1~7章 カタカナ語数大幅に減少 8/03/2018
前書き:
固有名詞以外のカタカナ語が900箇所くらいあり、多すぎて読み難かったので、カタカナ語を500箇所くらい減らしました。最近の登山用語は英語そのままなので、登山用語に不慣れの読者の為、注釈を入れておきました。
この小説はインターネッタがあまり発展してなかった20年以上も前に書いた作品だったので、日本で使われているカタカタ英語の知識不足でした。 その為、英語そのままの意味や、英語発音に近いカタカナ書き方をしたため読み辛く意味不明なところが多かったようです。今回の編集作業ではオンライ調査し、通常使われているカタカナ書きに直すか、又は日本語に変更しました。
ここに投稿した小説「赤い氷壁」は第三版発行となります。 もっと多数の人に読んで頂きたいと思い、投稿しまた。 初版より原稿は縦書きでしたので、特に数字の表記が横書き形式になったままになっています。 第二版には以下の前書きを追加し、米国で五十冊製本しました。 第二版は日本国内の家族や友人、小中高学校同期生に読んで頂きました。
第二版発行にあたって、
日本語で本を書くと云うことは、当時三十年以上にわたって日常生活で日本語を使用していなかった私にとっては、大きな課題でした。 そこで思い出したのが日本にいる母、藤田[旧姓=富高]美恵でした。母は旧制高等女学校卒業後、第二次世界大戦中、軍需工場へ学徒動員さされていた中等学生に国語を教えたほど国語が得意で、文学を良く理解していたのです。 当然ながら、母にこの「赤い氷壁」の編集に協力してもらいました。 母の編集に加えて、登山用語の使用状態を日本にいる私の弟、耕三や山友達に確認して頂きました。初版ができましたのは言うまでもなくこうした援助があったからこそでした。初版は手製で、二十冊製本出来ただけでした。 初版から十数年経ち、第二版としてISBN番号付きの「赤い氷壁」を発行することにし、日本国内の出版社に正式に検討して頂きました。原稿をほぼそのまま出版出来るとのコメントを受取りましたが、残念ながら母の認知症は過度に進みこの吉報を伝えることができませんでした。一カ月後、衰弱した母は八十八歳で亡くなりました。 第二次世界大戦中、母は命がけで憲兵に見つからない様に隠れて、敵国人作家ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」を読んだそうです。この第二版は、文学の大好きだった母を追悼して発行することにしました。 二0一三年三月十三日 アメリカ合衆国マサチューセッツ州にて 藤田 信幸
第一章
澄みきった紺碧の大空に輝く太陽は白銀の山々を照らし、いっそうまぶしかった。地球温暖化が進み京都議定書が採決されたばかりではあったが、広大なコロンビア氷河から吹き降りてくる風は冷たく、太陽はまるで冷えきった孤独な恒星の様に輝いていた。
ここは北緯五二度、高度二千メートル、生き物を拒絶したツンドラ地帯。カルガリーから二百六十キロ、最寄りのガソリンスタンドさえも六十キロも隔てたカナディアン・ロッキーズ山脈の中なのだ。その荒涼な中、近代的な高速道路が一本南北に走り、そこには建物としてはコロンビア氷河案内センターだけがあった。
観光客が毎日の様に案内センターに大勢押し寄せ、観光バスや乗用車、キャンピングカーなどが、広大な駐車場を埋めていた。荒涼たる色彩の案内センターの建物は駐車場から巾広い緩やかな階段を上がったところにあった。高速道路の反対側には南極大陸を思わせる様な広大な氷原、コロンビア氷河があり、その末端には青みがかった灰色の氷河が舌の様に垂れ下がっていた。その氷河の左側には標高三四四三メートルのアンドロメダ峰がそそり立ち、右側には三四五九メートルのスノードーム峰が並び、白銀を競っていた。
観光客はその垂れ下がっ氷河を眺め、それを背景に忙しそうに記念写真を撮っていた。観光客の大半は東洋人で、そのほとんどはバンクーバーから団体バス数台で押し寄せていた中国人だった。しかし、団体バスの一台は日本人観光客らしく、バスに乗る時きちんと列を作り順番に乗っていた。その光景は物静かで整然としていた。彼らの服装、ヘヤースタイル、女性達の化粧なども洗練した気品にあふれていた。
そんな中、深緑色のフリース・ジャッケトを着た、すらりとした白人の女が階段の上で手すりにもたれかけ、白銀の嶺を眺めていた。女優の様な派手に化粧をしたその女は大きな青い目を微風に細め、ドイツ系特有の固い表情をしていた。燕脂色に染めたその髪は深緑色のジャッケトと燃える様に対照し、微風に震わせていた。観光客はぞろぞろと案内センターを出入りし、ほとんど、その女には気が付かず通り過ぎて行った。
その時、陽焼けした金髪の女が案内センターから出て来て、髪を染めた女の斜め後ろで一瞬立止まった。その女の眺めている山に目をやり、静かにその女のそばに歩み寄った。
「クリス! どう? 大丈夫?」と、青ざめた女の横顔を見ながら金髪の女が尋ねた。その女の英語はカナダのアクセントではなかった。白銀に輝く山を見上げていたクリスは振り返って、
「ええ、大丈夫! リサ」と答え、涙でうるんだ目を指で軽く拭いて、澄んだ真っ青な瞳に微笑を浮かべた。クリスの英語もカナダのアクセントではなかった。
「あの〜、マイクと私、レストランへ入るんだけど、あなたも私達と一緒に如何?」と、リサは心配そうな顔で尋ねた。リサは癖のある洒落たボストン・アクセントで喋ったが、クリスは癖のないアメリカ中西部のアクセントで丁寧に答えた。
「有難う。でも、私、もう少しここにいたいの。ねえ、お願い二人でどうぞ」
「ええ、わかったわ」と、リサは言って案内センターのドアへ向かった。ドアを開きながらクリスの眺めていた山にもう一度目を向け、中に入って行った。
クリスはまたスノードーム峰を呆然と眺めだした。フリース・ジャケットのカラーを立て直し、首からぶら下げていた双眼鏡でスノードーム峰の右肩をしばらくのあいだ覗いていた。双眼鏡から目を離し、ため息をつきながら「もう少しで終わっていたのに…」と、つぶやき、頭を左右に僅かに振った。
案内センターの中で待っていたマイクは、外から戻って来たリサに
「クリスは来ないの?」と、リサと同じアクセントで尋ねた。
「もう少し一人でいたいって! 私達だけでレストランへ入りましょう?」
「オーケー」
「私が思うには、クリスにとってはここへ来るのが早すぎたみたい」とリサが言った。
「僕も始めからそう思っていたのだけど、彼女がどうしてもここへ来たがったのだから、仕方がないね?」とマイクが言い、二人はレストランへ向かった。
第二章
その三ヵ月前の四月中旬、案内センターはまだ深い雪に囲まれていた。クリスはその同じ場所で彼女より幾分背の高い黒髪のイアンと云う名の男と並んで立っていた。ウエーブの付いた黒髪はきちんと刈ってあり、クリスのちぐはぐな登山衣装とは違い一流メーカー製品を身に着けていた。その時、クリスはイアンとアンドロメダ峰のアンドロメダ・ストレインと言う名の最難関なルートを狙っており、そのルートを双眼鏡で覗いていた。しかし、イアンはスノードーム峰の右肩にあるスリップ・ストリームと言う名のルートにも時々、双眼鏡を向けていた。案内センターで晴天の連続した天気予報を聞き、二人は踊る様に喜び握手した手を空高く上げ、成功を誓った。
車に戻ったクリスとイアンは駐車場で荷造りし、いさんでアスベスカ峰とアンドロメダ峰の間にあるAA氷河という名の氷河に向かって出発した。良くしまった残雪の上をシールを付けたスキーで進み、氷河下部の岩場でスキーをデポした。氷河の上ではザイルを結んで歩き、数時間後、アンドロメダ・ストレインの取り付き近くに辿り着いた。
天気の良いことと軽量化を考え、テントは使わず寝袋カバーみたいなビバークサックを各自持って来ていた。ビバークサックは寝袋やスリーピングマットの他、衣類や登山靴等も中に入れられるくらいの大きさで、生地がゴアテックスであるため通気性もあり、雨が降っても中は濡れないデザインであった。プライバシーを好む米国の登山家の間ではテントよりも人気があった。
氷河の上にビバークサックを二つ並べ、その間に小さなガス・ストーブを置き、夕食の準備に取りかかった。陽はまだ落ちていなかったが、ビバーク地は既に日陰となり青みをおびていた。二人共、羽毛服を着るほど寒かった。冷えた方が登攀に良いコンディションとなるということは二人とも良く知っていた。簡単な夕食が済んだ頃、ビバーク地は薄暗くなり始め、二人共ビバークサックに入る準備をしていた。
クリスはイアンのリード(=先行、ザイルのトップを登ること)に確信を持ち、彼の跡を追うことにも自信があった。体調も良く、成功する要素が揃っていることで、クリスはすこぶる機嫌が良かった。そのせいか、数時間のボッカの疲れも見せず、夕食や寝支度の準備などに鼻歌や小踊りが交じり、いつも以上に子供っぽくふざけ気味だった。
真近に見上げるアンドロメダ・ストレインは夕焼け空に黒い壁を前後に引き裂いたかの様に鋭く切り立ち、陰険な青氷が詰まっていた。見れば見るほど、登攀不可能な様で、初登されるまで六年間もかった難しさを未だに残していた。
イアンはアンドロメダ・ストレインを見ながら、鋭い脅威を感じていたが、不安は隠していた。未知で困難なルートを登攀する前は、この様な気持になることは普通なのだ。しかし、その心配をパートナーに言うことは決してプラスにはならないことを計算していた。そんな彼の心境も知らず、クリスはビバークサックにもぐり込んだイアンと芋虫のもみ合いをし、荒荒しくふざけていた。
暗くなると、無限大に広がる真っ暗な空には無数の星が輝き、気温はさらに下がっていった。
午前三時、腕時計の目覚ましで目を覚ましたイアンはビバークサックから上半身を起し、ヘッドランプを付けて、湯を沸かす用意をしていた。ビバークサックから飛び出したクリスは「寒い 寒い」と言いながら、寝袋など登攀に不必要な物をまとめ、自分のザックに詰め始めた。二人はザック一個で登攀する予定であった。
湯が沸くとクリスはいつもながらの手間のかかる紙フィルターを使ったコーヒーを作り出した。イアンはさっさとティーバッグで紅茶を作った。二人ともクリーム・チーズをたっぷりと付けたベーグルを食べ始めた。
「何度くらいだろう?」とイアンが言った。
「零下五度」と、クリスはザックのチャックにぶら下げていた温度計を見ながら言った。
登攀装備を身に付けて出発の準備ができたのは午前三時四十分だった。ヘッドランプをヘルメットに取り付けて、イアンが先頭にザイルを結んで歩き出した。真っ暗な空には都会では見られないほどに無数の星が光っていた。
二十分も急な雪面を登ると、緩やかな巾広いクーロアールとなった。クーローアールを右側にトラバースしたり、左へトラバースしたりしながら高度を上げて行くと、巾の広いチムニーの下に着いた。辺りが見えるくらい明るくなっていた。
そこからはいよいよ本格的な登攀の始まりなのだ。一人ずつ登り、後に残された者が先頭を行くパートナーをザイルで確保する形式で、ザイルの長さ五十メートルの一間隔、一ピッチごとに登り始めた。
まず、イアンが先に登り出し、クリスはイアンを確保した。チムニーを登るとオーバーハングした岩の下に着き、そこでイアンは少しばかり躊躇していた。しかし、それほど時間を無駄にせず、下で確保しているクリスに
「落ちるかも知れないぞ!」と、イアンは大声で注意し、右上にある滑らかなスラブへ移って行った。
太陽は出ていたが、幸いにもここはまだ日陰だったせいかスラブの表面は雪が固く付着しており、イアンはそれを利用すれば難しくないかも知れないと思った。アイスアックスとアイゼンの前爪を軽く突き刺してスラブを登れば良いと考えた。あまり強く蹴り込むと付着した雪を崩しかねないので、慎重にアイゼンを蹴り込みながら右上に登って行った。下から見守っていたクリスの目にはそれは猫の様に軽々と動いているかのように写っていた。
残置ピトンの確保支点から一五メートル登ったところで、凍った雪が思いもかけず崩れたのだ。イアンは足場を失い、右足がずり落ちてしまった。数センチの雪に刺していた両手のアイスアックスがかろうじて、雪の下の岩の刻みに引っかかっており、イアンの体重を支えてくれ、転落を免れた。イアンの心臓は激しく鼓動し、呼吸が穏やかになるまで一旦そこで立ち止まった。
もう数メートル登らなければ、信頼できそうな確保支点は設置できず、イアンは少しためらっていた。しかし、それは一瞬のことで、時間を無駄にせず、アイスアックスをテストしながら慎重に右上へと動き出した。息をこらし、アイスアックスを固く握り、祈るようにして登っていた。クリスはザイルのたるみを瞬間的に引き戻せる体制ではあったが、神経質に何度か自分の足場を点検し、まばたきもせずイアンの動きを見守っていた。
そのピッチを登り終えると、イアンは万全な自己確保を設置しクリスを確保した。クリスもイアンと同様にスラブへ移行するところで躊躇したが、アイスアックスとアイゼンを軽く利かせて、確保しているイアンのところへ登って行った。クリスはにっこりしながら言った。
「わー、すごくデリケートなところだったわね!」
「本当に緊張の連続だったね」と、イアンがにこにこしながら言った。
登って来たクリスは休むことなく自己確保を取り、イアンに回収した確保支点具を手渡した。イアンを確保する用意ができた時、イアンは次のピッチを登る用意ができていた。この息の揃った二人の作業は、長いルートを登攀するには不可欠だった。
そこからはクラックとなり、確保支点を設置してはそれを掴んで登るという手間のかかる人工登攀となった。そのため時間がかかり、下で確保してるクリスは羽毛服を着ていながら寒さを感じ出した。しかし、不満も言わず黙ってイアンを確保していた。
登り終えたイアンは上からクリスを確保していたが、やはりクリスも時間がかかった。イアンの羽毛服はクリスの背負っているザックの中にあり、イアンはすぐに寒くなったが、黙ってクリスの登って来るのを待っていた。寒さに我慢できなくなる度、イアンは全身を揺さぶっていた。頭上に見えるルートの出口にはまぶしく照らされた雪面があり、日陰にいるイアンにとってはそれが温かそうに感じた。
二人は黙黙と高度を上げて行ったが、まだルートの半分も登っていなかった。もう既に午後となり、頂上の反対側に回った太陽が真下に見えるAA氷河に暗い影を落とし始めていた。ここでビバークすることなど考えられず、イアンはやや焦りを感じていた。クリスも内心その心配をしていたがイアンには言わなかった。
雪の被った狭いバンドを越すとオーバーハングがあり、そこも人工で乗り切り、上部クーロアールに着いた。長いクーロアールを四ピッチ登ると、先を塞ぐ様に突き出た氷壁が二人を待っていた。イアンは躊躇なくその氷壁を登って行った。クリスはザックを背負っていたが、その重さにも敗けず、一度もザイルにぶら下がることもなく登り切った。この辺まで登ってしまうと傾斜が緩やかになり、今日中に上へ抜けられそうな気がし、二人とも緊張感が和らいだ。
そこからはクリスがザックをイアンのところに残してリードし出した。身軽になったクリスはスピードが出、それを見ていたイアンは驚いた。クリスは最後のピッチを終え、ついにルートを登り切ってしまった。
イアンはクリスの確保しているところに登り着くと、ザックを背負ったまま座り転び、仰向けに寝転んだ。
「We made it. We really did it. (=やったぞ、本当にやったぞ)」と、イアンが寝転んだままアイスアックスを空高く揚げて叫んだ。
「Really great! (=本当に、最高だわ)」と、クリスもアイスアックスを振り揚げて叫んだ。二人共奇声を上げ、握手し固く抱擁しあった。もう既に太陽は西空に低く傾いていた。
「早いとこ、頂上に向かおう」とイアンが言った。
頂上を回って下山するためには、あまり時間はなく、二人は高揚した心をおさえて、休む暇もなくザイルなど登攀用具をてきぱきと整理し頂上へ向かった。一度も休まず、ゆっくりと重たい足を動かしていた。日ぐれ、二人はアンドロメダ峰の山頂に達したが、一時立ち止まっただけで、AAコルに向かって下り出した。
AAコルに着いた時は既に薄暗くなっており、ヘッドランプをザックの中から取り出し、ヘルメットに取り付けた。そこで休むこともせず、すぐにAA氷河へ下った。氷河に下り降りた二人は再びザイルを結んだ。
イアンはかなり疲労をしており、先頭を進んでいたクリスに引っ張られながら彼女の跡を追って行った。ついに真っ暗になり、今朝のビバーク地が見つかるかどうか心配になってきた。
「ここで、羽毛服だけでのビバークは酷く寒いわよ」とクリスが言った。
「二人で一つのビバークサックに入ればそれほど寒くはないと思うがな?」と、イアンは笑いながら言った。
「いやよ! あなただけでそうして、私このまま今朝のビバーク地を探すから」
「きっと見つかるから、もう少し頑張ろう」とイアンが言った。
星空のバックに黒い輪郭を残した山の稜線から見当しながら歩いていると、昨日登ってきた自分達の足跡を発見した。足跡を遡って今朝のビバーク地に戻ったのは夜の十時を過ぎていた。
疲れきったイアンはザックを氷河の上に投げ捨てた。休むこともせず、二人はザイルを取り外し、一日中腰に取り付けていたハーネス(=安全ベルト)も外した。イアンがザイルを巻き直している間、クリスはコッフェルに雪を積め、ストーブに点火した。青く燃えるストーブの明りが雪面に反射すると、二人の緊張感も解け始めた。湯が沸くのを待つ間、二人は羽毛服をかけ、ビバークの準備をしていた。
ビバークの用意ができた二人は向い合って、ビバークサックの上に腰を下ろした。湯が沸くとフリーズドライのインスタントフードの入ったビニール袋に湯を注いだ。イアンはインスタントフードがやわらかくなるのを待たずに食べ始めると、クリスも食べ出した。二人とも何も言わずにもくもくと食べていたが、どちらからともなくアンドロメダ・ストレインの話が出ると、二人は陽気になった。
登攀で酷使した身体は疲労してはいたものの、登攀に成功した満足感で精神的には至極快適そのものだった。
「イアン、ルートは本当に難しかったけど、あなた良くリードしてくれたわね。あの一番難しかったチムニーから右上に登るところ、私、少し心配だったけど、あなたの顔を見ていたら、できると思ったのよ! あなた、ちっともおびえず驚くほどに冷静に登っていたわよ」
「ああ、あそこはかなり厳しかった。怖くて引き下がることも少しばかり脳裏に浮かんだけど、あわてずに一つ一つ、困難を突破すればいいと思ってやってみたんだ。でも、足場が崩れた時、本当にひゃっとしたなぁ」
「そうね、あそこで落ちていたら、三十メートルは転落していたと思うわ」
「そうだろうな。アイスアックスが岩に引っかかっているとは思っていたけど、それは本当だった。でも、君がしっかりと俺を確保しているのを見て、心強かったよ」
「そうだわ、チームワークも成功の一つだったと思うわ」
「もちろん、それもあった。それがなければ、ここには来ていなかったとも言えるし…。後半で君がリードしてくれなかったら、今ここへは戻っていなかったかも知れないよ?」
「あそこから私にリードさせてくれて本当に嬉しかったのよ。あの前まではリードする気持はなかったけど、あそこからは私には丁度良かったわ」
「あのトラバースのことだけど、あそこではあまり確保支点が設置できなくて、俺、本当に心配していたんだけど…、う~む、君は転落しなかったなぁ」と、言ってイアンは笑いだした。
「イアン! 本当に私があそこで転落すると思ったの? そんなに私に自信がなかったの?」と、言ってクリスは目の前の雪を登山靴のかかとで蹴った。飛び上がった雪がイアンの顔に当たり、
「冗談だよ! クリス、知ってるくせに!」と、言ってイアンも負けずにクリスに向かって雪を蹴り上げた。
お互いにふざけ合うのを止めると、二人共、寝支度をし始めた。ヘッドランプを消すと今朝と同じ様な星空が展開していた。ビバークサックに入ったイアンはしばらく考えていたが、言い出した。
「明日は予定どおりジャスパーの温泉に入ってのんびりとするけど、明後日はスリップ・ストリームを登りに行かないかい?」
「えっ! それ本気?」
「もちろん、本気だよ。アンドメダ・ストレインを登ったから、今度はスリップ・ストリームを登りたいんだ」
「ねぇ、イアン、スリップ・ストリームのことはもうキャンモアにいた時に話をしたでしょう、危険だから登らないって」と、クリスは固い口調で言った。
「そうだけど…」と、イアンは不満そうに言い黙ってしまった。しばらく沈黙が続いたが、クリスが言い出した。
「あのルートの上にある大きなセラックが今にも落ちそうだし、セラックでなくても、雪庇の一部が絶えず落ちて来ては登攀者に当たる話を聞いていたでしょう。それで私は登る気がなくなったし、確か、あなたもそう言っていたわ」
「セラックは今、安定しているみたいだし、今日みたいな寒さが続けば雪庇は落ちて来ないはずだ。だけど、君が登りたくないって言うんなら、俺一人でやるけど、良かったら、スリップ・ストリームの取り付きまで一緒に来てくれないかい?」
「えっ! ひとりで? それは考え直したほうがいいわよ」
「まぁ、ともかく取り付きまで一緒に来ないかい?」
「あなたって、本当に諦められないのね?」と、クリスが言ったがイアンは何も言わなかった。
再び沈黙が続き、クリスは考えていた。まだ時間はあることだし、今イアンの気持を変えさせる必要はないのだ。そう考えたクリスが口を開いた。
「出発は早朝なの?」
「いや、そうじゃないんだ。今回と同じく、午後になってから取り付き点近くまで行き、ビバークだ。だからそのビバーク地点まで付き合ってくれるかい?」
「私に荷物担ぎのポーターになれって言うの? 冗談じゃないわ」
「違う 違う! 俺の登攀を真下から見守って欲しいだけだよ」
「つまり、あなたが転落したら、抱き止めてくれって言うの?」
「まあね、そんな感じ…」と、イアンは言って寝袋の中でにこっとした。
「じゃぁ、ビバーク地までお共してもいいわ。スリップ・ストリームを真近で見てみたいし…。でも、言っておくけど、これはあなたの単独登攀に賛成したわけじゃないのよ?」
翌日、二人はゆっくりと下山しジャスパーへ向かった。ジャスパーの巾広い商店街で駐車し、空いたレストランに入り、夕食をした。食べた後、二人は温泉プールに入った。真っ赤に陽焼けした顔だけを覗かせた春山スキーヤー達の中、真っ白い顔をしたクリスはまるで観光客みたいでもあった。陽焼け止めクリームをたっぷりと顔に塗っていたクリスは全く陽焼けしてなく、それに習ってクリームを塗っていたイアンもあまり陽焼けはしていなかった。二人はアンドロメダ・ストレインの話に弾み、一時間も漬かっていた。
既に外は暗くなり、はく息は白かった。
「今夜も冷えるな」とイアンがつぶやいた。
「そうね、今週いっぱいは寒波にみまわれるから、スリップ・ストリームはきっとコチンコチンに固く凍っていて、登れないわよ。それにどんなに寒くたって、セラックはいつだって崩れるか、わかりはしないわ!」とクリスが言った。
「凍っているからいいんだよ」とイアンは笑いながら言い、「だけど心配するな。素早く登るから、当たる確率はほとんどないんだ」
「確率はそうだけど、運が悪ければ…」
「二人で登るよりも、俺一人で登ったほうが時間は半分もかからないし、的も半分だから、落ちてくる氷や雪の塊が身体に命中する確率はぐんと低くなるだろう?」
「数学的にはそうだけど…。あなたはやはり科学的に考えるのね?」
「おいおい、俺はエンジニアであることが嫌いなんだ」
「とは言っているけど、職柄が出ちゃうのね」
アンドロメダ・ストレインの登攀に一日予備を持っていたので、その晩のジャスパーでの宿泊先は予約がなく、泊まるところを探していた。ホステルは満員だったので、二人は安いモーテルのベッドが二つある一部屋に泊まった。疲れていた二人は電気を消すとすぐに眠ってしまった。
翌日午後、二人はスキーでスノードーム氷河に入った。ビバーク地にザックを残し、ルートの偵察のためスリップ・ストリームの取り付きまで登った。二人共黙ってルートを見上げていた。青く凍った氷壁は氷河から稜線に向かってほぼ一直線に伸びていた。それは長い滑り台を見上げている感じで、イアンにとっては手招きをしているかの様に見えた。
イアンは詳しくルートを観察し、早朝の暗闇の中でも登れるようにとルートの下部を憶えこむように見ていた。その時、クリスはセラックと雪庇を注意深く調べ、その落ちた形跡なども探していた。ルートの終了点である稜線には厚さ百メートルもありそうなセラックが、不気味にも前かがみに立ち塞がっていた。そのセラックの上には雪庇があり、巨大な翼のように突き出していた。それはあたかも氷壁を挑戦者から不備なく守っているかの様にクリスの目には映っていた。
クリスはその時、雪庇かセラックでも落ちてくれば、それでイアンは登攀意欲を失うのではと思っていた。ところが、期待に外れ何も落ちて来なかった。夕方のスリップ・ストリームは日陰なので安定しているとは言っても、それだけではイアンを納得させることはできなかった。
ビバーク地に戻った二人は口論になりそうなくらい話し合ったが、クリスはイアンの単独登攀を諦めさせることはできなかった。イアンにとっては氷壁登攀の最高難度7の中、スリップ・ストリームの難度が4+という技術的に易しく、それ自体では登攀のメリットはなかった。しかし、千メートルもある長いルートであることと、究極そのものである危険な要素が高いこのルートに挑戦することには大いにメリットがあった。単独であれば迅速に登れ、それが安全に結び付くということはアルピニストであれば誰しも知っていることだった。というわけで、クリスが登らないということは内心喜ばしかった。しかし、単独登攀に対して彼女から危険視されるよりも、逆に少なくとも精神的なサポートくらいはして欲しかった。彼女にビバーク地まで来てもらうことはそういった理由からであった。
イアンの気持がクリスに理解されたのかどうかイアンにはわからなかったが、夕食前頃から、彼女の態度は目に見えるほど変わってきた。イアンの出発を前にし、クリスは彼を不愉快な思いにはしたくなく、できるだけ彼の準備の邪魔にならないように心掛けたのだ。夕食の時、クリスは冗談話を楽しく振舞っていた。
夕食後、イアンは早めに寝袋に潜り込み目を閉じたが、寝袋に入ったクリスはペーパーバックを読んでいた。暗くなるとヘッドランプを点けて本を読み続けた。その晩、イアンは翌日の登攀が気になり、眠りにつけなかった。登攀のことを考えない様にしていると、クリスと共に過ごした数年間がよみがえってきた。
第三章
ロッキー山脈麓にある国立研究所の研究員だったイアンは大統領が代わる度、国家予算の変更が気にかかっていた。国立ではあったが民間に下請けされており、解雇と採用は頻繁に行われていた。そういった中、イアンは失業してしまい仕事を探していた。運良く安定した民間企業での採用が決まり、二十年近く前住んでいたマサチューセッツ州に引越して来た。
山は低いが岩登りや氷壁登攀ができる山地があり、住み慣れたところでもあり知人も多くいた。低山ということもあってか、意欲的に登る気がしなくなっていた。引越した当初、ボストンの大学時代からの山仲間でもあった親友を登山事故で亡くし、山から離れてしまっていた。その頃は成長して行く娘や仕事などで忙しくて山行きはあまり出来る状態ではなかったとも言えた。そういった十年くらいのブランクの後、再び山を登り始めたのは以前住んでいたユタ州の山仲間と一緒にアラスカのゲート・オブ・アークティック国立公園でスキー登山をしたことがきっかけであった。
それ以来、イアンは天気さえ良ければ毎週末の様に、ボストン近郊の岩場へ一人で出かけていた。単独であったので、主に岩場下部のトラバースに熱中していた。とはいっても、登攀技術が必要で、その練習をすることで、手足、肩などの訓練になっていた。次第に顔見知りの人が増え、ザイルを組む機会も増していった。冬季は一人でアメリカ東部の最高峰である二千そこそこのワシントン山のハンティングトン渓谷に行き、凍ったガリーを単独で登ったり、不特定なパートナーと氷壁登攀をしていた。
一番親しくなっていたのは日系人四世か五世であるジョンであった。彼に誘われて、一月のある週末イアンは氷壁登攀に行った。ジョンの所属するボストンの社会人山岳会が二週間おきにニュー・ハンプシャー州の山地にある山小屋を貸し切って山岳会会員やその友達が集まり、氷壁登攀をしていた。その山小屋はワシントン山の麓にあり、車道から百メートルくらい入った雑木林の中にひっそりと建っていた。
駐車場として、車道の両側は巾広く除雪され、その金曜日の晩になると十数台の車が駐車していた。どの車もマサチューセッツ州のナンバープレートが付いており、中には山岳会のステッカーを窓ガラスに張り付けた車もあった。ジョンとイアンは会社が終わってからボストンを出たので、雪の積もった道を二百五十キロ走ってここに着いたのは夜の十時過ぎだった。
イアンとジョンは大きなダフルバッグを肩にかけ、ヘッドランプの明りを頼りに山小屋へ向かった。深い雪の中にできた踏み跡は狭く滑りやすかった。踏み外さない様にと、明りの点いた山小屋へ向かって歩いていた。踏み外すと、雪が長靴の中に入り、ズボンや靴下が濡れてしまうのだ。山小屋は二階建ての丸太小屋であった。入口で長靴に付いた雪を落して、ジョンとイアンは丸太小屋の中に入った。
入ると、黒々と汚れた板の間の広い部屋があり、大きな長いテーブルが二つ平行に並んでいて、その両側には長い椅子が置いてあった。電灯が点いていたが、部屋の中はそれほど明るくなかった。ガス・ストーブが暖炉の前に備え付けてあり、暖炉はすでに使われないみたいであった。ガス・ストーブの熱で上着もセーターもいらないほど温かかった。
テーブルを囲んで楽しそうに雑談をしているグループや荷物の整理をしている者など、もう既に、二十人くらい集まっており、混雑していた。山小屋の中へ入ったばかりのイアンは荷物の置き場所を探していた。二階が寝室となっており、ジョンは寝袋をダフルバッグから取り出し、靴を脱いで二階へ上がった。イアンも寝袋を持って二階へ行った。
階段を上がったところは屋根が下がったところで天井が低く、それに気が付かなかったイアンは天井の柱に頭をぶっつけた。目から火が出るほど頭を強く打ち、悲鳴を上げた。しかし、下の部屋にいる者は各々の会話や荷物の整理などに没頭しているせいか、悲鳴には気が付かなかった。
寝室とは言っても単なる屋根裏で、板の床にスリーピングマットを敷いて、ごろ寝するところであった。屋根裏の真ん中は天井が高いところなので、言わずとも通路となっており、無数の寝袋がその両側に並べられていた。空いた床の上に、イアンは頭上を注意しながらスリーピングマットを敷き寝袋を載せ、下へ降りた。
部屋を見回すと、彼らの年齢は若いのが二十代後半で、中には七十才くらいの老人もいた。しかし、三十代から四十代が大半だった。男ばかりでなく女も数人いた。イアンは幾人か見覚えがある人達の会話に入ろうかと躊躇していた。
ジョンは赤髪の女と話し出し、イアンにその女をキャッシーと言って紹介した。キャッシーの大きな目が薄暗い部屋の中でも青く見えるほどの青さで赤髪と対照的だったことをイアンは今でも憶えていた。その時、キャッシーの青い目がとても情熱的に見え、イアンは一目で彼女に憧れてしまった。
イアンは学生時代、ある赤髪で青い目の女性の虜になったことがあり、それ以来、赤髪で青い目の女性は常にイアンの憧れであった。情熱的な青い大きな目であればなおさらであった。しかし、その後イアンが再びその情熱的な青い目にお目にかかれたのは春になってからであり、しかも、それはボストン近郊の岩場で彼女と挨拶を交わした程度であった。
*
キャッシーと逢ってから一年か二年後の冬、イアンははっきりと思い出せなかったが、ある日曜日、ニュー・ハンプシャー州のフランケンシュタイン岩壁でリックと言う名の男と氷壁登攀をしていた。三十メートルの凍ったクーロアールを登ると、高さ十メートルもある大きな氷柱がぶら下がっていた。
イアンがその氷柱の下端にアイスアックスを振り込んだ一瞬、氷柱の下部が砕け、直径三十センチくらいの大きな氷の塊がクーロアールに落ちて行った。イアンが登り始めた時、リックはクーロアールの脇で確保していたが、その時、イアンはリックがクーロアールの真ん中に移動しているのに気が付いた。イアンはとっさにリックに向かって大声で叫んだ。
「アイス(=氷の塊)! ヒュージ(=巨大な)アイス!」
イアンはリックがイアンと目を合わせた気がし、彼が岩陰にしゃがんで隠れるのを目撃した。その巨大な氷の塊はリックが避難した岩陰に消えて行った。
イアンはそれを見た一瞬、しまったと思った。リックの名を二度呼んでみたが応答はなかった。三度目で、やっと
「大丈夫だ!」と、言ってリックは突然岩陰から顔を出した。イアンはその顔を見てぎょっとした。顔の左半分は血で真っ赤になっていた。
リックは岩陰に避難していた時、卵くらいの大きさの氷がすっ飛んで行ったので、思わず顔を揚げてしまい、巨大な氷の塊が顔に命中したのだった。血まみれだが、怪我はそれほどではないからと言って、リックは一人で雪の取り付き道を下り、三百メートル離れたところで氷壁登攀をしている彼の恋人、ヘザーを探しに行った。
イアンはその場にアイス・スクリューを捻込み、ザイルを掛けて懸垂下降した。そこから右側を回る下降ルートである雪の小径を登って、その氷柱の上に辿り着いた。そこに立っていた白樺にザイルを掛けて懸垂下降し、アイス・スクリューを回収した。その間、リックはヘザーが女友達ばかり三人で登っているところへ血まみれのまま現れ、ヘザーを気が失うほどに青ざめさせた。その三人の一人、コリーが怪我の応急手当をし、ヘザーがリックを病院へ連れて行った。
回収作業を終えたイアンはリックの跡を追い、ヘザー達のところへ着いた。そこにはコーリーとキャッシーだけがいた。リックは既に病院へ向かっているということをコーリーから聞き、イアンは病院へ行くつもりでいた。しかし、応急手当をしたコーリーの説明でリックの怪我の状態を知ると同時に、イアンまで病院へ行く必要はないとコーリーが説得したので、イアンは病院へ行くことを諦めた。まだ午前中でもあったし、コーリーから誘われて、彼女達と一緒に登ることにした。
この時、イアンは久しぶりにキャッシーと会い、彼女達と初めて氷壁登攀をした。イアンは他の女性が氷壁を登っているのは見たことはあったものの、女性と氷壁登攀をするのはこれが初めてであった。垂直に近い四十メートルの固い青氷をイアンが先に登攀し、コーリーとキャッシーが一人ずつ跡を追った。その時、コーリーは途中で力尽きて敗退したが、キャッシーは二度もザイルにぶら下がりながらも、四十メートル完全に登り切った。
その日の夕方、コーリーとキャッシーはイアンを夕食に誘い、帰り道、ノース・ウッドストックというこぢんまりとしたスキー場の町にあるインテリアの凝ったレストランに入った。コーリーは二十八才の独身、キャッシーは三十八才の離婚女性、四十八才のイアンは結婚しており、大学生の娘もいた。三人が十才間隔の年齢だったのは偶然であった。しかし、山を愛好する者には年齢の隔たりを感じさせず、三人は楽しく夕食をしていた。
コーリーはストロベリー・ブロンド、キャッシーは人参みたいな赤い髪をし、強いて言えば二人とも赤髪であった。コーリーの目はそれほど青くなかったが北欧とアイルランド系の混血で可愛いらしい顔をし、キャッシーは魅力的な大きな青い目を持ち奇麗な顔をしていた。キャッシーはコーリーほどの若さはなかったが、子供ぽい表情をすることもあった。その時、イアンは両手に薔薇を持った様な気分だった。コーリーは口を開くと休むことなく話し続けたが、キャッシーは一言ずつ言葉を考えながら話していたのが対照的だった。
コーリーとは以前から近郊の岩場で良く顔を合わせていて、彼女のことは良く知っていたが、キャッシーのことは全く知らなかった。キャッシーもイアンのことはジョンから聞いた話くらいで、彼のことはほとんど知らなかった。しかし、その時、イアンもキャッシーも、互いに長い登山経験があることを知り合った。その年の春、キャッシーは二度目のアンデス登山の計画中であり、イアンは毎年の様に夏はヨーロッパアルプスに通っていた。
一ヵ月後の二月下旬、ボストンの山岳会主催の氷壁登攀講習会でイアンが山小屋に泊まった時、キャッシーも来ていた。
「ジョンとブラック・ダイク・ルートを登ったって聞いたけど、どんなだったの?」と、キャッシーがイアンに尋ねた。イアンはキャッシーから話しかけられ、にこにこしながら言った。
「あぁ、とても良かったよ。だけど、すごく寒くて全く冷蔵庫の中にいるみたいだった。酷い雪煙で粉雪が下からも吹き上げてきて、まぶたが凍り付いてしまうんだ」
「ジョンは寒くて面白くなかったと言っていたけど、そんなに酷い状態だったの? でも良くリードできたのね」と、キャッシーは感心しながら言った。
「それはね、俺は使い捨てカイロを使っていたけど、ジョンは使っていなかったから、彼はとても寒くてみじめだったんだ。彼に、使い捨てカイロをあげたのだけど使わなかったんだ」
「へーぇ、だからなの。で、あの悪名の高い、岩のトラバースってどんなだったの?」と、キャッシーはルートについて色々な質問をした。キャッシーはニュー・イングランド地方で一番恐れられている有名なブラック・ダイクを登ってみたかったが、パートナーがいなかった。
「じゃぁ、いつか俺と一緒に登ってみる?」と、イアンが提案した。
「有難う。本当にそうできればいいのだけど…」と、キャッシーは言い、青い目を輝かせた。イアンはそうは言ったものの、今シーズンはもう終わりかけており、春先は氷のコンディションが悪くなるので気にかかった。幸か不幸か、その年はシーズンが早目に終わり、イアンはキャッシーとブラック・ダイクを登る機会がなかった。
それから、二年間イアンはキャッシーを見かけなかった。イアンはニュー・ハンプシャー州の岩場を好んでいたが、キャッシーはコーリーとニュー・ヨーク州にあるガンクスへ岩登りに行っていた。そのせいか、イアンはコーリーも近郊の岩場では見かけなかった。その冬、イアンは氷壁登攀でもキャッシーを見かけなかった。翌年の春も、キャッシーは好みの岩場であるガンクスへ出かけ、イアンはニュー・ハンプシャーの岩場へ行っていた。結局、去年と同じくその年も二人は顔を合わせることがなかった。
その秋、イアンはボストンの山岳会に要請され氷壁登攀の講習会の講師をつとめることが決まった。会員でもないイアンは毎年断っていたが、会員達と登る機会が多くなっていたので、合意してしまったのだ。同じ様な講習会が岩登りでもあったが、イアンは忙しいことを理由にその講師になることは避けていた。しかし、キャッシーは山岳会が主催する岩登り講習会の講師として活躍していた。次第に、イアンはキャッシーのことは忘れかけていた。
その春、イアンが良く行く近郊の岩場でキャッシーを見かけた。その時、キャッシーは髪をオレンジ色に染めていた。イアンは、そんな色に染めたキャッシーが不思議でもあり、情熱的な赤髪がなぜ嫌いなのだろうと思った。しかし、その時、キャッシーが名前をクリスに変えたと言い、イアンは分けがわからなくなってしまい、それ以上尋ねなかった。
半年後の九月、ボストンの登山用具店にアメリカの女性岩登り家で有名なリン・ヒルが訪れ、スライドショーを公演した。その時、イアンは折しも日本から尋ねて来ていた女性登山家を連れて、そのショーを観賞していた。その会場でピンク色に髪を染めたクリスと出逢い、イアンは日本人登山家を紹介した。オレンジ色にはがっかりさせられたので、ピンク色の髪が気に入ったとイアンはクリスに言った。しかし、ピンク色に染めている彼女を理解できなかった。クリスはイアンの隣に座り、丁度その時ジョンも現れ、クリスの隣に座った。クリスとジョンが忙しそうに話をしていたのでイアンはあまりクリスとは口を利かなかった。
第四章
冬がやってきて、氷壁登攀のシーズンが訪れると、クリスは難しい氷壁ルートを登るイアンを思い出し、突然、彼に電子メールを送り、ブラック・ダイク・ルートのことを問い合わせた。早速、イアンよりブラック・ダイクの誘いがあったが、イアンとは二人だけで登山をしたことがなかったので、いきなり山奥にある困難なルートを狙うことをためらった。イアンにとっては難しいルートとは思えなかったが、クリスの提案した手近なフルーム渓谷へ日帰りで行くことに合意した。
クリスはボストンに隣接したケンブリッジに住んでおり、イアンはボストンの西郊外に住んでいた。二人は早朝、マサチューセッツ州の北部、ニュー・ハンプシャー州との州境近くにあるマリアット・ホテルの駐車場で落ち合った。クリスは髪を燕脂色に染めて駐車場に現れた。それはハロウィンの仮装舞踏会などで良く見かける気味の悪い女魔法使いの髪色みたいでもあった。驚いたイアンにクリスは色々な色彩を吟味しているのだと言った。不自然な濃い紅色の髪にはイアンはがっかりしたが、クリスには何も言わなかった。
その日、誰の車で山に行くのかまだ決めていなかった。イアンは冬になると、錆びた老朽車を乗り回していた。それは雪道に不利な後輪駆動のクーペではあったが、それなり、雪道の運転には自信があった。しかし、クリスのスバル・ワゴン車は雪道に強い全輪駆動であったので、クリスの運転でフルームへ行くことにした。クリスは母からその車を貰ったとか言って、中古のスバルはイアンのと同じくらい錆びていた。しかし、融雪のため岩塩のばらまかれたニュー・イングランド地方の冬には、そういった錆びた車なら、それ以上錆びることが気にならないので適していた。
スバルの中にはわけのわからない形に切られた銅板や銅パイプの切れ端など、そういった物が沢山積んであり、工事現場へ通っているかの様に見えた。クリスは車の後ろの隅を少し片付けてイアンのザックが置ける様にした。運転席側のドアは開かなくなったままなので、クリスは助手席側のドアから車に乗り込んで、運転席に移った。
二人きりになったのはこれが初めてで、イアンは車の中でクリスとどんな話題が展開してゆくのか、楽しみであった。
「で、自営業を始めたと聞いているけど、どんなことをしているの?」とイアンが尋ねた。クリスははずんで答え出した。
「私ね、以前、あるコンピューター会社の工業デザイナーだったのだけど、そこでリストラがあって、その時、私が名乗り出て退職したの。その退職金で自分のアトリエを開いてモビール(=吊るし物)を作ったり絵を画いたりしているの」
「へーっ、それじゃ、君は芸術家っていうわけ。君の名刺からそうは思えなかったなぁ」と、言ってイアンは吹き出した。「Mobilesとか名刺に書いてあり、電子メールのアドレスがKineticって書いてあるから、自動車電話と関係があるのかと考えていたんだ、はっはっはっ。Mobilesって天井からぶら下げる飾り物のことかぁ」と、イアンは声を上げて笑った。
クリスは別に可笑しくないらしく、笑っているイアンの顔をにこにこしながら見ていた。モビールのことを知らないイアンに、クリスは子どもが親に説明するかの様にゆっくりと途切れとぎれに言葉を探しながら説明した。クリスの言葉使いからして、イアンは彼女が語学に優れていると感じた。芸術の話題が一段落すると、山の話に展開して行き、目的地までの二時間はあっという間に過ぎてしまった。
スケートリンクみたいに雪が固く凍った駐車場でザックを背負った二人は、フルーム渓谷に向かって、クリスが先頭に歩き出した。雑木林の雪道を二十分も歩くと両側が垂直な岩壁に囲まれた狭い渓谷に着いた。その岩壁には厚い青氷がへばり付いており、すでに数グループが垂直な氷壁にロープを垂れ下げていた。その光景はまるで屋内クライミング場かの様に、登攀者達はトップロープという形式で、頭上から垂れ下げたロープで確保されながら登っていた。
イアンとクリスは誰も登っていない氷壁を見つけ、登攀の準備をした。その日、そこではみんなトップロープをしていたが、イアンは氷壁登攀難度5もありそうな垂直を超えたハング気味の十メートルの氷壁を下から登攀し始めた。いきなり難し氷壁を登り出したイアンにはクリスはいささか驚いてしまったが、ブラック・ダイクをリードする彼なら、これくらいのことは当り前だと思い、納得せざるえなかった。
イアンは五メートルくらい登ったところで、確保支点を設置し始めた。この高さで確保支点を取っておけば、万が一転落しても地上まで落ちることは避けられるのである。一〜二センチくらい氷に突き刺さった両足のアイゼンの前爪一本ずつに体重を掛け、真上に突き刺したアイスアックスでバランスを取った。
これは簡単そうに見えながら、アイゼンに自信がないと恐怖で腕に体重をかけてしまいアイゼンのかかとが上がり、不安定になると同時に腕が疲れてしまうのだ。この時、イアンのかかとは水平以下にやや下がっており、それはゆとりのある姿勢に見えていた。右手のアイスアックスを氷壁に刺したままにし、右手首に巻いていたアイスアックスのリーシュを外した。自由になった右手で腰にぶら下げていたアイス・スクリューを手袋の手のままいとも簡単に取り外した。
そのアイス・スクリューを腰の高さあたりの氷壁に捻こみ出した。二~三度強くアイス・スクリューを押し回すと、残りは手の平で楽に捻込めるようになった。イアンは腰にぶら下げていたカラビナ2枚付きのナイロンスリングを取り外し、カラビナをアイス・スクリューにかけ、一方のカラビナにロープをかけた。こうして確保支点の設置ができると、再び右手首をリーシュの環に通し、アイスアックスを握って登り出した。この一連の仕草は慣れ切った技の様にクリスには見えた。
オーバーハングした氷柱の真下まで登ったところで、イアンは再びアイス・スクリューを設置しようとしたが、そこは氷の厚さが僅か数センチだったので、設置できなかった。白い不透明の氷だったため、その厚さが読めなかったのだ。少し下へ降りて、アイス・スクリューを設置すれば、とクリスは思ったが、イアンはそのまま上に登り出した。
右のアイスアックスをオーバーハングした氷柱の上に振込み、イアンはそれを慎重にテストした後、左のアイゼンをやや高めの位置に蹴り込んだ。やや右側に傾いた身体を右腕で引き上げ、左のアイスアックスを右のより高い位置に振り込んで、ハングした氷柱に乗ろうとした。すでに、イアンは確保支点から四メートルくらい上に登っており、もしそこから転落すれば、地面にぶっかる可能性があった。そんなイアンの度胸にクリスは驚きながら見守っていた。
短い氷柱を登ると氷壁は緩やかになり、イアンは横向きになって靴底のアイゼンの爪全部を氷に食い込ませるフランス式の技術で蟹のように登っていた。氷壁を登り切ったイアンは立ち木を利用してトップロープを設置してから降りて来た。
クリスはトップロープで確保されながらイアンの登ったところを登り出した。しかし、クリスはトップロープで支えられておりながら、四苦八苦でそこを登ってみて、彼とのレベルの差を身に染みて感じた。イアンがトップロープの位置を変えるため、脇にあった氷壁登攀難度4の氷壁をザイル無しですらすらと登ったのには、クリスは更に驚かされた。
帰り道も、変わった個性があるところを互いに発見し合ってか、互いに興味を持ち合い、しかも二人共聞き上手だったせいか話に飽きることはなかった。
「どうして? イアンって、ニックネームなのね? テ・ツ・オがどうしてイアンになったの?」
「えへっへっ! 鉄男って英語に直訳すればアイアン・マンと言う意味で、アメリカへ留学したばかりの頃、俺の発音が下手でアイアンとうまく言えなくて、聞き間違えた奴が……そいつは酷く酔っ払っていたんだが、俺をイアンと呼び出したのが始まりなんだ」
「へえー、で奥さんもあなたをイアンと呼んでいるの?」
「そう、みんなそう呼んでいる」と、イアンが答えると、クリスは不思議そうな顔で尋ねた。
「じゃぁ、私がテツオって呼んではいや?」
「……、いいけど、もう三十年もイアンで通ってきたんだから、馴染めないなぁ」と、イアンは驚きながら言った。
「すぐに慣れるわよ。私は最近まではキャッシーと言う名前で呼ばれていたのよ?」
「ああ、それ知っているけど、何故クリスに変えたんだい?」
「以前、通称としてクリスと呼んでもらったことがあったし、私はクリスと言う名のほうがふさわしく感じるから」
「じゃぁ、本名は?」
「本名はキャッシーよ。キャザリーンのニックネーム」
「なぜ、突然そう変えたくなったんだい?」
「離婚してから色々と波乱をくぐり抜けて、やっと新しい人生が順調に乗り出したので、名前も変えたわけ」
「いつ離婚したの?」
「三年前」
「それは大変だっただろうな…」
「……………」クリスはしばらく黙っていたが、突然言い出した。
「ジャックてっね、ブラック・ダイクを一緒に登ろうと約束をしておきながら、私と一緒に登るのは自分の奥さんに申し訳ないからとか言って、突然すっぽかされたことがあったのよ。で、それ以来彼とは登らないことにしたの」
「えっ、ジャックは既婚者だったの? 君のボーイフレンドかと思っていたんだけど」とイアンが言った。
「それはジャックではなくて、マットのこと。彼はボーイフレンド兼登山のパートナーだったけど、うまく行かなかったわ。私のアイスアックスを借りて無くしたりして…、何をしているのかわからない人だったのよ!」
「ふーん、で、今ボーイフレンドはいないの?」
「今はいなわ…、あの子、リックは山登りしないけど、私が四十才と知ってから逃げて行ったわ」と、クリスは言って笑い出した。
「それどうして?」
「彼って、私が三十二~三だと思っていたらしいの」
「で、リックは何才?」
「二十四才だったの」
「そりゃぁ、驚いただろうな、だけど、君は若く見えるから、それでも良かったんじゃない?」と、イアンが言うとクリスはほほ笑んだ。
それから他のボーイフレンドの話もした。離婚して以来、クリスは次から次へと三人のボーイフレンドがいたが、三人共二十代であった。イアンは不思議になり、
「なぜ、若い男とばかり付き合うの?」と尋ねた。
「それはね、私も考えてみたのだけど、結局は若い人は未熟でも奇抜で新鮮なアイデアを持っていることが多くて、年輩の男は慣例的で面白くなくて付き合って行けないから。あなたもそう思わない?」とクリスが言った。
「う~む、そうだな。良く考えてみると、ハンとペギー以外の登山のパートナーはみんな若い奴ばかりだし、俺より若い人のほうが変わった話も多くて面白いなぁ」と、イアンは言い「だけど、それは俺が未だに幼稚で子供っぽいことをしているからだと思っていたんだけど…、新鮮な話題を好んでいたのかぁ…。気が付かなかったなぁ」と続けた。
「そうよ、そうなのよ!」
「君の場合は芸術家だから、奇抜な発想は重要だと言えるけど、俺は…、う~む、やっぱり芸術が好きでもあるし、そういった新しく変わったことには興味があるなぁ」
「その点は、私達は似たところがあるのよ。危険な要素の多い登山をする者は創造力に富んでいるっていうから、そんな点でもどこか似ていると思えない?」とクリスが言った。
「なるほど」
「あなたはまだあの危険なアイガー北壁を狙っているんでしょう?」とクリスが尋ねた。
「ああ、まだ諦めていないよ」と、イアンはうなずきながら言った。その時、イアンは二年前コーリーと三人で夕食をし、自分がアイガーを狙って失敗した話をしたことを思い浮かべていた。
二人の会話は途切れることなく、あっと言う間に二時間が過ぎ、マリアット・ホテルの駐車場へ戻った。二人は次の氷壁登攀の予定を立てて別れた。しかし、クリスはイアンとの氷壁登攀の予定を立てておきながら、うかつにも他の予定と重なっていた。
そのことに気が付いたのはイアンとの約束の数日前になってからで、彼に予定取消しの電子メールを出した。イアンは腹が立ったが、クリスにはそうは言わず、許してやった。あいにくにも、それは冬の唯一の三日連休だった。イアンは早急に他のパートナーを探し回ったが、一日だけしか氷壁登攀のパートナーを確保することができなかった。残りの連休は無駄になってしまった。それ以後、春になるまでクリスからはなんの音沙汰もなかった。
第五章
以前、イアンもクリスも互いに近郊の岩場で岩登りをしているところを見かけたことはあったが、一緒に長い岩のルートを登ったことはなかった。イアンが忙しくて、週末でさえも余り登れなかったことをクリスは残念に思っていた。特に四時間もドライブして行くガンクスは金曜日の午後から出かけて行くのが、ボストンに住む者にとっては通常だった。しかし、イアンは近郊の登山の為には金曜日午後の休暇を取ろうとはしなかった。結局その春も、イアンとは岩登りに一度も行けないまま、夏になろうとしていた。
イアンは毎年の様に夏になると、四週間ある有給休暇のほとんどをヨーロッパアルプスで過ごしていた。そのため近郊の山行きのためには休暇を取らなかったのだ。アメリカ東部には危険な要素の多い山岳登攀をする者はあまりいなかった。というわけで、アルプスで登るパートナーは大抵イギリス人の友達で、アメリカ人とアルプスを登ったことはあったが、満足できるようなルートは登れなかった。その年はアルプスに飽きて、他の地域の山へ行くことを考えていた。しかし、そういった登山の予定が成り立たないまま夏になろうとしていた。その理由は他にもあった。
その五月、二十年間も努めていた会社でリストラがあり、職を失っていた。長年の経験と仕事関係の知人がアメリカ国内や海外にもいたのでコンサルタントとして、これからはやって行きたくて、個人経営の仕方とかいった講習に二ヵ月費していた。講習が終わりかけた頃、遠い地域の山へ行くパートナーが見つからぬままだったので、一人でアルプスへ行くつもりでいた。
その時、突然クリスより電子メールがあり、カナディアン・ロッキーズのバガブー登山に誘われた。バガブーには行ったことはなかったが、いつか行ってみたいところでもあったので、イアンはとても喜んだ。だが、誘われた時、クリスへは確実な返事はしないでいた。その冬、クリスにすっぽかされた苦い経験があり、イアンはクリスの計画を完全には信用できなかった。イアンはその登山の詳細な計画を聞いてから返事をしたかった。そのため、クリスと直接会いたかった。
丁度その週末、ニュー・ハンプシャー州のノース・コーンウェーでアメリカを代表するアメリカ山岳会のボストン支部主催のバーベキューの集まりが予定されていたので、イアンはクリスをその集まりに誘った。リストラ後、クリスからガンクスの誘いがあったが、イアンはノース・コーンウェー行きを提案していた。しかし、ある理由でクリスはノース・コーンウェーにあるカシードロ岩壁には行こうとはしなかった。今はバガブー登山の出発間際になっており、どうしてもイアンに参加して欲しかった。イアンに具体的な計画を説明しておかないと、彼が参加しそうもないので、ついにクリスはノース・コーンウェーに出かけることにした。
土曜日、イアンはノース・コーンウェーに住む友人ハンと岩登りをし、その夕方、バーベキューの集まりでクリスと逢うことになっていた。集まりの翌日、日曜日の一日だけクリスと岩登りをすることも予定であった。
ハンは日曜日もイアンと岩登りをするつもりでいたが、イアンはハンからそのことを聞かれるまで、クリスとの日曜日の予定を言わずにいた。その理由はクリスが本当にノース・コーンウェーに来るのか自信がなく、もし、彼女が来なければ、日曜日もハンと岩登りをしたかった。翌日はクリスと岩登りをすることにしてあるとハンに言うと、イアンが最近、女性と登山する機会が多くなってきていることを知っていたので、ハンは快く理解した。ハンは以前ボストン近郊に住んでいたので、ボストンの山岳会を通してクリストとは顔見知りであった。
「イアン、君はいつもハイクラスな女性をパートナーにして山登りをしているみたいだね?」と、にやにやしながら言った。
「えっ! それはどう意味?」
「クリスもペギーみたいに金持ちではないのかい?」
「さぁ、それはどうかな? おんぼろ車を運転しているところからして、そうとは思えないけど、どうしてそう思うんだい?」とイアンが尋ねた。
「クリスはハイクラスな感じがあるからそう思うんだけど…。夏は新車のBMWを乗り回すヤッピーな君だって、冬は錆びた古いBMWを乗り回しているんだから、車だけではそうとは言えないだろう?」
「だけど、俺はそういった印象は受けなかったなぁ。彼女は芸術家で、以前は工業デザイナーだったとか言っていたよ。言葉使いからして、彼女はかなり学識があると思うけど…」
*
イアンがハンに初めて出逢ったのは五年くらい前、ボストン近郊の岩場であった。その時、ハンはリンダと言う名前の恋人と一緒だった。二人共親しみやすく、イアンはすぐにこの二人と声を交わす様になった。この二人はその頃、岩登りを始めたばかりで、イアンは彼らと共に岩登りの練習をしたことがきっかけであった。始めの二年くらいは付き合うこともなく、ただ近郊の岩場で出会うだけであった。
リンダがコーリーと一緒に氷壁登攀をしているところを見かけたことがあったが、ハンと初めて氷壁登攀に行ったのはその翌年頃からであった。氷壁登攀に行くには必ず数時間車で行くので、ゆっくりと話ができ、色々なことを知り合うには絶好の機会であった。エンジニアであるイアンは毎日味気ない話をする会社の同僚との会話には飽きていたので、エンジニアでない、変わった履歴を持つハンとの会話は楽しかった。
ハンは高卒後、海兵隊士官学校へ行き、卒業時の試験で不合格となり将校になれず、ベトナム戦争にも参加できなかった。その後、大学の音楽科へ進み、一九七〇年半ば頃有名だったロックバンドのベース・エレキーを演奏し米国内や海外の各地を回っていた。それに飽きた彼は大学院に進み、情報科学の修士号を修得していた。得意な音楽を生かしてコンピューター・ゲームに使われる音声発生のプログラム製作が彼の専門となっていた。
イアンはハンとは異った傾向の音楽が好きであったが、気は良く合った。ハンはいつも他人の感情を害しない気の届いた性格を持ち、イアンも同じような性格を持っていた。そういうわけで二人の間はいつも、穏やかな雰囲気があり、互いにそれを敬意していた。二人共、同じ年代であったことからして、人生観も似たところがあった。ハンは離婚しており、元妻との関係は良くなくて困っていた。氷壁登攀に行く度、ハンはその愚痴をこぼしていた。
そんなある時、イアンは自分と妻の関係をハンに打ち明けた。イアンは妻を甘やかす様に取り扱わなければ妻から怒鳴られることが多かった。気ままで気の難しい妻は山の天気を読むより難しいと感じていた。妻の心境が把握できず、イアンは帰宅する際は、自分の家でありながら、妻の様子を知るまでは気をもんでいた。妻は機嫌が良くても、イアンにひどい言い方をすることもあった。しかし、イアンは喧嘩になるのを避けるため、黙って聞き逃していることが多かった。機嫌の悪い時は更にひどい言い方をし、イアンは辛い思いをすることが何度もあったが、大抵は我慢していた。我慢できずに挑戦すれば、絶対に譲る様な妻ではなく、機嫌が良くなっても、挑戦したことが後で災いとなって戻ってきていた。
そういった、災いが、次第に積もり重なり、結婚後十年も経たないうちに、妻はイアンに対して冷淡になっていた。その頃、イアンは妻から離婚を求められたが、娘のことを考慮して離婚は避けていた。しかし、それ以来、夫婦として同じ屋根の下で住んでいながら、別々の寝室で生活していた。イアンは元どおりの関係を期待して、優しく妻に応対したが、優しくすれば妻は有難迷惑な顔をするだけであった。
それを聞いたハンはイアンに離婚を躊躇なく提案した。それ以後、ハンはイアンに会う都度、イアンの夫婦関係を心配そうに尋ねる様になっていた。イアンはその都度、なんとか生きているといった様なことを告げ、家では辛いこともあるが、こうしていつも好きな時に登山に行け、山にいる時は本当に幸せだったので離婚しなくても良いと言っていた。
一年か二年後、ハンはリンダと結婚し、仕事はボストンに住んでいなくても、インターネットでソフトウエアの開発ができたのでノース・コーンウェーに引越した。引越後、イアンはハンと会う機会が減ってしまった。ハンと岩登りをするため、イアンは一人でノース・コーンウェーへ出かけていたが、次第に他のパートナーとも岩登りする機会が多くなっていった。妻から無視されているためか、女性パートナーと岩登りに行くことが楽しく感じる様になったとハンに話したこともあった。女性パートナーとは誠実な付き合いをしていたせいか、イアンと登りたいという女性の数が次第に増え、近年の登山の半数くらいは女性とであった。
*
その日はむしむしとしていたが、あまり暑くはなく動けば汗をかくくらいで、岩登りにはそれほど悪くはなかった。イアンとハンは大して急がずカシードロ岩壁に行った。カシードロ岩壁はハンの裏庭から歩いたほうが車で行くよりも早い、という手の届くところにあった。カシードロ岩壁は雑木林の丘で東側は鋭く切れ落ち、ハンの家から丸見えであった。壁の高さは百数十メートルあり、花こう岩の壁には松や栂の木が所々生え、乾いた苔に覆われたところもあった。岩肌は苔の様々な色や、しみ水で変色したところもあり、垂直な亀裂やしわが沢山あった。そういったクラックは殆んど岩登りのルートとなっていた。
イアンとハンは壁のほぼ中央にあるリコンペンスという難度5・9、四ピッチのルートを一本登っただけで岩登りを止めた。岩から下りた二人はブルーベリーの花が咲き出した野原を歩いてハンの家に戻った。イアンはハンの家でシャワーを浴び、着替えてからアメリカ山岳会の集まりへ行った。
集まりはハンの隣に住むジムの裏庭で、野外がその会場となっていた。松林を切り開いて造られた住宅地の民家はぽつんぽつんと五十から百メートルくらいの間隔に建てられていた。隣のジムの家までは曲った車道を歩けば百メートルくらいあり、松林を通り抜ける近道ならば七十メートルくらいであった。
イアンは松林の中を通ってジムの裏庭に着いた。裏庭には既に大きな白い屋根テントが張ってあり、その下、芝生の上には折畳みテーブルが何個か並べてあった。サラダ、果物、ポテトチップ、紙皿、紙ナップキン、フォークやスプーンなどがテーブルの上に準備されていた。テーブルのそばにはクーラーが幾つか置いてあり、ソーダーやビールが冷してあった。テントの脇にはバーベキューの用意がしてあり、各自好みの肉を持参し勝手にバーベキューができる様にしてあった。
既に二十人くらい集まっており、ビールなどを飲みながら岩登りの話をしている者や、会場の準備をしている者もいた。中には岩登りしたままシャワーも浴びず汚れた格好の者もいた。裏庭の松林の中にテントを張っている者もいた。イアンは会場の家主であるジムに挨拶した後、アメリカ山岳会のボストン支部長であるゴマ塩頭のトムとも挨拶をした。トムはいつもながら、良く来てくれたと言ってイアンを温かく迎えたが、とうもろこしを焼く準備のため、挨拶早々その場を去った。入場料の支払はセルフサービスとなっており、イアンは十ドル札を箱に入れ、名札にイアンと名前を書き、シャツの胸に貼付けた。しばらくの間、イアンは見覚えのある若者達と話をしていた。
その時、しなやかな絹地みたいなエレガントなサンドレスを着たクリスが会場に現れた。クリスに気が付いたイアンは椅子から立ち上がり、手を振った。クリスはイアンを見つけ、イアンに近付いて来た。イアンは薮蚊を気にして、長袖シャツに長スボンを着ていた。しかし、サンダルを履いたクリスは袖なしのサンドレスを着、肩や背中、首元が広く露出していたので、イアンは気になり、挨拶早々、
「薮蚊が多いのにそんな恰好で大丈夫?」と尋ねた。
「急いで出かけたから、着替えなかったけど、上着は車の中にあるから、後で着るわ」と、言ってあまり気にしなかった。
イアンはバガブーの質問をし出した。イアンが知りたがっていたことはどんな形式の登山をするのかと言うことと、クリス以外の二人のメンバーが誰であるかということであった。クリスがメンバーの説明をしたところ、
「あのマイクなら、俺良く知っているよ! 一度氷壁登攀を一緒にしたこともあるし、愉快な奴だから登山が面白くできそうだ。俺、絶対にバガブーへ行くよ」と、喜んで言った。クリスはそれを聞いてほほ笑みながらうなずいた。三人で行くよりも四人の方がいいし、なんと言ってもイアンとなら本格的な登山ができると思った。
「マイクとリサがペアで登ると思うから、俺は君とザイルを結ぶわけだろう?」
「ええ、大抵はそうなるけど、一度くらいは私、リサと組んで登りたいの」
「もちろん、俺、マイクと組んで登ってもいいけど、山岳登攀の時は君と組みたいな?」
「山岳登攀以外もする予定だから、そういったスポーツクライミングではパートナーを変えてもいいでしょ?」
「そういった時は構わないけど」とイアンが答えた。
辺りを見回しながら話をしていたクリスは
「あらっ、ジェフがいる」と、言って軽く顎でその男の方向を示した。陽焼けした体格の良い男が赤ん坊を抱えて、傍に座っているティトーンと話していた。
「えっ、誰?」
「ほら、あそこに赤ちゃんを抱いて座っている人がいるでしょう? 以前彼と登っていたのだけど…。ねぇ、前に言ったことがあるでしょう、私がカシードロ岩壁には来たくないって。彼がここに住んでいるからで、彼とは嫌なことがあったのよ。それ以来、ここには来なくなってしまったの」
「嫌なこと?」と、イアンが言い首を傾げたがクリスは何も言わなかった。
「ティトーンはこの冬、ブシャードと離婚したばかりだけど、まさかあの男と結婚したわけじゃないだろうね?」とイアンが尋ねた。
「彼女は彼の奥さんではないわ」と、クリスははっきり言い、挨拶だけはしておかなければと言い残してジェフに近付いて行った。
イアンはクリスがジェフと話し出したのを見て、バーベキューの準備に取りかかった。その準備している時、イアンはクリスがその赤ん坊を抱えて遊んでいるところを見た。数分後、イアンがふりかえって見ると、ジェフが赤ん坊を抱えており、クリスは見当たらなかった。その時、ボストン近郊の岩場で良く顔を合わせるエリックとシャーリーンが現れ、ハンと話し始めた。イアンもその話に加わった。
しばらくすると、フリースの上着に、スカートの下に黒いタイツを着たクリスがやって来て、シャーリーンと話し出した。裏庭の横にある倉庫からエレキーやドラムが鳴り始め、ロックミュージックの生演奏が始まった。演奏している連中はクリスやイアンも顔見知りのある若手の女性会員だった。
ハンは演奏しているバンドの前に行き、しばらくの間、耳を傾けていた。バンドの前から戻って来たハンは
「えらく穏やかなロックミュージックを演奏している」とイアンに言った。
「じゃぁ、自分のエレキーを持って来て、七〇年代の曲を演奏したらいいのに」と、イアンが提案したが、ハンは首を横に振った。しかし、ハンは何度かバンドの前に戻っては耳を傾けていた。イアンはクリスとシャーリーンに言い出した。
「ハンは以前、有名なロックバンドのメンバーだったから、このバンドの演奏はえらく穏やかだって」
「彼が有名なロックバンドの一人だったの?」と、驚いたクリスは大きな青い目をさらに大きくして聞き返した。
「ああ、ベースギターを弾いていたんだって、ハンがそう言ってたよ」
「えっ! なんていうバンド?」と、シャーリーンも驚いて聞いた。三十才になったばかりくらいの彼女はそのロックバンドの名前は耳にしたことがないらしく、有名なバンドだったことを聞かされたシャーリーンは
「それ、嘘でしょう? 冗談でしょう?」と、言って、後でハンに直接聞くまでイアンを信じなかった。
暗くなると、山岳会のボストン支部長トムはバンドの演奏を一旦中断させ、椅子の上に立って、大声で会場の注目を求めた。会場が静まると、トムはクラブの正式な挨拶を簡単にした。そして、会場からスライドを集め始めた。幾人かのメンバーが持ってきたスライドを集め、トムは映写機にスライドを詰め込み、誰かが電灯を消すようにと頼んだ。
電灯を消すともう真っ暗であった。スライドの映写が始まると、立っていた者は屋根テントの下に並べてある椅子に座り出した。最初のスライドはネバタ州のジャシュア・ツリーでスポーツクライミングをした景色であった。始めのうちはそういったスポーツクライミングのスライドがほとんどであったが、ヒマラヤの六千メートルの無名峰のスライドを見せた年輩の会員がいた。狙った六千メートルのピークが登れなかったので、再び同じピークを狙う予定で山岳登攀技術のあるメンバーの参加を求めていると、その男は宣伝をしていた。次のスライドは、ハンの番だった。ハンはイアンと登ったカナディアン・ロッキーズでの氷壁登攀のスライドを面白そうにうまく説明した。
スライドが終わると、バンドの演奏が再び始まり、会場は騒々しくなった。イアンはヒマラヤの無名峰を狙った年輩の男と会い、次の計画について尋ねた。その登山家はカナダで氷壁登攀をした経験のあるイアンにこの秋の遠征にぜひ参加して欲しいと頼んだ。しかし、イアンは参加したいけど、秋から始める予定であるコンサルタントの仕事が決まっていないし、他の計画もあるので、参加するのはまだ一年くらいは先になると言った。
スライドが終わった頃は、すでに夜遅くなっていたが、集まりは解散しそうもなかった。クリスは年輩の男と話していたイアンのそばに寄り、ヒマラヤの話を聞いていた。話が一旦途切れた時、クリスが口を開いた。
「失礼ですけど、イアンと話していいかしら?」
「どうぞ、どうぞ」と、年輩の男が大げさに手招きしながら、丁寧にイアンとの話は終わったことを告げた。クリスは礼を言った後、イアンと二人になってから、
「イアン、私は明後日の月曜日まで帰らなくていいのだけど、あなたは明日岩登りをしたあと帰る予定なの?」と尋ねた。
「もう、勤務はしていないんだから、帰るのは明後日になってもいいけど、明後日、何か登ろうか?」
「キャノンはどう?」と、嬉しそうな顔をしてクリスが提案した。イアンは四百メートル近くもある壁を登る用意はしていなかったので、その突拍子もない提案に驚いたが、せいぜい八ピッチくらいなので、手持ちの登攀用具でなんとかなると思い、
「そうだな…、それはいいけど、どのルートにしようか?」と言った。二人は少し考えた末、ホイットニーギョーマンを登ることにした。
「じゃぁ、明日の夜は隣の町にあるホステルにでも泊まろうか?」と、イアンが提案した。
「それよりも、キャノンの近くでキャンプした方が便利だと思わない?」とクリスが言った。イアンはクリスの言ったことに再び驚かされ、困った顔をしながら言った。
「キャンプ? 俺、寝袋は持って来ているけど、スリーピングマットやテントは持って来ていなんだ」
「私、スリーピングマットなら二枚あるから、一枚貸してあげる。それに、テントを持って来ているけど、私と同じテントで寝て、奥さん焼きもちやかないかしら?」と、心配そうに尋ねた。
イアンはこの様な質問は一度もされたことはなかったし、結婚して以来、女性パートナーと二人きりで同じテントに寝たことがなかったので少し考えていた。しかし、アルプスの山小屋でペギーの傍で寝たことを思い出し
「たぶん、焼きやしないけど、家内には何も言わずにいた方が無難」と、イアンはけろっとして言った。クリスは少しばかり不審な表情でイアンを見ていたが、頭を振って承諾した。クリスを勝手にハンの家に招くわけにゆかず、イアンはおそるおそる尋ねた。
「で、今晩はどこに泊まるの?」
「リサ達とカシードロ岩壁下の森の中で寝ることになっているけど、それにリサとマイクがここへも来る予定だけど、どうしたのかしら?」
「もし、彼らが来なかったら、どうするの?」
「一人で森の中で寝るつもり」
「一人で?」と、イアンは言って目を見開いた。
「こんなことに私は慣れているから」
「本当にそうならいいけど…」
「本当よ! じゃぁ、あしたの朝九時に会いましょう」と、言ってクリスは立ち去ろうとした。イアンはあわてて、
「じゃぁ、お休み、蚊に刺されないように!」と言った。
翌日、クリスとイアンはカシードロ岩壁で四ピッチのルートを二本登った後、汗とほこりを流しにサコ河の上流にある河原へ行った。一般の水泳場はカシードロ岩壁からノース・コーンウェーの町に向かう途中のサコ河の下流にかかる橋の下だった。だが、八キロ上流には車道際に蛇行した河原があり、設備の整った水泳場ではないが、人里離れているせいか岩登りする者が良く行くところでもあった。イアンとクリスは各々自分の車で上流の水場へ行き、道路脇に駐車し、車の中で着替えた。
水着を持って来ていなかったクリスは岩登りで汚れた黒いタイツのまま、河原へ下りた。車道から高さ五メートルほどの急な川岸を下ったところには平な巨岩が露出しており水際となっていた。川は深くゆっくりと流れ、四~五十メートル向うの対岸は浅くなり、砂浜となっていた。その向うには薮があり森となっていた。車道から下りた川辺はどこからも見えず、誰一人いなかった。
クリスは水際でタイツとブラウスを脱ぎ、ブラジャーとパンティーだけになり、浅いところで行水をし始めた。イアンは黒いレースの下着になったクリスの大胆さに驚いた。クリスの乳首がレースのブラジャーを透き通して見えているのに気づき、イアンは彼女と話している時、自分の目を彼女の目の位置から落さない様にした。クリスが前屈みに髪を洗い始めたので、イアンは岩の上から川に飛び込んだ。クリスは下着を濡らさない様に髪を洗い、上半身を洗い出した。
だが、ブラジャーに水がかかってしまったので、全身を水に漬け、沖へ泳ぎ出した。
「わーっ、気持がいい!」と、クリスが歓声をあげた。水温はそれほど低くなくて熱くほてっていた身体を冷すのには丁度良かった。川の中程まで泳いだ二人は岸に戻り、水から上がった。クリスはタオルで身体を乾かし始め、半乾しになるとサンドレスを頭の上からするりと着、サンダルを履いた。イアンはしばらくの間、身体が乾くのを待ってから、タオルで水泳パンツをふいた。二人は車道に這い上がり、各自、狭い車の中でもそもそと着替えた。
各々、自分の車を運転してキャンプ場へ向かったが、途中、レストランで夕食をしたので、暗くなってからキャンプ場に着いた。テントの張り場所は点々と林の中に広がっており、徐行しながらぐるぐると林の中を回って適当なところを探していた。まだ夏のシーズンに入っていないせいか、あるいは日曜日でもあるせいか、空いているところが多かった。
車二台駐車できるテントの張り場所を見つけ、車のヘッドライトを利用してテントを張った。テントのポールが一本折れており、クリスはガムテープを巻いて直した。イアンは妻とさえ同じベッドでもう十年も寝ていないので、昼間下着になった女と二人きりで同じテントに寝ることで少し高ぶっていた。そのためか疲れていながら、なかなかイアンは眠れなかった。
真夜中近くになって雨が降りだし、テントの天井をぱらぱらと軽く叩き、林の中では木の葉の演奏が始まった。イアンはその快い音でうとうとしていたが、キャンプ場が道路に近かったので、トラックの騒音で何度か起された。そんな中、クリスは快さそうに軽くいびきをかいていた。イアンは耳栓をしてやっと眠り込んだ。
昨夜の雨は止み、林には霧がかかっていた。二人はテント場のピクニックテーブルで朝食の準備をしていた。クリスがストーブやコッフェルなどを持って来ていたので、湯を沸かし、コーヒーを作り、マッフィンとやチーズ、オレンジなどをのんびりと食べていた。天気がはっきりしていなかったので、朝霧が消えるまで待ってからキャノン岩壁へ向かった。
東に面したキャノン岩壁は朝日をおもむろに浴びて立体感を無くし、眠たそうに見えていた。壁の幅は二キロもありながら、その高さはたったの四百メートルという横たわった感じがし、そう見えるのもいっそうであった。キャノン岩壁の北端にある駐車場から林を通り抜けると、長いガレ場になり、ガレ場を直登して、幅広い岩壁の左にある鋭い岩稜の下に着いた。
ホイットニーギョウマンと言うルートは岩稜ルートとして、アメリカ東部では唯一であったが、イアンは三十年くらいこのルートを登っていなかった。一ピッチ目はイアンがリードすることにした。だが、難度5・7なので知らずと5・8くらいのところを登ってしまう可能性があり、ルートの正しく始まる場所を探していた。天気が怪しいので時間を無駄にできず、このルートを何度か登ったことのあるクリスはイアンに右へ、左へとルートを教えていた。二ピッチ目はクリスがリードした。
イアンがフォロー(=後続)している時、雷が鳴りだし、夕立の気配がした。まだ先が長く、四ピッチ残っているので、ずぶ濡れになることを懸念し、岩角に長いスリングの環をかけて、懸垂下降した。ガレ場はキャノン岩壁の右端のほうが短いので、そこを下ることにして壁の下にある小道を歩いていた。
「あれがスロー・アンド・イージーというルート」と、言ってイアンがアーチした岩の割れ目を指さした。
「登ってみない? 天気はまだ持ちそうだから」と、クリスが言い出した。突然予定を変えたクリスにイアンはいささか驚いたが、たったの一ピッチの短い岩登りなので、雨が降り出す前に駐車場へ戻れると思い、
「君がリードするんなら、フォローしてもいいけど」と言った。
「オーケー、私がリードするわよ」と、クリスは喜んで登攀の準備に取りかかった。
イアンは必要な確保支点用具をザックの中から取り出しクリスに手渡し、ダブル・ロープをほどいた。クリスはこれはたったの難度5・8、朝飯前と言わんばかりにアーチした薄いクラックに挑んだ。イアンは確保しながら、クリスの動きを注意深く見守っていた。
数年前、このルートを登ったことのあるイアンは、このルートの難しさを知っており、クリスがうまくリードできるかどうか多少心配だった。もし、彼女が途中で諦めて下りてくると、確保支点用具の回収のためイアンが残りを登らねばならなく、それも気にかかっていた。
クリスは薄いクラックの上に立つ様にして登った。イアンの記憶ではクラックに指や手を挟んで、クラックの下にぶら下がって登った。その時の足がかりはロック・シューズのゴム靴底の摩擦でかろうじて体重を支えていた。したがって、腕に至極力を入れてクラックからぶら下がっていた。だから、腕の筋肉が酷く疲れたのだ。
ところが、クリスはクラックの上に立っているのだから、腕力は殆んどいらず、疲れを見せず楽そうに登っていた。四十メートルもあるクラック・ルートを終わりかけた時、雨が降り出した。イアンは木陰に立って確保を続け、Tシャツがぐっしょりと濡れた頃、クリスがルートに設置した確保支点用具を回収しながら懸垂下降した。
「クリス、うまいね。俺がリードした時はクラックの下側にいたから、腕力を使い過ぎて腕が酷く疲れたんだけど、君は疲れずにできたね」と、イアンが誉めた。「どういたしまして。だけどあの核心部で転落したから、うまく登ったとは思えないわ」
帰り道、コーリーと三人で入ったことのあるノース・ウッドストック町のレストランに入った。髪を燕脂色という不自然な色に染めたクリスはどこへ行っても目立ち、イアンは初めての頃はクリスと一緒に歩くことさえ恥ずかしく感じていた。しかし、全く気取らないクリスを理解してくるにつれ、彼女と一緒にいることが誇りにさえ感じる様になっていた。
レストランのテーブルで
「奥さんは登らないの?」と、不審そうにクリスが尋ねた。
「ずっと前、一緒にハイキングをしたことはあったけど、それは平地でのハイキングで、岩登りなんてしないよ」と、イアンは笑いながら答えた。
「じゃぁ、アルプスへ行く時、奥さんはどうしているの? 連れて行くの?」
「いや、俺は自分の休暇を山で過ごし、家内は西海岸やカリブとかへ旅行するから、旅行を一緒にすることもなくなってしまった。互いに好きなことをやっているっていう感じ」
「ふーん。で、私と登っていること奥さんには言っていないの?」
「ああ、言っていないよ。最近は、誰と登るのかなんて聞かないから言わないし、山から帰っても登山の話も聞きたくないらしいんだ。本当は帰ったら山の話をしたいけど、聞いてくれる者がいないって面白くないと思わない?」
「ええ、それはそうね、身近な人とそういったことを話すのは本当に面白いからねぇ」と、言いクリスは不思議そうな顔をした。
イアンは蛇口を開いたかの様に妻のこと話し出した。
「家内は捻くれていて腹黒いんだ。自分が間違っていても絶対に誤らないし、下手にそれを認めさせるとあとが恐いんだ。喧嘩にならないように、おだてていれば問題はないけど。俺が何もしなくても、突然、口の悪い酷い言い方をすることだってあるので毎日冷や冷やだよ。でも大抵、好きな時に登山へ行けるから、他の亭主とくらべると幸運だと思っているよ」
「それでいいのならいいけど…」とクリスが不審そうに言った。
「そうだよ、山にいる時が一番幸せなんだから」とイアンが言った。
「ふーん。何年くらい結婚しているの?」
「もう二十年は経っているよ」
「君は何年結婚してたの?」とイアンが尋ねた。
「私達は三年間結婚していたわ」
「離婚した理由は?」
「フランクって、他の女と堂々と付き合い出し、私に邪魔をしないでくれって言ったのよ。信じられる? そんなことを言えるなんて。それにフランクって、私のこと、あてにするばかりで、私をあまりにも利用していたのよ。私の収入がフランクよりも多かったのをいいことに、自分で勝手に使いまくっていたの。私をうまく操っていてそのことも我慢できなくなって離婚したわけ。私って、他人を操ることはしないほうだし、そんな人って理解できないわ。離婚したいって言ったら、フランクはひどく驚いていたのよ。私が彼の面倒を見ていたっていうことを知らなくて、離婚した後、フランクは自分の身の回りのこともロクにできなくて困っていたわ」
「だけど、時々フランクに会っているのだから、君はそれほど彼を憎んでいるわけではないんだろ?」
「そうね、私、まだ彼が好きだけど、今では友達関係っていう感じ」
「ふーん、離婚しても友達っていうのはいいね?」とイアンが言った。
「フランクと結婚した時、私はこれでやっと、誰かに頼れる幸せを感じたの。だって、私には血縁っていなかったから、それまで私はこの世の中に一人で生きている感じがして寂しかったのよ」
「俺も一人ぽっちでいるのが寂しくて結婚したんだけど…」と、言いかけたイアンは目をくり開いた。「じゃぁ一人っ子? あれっ! 両親がいるんじゃなかったの?」
「そうなの、一人っ子だけど、私は貰い子だったの」とクリスがけろっとして言った。イアンは少し驚いて尋ねた。
「じゃぁ、実の兄弟姉妹がどこか知らないところにいるかも知れないね?」
「いないわよ」と、クリスははっきりと言った。
「どうして、そうはっきりと言えるの?」
「第二次大戦前、ナチスから逃れたドイツ人夫婦の間で私は生まれたの。私が生まれた時、実の母も父も五十二才だったし、父は既に心臓発作もあって子供を育てるのが大変だと考えたわけ。それで私を諦めたの」
「で、肉親のお母さんと会ったことがあるの?」
「いや、会ったことはないわ」
「探したこともないの?」
「ないわ」
「そうだね、もう九十才越しているから、未だに生きてるかどうか、わかんないね?」
「ええ」
「でも、良かったね、今まで聞いた話では育ててくれた両親が良い親であって」とイアンが言った。
「そうね、高校卒業プレゼントとしてアウトワード・バウンドに行かせて貰い、こんなふうに登山が好きになって…」と、言ってクリスは笑い出した。
「じゃぁ、そういういきさつから、登山を始めたわけ?」とイアンが尋ねた。
「まぁそういったわけだけど、幼い時アフリカで育ったから自然と触れるのが好きだったの」
「へーっ、アフリカ育ち? めずらしいね」と、イアンは驚いて尋ねた。
「そうなの。アフリカ人と一緒に育ったせいか、私はとても開放的で良く勘違いされることがあるのよ? わりと初対面の人とすぐに親しくなって、相手が男性なら、デートに誘われたりすることも良くあるのよ。それに、去年、隣のアパートに住んでいた画家と親しくなって共同で絵の製作をしたことがあったけど、数ヵ月後その人は離婚して、私に恋人になってくれと頼まれた時、私驚いてしまったわ。私にはそんな気持全くなかったから、断ったのだけど。そうしたらその絵の製作も一緒にできなくなってしまったのよ? 始めからそんなつもりで私と共同して絵の製作をしていたみたいで…」
「そう言えば、君はとても親しみやすいところがあるね。そんなに開放的だから、ジェフも勘違いして嫌なことが起きたのかも知れないね?」
「ええ、それもあったけど、私も彼にすごく引かれてしまったの。だけど結婚している人とは恋愛関係になりたくなくて、それで彼とは会わないことにしているわけ」とクリスが言った。イアンは少し考えていた。
「俺は君と登るのが好きだけど、結婚しているから、そんなことにはならない様に心がけねば」
「ええ、そうしてほしいわ」とクリスが言った。
「君は本当に変わったところがあって、俺驚くことばっかりだよ」
「どうして?」
「アフリカで育ったなんて、俺、今までそんな人には会ったことがないし、アトリエを持っている人にも」と言ったイアンは少し考えてから尋ねた。
「じゃぁ、スワヒリ語も知っているのかい?」
「子どもの頃、少しは話せたけど、もう殆んど憶えていないわ」
「なぜ、アフリカに両親は住んでいたんだい?」
「父が仕事でケニアに滞在していたから」
「ふーん。アフリカで仕事?」
「ええ、平和部隊だったけど、本来は法律家で、定年退職する前は大学の教授をしていたわ」
「なるほど…。だから、君は英語に詳しいわけだ」とイアンは言ってうなずいた。
「ええ、それもあるし、母も語学に詳しい方だから、私もそうなってしまったのだと思うわ」
「君が難しい言葉を使う理由がわかったよ。これからは君と会う時は辞書を持って来る様にしよう」と、言ってイアンは笑った。
「私、そんなに難しい言葉を使っているのかしら?」
「そうだよ。俺、だいたいの意味は前後関係でわかるけど、はっきりとは理解していないかも知れない」
「そうね、類語のニュアンスはわかり難いこともあるわね? でも、おおよその意味は理解できるわよね?」とクリスが言った。
「そう、その言葉、ニュアンスって元来フランス語だけど、その意味を知っているアメリカ人は少ないだろう?」と、イアンは声を上げて言い、クリスに笑顔を見せながら続けた。
「ハンはねっ、君は上流階級だと思っていたんだよ?」
「えっ! どうしてかしら?」
「彼にはそう見えたらしいけど」
「どうしてそう見えたのかしら?」
「君の言葉使いもその理由の一つではと、俺は思うんだけど…」
「さあねぇ、それだけかしら、気になるわね? そんなに見えるとは…」と、言いクリスは微笑んだ。
夕食を済ませた二人はレストランを出て、道路の反対側にあるセルフサービスのガソリンスタンドに行き、各々の車を満タンにさせた。イアンは車に戻りながら
「じゃぁ、こんど逢うのは君のアパートだね」と言った。
「そう、いつ集まるのかリサやマイクと連絡を取った後で電子メールを出すからね」
「オーケー、じゃぁ、その時また会おう!」
「イアン! 今回あなたと登れて本当に良かった。有難う」と、クリスは言いながらイアンに近付いた。
「有難う、俺もそう。じゃぁ、気を付けて運転して帰ってね!」
「あなたもね!」と、クリスは言って両手を開きながらイアンに歩み寄りイアンを抱擁した。イアンも両手をクリスの背中に巻いた。
別れた二人はそれぞれの車で南へ向かった。長年、妻からも抱擁されなかったイアンはクリスから初めて抱擁され、嬉しかった。それが単なる別れの挨拶に過ぎないものであることは知っていた。しかし、今まで一緒に岩登りをした女性とはそういった別れ方はしたことがなかったので、強い印象となり、クリスの身体の暖さを忘れたくなかった。
クリスもイアンと同様、遠くへ登山旅行に行くのが毎年行事であった。女同士ではよほど強力なパートナーでない限り、登れるルートは易しいものばかりでつまらなかった。そういったわけで、大半はグループで行き男性がパートナーであった。バガブー登山では、ヨーロッパアルプスやロッキー山脈などの経験豊かなイアンがパートナーなので、素晴らしい登攀ができそうでとても嬉しかった。帰ったその晩、クリスはリサへ電話をかけ、イアンが参加することになったことを告げた。そのニュースを聞いたリサは喜び、すぐ様、マイクに連絡した。
第六章
数日後、クリスはイアンとリサとマイクの三人を自分のアパートに招待した。四人は古い木造三階にあるアパートに集まった。アパートの中はスバルの中と同じくらいひどくごった返していた。半世紀もたった様な古い白色のオブンや冷蔵庫が台所にあり、イアンは自分の学生時代過ごした古いアパートのことを思い出していた。天井からは色々なモビールがぶら下がり、大きな絵が沢山壁に掛けてあり、大きな画板なども立てかけてもあった。
部屋の中は暑かったので四人はベランダでクリスの料理した夕食を食べながら、バガブー登山の最終的な計画を話し合っていた。ザイルやテントとか炊事用ストーブなど共同用具の負担をまず最初に決めた。氷壁登攀用具の有無をイアンが持ち出したら、クリスがバガブーのみではなく、コロンビア氷河で山岳登攀もしたいと言い出し、イアンは喜んで賛成した。それなりの必要な個人装備の具体的な打ち合せが終わったのは夜遅くなってからだった。
朝の早いリサとマイクは帰宅したが、イアンは居残って夕食の後片付けを手伝っていた。クリスが皿を洗い、イアンはそばで皿を布巾で乾かしていた。
「俺、一人暮らしだった学生時代、家内の料理に甘えて結婚した様なものだけど、今じゃ、自炊に近いことをしてる」とイアンがぼやいた。
「奥さんはどんな料理を作るの?」
「彼女に逢う前、俺はアイルランド系の家で長い間ホームステーをしていたから、うまい物を知らなかったんだ。そのせいか、家内の作ったスパゲティーがすごく美味しくて驚いたんだ」と、イアンは笑いながら言った。
「スパゲティーは純粋な日本料理ではないのに。じゃぁ、あなたは家では日本料理は食べないの?」
「ああ、滅多しないなぁ…。でも、彼女は料理するのが好きだから、日本へ連れて帰った時、一所懸命、俺のお袋から日本料理を習っていたよ」
「イアン! あなたの奥さんは日本人ではなかったの?」と、クリスが驚いて尋ねた。
「純粋なアメリカ人、それも白人だよ。だけど、なぜ俺の家内が日本人だと思っていたんだい?」と、イアンは驚いて尋ねた。
「この前、リン・ヒルのスライドショーで一緒にいた女の人は奥さんではなかったわけ?」と、クリスはポカーンとして聞いた。
「ああ! なんだ、あの人か、彼女はね、あの時丁度日本から尋ねて来ていた登山家で、あのショーの後、カシードロ岩壁へ行って岩登りをしただけだよ」とイアンが言い、二人とも笑い出した。
「どこで、奥さんに会ったの?」
「ユタ州の大学で。キャンパスには日系人もかなりいたけど、北欧系が圧倒的に多くて、彼女もその一人」
「じゃぁ、奥さんは背が高くてブロンドなの?」
「いや、俺よりは五センチ低いけど、ブロンドだ」
三ヵ日後、クリスとイアンは各々異なった空路でカルガリーに行き、空港でマイクとリサに会うことになっていた。イアンはその日、誰よりも早くカルガリーに着いていた。カルガリーは好例のカーボーイの祭、スンタンピーの最中で空港はとても混雑していた。大きなカーボーイ・ハットをかぶった人達が出入りしており、カーボーイ姿が制服みたいな衣装の係員も歩き回っていた。
イアンはそういった人出を見ているうちに、待つことにそれほど退屈せず三時間が過ぎ、マイクとリサが空港に着いた。イアンは預けておいた荷物を受け取ってマイクの借りた大型のSUVに積み込んだ。レンタカーを見ながら、三人は話していた。
「クリスの荷物はないのに、もういっぱいじゃないの?」とリサが言った。
「車の中に入らなければ、車の上に積めばなんとかなるさ」と、マイクが答えると、「SUVで良かったな?」と、イアンが付け加えた。
三人は空港でクリスの到着を待っていた。クリスの航空機は予定どおりに到着し、クリスは通関を通って出て来た。黒い網上げのハイヒール・ブーツを履いたクリスは見た感じニューヨークとかいった都会から来たオートバイを乗り回すような格好をしていた。小さなザックを背負い、きょろきょろとイアン達を探しながらダフルバッグ二個積んだカートを押していた。イアンが
「クリス!」と大声で呼ぶと、クリスはイアン達を見つけて「ハーイ!(=こんにちは)」と、言って手を振り、微笑を浮かべた。イアンはクリスの声や様子からして、彼女が少し疲れていると思った。
やはり、荷物は車の中に詰め込めず、防水の効いたリサとマイクのダフルバッグ二個は車の上に載せることになった。四人はSUVに乗り、マイクの運転でカルガリー空港を出発し、空港から西、一時間くらいのところにあるキャンモアという町へ向かった。イアンは助手席に座り、以前泊まったことのあるカナダ山岳会の寄宿舎へ導いた。クリスは始めのうちはみんなと話していたが、寄宿舎に着いた時は車の座席で眠っていた。
翌日からはリサが助手席に座り、道路地図やガイドブックを見ながらマイクの運転のガイド役となった。イアンはクリスと一緒にうしろの席に座り、靴を脱ぎあぐらをかいて、のんびりと風景を眺めていた。クリスもあぐらをかいて座っていたが、メイクアップやマニキュア、ペディーキュアなどを思い出したようにし始めた。口紅やマニキュアなどは自分の髪色に合わせた燕脂色だった。朝寝坊したクリスは出発する前、寄宿舎でそれをする時間がなかったのだ。化粧が終わると、ハンドバッグ代りの小ザックの中を整理したり、縫物をしたり小まめに忙しそうだった。静かになったと思ったら、クリスはヨーガをしていた。
期待していたバガブーはまだ雪が深くしかも天気が不順で、バガブーへは車で入れなかった。高山にも行けそうもなかったので、低地の岩場で岩登りをしていた。岩登りで一番有名なところ、レイク・ルィージにある岩場は湖畔のホテルから湖畔沿いの幅広い道を四十分歩いたところにあった。カナダへ着いて以来、クリスとイアン、恋人同士であるマイクとリサという二組のペアで行動し、歩くのもレストランのテーブルの座席でも同じペアであった。
しかし、その岩登りの帰り道、クリスは突然、マイクと並んで歩き出し、彼らのうしろにいたリサはイアンと並んで歩き出した。イアンは会話の糸口に手間取っていたが、リサがイアンの娘のことを尋ねたのでなんとか会話を続けることができた。イアンにとっては前を歩いているクリスとマイクとの間では話が弾んでいる様に見え、クリスが自分を避けているのではと思った。
バガブーを諦めた四人は予定を変更し、低地で岩登りを一週間した後、コロンビア氷河へ行き、三千メートル級の雪山を四人で登ることにした。その出発点であるコロンビア氷河の近くにあるキャンプ場でテント二張り張った。言わずとも、旅行中は同じ組み合わせでテントでの寝泊まりしていた。
翌日、朝四時に起きた四人は星空の下、アスベスカ峰へ向かった。ガレ場を三十分も歩いているうちに明るくなり、ヘッドランプを消した。氷河までのガレ場を歩いている時は、初心者であるマイクとリサは足が早く、熟練のクリスとイアンは遅かった。スピードに合わせたわけではないが、氷河に着くと、同じペアの二組のザイル・パーティーを編成した。
イアンはクリスとニュー・ハンプシャーの冬山を一度登ったが、森林の中の山だったので、クリスの山岳登攀技術は本当のところこの日まで知らなかった。もちろん、イアンは山岳登攀技術をクリスに披露したこともなかったし、クリスの氷河の経験はイアンほどでなかったので、マイクやリサ達と一緒にイアンから氷河歩行で必要なザイルの結び方を教わった。
全員準備ができると、イアンが先頭に氷河を横切り出し、山頂へ向かった。氷河を横切ると、稜線に出る急傾斜になった。その斜面の雪は固く凍っていたが、イアンはアイゼン無しの山靴を蹴り込んで出来る足場を作るキックステップで登り出した。クリスは立ったまま手際よくアイゼンを付け、イアンの跡を追った。
急傾斜が終わると、東側が突然見下ろせる様になり、彼方にはコロンビア氷河の自分たちの泊まっているキャンプ場も見えていた。そこからは雪混じりの岩稜となり、クリスはアイゼンのまま進んだ。岩稜が終わると、頂上へ向かう稜線には大きな雪庇が山頂まで続いていた。マイクとリサは途中何度も立ち止まり、マイクかリサはザックをおろし小休憩を取り、時間を喰っていた。一定のスピードで、殆んど休まず登っていたイアンのパーティーが白銀の頂上に先に着いてしまった。
カナディアン・ロッキーズは澄み切った青い半球の中、見渡すかぎり広がっていた。太陽はその青い半球の頂点から容赦なく隅ずみまで照らしていたが、白銀の幕に被されたカナディアン・ロッキーズは未だに真冬を思わせていた。四人は記念写真を取り、行動食を食べながら四方八方に広がる険しい山々を眺めていた。他のパーティーが到着し、頂上は混雑し始めたので、四人は下山の準備にかかった。
下山は、雪の急斜面の下降に慣れているイアンとクリスは躊躇なく下って行ったが、リサはその広い斜面が真下に見える氷河まで落ちているせいか、慣れてくるまではぎこちなかった。氷河では再びザイルを結び、クリスが先頭に下った。登りと違い、イアンより脚の長いクリスは歩行が早く、イアンはザイルに引っ張られることもあった。
キャンプ場に戻ったのは午後二時で、まだ陽は高かった。天気も良く時間があったので、四人とも木陰で昼寝をしていた。しかし、イアンは汗ばんだ身体では昼寝ができず、キャンプ場のそばを流れる小川で行水をし、髪も洗った。小川は雪解け水で激流となり、身を刺す様に冷たかった。しかし、乾くとさっぱりとし、気持が良かった。イアンがびしょびしょになったタオルを干していると、
「どこでシャワーを浴びたの?」と、冗談気味にマイクが尋ねた。マイクもシャワーを浴びに小川に行った。昼寝から起きたクリスも小川に行ったが、顔だけを洗って戻って来た。
その日は食事当番であるイアンがいつもより早めに夕食の準備をし始め出した。キャンプ場のピクニックテーブルを四人が囲んで夕食をしていた時、話題がイアンの家庭になり、リサが驚いた。
「えっ、奥さんにはここへ誰と登山しに来ているのか、言っていないって?」
「俺が誰と登るのか気にしないから、全く何も言っていない」とイアンが答えた。
「でも、帰ってから登山がどうだったかって聞かれないの?」
「登山はどうだった? と聞かれても、『はい、良かったよ』と答えれば家内はそれっきりで、詳しくは知りたくないんだ」
「じゃぁ、山の写真も見せないの?」と、リサは審査官の様に尋ねた。
「以前は良く見せていたけど、山の写真には興味がないし、無理に見せようとすれば時間がないと言って怒られるから、今ではほとんど見せていないんだ。まぁ、俺のことはどうでもいいんだ。いつか山で遭難死して、保険金さえ受け取れば、それでいいと思っているんだから」
「まさか、それは本当じゃないでしょ? やはり哀しがるわよ」とリサが言った。
「本当なんだよ」
「そんなに冷たい人なら、離婚したらいいのに?」と、リサが真剣な顔をして言った。イアンは個人的な話を避けて、
「それが複雑なんだよ」と答え、クリスに目を向けた。それまで黙って聞いていたクリスが厳しい口調で言い出した。
「あなたの奥さんは本当に酷い人! それでも離婚したくないの?」
イアンは黙ったままうなずいていた。リサはそれ以上質問をしなかった。
夕食が終わり、その片付けも終わったが、陽はまだ高かった。その時、突然クリスがキャンプ場の裏にある丘へ散歩に行こうとイアンを誘った。イアンは散歩をする気はなかったが、クリスのきれいな声と可愛い微笑に引かれて『ノー』とは言えず、散歩に出かけた。
渓流のそばにある急な山道は動物の踏み跡みたいなところもあった。滅多に人が来ないところらしく、薮こぎもせねばならなかったが、マイクの教えてくれたとおり、二十分も登ると森を通り抜けて広々とした小高い草原に出た。草原は緩やかに起伏し、見果たす限り人影も動物も見えず、所々低いかん木が生えており、露出した岩もあった。うしろを振り向くと、今日、登ったばかりの白銀のアスベスカ峰が目の前に見えた。
「この景色はサンウンド・オブ・ミュージックの映画みたいだね?」とイアンが言った。
「本当にそんな感じがするわね」と、クリスは言って、まるでその映画に出てくる場面みたいに両手を開いてぐるぐると辺りを見回した。すがすがしい空気をクリスは満喫している様だった。
イアンは大きな露岩の上に腰かけ、夕陽に映えるコロンビア氷河を眺めていた。クリスもイアンのそばに腰かけ、二人とも黙ったまま同じ方向を眺めていた。その静けさを破ったのはクリスだった。
「これであの二人を二人きりにさせることができたわ。あなたがこの登山に来てくれて本当に良かった」
「なんだ、それで散歩に誘ったのか」と、イアンは苦笑いをしながら言った。
「もしあなたがいなかったら、三人だけでは私の居所がなくて困ったと思うの」
「実はね、バガブー登山に誘ってくれて良かったと思っているよ。でなければパートナーなしでシャモニーへ行くのはあまり面白くないからね。だけど俺が最初から参加すると思った?」
「あなたが暇だっていうことを知っていたから、来られるはずだと思っていたのよ」
「ふーん。感がいいね」
「私の滞在日程が短いのは早めに帰って、彼ら二人だけにするためなの」
「あぁ、それでかい。俺も君のと同じ日程にしたかったけど、予約が取れなくて、君より二日遅れて帰ることになっている」と、イアンが言いさらに続けた。「君はリサとマイク二人共良く知っているからいいけど、今では、リサにも慣れて来たけど、始めのうち俺は彼女をあまり知らなくて、話に困ったよ」
「リサと私は親しいけど、マイクは私あまり知らないのよ?」
「えっ、そうかい? 彼と親しそうに話をしていたけどそうじゃなかったの?」と、イアンが驚いて尋ねた。
「あぁ、レイク・ルィージでの岩登りの帰り道のこと? あの時は私思いきって彼と話をしてみたの、でもやはり難しかったわ」と、言ってクリスは笑い出した。
「へーぇ! 君は誰とでも気楽に話ができるタイプだと思っていたのは間違いか?」
しばらくの間、二人は黙ったまま遠い山々を眺めていた。その静けさを破ったのはまたクリスだった。
「夕食の時の話だけど…、離婚って精神的に大変な負担だけど、それは一時的なことで、次第に楽になってくるのよ。長い将来のことを考えると離婚した方がいいと思うけど」
「それはわかるし、できれば離婚したいけど、一人になるのが怖いんだ」
「私の場合、離婚する前にいた友達は私達夫婦の友達ばかりだったから、離婚したばかりの頃はそういった友達がみんな消えて行ったのよ。それで長い間、私は本当に一人ぼっちだったわ。でも、そんな時、私はアトリエで毎日誰とも逢わず一晩中、モビールを作ったりしていたから寂しくは感じなかったわ」
「俺にはそんなことはできないよ。特にこれからは会社の同僚もいないし、一人で仕事をやって行くのだから」
「でも、あなたには山仲間が沢山いるのではないの?」
「そうだけど、欲の深い家内だから扶養金を沢山ふっかけてくるに違いないし、そうなれば、山にも行けなくなって山仲間が沢山いても山に行かなくなってしまうと、付き合いが減ると思う」
「今のあなたの生活は豊かだけど、質素にすることも考えては? 慣れてくれば、どんな収入でも登山はできるんだから、経済的なことはそれほど心配することはないわよ、イアン! 私が離婚した時、フランクがクレジットカードを使い過ぎていて、その支払いには本当に困ったのよ。それに色んなところから借金の返済を請求されて、あの時の私は全く一文無しで、母が助けてくれなかったら、夜逃げしていたかも知れなかったわ。離婚直後は精神的にも経済的にも大変だけど半年や一年もすると慣れてくるのよ。そして自分一人の生活も安定してくるの」と、クリスが強く言った。
「そうは言っても、僕の場合、離婚するのは自業自得でそうすることはなかなかやりにくいなぁ」
「ねぇ! 愛する人を探して、幸せな生涯を送ることを考えればできるはずよ! それに、そういった生活のほうが刺激もあって楽しいと思わない?」と、言ってクリスは立ち上った。
「わかったよ。有難う、クリス! 離婚することに何だか勇気が出てきたみたいで、帰ってからそのことを良く考えてみるから…」と、言ってイアンも立ち上がった。
太陽は地平線すれすれまで沈み、白銀の山々を黄金色にした。
「さぁ、暗くならないうちに戻りましょう?」とクリスが言った。
二人はキャンプ場へ下って行った。森の中はすでに薄暗くて、二人は何度か道に迷ってしまった。樹木の枝の下にできた動物の踏み跡を二人は腰をかがめて通っていた時、イアンが言い出した。
「まさか、こんなところに熊はいないだろうね?」
「いるかも知れないわ。だからあなたに先を歩いてもらっているのよ?」と、クリスは冗談半分に言った。
「君は酷いな! 俺、以前、ヒグマの夢を良く見ていたんだ。で、転職した際、入社するための人格検査で精神医学者からどんな夢を見るのかと聞かれた時、そのことを話したら、何故そんな夢を見るのか解析してくれたんだ。元の職場には博士号を持った者が多く、しかも外国生まれは俺一人だったから、彼らからつまらんことばかりさせられて、まるでテクニシャンか事務員みたいだった。大学院卒のエンジニアの肩書は無視された様なものだった。それでストレスが溜っていたんだって。で、転職先は博士号を持った者はほんの僅かで、俺みたいな外国人技師が多いから、もう熊は出て来ないって言ってくれたし、それ以来、ヒグマの夢は全く見なくなってしまったよ」
「へーえ! ヒグマの夢を見ていたの? 職場って、入社した時から自分が誰であるか見せておかないと、途中からでは問題が起きても中々変えらない環境なのよね?」と、クリスはまるで自分にも同じ様な経験があったみたいに言った。
「それもそうだし、職場って俺みたいに文句をはっきりと言わない者にとっては不利な環境だと思うね?」
「あなたは忍耐強いから、いいけど。そうでないと、会社を早く止めるか、狂ってしまうわ」
「君は、俺と違ってはっきりという方だろう?」
「いや、そうでもないのよ。私って人の言いなりになりやすい方だから、それで不満が積もると爆発するの。命令する様な言い方がリサの癖だったことを私は知らないでいて、ついに私、爆発しちゃって彼女をびっくりさせたことがあったのよ。でもリサがその時、穏やかにこう言ったの『私は色んなことを命令するけど、私の家族はみんな聞き流しているのだから、私の言っていることは聞き流しくれない?』って」
「へーぇ! でも、一度爆発すると、大抵の人は避けてしまい、いずれは友達さえも失うことになるけど、そうでない人ももちろんいるわけだ。リサはその一人だし、俺もその一人」と、イアンが言ったら、クリスは笑顔をイアンに見せた。
翌日、次の高山の目標を決めたが、土地感のあまりない四人は山の情報を求めにコロンビア氷河にある案内センターへ行った。四人共カウンターに並び、公園管理員から情報を聞いていた。しかし、雪が深くて、まだ雪崩れていないとわかると、予定を変えなければならなかった。
四人が集まって相談しているとき、マイクはイアンの意見ばかり尋ね、クリスの意見は全く尋ねようとしなかった。イアンは後でそのことをクリスから聞かされた。赤茶けた髪のマイクは典型的なアイルランド系ともいえ、鬚むじゃの赤い顔に、ずっしりとした体格もそうであった。強いボストンなまりで喋り、いつも愉快で誰からでも好かれやすい気質だったので、クリスの批判的な観察をイアンは信じられなかった。しかし、その時、イアンは自分がいつも男女平等に意見を求めていることに気が付いた。それからは、マイクがクリスを無視してイアンに尋ねる度、クリスはイアンと目を合わせて『ほらね!』という表情を見せた。アメリカは民主主義と男女平等が徹底しているとは言ってもマイクみたいな男が意外と多いのだとクリスが付け加えた。
案内センターの公園管理員と話しているうちに、バガブーへの林道が開通していることを知り、四人は大急ぎでバガブーへ向かった。四十数キロもある舗装されていない林道は深い谷間を走り、全くの無人地帯で車一台も見なかった。林道を一時間くらい走ったとき、赤茶色した大熊が道路脇で赤い木の実を食べているのを見つけた。マイクは急停車し、その熊のそばまで車をバックさせた。イアンが車の中から写真を何枚か撮っていると、熊はのそのそと森の中へ消えて行った。そこから終点まで五分もかからなかった。
終点には駐車場があり七~八台の車が駐車していたが、誰一人いなかった。どの車もタイヤの高さまで金網で囲んであり、車の下にヤマアラシが入られない様にしてあった。積雪期ばらまかれた岩塩がブレーキの配管ゴムに染み込んでおり、ヤマアラシがそれをかじるのを防ぐためだった。
駐車場には金網が用意してあり、金網を支えるための適当な長さの木切れと石も沢山転がっていた。車のエンジンを切ると谷川を流れる水の音だけが聞こえていた。遥か彼方には雪を被った黄色い岩肌の針峰が夕陽に輝いていた。今晩泊まる山小屋はその針峰の近くなので、四人は大急ぎで荷造りし始めた。
イアンはみんなより早くパッッキングが終わったので、金網を車の回りに巻き始めた。マイクも荷造りを終え木切れを金網に立て掛け、石で支えた。すき間なく囲むには何箇所も木切れで支えなければいけなかった。リサもクリスも荷造りが済むと、その作業を手伝い出した。
ザックを背負って駐車場を出発した時はもう既に陽は沈み、空は黄金色がかっていた。イアンを先頭にクリス、リサ、マイクの順に小川沿いの狭い山道を歩き出した。ひどい薮蚊に追われると同時に時間が遅かったので、急ぎ足で歩いていた。イアンとクリスのザックは二十キロもなかったが、リサとマイクのザックは少なくとも三十キロを越しており、リサ達はぐんぐんとイアン達から離れてしまった。
マイクとリサは重たいテントを担いでいたが、クリスとイアンはビバークサックでキャンプする予定であったし、フリーズ・ドライの食料も用意していた。しかし、マイクとリサは缶詰など重たい食料をザックに詰めていた。それに、イアンとクリスは八・五ミリのダブル・ロープをザックに詰め、マイクとリサは一一ミリのロープ二本持っていた。
三十分も歩いていると、リサとマイクの声が聞こえなくなり、薄暗くもなったので、クリスとイアンはヘッドランプを点けた。熊が森の中から突然現れる可能性があるので、二人は大声で喋りながら歩いていた。話題が途切れると、どちらからともなく質問し、何でも良いから話を続けていた。二時間くらい進むと深い森林地帯を抜け出て、道が急になり山岳地形になった。熊が突然出る様な地形ではなくなったので、二人とも黙ったまま、黙々と登山道を登っていた。
うしろを歩いていたクリスが突然
「あっ熊!」と叫んだ。イアンは硬直し辺りを見回し、せっぱ詰まった声で
「えっ、どこ?」と尋ねた。
「あそこ」と、クリスが暗い岩陰を指さした。しかし、そこには何もいなく、クリスが笑い出した。イアンはクリスに振り返って、クリスの肩を掴み、拳骨を上げた。
「この野郎! 俺はもう少しのところで心臓マヒを起すところだったのに」と、言ってクリスの肩を揺さぶった。
「あなた、本当に飛び上がったのね」と、クリスは言ってクスクス笑い出し、しばらくの間、笑いが止まらなかった。しまいにはイアンも笑い出してしまった。
登山道が険しくなると、崖を攀じ上るところもあり、鉄梯子もあった。梯子を登ったところでクリスが
「今の音聞こえた?」と、小声で言った。イアンはヘッドランプでクリスの顔を照らし、彼女の真剣な目付きを見ながら半信半疑で尋ねた。
「どんな音だった?」
「その辺でガサガサといった音。嘘を言っているのじゃないのよ」と、言ったクリスの声は真剣だった。
「俺、何も聞こえなかったけど、音からしてどのくらいの大きさだと思う?」
「このくらい」と、クリスは両手で大きさを示しながらが「猫くらいだと思う」と言った。二人は注意深く辺りを見回したが、何もいなかった。再び、二人は登り始め出した。五メートルも行かないうちに、
「ほら、ヤマアラシがここにいる」と、イアンは言ってヘッドランプを道の脇一メートルくらいのところを照らした。岩陰に黒いヤマアラシが震えおびえながら、じっとしていた。
「ねっ! 私が言ったとおりの大きさでしょう。嘘じゃなかったのよ!」と、クリスが声を上げた。
午前零時、二人はケイン山小屋へ辿り着いた。山小屋は深い雪に囲まれ、まだ春先みたいだった。真っ暗な山小屋の中は静まりかえっており、二人は登山靴を入口で脱いで靴下のまま静かに山小屋の中へ入った。ザックは一階に残し、寝袋とスリーピングマットだけ持って二階に上がった。寝ている人を起さない様にとヘッドランプを手で覆い、足を忍ばせながら空いた場所を探し、クリスとイアンは寝袋を並べた。二時間後、マイクとリサが山小屋に着いた。
翌朝、四人共寝ぼうし、八時半頃起きた。天気は良かったが、朝食などを食べてから出発となれば、長いルートを登るには遅過ぎたので、疲労回復かたがた、丸一日中ここで休んだ。翌日は雨が降り出し、天気予報ではここ数日、回復しないことがわかり、四人は下山することにした。
バガブーの針峰群を真近に見ることができただけではあったが、それほどがっかりもせずに下って行った。下りもザックの軽かったクリスとイアンはマイク達より離れ、先に車に戻った。その道中、森の中でイアンは大声で熊が出たと叫んだが、イアンの前を歩いていたクリスはビクともしなかった。クリスは笑い出し、二日前イアンが飛び上がったことをからかった。
車に戻った四人はキャンモアへ向かった。道のりは長く、半日かかった。クリスは狭い車の中、両足をイアンのうしろに伸ばして軽いいびきをかいていた。イアンは両足をクリスの前に伸ばしていた。どこへ足を伸ばせば心地が良いかは、何日も同じ席に座っているうちに考え出した知恵だった。イアンはうとうとしながら、クリスの寝顔を見ていた。クリスは陽焼けもせず四十一才とは思えない肌理の細かい肌をしていた。クリスは男みたいに強く、ずぶ抜けた肝を持ちながら、表面は柔らかい女の外観をしていると、イアンは思った。
やさしい雪山を登れたことと、低いところで岩登りができたくらいで、イアンは多少がっかりとした二週間の山行きとなってしまった。しかし、イアンは今まで知らなかったクリスを発見でき、強く彼女に興味を持ち出し、彼女と共にしたニ週間が忘れられないものとなってしまった。燕脂色に染めたクリスの髪を、以前はあまり良い感じではなかったが、今ではその色が好きになってしまった。笑顔でクリスに見つめられると、イアンは力弱く溶けてしまいそうなほど、彼女の青い目には惚れてしまった。ボストン・アクセントと違い、癖のない英語を話す彼女の澄みきった奇麗な声はイアンの心を揺さぶっていた。しかし、イアンはその恋心をクリスには全く見せようとせず、山仲間として対応し、親友の様に振る舞っていた。
キャンモアのカナダ山岳会の寄宿舎に戻ると、イアンなどここに残る三人が洗濯や荷物の整理をしている最中、クリスは大急ぎで帰り支度をしていた。カルガリーで新しいザックを購入したので古いザックとアスベスカ峰で見つけたメロンくらいの大きな石をダフルバッグに入れるとチャックが閉じられなくなった。しかし、大きなプラスチックス製の登山靴をダフルバッグから取り出すと、なんとかチャックが閉まってくれた。登山靴は重たく歩き難いがクリスはそれを履いて帰ることにした。
クリスは予定どおり、二週間カナディアン・ロッキーズで過ごし、金曜日の午後ボストンへ飛び立つ予定だった。その日の午前中、クリスはみんなと一緒にキャンモア近郊の渓谷でハイキングをし、そのままカルガリー空港へみんなと一緒に行った。キャンモアからカルガリーに向かう車の中、イアンはぼんやりと空の雲を眺めていた。クリスはいつもになく、きょろきょろと両側の窓の外を眺め、隣に座っているイアンの横顔を盗み見していた。
陽焼けしたイアンの横顔が優しく見えた。この登山旅行を通して、イアンはクリスの世界に存在する様になってきていた。イアンは十才も歳上ながら興味深いところがあり、若い男と付き合っていた時と同じような新鮮な刺激のある会話もできた。しかし、クリスはそれがなぜなのかと気が付くどころか、考えもしなかった。イアンと更に親しくなれたものの、彼との間には超えてはならない見えない壁があり、それが故に微妙な二週間だった様な気もした。
思ったほど難しい登山は今回できなかったが、イアンがクリスを山では女として甘やかさず、対等に扱ってくれたのでクリスは嬉しかった。そうすることによって、自分自身の技術向上になり、登山そのものに充実感を得られた。パートナーに引っ張り上げられたり、困難なところは男性パートナーがいつもやってしまう様では登攀の楽しさがなかった。残念ながら、そういった男のパートナーが多かった。その他に、男のパートナーと登ると、男から恋人扱いされることもあり、そうなると登り難くなることもあった。イアンがそういったところを示さなかったので、今までにない最高のパートナーだとクリスは感じ、彼の行くところならどこでも行きたいとさえ思った。
マイクが空港のターミナルの前で車を止めると、イアンはカートを見つけ、クリスのダフルバッグをカートに載せた。クリスは買ったばかりのザックを背負い、マイクに別れの抱擁をした。そして、クリスはイアンに近寄り、彼を固くぎゅっと抱きしめて、別れの挨拶を言った。リサはクリスのカートを押してクリスと共にターミナルの中へ入った。リサがそうしなければ、イアンは自らそうするつもりでいた。イアンとマイクは駐車した車の中でリサの戻って来るのを待っていた。
リサはチケットカウンターに並んでクリスの傍でカートを押していた。
「クリス、今回私たちだけではあまり話ができなかったけど、気を悪くしないでね?」
とリサが言った。
「いや、そんなことは気にしないでいいのよ? それよりも私がいて、あなたとマイクの邪魔ではなかったかしら?」
「そんなことはなかったわ。あなたとイアンとの間はうまくいっていたみたいだけど、どうだったの?」と、リサはにやにやしながら尋ねた。
「イアンは単なるクライミングパートナーではないって感じさせるのよ? 彼が私を好きだということは感じているのだけど、まさか私に惚れているのかしら?」
「へぇー、彼はそのことをほのめかさなかったの?」と、少しがっかりしたようにリサが言った。
「リサ! 結婚している彼からそんなことは言われたくないわ」と、クリスは抗議した。リサは何も言わず薄笑いしていた。
「でもね、私、既婚男性をそそのかしているみたいだったから、時々故意に彼に冷たくしてしまって、彼には可哀想だったわ」
「それでいいと思うけど、仕方がないわね? 彼が離婚するまで待つより他にないと思わない?」
「えっ! 私は未だそこまでは考えてはいないのだけど…」と、クリスは困ったような顔をしながら言った。
イアンはリサがすぐに戻って来ると思っていたが、しばらくしてから、リサが戻って来た。空港を出た三人はキャンモアへ向かった。イアンはひとりでうしろの席に横になって座った。
「一人で座席の占領ね!」と、リサが振り返って言った。
「ああ、そうだけど、妹がいなくなったみいで寂しく感じるなぁ」と、イアンが笑いながら言った。
「あら、良いこと言うわね」
「だけど、クリスは俺から離れてむしろ清々としているんじゃないかなぁ?」
「イアン、そんなことはないと思うわ。クリスは今ごろ、あなたと別れて一人ぽっちになったショックを感じているはずよ」
「えっ、それ本当かい?」とイアンが言った。その時、イアンはリサがクリスのカートを押してターミナルに入り、かなり時間がかかってから車に戻って来たことを思い出していた。クリスとリサは一体何を話していたんだろうかと考えていた。
クリスがいた時は避けていたが、キャンモアに戻った三人は町で一番良いといわれている、高級イタリアン・レストランに出かけた。テーブルに座ったイアンはなんとなく、三人でいることが難しく感じ、クリスが気にしていたことを思い出していた。しかし、リサとマイクは意外にもイアンを引っくるめた愉快な話題を持ち出し、夕食は思った以上に楽しかった。夕食の終わりかけた時、突然、リサがイアンに尋ねた。
「イアン、奥さんにはまだ電話はかけていないの?」
「全くかけていないよ。かけたって何故かけたかって面倒臭がられるから、かける気がしないんだ」とイアンが答えた。リサは真剣な顔をして尋ねた。
「じゃぁ、うちにいたって面白くないでしょう?」
「ああ、そりゃ楽しいとは言えないけど、互いに邪魔にならない様にしているから、めったに喧嘩もしないし、家の中は結構平和なんだ。でも暖かく愛されたいという気持は常にあるけど…」
「愛する人と生涯を送ることを考えれば、離婚すべきだと思うわ」と、リサはいつもながらの理論的な言い方をした。
「クリスも同じことを提案しているから、今度大喧嘩をしたら本当に離婚するかも知れない」
「そうよ、自分の将来のためには離婚した方がいいわよ!」
イアンは今までになく離婚のことを考える様になってしまった。と同時に、何故リサまで俺にそう言うのだろうかと考えてもみた。
第七章
クリスは黒いタイツの上に深緑色のナイロンのジョギング・ショーツを着ていた。それにプラスチックス製の大きな黒い登山靴も履いていたので、見かけミッキーマウス、というよりも女だからミニーみたいでもあった。燕脂色の髪も目立ち、機内の乗客はクリスを滑稽に思ったかも知れないが、クリスは一向に気にならなかった。機内の座席に落ち着いたクリスは目を閉じ、山から持ち帰った石のデザインを考えていた。
オレンジ色の石には無数の白い線が入っており、焼物の様な特徴があった。しかし、石を実際に見ながらでないと、どんなに考えても思った様な構想通りに行かないこともあるので、クリスはそのまま眠ってしまった。大した登山はできなかったが、グループから離れ一人になれた安堵感から、どっと疲労が出てしまった。
夜遅くボストンに着き、アパートに戻ったクリスはさっそく、その石をダフルバッグの中から取り出し、台所のテーブルの上に置いた。石を見つめていると、イアンと一緒に歩いたアスベスカ峰のガレ場を思い出し、イアンの陽焼けした横顔も思い浮かべていた。
翌日、昼過ぎになって起きたクリスは冷蔵庫の中を覗いたが、中にはバターやジャムとかいったものしかないのに気が付き、買物に出かけた。夕食の炊事をしている時、テーブルの上に置かれたままの石に気が付き、バガブー登山の場面を思い出していた。
レイク・ルィージのキャンプ場で自分が炊事当番をしたことを思い浮かべた。毎日四人が交代で夕食の炊事をしていたが、マイクかリサが当番の時は必ずその二人は仲良く一緒に炊事をし、負担は楽だった。夕方遅く登山から戻って来たその日はクリスの当番だった。マイクとリサはシャワーを浴びに行っていたが、イアンはシャワーを後回しにし、クリスの炊事を自ら手伝ってくれた。そんなことを思い浮かべたクリスは一人で小踊りしながら夕食の準備をし、その石を目の前に夕食をした。その石はその位置から動かさない様にした。
夕食後、クリスは自分のアトリエに行き、モビールのデザインと取り組んだ。久しぶりにデザインに取り込むことが新鮮に感じてか、又は、二時間遅れのカナディアン・ロッキーズの時差が残っているせいか、夜遅くまでデザインに没頭していた。外が明るくなり騒々しくなるとクリスはアパートへ戻り、着替えもせずブラジャーのフックを外しただけでベッドの上にうつぶせになり、そのまま眠ってしまった。
午後になって目を覚ましたクリスは再びアトリエに向かった。その途中、顔見知りの芸術家達と出逢い、挨拶かたがた雑談をした。その一人、エーミーは岩登りの友達で週末の岩登りの打ち合せもでき、久しぶりにガンクスへ行くことになった。翌週からは時差ボケも解消し、ボストンの時間に合せられる様になったが、アトリエへは昼過ぎになってから出かけ、アパートへ戻って来るのは真夜中だった。
毎日クリスはほとんど誰とも話すこともなく一人で過ごしていた。モビールは幾ら製作しても売れ先がなく、アトリエの天井を一杯にしていた。それまで、クリスは時々パートタイムで宣伝広告などのデザインをし、何とか生活費を稼いでいた。
しかし、カナダから帰って以来そういったパートタイムの仕事は見つからず高い家賃を節約するため、アパートを諦めアトリエに引越すことを考えていた。狭いアトリエには台所や寝室もなく、洗面所とトイレがあるだけだった。アトリエに住むことはクリスにとっては最終的な手段で、考えたすえアパートの家賃はレストランでウエイトレスのアルバイトをしながら稼ぐことにした。
*
帰宅したイアンはなんとなく気の抜けた様な気持になった。毎日クリスと一緒にいたバガブーのことが脳裏にあり、彼女のことばかり考えていた。しかし、クリスとの関係は恋愛ではなく、ただの登山仲間であることは百も承知していた。
クリスとリサ二人共、イアンに離婚を提案していたことが気にかかり、イアンは考え続けていた。そのうち、クリスはイアンが離婚することを待っているのかも知れない、とイアンは考える様になり出していた。その理屈付けとして、リサが空港でクリスと長く話をしていたことや、その直後リサがイアンに言ったことなどを思い出していた。次第にイアンは離婚の機会を待つようになっていた。しかし、イアンがバガブー登山から帰った数日後、ゲイルは娘を連れてヨーロッパ旅行に出かけた。
妻の旅行中、イアンはのんびりと裏庭のプールで、誰からも怒鳴られることなく三週間過ごせた。その間、イアンはクリスやリサ、マイク達を自分の家に招待しカナダ登山のスライドを映写した。クリスの住んでいる都会と違い、イアンは郊外の静かな林の中に住んでいた。広い敷地にあるイアンの家は車道から五十メートル登り上がった林の中にあり、隣近所の家は林を通してわずかに見えるくらいであった。家の回りには花がぎっしりと咲きその種類と数は驚くほど多かった。
クリスが先にイアンの家に着き、イアンは車庫の前に駐車したクリスを出迎えた。涼しそうなサンドレスを着たクリスが車から出て来るやいなや、イアンは両手を開きクリスを抱きかかえた。僅か数週間ぶりではあったがイアンはこの時を待っていた。クリスは辺りを見回していた。
「車が沢山あるのね? 新車のBMWは車庫の中なの?」
車庫の横にはゲイルの車と娘の車が駐車してあり、倉庫の近くには古いBMWと小型トラックが駐車してあった。
「ああそうだよ、新しいのは車庫の中で、あの二台は古いから予備で冬だけ使っている」
「花が沢山植えてあるけど、これみんな奥さんが植えたの?」
「そうだけど、毎年その量が殖えて今年は去年以上に色とりどりになって…。俺に水まきだけを頼んで出かけたよ」
クリスが花壇の回りを歩き出したので、イアンは彼女のうしろを歩いていた。一応、家とプールの回りをぐるりと回った時、
「家の中見たい?」とイアンが尋ねた。
「ええ、見せて」
家の中は広々とし、それほどきちんと片付けてはなかったが、整然としていた。一階にある台所、広いリビング・ルーム、フォーマルなダイニング・ルーム、ユティリティー・ルームを一とおり見回った後、二人は二階へ上がった。冷房は入っていなかったが、屋根にある数個の大きな窓が開放されてあり、二階は外気とほぼ同じ程度の気温で暑くはなかった。イアンの書斎やゲイルの部屋を覗き、二人は広い寝室に入った。そこには大きな本棚が壁いっぱい並んでおり、クリスはその前で立ち止まった。
クリスは今までこんなに沢山の本を持った友達はいなくて、どんな本があるのか本棚を隅から隅まで見出した。イアンらしく本はきちんと分類してあり、山岳関係の棚は容易に見つかった。『ノース・アメリカン50クラシック』という山の本を取り出し、床に座って本を開いた。バガブーで登りそこなったルートを探していた。
その時、車道から上がって来る車のエンジン音が聞こえ、イアンは窓の外を見た。リサとマイクが着き、イアンはクリスを部屋に残したまま外へ出てリサ達を出迎えた。リサもクリスと同じ様に花壇に感動し、花壇の間を歩き回り出した。家から出てきたクリスもその仲間に入った。花壇を見回した後、イアンはリサ達にも家の中を見せ、イアンがバーベキューの準備を始め出した。
リサはイアンが台所で炊事をしている姿を見ながらからかった。
「イアン、あなたにも家庭的なところがあるのね?」
「本当に思いもしなかったわね!」と、クリスも言い笑った。
「ダイニング・ルームで食べる?」と、イアンがみんなの顔を見ながら尋ねた。大きなステンドグラス窓のあるフォーマル・ダイニング・ルームは落ち着いたセンスの良い壁紙が張られ、床は樫の木で作ってあった。部屋には樫の木製の大きな楕円型のフォーマル・ダイニング・テーブルやガラス張りの戸棚などがきちんと置いてあった。それは典型的な中流階級のヤッピー風なダイニング・ルームでもあった。三人は顔も見合わせず外を指さした。
イアンは裏庭にあるガス式のグリルでハンバーガーを焼き始めた。三人は皿などをイアンが台所のテーブルの上に用意していた物をピクニックテーブルへ運び、夕食の準備をした。
「こんなふうにピクニックテーブルで食べていると、この夏のカナダ旅行みたいね?」とリサが言い出した。
「ああ、全くそうだ」とマイクが答えた。リサはピクニックテーブルを見回しながら言った。
「でも、このテーブルはちょっと大きくない?」
「そのはずだよ。このテーブルの巾は 建築材料の販売品規格、八フィート(2.4m)の板で作ったから、カナダのキャンプ場に置いてあった六フィートのより大きいわけ」と、イアンが笑いながら言った。
薄暗くなるまで、四人はピクニックテーブルを囲んで楽しく話し合っていたが、薮蚊が出始めたので家の中に入った。広いリビング・ルームでイアンはカナダ旅行のスライドを映写機に入れ、スクリーンに映写した。マイクとリサは仲良くソファーに座り、クリスはカーペットの上に寝転んでスライドを見ていた。
イアンは皆のうち誰かが写っているスライドだけを前もって八十枚選んで見せたが、残りの二百数枚も見たいと言われ、全部見せた。クリスの写ったスライドが多く、カメラを向けると滑稽な顔や姿を見せる百面相のクリスだったし、リサとマイクもクリスに敗けず茶かした場面があったので、スライドショーは爆笑の連続だった。
イアンとクリスは一週間後に岩登りへ行く計画を立てていた。しかし、その数日前クリスはイアンに電話をかけてきた。
「イアン、私、引越しで都合が悪くて岩登りには行けなくなったの。ごめんなさい。でも、その代りに私のアパートに来ない? 私が夕食を作るから…。で、その後で重たい物を運ぶのを手伝ってくれない?」とクリスが言った。混雑したケンブリッジへ運転して行くことは乗り気ではなかったのでクリスの誘いは断るつもりでいた。しかし、彼女から手助けを求められ、イアンはそれを断ることができなかった。
「じゃぁ、何か持って行こうか?」
「そうね…、ソーダーかなにかそういった飲物でいいわよ」
イアンは前回と同じように車をハーバード・スクエアにある地下駐車場に駐車した。そこまでは良く慣れた道順であった。そこからクリスのアパート近くまで地下鉄で行ったが、駅からの道順をはっきりと覚えていなかった。クリスは地下鉄の駅に向かって歩き、イアンと途中で出会うことができた。
台所でクリスが夕食の用意をしていた時、台所のテーブルに置いてある赤と青の小瓶を見ながらイアンが言った。
「これで髪を染めているわけ?」
「そう、それは食品の色付け用で水性なの。だから、何度か髪を洗うと色が落ちるのよ」
「面倒なことをやってるんだね?」
「ええ、でもパーマネントに染めると髪が痛んでしょうがないから」
「ふーん。何か手伝おうか?」とイアンが言った。
「そうね、ベランダでこの電気コンロが使えるようにしてくれる?」
クリスはそう言いながら細いコードを台所からベランダへ回した。
「クリス、このコードは細すぎるよ、もっと太いのない?」
太いコードがなかったので、クリスは寝室の窓を開き、電気コンロのコードを寝室の壁にあるコンセントに直接差し込んだ。
寝室には等身大の鉛筆絵が壁に飾ってあり、イアンはベランダからその絵を眺めていた。その絵は短い髪の裸体の女であったが、身体の左右が転倒しており、トランプみたいに頭が上と下、両方に付いていた。左の肩には足が付いており、左足の代りに手が画かれていた。顔を見ているうちにイアンはそれがクリスであることに気が付いた。
「あの絵はね、私が岩登りをしているポーズなの、ほら、こうして手がかりを掴んで、足はこの位置」と、クリスは言って、そのポーズを見せた。
「ふーん、なるほど面白い絵だね。だけど、なぜ肩に脚が付いて、股から腕が出ているんだい?」
「それはね、ただまともに描いたのではつまらないでしょう?」とクリスが言った。
「確かにそうだね」と、イアンは言い頭を振った。
クリスはアルミ箔に、調味料を振りかけた鮭をトマトとポテトと合わせて包み、電気コンロの上で焼き始めた。イアンはその時、リサもマイクも来ないということに気が付いた。どういうわけか、イアンは彼らもここへ来ると思っていたのだ。イアンが引越しのことを尋ねたら、クリスはレストランでアルバイトをすることにしたので引越しはしなくて良くなったと言った。
夕食後、デザートを食べにハーバード・スクエアまで行くことにした。クリスはイアンにベッドの上に置いてあった、週刊誌の芸術欄を見せ、それを読んで待つようにと言った。イアンはベッドに腰かけてその記事を読んでいる間、クリスはバスルームと寝室の間を出入りし、化粧をし着替えをしていた。その記事は色々な画家が毎年夏の最後の週末、ネバダ州に集まって行うバーニング・マンという大会のことであった。今はその大会の最中で、クリスは参加できないことを酷くがっかりしていた。毎年のようにクリスは参加しており、その楽しかったことを、時々口にしていた。
二人は早足でハーバード・スクエアへ向かった。その途中、クリスはレストランを見る都度、中の様子を覗きアルバイト先の下見をしていた。クリスは突然とてつもないことや、つじつまの合わないことを言い出し、イアンは会話に困った。しかし、早足で歩いていたし、車の騒音でクリスの言葉が良く聞き取れず、そんな会話には真剣に耳を傾けなかった。
二十数分歩いてハーバード大学に着き、大学の門の前を通って、混雑したハーバード・スクエアに着いた。美味しいケーキの有名な店に入り、大きなジャーマン(ドイツ)・チョコレート・ケーキを注文した。有名ではあったが、店主の客に対するもてなしが悪いことも良く知られてか、折角良い場所でありながら、店は混むことはなかった。その日、そういったことを知らないのか日本人女学生四人がコーヒーを飲んでいただけであった。彼女達はクリスの髪色に気が付き、何度もクリスを盗み見し、イアンと見比べているみたいだった。イアンはケーキ全部を食べ切れず、その残りはクリスが食べた。
店から出て、ハーバード・スクエアを歩いていると、クリスは幾人もの古い知人と出会った。クリスはイアンを知人達に紹介した。どれも芸術関係で、そういった話をイアンはクリスのそばで黙って聞いていた。ハーバード・スクエアから少し離れたところを歩いていると、フランス語の歌が聞こえ始めた。それはイアンにとってはとても懐かしい歌だったので、クリスの手を引いてその方向へ向かった。
街角を曲ると、黒人歌手がギターを弾きながら歌っているのが目にとまった。二人はその歌手の前に立ち、耳を傾けていた。フランス語の発音が上手で、しかもブレザーを着ているところからして、フランス人に間違いないと、イアンは思った。
「ねぇ、あの歌知っている?」と、イアンはクリスに尋ねた。
「いや、知らないけど、奇麗な歌ね」
「あれはね、アメリカでは知られていないけど、フランス語でInterdit Jeuといって英語では『禁じられた遊び』という意味。フランスの反戦主旨の映画音楽で、カンヌ賞を得た有名な映画だったんだよ」
「その映画見たことがあるの?」
「ああ、中学生の頃だったけど…、また見てみたいな」
「私も見てみたいわ、有名な良い映画はどんなものでも見たいわ」
「白黒の外国映画でも見たい?」
「もちろん」
黒人歌手が禁じられた遊びを歌い終わると、イアンは彼のカセットテープを買った。もう一曲聞いた後、クリスが言い出した。
「イアン、車はどこに駐車してあるの?」
「オウ・ボン・パンの地下」
「じゃぁ、そろそろ帰りましょう?」と、言ってクリスはハーバード・スクエアの方へ向かって歩き出した。
「俺、まだ眠たくないけど、君はもう疲れたの?」と、イアンは言って腕時計を見た。十一時半過ぎていた。週末でもないのにハーバード・スクエアは人が多かった。
イアンは買ったばかりのカセットテープを車のステレオで流し、車数の減った深夜のマス・アベニュ通りを走っていた。クリスはまだ革の臭いのする座席にゆったりと座っていた。
「初めてあなたに会った時、あなたがこの車を運転していたら、私はたぶん、違った目であなたを見ていたと思うわ」
「氷壁登攀が最初で良かったな! 冬でなければ、この車のはずだった」
「私、金持ちの貴夫人になったみたい」と、クリスは言い、貴夫人みたいな仕草でため息をついた。
「Enjoy it!」とイアンが言った。
クリスを彼女のアパートまで送った後、イアンはマス・アベニュ通りを逆戻りし、ハーバード・スクエアを通過してチャールズ川を渡った。ボストンから有料高速道路であるターン・パイクに入り西に向かった。一人になるとスピードを出す癖があり、気が付かないまま五十キロくらいオーバーし、時速百五十キロで運転していた。その夜のことを考えていた。
なぜ、クリスは俺一人を夕食に招いたんだろう? イアンはいくら考えてもわからなかった。あいにくにも、クリスがわけのわからないことを時々口にしたことが何を意味していたのか、イアンは気が付かなかったし、如何にバーニング・マンのことがクリスにとって重要なことだったのか考えもしなかった。
*
旅行から帰ったゲイルはいつもになく機嫌が良く、イアンは離婚したいとは言えなかった。それまで、夫婦喧嘩になると決まって、家を出て行けとイアンはののしられていた。しかし、イアンは生活が裕福で気楽なので出なかった。その代りに、妻に出て行けと言ったこともあったが、妻は行くところがないと言って出て行かなかった。
そんなことがあってから、妻はあまり使わなかった客室を自分の寝室にしてしまった。夕食後は各々自分の部屋に引き込もり、各々したいことをしていた。妻は朝早く出勤し、リストラになる以前のイアンは出勤が遅かったので、ほとんど同時に食事をすることがなく、週一~二回くらいしか同じ台所のテーブルで居合わせることがなかった。そんな毎日に馴れて十年もたっていたが、イアンはいっこうに文句は言わなかった。
その理由は共共稼ぎだったので暮らしはとても楽で、時間さえあれば海外登山に行け、レースカーの運転の夢をかなえてくれる操縦性能最高のBMWも運転していた。ただ、ひたすらにイアンは妻の温かい身体をほんの少しでもふれ合いたかった。できれば、愛されたくもあり、妻や娘からも相手にされたかったが、愛とかいった、ほんのりとした温かいものは家庭にはなかった。
そのせいか、女性と岩登りに行くことは楽しかった。女性とであれば、それほど厳しいルートは登れなくても一緒にいるだけで良かった。家では感じられない、ほんのりとした温かさやソフトなものを感じていた。だから、コーリーやペギー、クリスなどから岩登りの誘いがあると、無理をしても出かけていた。
コーリーには岩登りをするボーイフレンドがいたが、イアンと二人きりで岩登りをすることも時々あった。ペギーはノース・コーンウェーに別荘を持つ既婚女性で、彼女の別荘に泊りがけで岩登りや氷壁登攀に行ったりし、人里離れた山奥にある岩を二人きりで一日中登るということもしていた。貴夫人みたいな熟成したペギーと山行きをすると、それなりの会話が楽しめた。その他の女性とも登山に行ってはいたが、イアンは体力があり登り方の上手なこの三人を優先していた。
*
夏が終わり、岩登りに適した気候の良い秋になると、イアンは毎週クリスを岩登りに誘った。カナダ旅行以来、生活費に困っていたクリスは電子メールの提供会社の契約を停止していたので、連絡は電話であった。イアンはクリスに留守電話でメッセージを残しておくことが多かったが、クリスはその返事するのを良く忘れていた。
しかし、イアンは諦めもせず何度も電話をかけ、どうにか一週間おきくらいに、クリスと岩登りに出かけることができた。そんなある日、
「私をいつも登山に誘ってくれて悪いわね?」と、クリスが言った。
「俺、しつこいかい?」
「いいえ、しつこく誘ってくれて本当は有難いの。そうでもされないと、今の私は何もする気がなくて、登山に行かないと思う」
イアンが電話をかけると、クリスはいつも嬉しそうな声で返事をした。それまでイアンはクリスの声が澄みきった癖のない綺麗な音声であることにはあまり気が付かないでいた。どういうわけか、ノース・コーンウェーに誘われても、クリスは喜んでイアンと出かける様になり、いつもの様に、マリアット・ホテルの駐車場で二人は落ち合わせた。
クリスは時間どおりに現れたことは一度だけで大抵は三~四十分くらいは遅れて来た。二人はイアンの車でニュー・ハンプシャーへ向かった。普通なら、ガソリン代を負担しあうのであるが、イアンはクリスの財政が厳しいことを知っており、経済的に余裕のあるイアンにとってガソリン代は問題ではなかったので、クリスにはガソリン代を払わさせなかった。登山中、立ち寄るレストランは割りかんであったので、イアンはクリスのことを配慮して安いところを選ぶ様にしていた。それに便利で心地の良いモーテルやホステルを好むイアンであったが、クリスのため、宿泊はキャンプを優先していた。それも有料キャンプ場ではなく、無料で全く設備の無い場所が主であった。
日曜日に帰宅する必要のない二人は月曜日まで山の近くでキャンプし、混雑しない月曜日も岩登りを楽しんでいた。天気が良く、互いに都合が良ければ火曜日まで岩登りをすることもあった。帰路、レストランで夕食を取るとイアンがかならずおごっていた。イアンは帰宅すると一人で食べる状態なので、クリスと一緒に夕食をする方が楽しく、おごるその理由にはクリスは反対しなかった。アトリエでは料理し難くいし、登山と長距離ドライブの後、ひとりで外食する気もなかった。
まだ残暑の残る九月下旬、レストランのウエイトレスの収入では家賃が払えず、クリスはついにアパートを諦め、アトリエへ引越すことを宣言した。リサは狭いアトリエを見たことがあり、クリスの引越には反対しており、それを聞いたイアンもクリスに考え直すようにと言ったが、クリスは引越すより他にないと言いきった。
引越しの日は木曜日であったせいか、引越しの手伝いをしたのはイアンだけであった。引越しの朝、イアンがクリスのアパートに現れた時、クリスはコーヒーを飲みながらのんびりとしていた。ダンボール箱が数個まとまっているだけで、その日のうちに引越しが終える状態ではないと、イアンは思った。イアンは大きな物をクリスのワゴン車で数回往復すれば引越しが済むと思っていたので、引越しの準備があまりできていないのを見てがっかりした。しかし、イアンはその表情は見せず、
「じゃぁ、引越しを始めよう!」と元気良く言った。
「そのダンボール箱を車に積んで?」とクリスは頼んだ。ダンボール箱を積み終えた後、台所のテーブルや椅子を車に載せると、ほぼ車は一杯になった。
アトリエはアパートからそれほど離れておらず数分で着いた。アトリエは古い赤レンガの町工場の三階にあり、三階は芸術家が各部屋を借り各々のアトリエになっていた。
「あなたにはまだアトリエを見せてなかったわね?」とクリスが言った。クリスはアトリエの中がごったがえしであることを謝りながら、イアンに見せた。
クリスのアトリエは細長い部屋で色々なモビールがぶら下げてあり、金属板やパイプや骨董品みたいな古いランプやわけのわからないオブジェクト(=物体)が無造作に山の様に積んであった。そこへアパートから持って来たものを置くと、歩き場所にも困るほど、アトリエの中はごったがえしになった。
家具など大きな物は、腕の長いクリスの方が運びやすく、重たくてもクリスが運んだ。その日は五往復しただけで夕方となり、イアンは帰った。イアンは翌日からコンサルタントの仕事が始まったので、引越しの手伝いはできなくなった。クリスはそれから数日かけて引っ越しを完全に終えた。
二週間後、イアンはクリスと岩登りに行った。いつものようにマリアット・ホテルの駐車場で落ち合い、クリスを抱擁した時、
「シャワーを浴びているの?」と、冗談半分に鼻をくんくんとさせた。
「今朝、従姉妹、キャロンの家でシャワーを浴びて来たのよ」
「いつもそうしていたら嫌われるんじゃない?」と、イアンは心配そうに尋ねた。「キャロンとはとても仲が良いから、大丈夫よ」
「でも、キャロンじゃなかったの? 以前、君を仲間外れにしたのは」
「ええ、そういうこともできるほど、嫌なことははっきりと言える仲なの」
「ふーん、それならいいけど…。君、今の生活を良くやっているね?」
「慣れて来ると、それほど悪くはないわよ」
「俺が独身なら何か君にしてあげられると思うけど、今の俺にはどうしようもなくて、悪いな!」とイアンが言った。
「有難う。でもこれは私の問題だから、心配しないで」
「そうだね、稼ごうと思えば、以前みたいに、工業デザイナーをすることもできるんだよね?」
「そうね、紙を無駄にしない会社があれば、仕事をしてもいいけど。自然環境保護の信念としては毎日何トンものペーパーを捨てるようなところでは働けないわ」とクリスが言った。
翌日、カシードロ岩壁の下で登攀の準備をしていると、クリスの友達であるハイディとデイビッドがクリス達の前で駐車した。ハイディは一歳になる赤ん坊を抱いてキャンピング・カーから降りてきた。ハイディ達は岩登りはせず、その日はのんびりとするのだと言って、クリスと話し出した。四人がしばらく雑談をしている間、クリスはその赤ん坊を抱きかかえていた。その日、クリスとイアンはディードロという難度5・10の長いルートを登ることにしており、クリスが奇数ピッチをリードし、イアンが偶数ピッチをリードする予定であった。
ハイディ達と別れ、そのルートの取り付きに着いた時、クリスは元気なさそうな顔をしてイアンに全ピッチをリードするようにと言った。クリスの表情は今朝テントで目を覚ました時とは変わっていたが、イアンは気が付いていなかった。
苔むした難度5・7の第一ピッチを登ったイアンがクリスを確保していた時、クリスが何かわけのわからないことを言い出した。イアンはさっぱり見当もつかず確保だけしていた。泣きながら登って来たクリスはイアンのそばに座り自己確保も取らず、わめく様に言った。
「誰も私のことなどかまいやしない! 従姉妹だって私を結婚式に招待しなかったし、私、この世に生きて行く気がしなくなったわ。神様から頂いたこの身体、自ら捨てることはできやしない! どこか違う世界へ行きたいわ…火星だっていい!」
イアンは急いでクリスの自己確保を取りながら、昨晩クリスが従姉妹から結婚式に招待されなかったことをぼやいていたことを思い出した。
「クリス、従姉妹のことは気にするな! 俺は君にとってはどうでもいいような存在だが、君のことをとても心配しているんだよ」と、言ってクリスの両肩にうしろから手をかけクリスを軽く揺さぶった。
「有難う、イアン」と、クリスは弱々しく言った。
「登るの、止めようか?」と、イアンは優しく尋ねた。
「いや、登ろう! ごめんなさい、イアン」と、クリスは喉を詰ませながら言って、両手で涙をふいた。イアンに振り向いたクリスのまぶたは赤く腫れ上がっていた。
「クリス、そんな状態で登れるのかい? この上は更に難しくなるんだよ! 次のピッチは5・10なんだよ! 俺、落ちるかも知れないよ? 確保もちゃんとできる?」
「大丈夫! 私、もう大丈夫。しっかりと確保するから心配しないで登って? 今の私にとっては登ったほうがいいの」と、クリスが元気良く言った。次のピッチは短くて、右下へトラバースするところだが難度5・10の核心部であった。そこは落ちても怪我をする様なところではなく、落ちればその核心部を通過してしまうところであった。しかし、二人共核心で転落したが、無事そこを通過し、第三ピッチを見上げていた。
「クリス、予定ではこのピッチは君のリードする番だけど、どう、リードしてみない?」
「やはり、あなたがリードして? 今日はリードする気がしないから」
指が入るくらいのクラックをレイバックで登る三十メートルのピッチはたったの難度5・8であった。しかし、確保支点を設置するには、不安定な場所で嫌なところでもあった。イアンは無事そのピッチを登り、クリスを確保した。クリスもなんなく登った。
最後はオーバーハングが二つある難度5・9のクラックで、四十五メートルもある長いピッチであった。クラックは腕まで入るところもあり、クラックの得意なイアンはこのピッチを待っていた。クリスの確保しているところから十メートル登ったところにある最初のオーバーハングの下で、イアンは確保支点として大きなカムをクラックに設置した。左手をクラックの中に入れ、拳を作りクラックに手を挟んだ。イアンはその手に体重を掛け、右の足先をクラックの中に挟んだ。左足は壁にあった小さな足がかりに乗せ、左手も右手の様にクラックに挟んだ。
そういった一連の動作を繰返しながら、じわじわとオーバーハングしたクラックを登って行った。クリスは緊張してイアンを見守っていた。イアンの脇下にぶら下がっていたロック・ギア(=登攀用具)は仰向けになっているイアンの背中からぶら下がっていた。それに気が付いたクリスは更に緊張し、ロープを握っている手に汗を感じた。オーバーハングの乗越しの下で、イアンは仰向けにぶら下がったまま片手で確保支点を素早く設置し、オーバーハングの乗越しを始め出した。下で見ているクリスはイアンの両足だけが屋根からぶら下がっており、冷やひやとしていた。その時、イアンが大声で叫んだ。
「I got it! (=やったぞ)」
「Great! It looks great!(=格好いい)」と、クリスが下から歓声を上げた。その次のオーバーハングは小さかったが、ザイルが下のクラックの中に入るのでザイルの流れが悪くなり、体重以上の重さを引き上げての乗越しは死にもぐるいであった。ついにイアンはそこも乗り越え、ルートを完全に登りきった。
クリスは下のオーバーハングで何度か転落し、その度ザイルにぶら下がった。最後のオーバーハングでも、転落しながら、そのルートを登りきった。クリスの顔は赤くほてり、汗とほこりだらけではあったが朗らかさが戻っていた。車に戻った二人はサコ河のいつものところへ行き、水泳をし、汗とほこりを流した。水温は真夏よりは少し低くなっていた。
その岩登りの帰り道、クリスが言い出した。
「イアン、ごめんなさい。今朝の私、とても取り乱れてしまって」
「そんなこと、今はどうでもいいんだよ」と、イアンは優しく言った。
「このこと、あなたにはまだ言っていなかったけど、フランクと私、赤ちゃんが欲しくて努力したのだけど、後で私が不妊症だということがわかったの。それで彼、私を諦めたのだと思うの」
「ふーん、そんなこともあったの? でも、だからと言って浮気なんかする必要はなかったと思うけど…。君のお母さんは君が生まれるまで何年もかかったのだから、いつかは妊娠できたかも知れないのに」と、イアンが言ったがクリスは何も言わなかった。
*
それまでイアンはボストンやケンブリッジに行くことは年に一度か二度くらいしかなく、混雑した都会へ運転して行くことは極力避けていた。しかし、次第にクリスのアトリエのあるケンブリッジに行くことが多くなっていた。週末の天気が悪ければ、クリスはイアンを展覧会とかいった催し物や夕食に誘ったりし、一週間も会わないでいると、どちらからともなく電話をかけ、どこからともなく話題が出て長話をしていた。
ケンブリッジに行くときは、クリスの従姉妹夫婦や友達夫婦と同伴することもあり、イアンはクリスの都合のいいデートの相手とされているかの様だった。しかし、イアンはクリスとならいつでも一緒にいたかったので、それでも良かった。ハーバード・スクエアのあるレストンランで、イアンが言い出した。
「俺は二つの世界に住んでいて、登山や君と一緒の時は秘密の世界だ」
「その秘密の世界の方が楽しいでしょう?」と、クリスが言い足した。
「もちろん。この世界がなければ、半分死んだ様なものだ…。家内から隠れて女友達に会うのはうしろめたい気がするけど、別に浮気をしてるわけでないのだから、これでいいと思っている」
「だから、離婚すれば、自由で楽しいと思わない?」と、クリスが言ったが、イアンは何も言わず頭だけ振った。
「イアン、こんなこと言ったかしら? ……」と、クリスは言いかけ黙ってしまった。
「どんなこと?」
「フランクと私はオープン・マリッジをしていたこと、以前このこと言ったかしら?」
「いや、それは初耳だな」と、イアンは穏やかに言ったものの、内心ひどく驚いてしまった。
「私達、結婚する前からそう決めていたの。フランクにはもともと女友達ばかりいて、私には男の岩登りのパートナーが多かったから、もし好きな人ができたら、互いに許可を得て性関係まで持てることにしてあったわけ」
「で、そのオープン・マリッジうまく行ったの?」
「フランクは私達の友達だったスーザンと関係を持ち出し、始めの頃は、うまくいっていたのだけど、そのうちスーザンがいつも私の許可を待つのが嫌になって、勝手にフランクを独占し出したの」
「へーっ! じゃぁ、君にはそういった関係はなかったの?」と、イアンは無表情な顔付きのままで尋ねた。
「一度、そうできそうだったけど、相手が既婚者だったから、そういった関係にはなりたくなくて、結局一度もなかったわ」
「えっ! オープン・マリッジの場合でも既婚者の相手はだめ?」と、イアンが驚いて尋ねた。
「そうよ、複雑な関係になるからそうしたくないわ」
「そう言えばそうだね」と、言ったイアンは内心落ち着きを感じた。
*
イアンはコンサルタントの仕事が時間的に自由だったので、都合と天気さえ良ければ週末に限らず、クリスと一緒にニュー・ハンプシャーへ行き岩登りをすることもあった。そんなある日、イアンはハンにしばらく会っていないことと男児が産まれて以来彼らに会っていなかったので、ハンに電話をかけた。
「ハン、ずい分会っていないけど、どうしている? リンダやルーイは元気かい?」
「ああ、みんな元気だが、俺はけっこう忙しくて思うぞんぶんとは登山をしていないんだ」
「明日、クリスとワシントン山を登る予定で、ノース・コーンウェーに立ち寄るけど、君のところへも寄るかもしれないが、都合が悪いかい?」
「明日は一日中、家にいるはずだから、着く前に電話をかけてくればいいよ」
「クリスも一緒だがいいかい?」
「それは構わない、クリスにもしばらく会っていないから、二人揃って来ればいい」
翌日午後クリスは予定より二時間も遅れてマリアット・ホテルの駐車場に現れた。イアンは怒りもせず、車の中でペーパーバックを読みながら待っていた。道中、レストランで夕食をし、夕方七時になってノース・コーンウェーに近付いた。イアンは出かける前、既に赤ん坊のプレゼントとして冬用のフリースのパジャマを買っていたが、紙袋に入れたままだった。それが気にかかり、
「プレゼントは箱に入れて包まないと可笑しいな?」と、イアンはうとうとしていたクリスに尋ねるように言った。
「ギフト用の包装袋を買えば箱はいらないわよ?」と、クリスはうしろに倒した座席で寝返りしながら言った。
「それは良いアイデアだけど、そんな物どこで買える?」
「ノース・コーンウェーの手前にあるデパートで売っているはずよ?」
「じゃあ、そこへ寄ってからハンのところだ」と、イアンは言ってノース・コーンウェーの西側に住むハンの家に直行せず、ノース・コーンウェーの中心を通る州道16号を運転して、デパートの駐車場で駐車した。クリスは車に残り、イアンは一人でデパートに入った。イアンが車に戻った時、クリスは眠り込んでいた。イアンが車からハンに電話をかけた終わった時、クリスは大あくびをしながら目を覚ました。
イアンはハンと握手をし、リンダと軽く抱擁し合い挨拶をした。ハンとリンダはクリスを温かく迎えた。彼らの新来であるルーイはゆり篭で寝ていたが、リンダはルーイを抱えてイアンに見せた。ルーイはまだすやすやと眠っていた。リンダはルーイをクリスにも見せた。ハンはイアンとその冬に予定している氷壁登攀の話をしていた。
その間、クリスはルーイを抱いてリンダと話をしていた。
「イアン、ほら、赤ちゃんを抱いてみたら?」と、クリスは言って、驚いているイアンにルーイを抱かせた。イアンは乳幼児を抱えたのは二十年以上も前のことで抱き方にぎこちなかった。イアンは自分の娘でさえあまり抱くことをしなかったほどで、子供好きではなかった。しかし、赤ん坊の温みがとても熱く感じ、人体がこんなに温かいことを忘れていたことにイアンは気が付いた。
二時間近く長居した二人はハンの家を出た。イアンとクリスは泊まり場所を決めていなく、キャンプか安いところに泊まることを考えていたくらいであった。
「イアン、ハンは私たちの泊まり先のことを尋ねなかったわね?」
「ああそうだけど。いつもなら、俺一人で行く時は彼の家に泊まることを勧められてから出発していたんだけど…。今回も前もって連絡はしておいたけど、やはり君と同伴だから、彼はそう勧めなかったのかも知れない。だけど、彼らは君を嫌っているわけじゃないと思うよ」
「それ、私にはわからないわ」
「もしかしたら、ハンは俺達がモーテルのベッドで寝ることを推測して、俺が照れ臭さがらない様にしたのかも知れない」
「えっ、ハンは私たちの関係をそう思っているの?」と、クリスは驚いて言った。
「そうとしか考えられないな。普段の彼なら、突然現れた山の友達にさえも泊めさせるくらいだから。それに、もし都合が悪ければ、そのことを言うくらいだよ」
「大丈夫よ、リンダがハンの勘違いしていることを教えると思うわ」
「えっ! そんなことをリンダと話していたのかい?」と、イアンは呆れて言った。
「そう、リンダが私達は恋人同士なのかと尋ねたので」
「ふーん。じゃあ、きっとハンには間違わられたと思うな」と、イアンは言って笑い出した。クリスもくすくすと笑っていた。
「俺は誰が俺達のことをどう思ってもいい」
「私もそんなことは気にならないわ。私達の間には性関係はないのだから、隠すものは全くないわ」
「俺達はとても仲がいいけど、なぜそこまで行かないんだろう」と、冗談気味にイアンがぼやいた。
「それはね、あなたが結婚しているから」と、クリスは真剣な顔をして答えた。
「えっ、それだけが理由かい?」
「それ以外に、私達の仲は兄弟姉妹でもあるし」と、クリスが言ったらイアンは笑い出した。
「えへへっ、ということは君も年を取ったということだな? この前までは俺を『おじいさん』と呼んで、からかっていたのだから」
「いや、それ違うわよ。あなたが若くなったということ」
「やれやれ! やっと若いことを認めてくれたのか。有難いな、シス(= 妹よ)! ところで、今晩は例のホステルに泊まろうか?」とイアンが言った。
「そうね、こう寒いと、あそこが一番便利みたいね」とクリスが答えた。
「じゃぁ、少しばかり朝食に必要な物をここで買って行こうか?」
「ええ、そうしましょう。私、コーヒーも飲みたいし」
街灯に照らされたノース・コーンウェーの街並みは静まりかえっていたが、コンビニエンス・ストアとコーヒーショップはまだ閉店していなかった。買物を済ましたクリスはコーヒーショップでコーヒーを買って、登山用品店のショーウインドーの前で待っているイアンのところへ向かって舗道を歩いていた。イアンはクリスの様子がおかしいのに気付き、
「クリス、どうかしたの?」と尋ねた。
「みんな子供を持って、私だけが持てないって、この世の中は残酷だわ!」と、クリスはぶっきらぼうに言って泣きじゃくり出した。
「ごめん、俺が赤ん坊のいるハンのところへ君を連れていって」とイアンは言い、手をクリスの両肩へかけた。
「いいのよ、それは、あなたのせいではないのだから…」と、クリスは言ってイアンの手を振り払い彼に背を向けた。イアンはクリスの前に回って立ちふさがり、クリスの顔を心配そうに覗いた。
「ねぇ、イアン、少しばかり私を一人にさせて? 私のことは心配しないで車の中で待っていて」
巾広い車道の反対側に駐車した車に戻ったイアンは窓ガラスを下げ、クリスをあまり見ないようにしていたが、ちらちらと横目で見守っていた。登山用品店の前でクリスは舗道に座ってコーヒーを飲んでいた。イアンは車からホステルに電話をかけ、予約をしようとした。始めのうちは、夜遅かったので宿泊を拒否されたが、イアンとクリスが以前、泊まったことがあると言ったら、許可を得ることができた。
車に戻って来たクリスにイアンはかばう様な小声で言った。
「大丈夫?」
「ええ、もう大丈夫。ごめんね、私、取り乱れたりして」
「いいんだよ。君の気持も知らず、ハンの家に誘った、俺の間違いだったんだから、これからはもっと気を付ける様にするから」
ホステルはワシントン山の北側にあり、ノース・コーウェーからはピンカム・ノッチ峠を越して行かねばならなく、少なくとも三十分はかかった。その道中、二人はあまり口を利かなかった。日曜日の夜だったせいかホステルの泊り客は一人もいなくて、どの部屋を使用しても良いと言われ、二人は窓の多い部屋を選んだ。
二人共それぞれのバンクベッドの二段目で寝ることにした。ホステルではシーツは自分で敷くことになっており、ベッドにシーツを掛けている時、クリスがにこにこしながら言い出した。
「ねぇ、私の一番欲しいものを、もし得られたら、それだけで一生、他のことはどうでもいいのよ? 登山だって諦める」
「へぇー! それは一体何だろう?」と、イアンは手を止めて、クリスの二段ベッドの上に腕枕をし、ベッドの反対側に立っているクリスを見つめた。
「赤ちゃん」と、クリスは言いにこにことしていた。
その答えに予期しなかったイアンはベッドに乗せていた頭を突然起し、少し顔を赤らめた。
「それは俺には出来ないことだな」
「そう、誰にも出来ないこと。私の身体の問題なのだから」と、クリスが言った。イアンはクリスに近寄り、彼女の両肩に手をかけて優しく言った。
「クリス、それは君だけじゃなく、そういった人がかなりいるし、君のお母さんもそうだったのだから。子供は出来なくても、それなりの生き方があると思わない? もうそのことは考えない様にしたら? 例えば、岩登りのスーパースター、リン・ヒルみたいになるとか…」
「そうすべきかもしれないけど、赤ちゃんを見たり、抱きかかえたりすると、私自制心を失ってどうしようもないの。私はもともと子供が好きだから…」とクリスが言った。その時、イアンはハンの家にいた時、クリスがルーイと楽しそうに遊んでいたことを思い出していた。
「だったら、子供を集めて絵を教えたらいいのに?」とイアンが言った。
「だめよ、そんなことをしたら、更に子供が欲しくなって」




