなに俺が嫌ならお前が出ていったらどうだ?」
「あなたが出ていったらいいのに」
「俺が出ていったら、この家どうするんだ?」
「今まで通りの毎月の住宅ローンはここへ送らなければダメよ!」と、ゲイルはきつく言った。
「俺が出てしまえば、住宅ローンは今までの半額しか送られないから、足りないのは自分でなんとかするんだな」
「イアン! 早く出ていって!」と、ゲイルは怒鳴った。
「わかった、あしたから住むところ探してみる」
「今、出て行って?」と、ゲイルは捨てセリフみたいに言った。
「じゃ、今から出て行くが、住むところが見つかり次第、俺の物を取りに来るからな、いいか?」と、イアンは怒って言い、立ち上がった。イアンは衣類を無造作にスーツケースに投げ込み、書類などをブリーフケースに入れ、階段を下りて車庫に向かった。ゲイルは階段の上から、
「出て行ったら、二度とここへ帰るな!」と罵った。イアンは何も言わずに車に乗り、家を出てしまった。
イアンは行き先など考えておらず、家を出てから数キロメートル走って、店の前にある明るい駐車場で車を止めた。自動車電話でハンに電話をかけた。ハンは今夜彼のところに泊まって良いと言ったが、そうすると到着するのが夜遅くなるのでイアンは遠慮した。結局、あすの夕方、彼のところに行き、具体的にこれからどうすれば良いのか相談相手になってくれることにし、今晩は近くのモーテルに泊まることにした。
安いモーテルの立ち並んだところを思い出していた。思い当たるところが近くにはなく、高速道路を北に向かって走り出した。いつもスピードを出すイアンだが、その時は更に速度を上げていた。しかし、頭の中は運転ではなく、どこを走っているのかも気が付かずに走っていた。イアンはどんなに考えても考え切れないほどの面倒な問題ばかりで、気が付くとサービスエリアの道案内が見えたので、サービスエリアで駐車した。
自動車電話でクリスにかけた。その話を聞いた彼女はついにそうなったことに驚くと同時に嬉しそうな奇声を上げた。話しているうちにイアンは幾分気楽になり、クリスがイアンに今からどこに行くのかと尋ねた時、イアンは郊外にあるモーテルに行く途中だと言った。クリスは彼女のアトリエに泊まることを提案したが、イアンは控えた。しかし、彼女と逢いたいと言った。イアンはモーテルにチェックインした後、アトリエに行きクリスから離婚に関する法律の知識を心得ようとした。
夜遅くまで、イアンはクリスから話を聞いているうちに、心身共疲れてしまった。イアンはクリスにアトリエで泊まっても良いかと尋ねた。クリスは半分に折ってあったベッド兼用ソファーのマットを平らに床に敷いた。二人共下着になり、寝袋を一枚ずつ毛布代りに掛けて寝た。イアンは悩み悩んで殆んど眠れず、クリスの快いいびきを聞いていたが、外が明るくなり始めた頃、やっと眠りに落ち込んだ。
イアンが目を覚ますと、クリスはイアンの横でうつぶせになって本を読んでいた。しばらくの間、イアンはクリスの燕脂色の髪を見つめていた。それに気が付いたクリスが笑顔で言った。
「グッド・モーニング!」
「グッド・モーニング クリス! どのくらい前から起きていたの?」
「だいぶ前、一時間くらい前から」
「どこかへ食べに行こうか?」
「私は、もうシリアルを食べているから…、あなたもシリアルはどう?」
「俺は食べなくてもいい。一体何時なんだ?」と、言ってイアンは腕時計を見た。「もう、午前十一時過ぎか! じゃぁ、そろそろハンのところに行かなければ」と、言ってイアンはマットから立ち上がり、ズボンをはいた。クリスも立ち上り、
「ねぇ、あなたの奥さんは家出したことを決して忘れる様な人ではないのだから、もう元へは戻れないのよ。家へ戻っても幸せはないのよ! 離婚しなければ幸せは得られないのよ!」と、励ました。
「ああ、それはわかってる」と、イアンは元気のなさそうな声で返事をした。クリスはイアンを抱寄せて、イアンに頬ずりをしながら言った。
「戻っちゃだめよ。ね、お願いそうしないで!」
「俺、戻りはしないよ」と、イアンはうなずきながら言い、クリスから離れた。クリスの両肩に手をかけたままクリスの目をじっくりと見つめ、
「君のところへ泊まったことは誰にも言わないでくれ? 離婚する時、不利になるといけないから」と言った。
「心配しなくていいわよ、誰にも言わないから」
「有難う、クリス」と、言ってクリスを抱擁した。
クリスのアトリエを出たイアンは高速道路に入り、ニュー・ハンプシャーへ向かった。ドライブ中、イアンはこれからすべきことを絶えず考えていた。もし、弁護士なしでゲイルと離婚が出来れば一番良いのだが、それはゲイル次第であって、そのことでわずらっていた。住むところは先決問題であったが、なんとかなる様な気がした。
ニュー・ハンプシャー州に入ると、カーブと起伏の多い州道16号になり車道は二車線となった。しかし、イアンは速度計にはほとんど目を向けず運転していた。時には制限時速の二倍を越す、時速百八十キロのスピードで走っていたが、イアンは気が付かなかった。幾度もイアンはカーブであわててブレーキを踏んでいた。それでも、イアンは速度を落さないでいた。
しかし、ついにイアンはブレーキも踏まずガードレールにあたるすれすれでカーブを回った。そのカーブを回り切れたと思った瞬間、そこはS字カーブでハンドルが切れず対抗車線を越しそうになった。対抗車は右にハンドルを切ったが、イアンはブレーキを強く踏み、車線を越さずにS字カーブを回ることができた。イアンの車は路上に黒いタイヤの跡を残し、イアンはバックミラーで青い煙と、対抗車が車道の肩で砂ほこりをあげたのを目撃した。車線を越していれば確実に正面衝突をしていたはずで、イアンはその時、全身に鳥肌が立つのを感じた。
それにもかかわらず、イアンは速度を落そうとはしなかった。その代り、イアンは離婚のことは考えず運転に神経を注ぎ、速度を更に上げ荒荒しく運転し出した。スピード違反で捕まることは気にしていなかったし、捕まっても構わなかった。レースカー同様であるイアンのBMWには改造エンジンが搭載してあり四百馬力以上もあった。二重車線の追い越し禁止のゾーンでも、前の車を一目に追い越してしまった。
いつもなら三時間かかる長いドライブだが、気が付いてみるとカシードロ岩壁が彼方に見え出していた。時計を見ると、二時間でここまで来ていた。イアンはいつニュー・ハンプシャー州に入ったのかも憶えていなかったし、途中でモーテルの鍵を返すことも忘れていた。ハンの家の前に着いた時、ハンドルを握ったまま、ぼーっとしていた。イアンは無事に着いたことに不満さえ感じた。あれだけ、無茶苦茶に運転しておきながら、警察に捕まらなかったのも不思議であった。捕まれば、手錠をかけられ留置場に入れられたかも知れなかった。もし、そうなれば、ゲイルは引き取りには来なかっただろうと、イアンは想像していた。
活気のあるハンと話しているうちに、イアンは離婚がそれほど煩わしく思えなくなってきた。二日間ハンの家に泊まり、その間イアンはマサチューセッツ州に住む友達と連絡し、居候できるところを見つけた。マサチューセッツに戻ったイアンはアパートや貸家を捜し、一週間後にはゲイルは弁護士を決め離婚の手続きを始め出し、後戻りできない状態に陥った。ピッツバーグへ行く気は始めからなかったイアンは離婚を理由にその契約は結ばなかった。
一ヵ月後、ついに車庫付きの小さな家を借りることができ、イアンは引越し始めた。二週間、毎日の様に昼間、元の家に行き荷物をまとめ、運び出した。クリスが二度も引越しの手伝に来てくれたので大きな家具を運ぶことができた。引越し作業の後、イアンはクリスを夕食に誘い、クリスはイアンの借りた家でシャワーを浴びてからケンブリッジへ帰った。
引越し中、クリスはゲイルと顔を合わせることはなかったが、イアンはゲイルと顔を一度合わせる必要があった。幸にも、穏やかに話すことができ、共同資産などの分割を決めた。その後、イアンは何度か弁護士と会い、ゲイルとは直接顔を合わせる必要がなかった。しかし、離婚が終結するまで数ヵ月かかりそうで、イアンはいら立っていた。
*
岩登りするには寒くなり始めた晩秋のある週末、イアンとクリスはマサチューセッツ州より少し暖かいニュー・ヨーク州のガンクスへ出かけた。岩登りの後、レストランで夕食し、二人は真っ暗になったキャンプ場に戻った。草むらに置いたランタンに照らされ、テントの前で折り畳み椅子に腰かけてココアを飲んでいた。
「年内に離婚が締結するわけでしょう? そうなったらお祝いしない?」とクリスが提案した。
「ああそうだけど。それもいいけど、どこでどうする?」
「あなたの家でささやかな宴会をしない? リサ達や他の友達を招待して、そうすれば引越し祝いやクリスマスパーティーも兼ねられるでしょう?」
イアンはその提案が嬉しかったが、これから先が思わしく進みそうもないことを案じて、それほど宴会には乗り気ではなかった。
「この夏以来、俺達は毎週一度くらいは逢い、それが登山ばかりで逢っているわけでもなくなったし、逢わない時は電話で話すこともあるけど……でも俺達は恋愛関係でもないし、もちろんのこと本当の兄弟姉妹でもないし、俺達の間には何があるんだろうかと考えてもわからないけど、君はどう思う?」と、イアンは言ってクリスに振り向いた。クリスはイアンを見つめながら考えていた。
「それは…、う~ん、それは…、う~ん、それは…最初は私はあなたと難しい登攀をしたかったからだけど…、今でもそれは同じだけど、う~ん…」と、クリスは考えていることが言葉にならなかった。
「やはり、君にもはっきりとはわからないんだね? これは言うべきじゃないけど…、やはり言わないでいたほうがいいか?」と、イアンはためらったが、クリスを見つめながら続けた。クリスはあどけない顔をしてイアンを見つめていた。
「俺、君に恋をしていると思うんだ」
クリスはほんのわずか緊張な顔を示したが、イアンを見つめたままはっきりと言った。
「私、そういうふうに感じてはいたわ、もうずっと前から感じていたのよ? 私、あなたを大好きだけど、あなたを愛しているのかどうかわからないのよ」
「離婚することに決心したのは、君がいるからで、離婚すれば君に『愛している』と言うつもりだったけど…」と、イアンは言い、ランタンの灯に目を向けた。
「ごめんなさい、イアン。私はあなたと登山をしたいばかりに、あなたを迷わせて。あなたは私にとって大切な人なの。なんでも言える人ってあなたしかいないし、いつも私のことを考えてくれるのも、あなたしかいないの。だから私、いつまでもあなたと友達でいたいけど…。勝手なお願いだらけで、ごめんなさい、イアン」と、言ってクリスは両手でイアンを横から抱きしめた。しかし、イアンはクリスを抱きかえしもせず、ランタンの灯を見続けていた。
「謝らなくていいんだよ。いつも恋人を探している君の様子からして、君の気持はわかっていたんだ。だから俺の気持は言わなくても良かったんだけど、どうしても言いたくて…」と、言ってイアンはクリスに振り返り「俺の気持を言ってしまったけど、これからも俺と一緒に登ってくれるかい?」と尋ねた。
「私の気持をわかってくれて、あなたがそれでいいのなら、これからもずっと一緒に登山をしたいわ。でも、私を恋人扱いしないでね?」と、クリスは言い、にっこりとした。
「君は登山のパートナーとしては最高だから、今まで通り登ろう!」と、イアンは笑顔で言い、クリスを抱きしめた。
「私達はいつも楽しい山行きをしているわよね?」と、クリスは嬉しそうに言い、微笑したイアンを抱きしめ頬ずりをした。冷えきった秋風の中、頬ずりは温かく感じた。
*
離婚が締結したのは歳が明けた一月下旬の金曜日の夕方だった。そのためイアンは地方裁判所のあるケンブリッジに行った。住宅ローンはイアンが毎月払い、半年以内にゲイルは住宅を売却する契約となった。イアンは売却するまで、財政は厳しく、辛抱しなければならなかった。しかしそれ以外の扶養料は払う必要なく、イアンはそれで満足だった。
裁判所を出たイアンは晴れ晴れとした顔で、クリスのアトリエへ向かった。それはまるで、学生時代感じた学期末試験が終わり夏休みに入ったような気分であった。クリスと二人でハーバード・スクエアへ行き、レストランでささやかな祝いの晩餐をし、その晩はクリスのアトリエで泊まった。
翌日早朝、二人はケンブリッジからニュー・ハンプシャーへ行き、ボストンから押し寄せている山仲間達に交ざって氷壁登攀をし、夕方、ボストンの山岳会が貸し切っている山小屋へ向かった。その週末は山岳会の主催する恒例の氷壁登攀の講習会で大勢が山小屋に集まり、山岳会の連中と一緒に夕食をしていた。夕食のテーブルでは多数の会話が飛び合い、騒々しかった。
その時、クリスは少しためらっていたがワイングラスをフォークでコチーンコチーンと叩きだした。室内が静まるとクリスは立ち上がり、イアンの離婚祝福の音頭をとった。皆揃って奇声を上げ乾杯した。クリスとは違ったテーブルにいたイアンは予期もしなかった宣言にやや驚いたが、立ち上がって感謝の意を述べ、恋人募集中と宣伝を付け加えて座った。どこからともなく、「クリスはどうだ?」と、いった声がいくつか聞こえたが、うしろ向きに座っていたイアンとクリスは振り返って顔を合わせて笑っていた。
「Would you?(=なってくれる)」と、イアンがクリスにふざけ気味に尋ねた。
「Maybe not!(=たぶん、だめ)」と、クリスは冗談半分に答えた。
第九章
アンドロメダ・ストレンの登攀で酷使した筋肉の治癒を兼ね温泉町ジャスパーで一泊したイアンとクリスは再び山に入っていた。スリップ・ストリーム取り付き近くのスノードーム氷河の上にビバークサックを蓑虫の様に二つ並んで寝ていた。
午前三時、イアンはビバークサックの中で目を覚まし、頭上を見上げた。真っ暗な空は星屑で埋まっていた。上半身を起したままストーブを点火し、湯を沸かす準備をしてから、ビバークサックから出た。三日前、アンドロメダ・ストレインを登った時の朝のような寒さは感じなかった。黄色プラスチックの登山靴をビバークサックの中から取り出し、それを突っかけて数メートル歩いたところで用をた足した。戻って来てビバークサックの上に座り、ゴアテックス・スーツに着替え出した。湯がわくと、小声で
「おはよう! クリス、お湯が沸いたよ」と、言ったがクリスは寝言で返事をしただけで起きなかった。
イアンは紅茶を作り、残ったお湯をストーブの上に置いたままにし、一人でクリームチーズを塗ったベーグルを食べながら出発の準備をしていた。ザックは昨夜から準備してあり、最小限必要な物としてはピックが折れた時の予備も考えてアイスアックス三本、アイゼン、薄い羽毛服一枚、予備の手袋、水一リットル、チーズとチョコレートであった。だが、もしものことを考え退却用として、五十メートルの八ミリロープ一本、チタン製アイス・スクリュー四本、一・五メートルの五ミリナイロンコード四本、アイス・スクリューで開けた穴にナイロンコードを通すための短い針金、そしてカラビナ数枚などもザックに入れてあった。
ハーネスを腰に付け、ヘッドランプをヘルメットに取り付けながら
「クリス、じゃぁ、行くよ」と、イアンはクリスに聞こえる様に言った。クリスはその声で目を覚まし、ビバークサックの中から顔を覗かしイアンのヘッドランプで照らし出された。寝袋のチャックを下げ、上半身を起したクリスは抱擁してと言わんばかりに両手を大きく開いてイアンが近寄るのを待ち、
「くれぐれも注意してね」と言った。イアンはヘッドランプが点いたままのヘルメットをザックの上に置き、クリスの前に跪いて彼女を抱擁した。クリスの身体は暖く、彼女の寝袋の中に入りたい衝動が起きた。クリスは冷たいゴアテックスに包まれたイアンの身体を固く抱きしめたまま
「本当に気を付けてね」と、念を押す様に言った。ヘッドランプの灯は白い雪面に反射され、抱き合った姿を真っ暗な背景にくっきりと照らしていた。クリスはイアンに頬ずりしながら言った。
「引き返すことも英雄であることを忘れないでね」
「ああ、もちろん」と、イアンは言って、いきなりクリスの唇に強くキスをした。クリスは一瞬硬直したが、イアンの突然な行為に驚き彼を押し離し、怒った様に言った。
「イアン! そんなことはしてはだめ! 何のため?」
「ごめん ごめん、君が怒って俺を追い出してくれないと、出発し難いから…。じゃぁ、昼過ぎ戻って来るからね」と、イアンは笑い半分に言って立ち上り、ヘルメットをかぶり、ザックを担いで逃げる様に出発した。
十歩くらい歩いたところで、イアンは振り返った。クリスは寝袋を肩からかけたまま座ってイアンを見つめていた。イアンのヘッドランプに照らされると寝袋から手を出して振った。クリスは笑顔で、
「Have fun!(=楽しく)」と叫んだ。イアンは自分の顔の前で手を振り、『あんなに怒った後なのにこんな優しいセリフを吐いている、それにあの可愛い笑顔には俺、参るな!』と、思った。
「Yap, I will.(=ああ、そうする)」と、イアンは叫んでスリップ・ストリームに向かった。
一時間少々で、イアンは核心部である、氷壁登攀難度4以上ある五十メートルの氷壁の真下に辿り着いた。そこで一息しながら、アイゼンの締め付け具合をチェックし、手首に巻いてあったアイスアックスのリーシュを絞め直した。ヘッドランプで氷壁を照らし上げ、登りやすいラインを選んでゆっくりと慎重に登り始めた。
アイスアックスを振り込みアイゼンを蹴り込んで、黙々と氷壁を登ると、下部雪田に着いた。傾斜の緩やかな下部雪田を登り切ると、再び急な氷壁になった。まだ太陽は出ていないが、いつの間にか辺りが薄明るくなっていたので、イアンはヘッドランプを消してみた。消して目が慣れてくるのをしばらく待っていた。目が慣れてくると十分に明るかった。
上を見上げると氷壁上部は朝日で赤く染まっていた。下方を見ると、自分がかなり高い位置にいることがわかり、緊張感が出てきた。しかし、恐怖感はなかった。再びアイゼンを点検し、両方のアイスアックスを氷壁に振り込んだ。左のアイゼンを蹴り込み、アイゼンの前爪一本だけに体重を移動させた。右のアイゼンを蹴り込み、体重を右足に移した。左のアイスアックスを氷から抜き取って高い位置に振り込み、右のアイスアックスも抜き取り高い位置に振り込んだ。イアンはこの単純な連続の動作を無心にかつ慎重に繰返し、高度を上げていった。
いつの間にか、イアンは自分の影が目の前の氷に映っているのに気が付いた。朝日が背中で照り始め、目の前の氷を赤く染め始めた。小一時間もアイスアックスを振りアイゼンを蹴り込むと、上部雪田に辿り着いた。腕時計を見ると、既に午前七時近くになっており、朝日で、肩や腕が暖く感じ始めていた。イアンはかけていたスポーツグラスを外し、透明レンズをサングラスのレンズに取り替えた。頭上には巨大なセラックと雪庇がおおいかぶさる様にのしかかっていた。イアンは早いとこ、ここから登り切らなければと思った。雪はまだ良く締まっていて、アイゼンが良く効いてくれた。百メートルくらいここを右上に登って行かねばならず、黙々とは登っているつもりではあったが、気持だけが焦っていた。
今までイアンの耳に入っていた音はアイスアックスとアイゼンの刺さる音だけであったが、突然、不気味な音が聞こえた。とっさにイアンはその音のしてくる頭上を見上げた。ドサッドサッ、パラパラという音と共に、固い雪の塊が落ちてくるのをイアンは目を凝らして見つめていた。無数の塊は見たところ直径二~三十センチくらいの大きさで粉々になってイアンから離れたところをかすめて下へ落ちていった。まだ雪田は三分の一も登っていなかった。イアンはスピードを上げ、休むこともせず、ただひたすらに右上へと登り続けた。
再びズシンという不気味な音とともに、大きな雪庇が切り離れ、下の斜面に当った。イアンは止まらず、頭上を見上げた。粉々に分解した雪庇は、ドサッドサッ、パラパラとイアンにより近いところをかすめて下界へ落ちて行った。もし、塊がイアンに向かって落ちてくれば、イアンは避けるか、避難するかとっさに考えなければいけなかった。しかし、避難できる場所はなく、最悪な時はアイスアックス二本雪面に突き刺し肩をすぼめて、直撃しない様にと祈ることしかなかった。塊が五~六十センチと大きく、しかもその量が多かったのには驚いた。さっき見たのは遠くを落ちて行ったので、塊が小さく見えていたのかも知れないと思った。
イアンは更にスピードを上げたかったが、それは既に限度に近かった。汗びっしょりになり、脈拍が耳から聞こえるくらい激しく鳴って、右上に登っていた。その時、三度目のズシンという音がした。イアンは登りながら頭上を見上げた。
*
イアンの出発した後、クリスはビバークサックに潜り込み、うとうとしていた。はっとして目が覚め、ビバークサックから顔を出し、イアンの向かって行った方角を眺めた。真っ暗なシルエットに小さな明りが動いているのを見つけ、顔を出したまま目を閉じた。クリスはまた一眠りした。
二度目、目が覚めた時、辺りはぼんやりと薄明るくなっていた。見上げると、凍った千メートルの青いリボンの上部は朝日で赤く染められようとしていた。ビバークサックから上半身を起してしばらくのあいだリボンを見つめていたが、イアンを見つけ出せなかった。クリスは目を閉じたが眠気と戦っていた。三十分くらいうつらうつらしていたが、やっとのことで目を覚ますことができた。スリップ・ストリームの上部は既に朝日で真っ赤になり、下部はまだ青みがかっていた。
クリスはザックから双眼鏡を取り出して、スリップ・ストリームを上から下へと眺め出した。黄色いゴアテックス・スーツ姿のイアンを見つけ、肉眼で彼の位置を確認し、クリスは思わずため息をした。「イアンはもう上部雪田を登っている」と、つぶやき腕時計を見た。そして「そうか、予定どおりか」と、ひとりごとを言いながら再び双眼鏡を掴み、イアンの登り具合を眺めていた。イアンは上部雪田の中ほどを蟻の様に少しずつ右上に向かって動いており、この調子ならイアンはもうすぐでルートを登り切れそうだ、とクリスは思った。クリスは右手を固く握って空高く振り上げ、「頑張れ、もう少しだ!」と叫んだ。
クリスはストーブを点火し、朝食の準備を始めた。湯がわき、コーヒーを作りながらベーグルを口にし、双眼鏡を掴んだ。二~三度、クリスは双眼鏡から目を離して肉眼で見たりしていたが、「どこに行ったのだろう?」と、つぶやきながら落ち着いた姿勢に座り直して双眼鏡を覗いた。数分、肉眼で見たり双眼鏡で覗いたりしているうちにクリスは妙な胸騒ぎを感じ出した。スリップ・ストリームを上から下まで注意深く双眼鏡で覗いてみたが、イアンも黄色い姿も見つからなかった。
腕時計を見ると、先ほどから十分も経過していなかった。もしかすれば、雪田か氷壁のひだの陰に入っているのかも知れないと思った。しかし、いくら待っていてもイアンは陰から出て来なかった。そういったひだもなく、陰も見つからなかった。さきほど見たイアンの動きからして、十分もかけず、さっきの地点から頂上へ登り切ったとはクリスは考えられなかった。
雪崩た様な爪痕は以前から無数にあり、イアンが転落したような形跡は確認できなかったし、彼の姿はスリップ・ストリームの下部にも見つからなかった。クリスはひどく不安になり、落ち着いてはいられなくなった。出来上がったばかりのコーヒーを少し飲み、残ったベーゴーを口に頬張って、出発の準備にとりかかった。その間、クリスは自分の想像していることを否定しながら何度か赤い氷壁を見上げたが、黄色姿は見えなかった。
クリスは登山靴を履き、ビバーク地を後にした。アイスアックスを手に、スリップ・ストリームに向かって歩き出した。取り付き地点に近付くにつれ、クリスはこれ以上単独では危険だと感じ出し、急な雪面を登り、その上で立ち止まった。できる限り辺りを見回し、黄色い物を探してみた。大声でイアンの名前を呼んでみたが、エコーが答えただけだった。クリスは何度も呼んでは耳をすましてみた。
もしイアンが登り抜けていたら、クリスの声は聞こえるはずがないと考え、ビバーク地へ戻ることにした。クリスはきっとそうに違いないと信じたかった。ビバーク地に戻ったクリスは何時頃イアンがここへ戻って来るのか考えてみた。下山には少なくとも三時間はかかるはずで、四時間待って戻って来なければ、クリスは急いで下り、公園管理員に連絡するつもりでいた。ということはイアンが昼頃までには下って来るはずであった。
時間的にはまだ早かったが、クリスは下山してくるはずの左側の稜線を見つめ始めた。その稜線を寝転んで見えるようにとビバークサックの位置を変え、その上で仰むけに寝転んだ。三十分もしないうちに寒くなったのでクリスは起き上がり、登山靴を抜いでビバークサックの中に入った。もう少しすれば、イアンの黄色い姿が稜線に現れるはずで、クリスは期待と不安で一杯だった。クリスはイアンを待ちながら考えていた。イアンはいつも自分を気長に待ってくれたが、今度は自分の番となった。
第十章
レストランでスナックを食べ終えたリサはマイクと一緒に案内センターから出て来てクリスのそばに立った。クリスは依然として、スリップ・ストリームを見守っていた。スリップ・ストリームはこの春とは変わりなく、細長い青氷が稜線から氷河へ向かってリボンのように掛かっていた。稜線には不気味なバランスをしたままのセラックがあり、その上端には大きな雪庇が覆いかぶさっていた。
しばらくの間、リサも黙ってスリップ・ストリームを見つめていたが言い出した。
「イアンはルートを完全に登り切ったと思うのだけどさ、どうしてそうじゃないって言うの?」
クリスはその声に驚き振り向いた。
「翌日捜索隊が下降側の稜線からルートの終了点まで登ったんだけど、そこには足跡は見つからなかったの」
「でも、その晩、雪でも降れば足跡は消えてしまうでしょう?」
「雪も降らなかったし、風もあまり強くはなかったから、捜索隊員の話ではイアンが登り切っていれば、かならず彼の足跡があったはずなの」とクリスが言った。「じゃぁ、なぜイアンの遺体が見つからないのかしら? ルートの下は捜査したっていうけど」
「私もそれにはあまり納得できないのよ?」とクリスは言い、「でもね、イアンだけではないのよ、もう何人か転落して、まだ見つかっていないって言うから…、イアンは千メートルも転落して、スノードーム氷河のクレバスの中で眠っているのよ。そこは上から何が落ちてくるかわからないほど、とても危険なところであまり捜査もできないらしいの」と、クリスは少し涙ぐみながら言った。リサはクリスの背中を優しく撫でていた。
「本当に哀しくなるわ。イアンは私のことを誰よりも良く知っておきながら、私の髪色は赤だと思ったままなのよ」と、言ってうるんだ目でリサの顔を覗いた。
「えっ、あなたは赤髪じゃなかったの?」と、リサは冗談気味に言った。
「イアンは私がブロンドって、知らないままなのよ」と、言って髪の根本を指さした。リサはクリスの髪の根本を見ながら
「じゃぁ、イアンは天国で赤髪の女を探していると思うわ」と、言いにっこりとした。
「そうかも知れない。天国でも髪を染められるのかしら?」と、クリスは言って少しほほ笑んだ。
「それは神様に良く頼まなければ…」とリサが答えた。
「私は悪いことをしたから頼めないわ。それに天国へ行ける様な私ではないわ! イアンを遭難させたのは私のせいだし…」
「えっ! それどう言う意味?」と、リサはしかめ面をした。
「私がビバーク地までお供したりするのではなかったと思うし…」と、言ったクリスは黙ってしまった。リサは不思議そうな顔をしたまま何も言わなかったが、クリスが続け出した。
「イアンはね、私を愛していたから離婚に踏み切ったの。それなのに、その時私は彼を愛しているとは言えなかったの。離婚する前の彼との付き合いのほうがどういうわけか、私には刺激があって…」
「それをイアンに話したの?」と、驚いたリサは固い口調で尋ねた。
「いや、そうは言えなかったわ。ただ、私はイアンを大好きだけど、愛しているかどうかわからないって言ったの。その時、彼はひどく残念そうな顔をしていたわ。でも、後でそれでもいいって言ってくれて、私はほっとしたのだけど…」と、言ってクリスは首を横に振った。
「本当にそれで良かったのかしらねぇ?」と、リサが疑い深そうに言った。
「辛抱強い彼のことだから、それで我慢していたのだと思うわ。スリップ・ストリームの出発の時、イアンがいきなり私の唇に初めてキスをしたの。でも、後になって考えてみると、それは…、それは…、それは別れのキスではなかったかと思えてならないの」と、言ったクリスは下向きになり、口を歪めて泣き出した。
「イアンにキスを返さなかったのでしょう?」と、リサは手をクリスの肩にかけて、とがめる様な口調で言った。
「そうしておけば良かったのだけど、あまりにも突然だったし、考えもせず彼を引き離してしまったの」と、クリスは言って声を上げて泣き出した。「私が悪かったのよ。私って、いつもこんな失敗ばかりして! 私、もう本当にどうなってもいいわ、誰かが私の命を奪っても…」と、クリスはわめく様に言い、階段を下り出した。マイクはクリスの跡を追いながら言った。
「クリス、僕はそうじゃないと思う。イアンは山で自殺する様な登山家じゃなかった。ただ、イアンは君を愛していたからキスをしただけだと思う。崩壊した雪庇の塊に当たった登攀者が多いところだからさ、きっと彼も運悪く崩れ落ちた雪庇が当たって転落したのだと思う。きっとそうに違いない。だからさ、君のせいじゃない…」
マイクはリサに振り返り、「ノー」という口を示したが声は出さなかった。
「でもそんなに危険なところに一人で行くのは自殺行為じゃない?」と、クリスが振り返りもせず、捨てセリフを吐いた。
「じゃあ、なぜあなたもイアンに離婚を勧めたの?」と、リサはクリスをかばいながら言った。マイクの顔はますます赤くなり、しかめ面をリサに見せ、首を振りながら手を大きく上下に振った。
「それは親友としての助言だったし、あなたもそう言ったでしょう」とクリスが言った。「私も、友達としてそう言ったのだけどさ、あなたがそういった関係に刺激を感じるなんて、それじゃ、あまりにも亡くなったイアンがかわいそうじゃない」と、リサが攻める様に言った。それを聞いたマイクは上を見上げて頭を振った。
「そういったスリルのある関係とスリルのある登山はどこか似たところがあると思うけど」と、マイクがにやけて言った。
「勇敢な登山家はスリルを求めるって言うから」とリサが言った。
「そうだよ、クリスもイアンもそう言った勇敢な登山家なのさ」と、マイクが言いリサの顔を見ながら
「だからさ、リサと僕はまだ登山家の卵」と、言ってリサの肩に手をかけた。
「私、スリップ・ストリームをイアンと一緒に登らなかったのは臆病だったのかしら、離婚する前のイアンと関係を持てなかったのも臆病だった様な気もするし…」と、言ってクリスは階段の途中で立ち止まり、スリップ・ストリームを眺めた。
その時、立ち塞がったクリスのうしろから東洋人の男が通り過ぎ様とした。クリスはわからない外国語を耳にし、横へ避けた。しかし、それは以前、イアンがボストンを訪れていた日本人登山家と話していた様な話し方に気が付き、通り過ぎた男のうしろ姿に目を向けた。そのうしろ姿がなんとなくイアンのうしろ姿に似た感じがし、クリスはその男の跡を追いかけ出した。
男は何か急いでいるらしく、早足で階段を下りて行った。クリスはあと数歩で男を追い越せるところまで追い付いたが、突然彼女は立ち止まり、目でその男を追った。男は混雑した駐車場の中に消えた。クリスはスリップ・ストリームを見上げ、むせり泣き出した。
クリスに追い付いたリサは、
「クリス! そんなに思いつめないで? あなたのせいじゃないのよ」と、心配そうに言った。クリスは直ぐ様涙を両手でふき取り、リサに振り返った。リサに何か喋ろうとしていたが、言葉を考えていた。リサは黙ったままクリスが喋り出すのを待っていた。
「私、刺激だけを求めていたわけではないのよ。知らないうちに私はイアンの愛情に甘えていたのだわ…。彼はいつも私のそばにいてくれていながら、私は横着にも夢物語に出て来る様な男を探し、イアンには私の本当の気持を伝えそこなったの。彼がいなくなってそのことに気が付くなんて、私は本当に馬鹿だった。イアンは私のことを真剣になって考えてくれた最高の友達だったし、純粋に私を愛してくれたわ。もう、彼みたいな人はこの世にはいやしない…。だから…、だから、私、今からスリップ・ストリームの取り付きに行って、イアンを探すことに決めたの。イアンを見つけて、私の本当の髪の色を見せるの」