5.盗まれた辞典
*前回のお話*
校長から借りたヒスイのペンダントのおかげで、タンポポ団は虹のたもとに行き着くことがで来た。
校長先生といえば、偉そうで怖くて、威張ってばかりいるイメージがあるものだが、青石麗子校長にはそんなところなどこれっぽっちもなく、それどころか、こうして対面で座っているだけで、落ち着いた気持ちになるのだった。
美奈子は、始めてこの校長に会ったあの日、自分が魔法使いになった日でもあるが、ひと目見て彼女が好きになった。
「これをお返しします」美奈子はヒスイのペンダントを机の上に載せると、そっと押し返した
校長はそれを受け取ると、懐かしそうに光にかざして眺めた。
「これはね、わたくしが中学の頃に、前任の魔法使いから受けついたものなの。彼女が誰か、それは言わないでおきますね。一応、そんなルールですから」ペンダントを美奈子に返すと、「これはあなたが持っておいでなさいな。わたくしがあなたに魔法使いの資格を受け継いでもらったように、このペンダントも一緒にもらって欲しいの」
「えっ、いいんですか?」美奈子はびっくりしつつも、内心では大喜びだった。こんなにも美しいのだから。
「虹のたもとには行き着けましたか?」校長は聞いた。
「はい、魔法で虹を出したら、そのすぐ下にいました。そこで、たもとの方へ行き、みんなで土を掘り起こしたんです」
「そうですか。それで何か見つかりましたか?」
美奈子は黙ってポケットから、例の金色の鍵を取り出すと、コトリと机の上に置いた。
「出てきたのはこれだけでした。これで本当に緑を過去へ戻すことができるのでしょうか」
校長は鍵を手に取ると、メガネをずらしながらまじまじと調べ始めた。
「本物の金でできているようですね。そして、とても古いものです。何か文字のようなものがたくさん刻んでありますが、これはどうやら魔法文字のようです。あいにく、わたくしには読むことができませんが」
「魔法文字ですか。それでしたら、博物館の館長が読めるはずです」美奈子は言った。「前に魔法昆虫を逃がしてしまったとき、繭に書かれた魔法文字を調べていたことがありますから」
「そうですか。では、館長に見てもらってくれませんか。もしかしたら、何か手がかりになるかも知れませんからね」校長は金の鍵を美奈子に手渡した。
「はい、そうします」これで鍵の謎が解けるかも知れない。そして、町に無作為に起こる時空の歪みがなくなる。
だが、同時に緑を失うことになるのだ。そう思うと、なんとも言えず複雑な気持ちになるのだった。
美奈子は家に戻り、電話網で他の3人に連絡をすると、博物館へと向かった。もちろん、緑も一緒である。
全員とは途中の道で行き会った。
「今日は3回も道を間違えたぜ。っていうより、町そのものが歪んでたんだな。もっとも、とんでもないところへ連れて行かれなくてよかったが」浩が、やれやれというように肩をすくめる。
「わたしも、ここへ来る途中、角を曲がりそびれました。すぐに気がついたからよかったものの、そのまま行っていたら家に逆戻りでしたよ」
「ぼくなんて、玄関を出たら、見晴らしの塔のそばに来てたよ。かえって博物館に近くなっていて、得しちゃった」こう言ったのは和久だ。
緑はうつ向きながら歩いていた。こうなったのも自分のせいだ。早く、元の世界へ帰らなくては、と小さな胸で罪悪感を感じていたのだった。
そのことに気付いていた美奈子は、
「今はその話はやめない?」そう言って、緑をちらっと見下ろしたものだから、他の連中もすぐに気がついた。「それよりも、早くこの鍵に書かれた文字を解読してもらわなくちゃね。緑を1億年前に返す呪文が書かれていたりして」
博物館に着くと、さっそく館長室へと足を向ける。ドアが少しだけ開いていて、その隙間から館長の声が聞こえてくる。どうやら、電話をしているようだった。
「なんだって? あれが盗まれたというのか。これはえらいことだ。ふむ、ふむふむ……わかった。とにかく、全力を尽くして探そうではないか」そう言うと受話器を置いた。
「こんにちは――」美奈子はドアを中を覗き込むようにして部屋へ入っていった。その後をタンポポ団が続く。
「やあ、君達か。あいにく、今日は忙しくてな。話なら、また今度聞くよ」
「あのう、何があったんですか?」美奈子は聞いた。
「ああ、図書館の特別室にしまってあった日本語大辞典が盗まれてしまったんだよ。あれがなくなったとなると、ラブタームーラ中、大変なことになってしまう」
「大変なことって?」今度は浩が尋ねた。
「文字がなくなってしまうんだ。ほれ、そこにペンとメモ帳があるだろう。そこに自分の名前を書いてみたまえ」
館長に促されて、元之はペンを取った。しかし、点1つ書き下ろすことができなかった。
「これはどういうことでしょう。わたしは文字をすっかり忘れてしまいました!」元之は心底、驚いた。
「わかったろう? 日本語大辞典は、ここラブタームーラにおいて言葉の発信源なのだ。今はまだこうして話していられるが、燃やされでもしたら、話すことさえできなくなってしまう。そんなわけで、これから手分けして探しに行くのだ」
「警察には連絡しましたか?」と元之。
「もちろんだ。図書館があらかたのところに連絡している。無事、見つかるといいのだが」
「わたし達も協力しましょうよ」美奈子は一同を振り返った。浩は初め、そんなの無理に決まっている、という顔をしていたが、すぐにはっと気がついた。
美奈子は魔法使いなのだ。そして、これこそ彼女の仕事であった。
「館長、われわれも探しますよ。なに、すぐに見つけてみせましょう」元之が自信たっぷりに言った。
館長は、正直あまり当てにはしていなかったが、
「頼むよ、みんな。今はとにかく、1人でも人手が欲しいのだ」と答える。
館長室を出ると、
「これは簡単な仕事ね。本を魔法で取り戻せば済むだけだもん」美奈子はもう事を成し遂げたつもりでいた。
「そうですね。では、さっそく日本語大辞典をここに呼び出してください、美奈ちゃん」
美奈子はうなずくと、「ピュアリス! 日本語大辞典よここに現れよ!」と呪文を唱えた。5秒が経ち、10秒、20秒と過ぎていった。しかし、日本語大辞典は美奈子の手に出現することはなかった。
「どういうこと?」誰よりも、美奈子自身が一番驚いている。
「もう、燃やされちゃったんだよ、きっと」と和久がうろたえる。
「ばかね、燃やされたんだとしたら、話すこともできなくなるって、さっき館長が言っていたのを聞いてなかったの?」
「思うにですね」元之が話し始めた。「これは魔法の力が働いているのだと思いますよ。図書館の厳重な部屋から盗むくらいです。相手もばかではないでしょう。ラブタームーラの魔法使い達が動き出すことぐらい容易に考えつくでしょう。きっと、日本語大辞典に魔法を跳ね返す結界を張っているのでしょう」
「ということはなにか? 犯人は5人の魔法使いの誰かってことか?」浩が眉間にしわを寄せる。
「とは限らないわ。第一、町を守る魔法使いが、そんなことをするはずがないじゃないの。校長先生が言っていたわ。ごくまれに、生まれつき本当の自分の名前を知っている者がいるって」
「きっと、そいつだよ。6人目の魔法使いさ。だから、簡単に辞典を盗んだり、取り返せないよう魔法をかけたりできたんだ」和久が興奮気味にまくし立てる。
「で、どうする? あっと言う間に解決だと思ったんだけどなあ」美奈子は溜め息をついた。
「場所を突き止めるのですよ」元之が言った。「美奈ちゃん、日本語大辞典がある場所を突き止めることがで来ますか?」
「できると思うわ。やってみる」そう言うと、「ピュアリス! 日本語大辞典は今、どこにあるのかおしえて!」
すると、クモの糸のようなものが現れた。
「ははあ、こいつをたどっていけばいいわけだな」察しのいい浩が、さっそく糸をたぐり寄せる。「さあ、みんな、ついてこいよ」
糸はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、いったん図書館へ続いていた。それから、また何度となく角を曲がりながら、美奈子達の住む3丁目の住宅街へと誘導するのだった。最後に行き着いた場所は、美奈子達もよく知っているアパート、里見荘だった。糸はそこの1階の一番奥へと案内していた。
「やっと見つけたわ」
「美奈ちゃん、油断しないでください。相手も魔法使いだということを忘れないように」元之がそう忠告する。
美奈子は、104と書かれたその部屋の前に立つと、唾を飲んでからドアをノックした。
奧から、はーいと陽気な男の声が聞こえ、パタパタと玄関に向かってくる音がする。
ドアが開くと、見るからに人好きのしそうな青年が顔を覗かせた。
「あのう、なんでしょう?」彼は何も知らないように聞いてきた。
「日本語大辞典を返してください」美奈子は勇気を振り絞ってそう言った。
「日本語……大辞典? えーと、それは何のことでしょうか」あくまでもそらっとぼけるつもりらしい。
「あなたが盗んだことはもうわかっているんです。そして、魔法使いであるってことも」
とたんに、ずるそうな目に変わった。
「まあ、そのうち5人の魔法使いが来るとは思っていたが、思っていたより早かったな」
勝負は一瞬だった。互いに、相手の名前を忘れさせる魔法を唱えたのだ。
「ピュアリス! あなたの本当の名前を忘れさせてっ!」
「ドローリギス! お前の本当の名前を忘れてしまえっ!」
わずかな沈黙が流れた。その後、膝をがっくりついて座り込んだのは青年の方だった。
「おれの方が早いと思ったのに」青年は悔しそうにそう洩らす。
「あなたの本当の名前がちょっとだけ長かったせいだわ」ほっとすると同時に冷や汗をかく美奈子だった。
「さあ、言えよ。なんで本を盗んだんだ」浩が鼻息も荒く問い詰める。
「あるときのことさ。図書館で本を探していて聞いたんだ。たぶん、司書の1人だと思うけどな。なんでも、秘密の部屋というがあって、そこにラブタームーラの言葉すべてを納めた大辞典があるって話していた。それを盗み出して、この町を自分の思い通りにしてやろうと考えたってわけさ」
「まあっ、なんてことを!」美奈子はあきれ驚いた。この世に悪人がいるとは聞いていたが、まさかこの目で見ることになるとは。
「それじゃ、日本語大辞典は返してもらうわね」美奈子は「ピュアリス! 日本語大辞典よ、わたしの手の上に!」と呪文を唱えた。すでに結界の失われた日本語大辞典は、あっと言う間に美奈子の両の腕に現れた。
「あなたはもう魔法が使えないし、だからといって警察に通報するつもりもないわ。その代わり、これまでのことをすべて忘れさせてあげる」
美奈子は呪文で、青年が辞典を盗んだこと、美奈子が魔法使いであることなどを忘れさせた。
「あの、君達、何か用かな?」今度は、心からそう言っているのだった。
「あ、いいえ、あたし達、来る部屋を間違えてしまいまして。それじゃ、失礼します」ペコリと頭を下げ、5人はぞろぞろと引き上げていった。
「さて、この日本語大辞典を図書館の秘密の部屋に戻しておこう」美奈子は呪文を唱えた。「ピュアリス! 日本語大辞典よ、本来あるべき場所へ戻れ!」辞典はパッとと消えてなくなった。
「また別の魔法使いが現れて、日本語大辞典を盗まないとも限りませんよ、美奈ちゃん」そう元之に忠告され、
「そうね。じゃあ、ピュアリス! 今後、誰も日本語大辞典に触れることができなくなれ!」
「これで安心だね、美奈ちゃん」和久がほっとする。地面にしゃがみ込んで、落ちていた木の枝で「かずひさ」と書いてみる。「ばっちり、元通りだ」
「お姉ちゃん、かっこよかった」緑が美奈子の手をギュッと握る。
「ええ、たいしたものでしたよ。あなたを見直しました」元之も、本心からそう褒め称えるのだった。
*フラリの旅立ち*