15.悲しみと不安
*前回までのお話*
元之の妹江美利が4人目の魔法使いだった。彼女は自分がまだ幼すぎると考え、浩に魔法使いに役割を引き渡すのだった。
3月になり、美奈子のお母さんもお腹がだいぶ目立ってきた。立ったり座ったりするのもおっくうそうである。
「行ってきまーす」美奈子はランドセルをしょって、玄関を出た。外はうっすらと霧が漂っている。
「珍しいわね、もう春だっていうのに」春とはいえ、まだ風が冷たい。美奈子はコートを首元までしめて、ぶるっと震えた。
教室に着くと、さっそく浩と元之がやって来る。
「今日はもやってんな」浩が言うと、
「もしかしたら、自然魔法じゃないでしょうね」と元之が返す。
「まーさかあ。まだ寒いからでしょ」美奈子は言った。
授業の間も霧はますます濃くなっていき、昼近くになると、教室の中にまで入り込んできた。一番後ろの席の生徒など、黒板の文字がよく見えないほどである。
午後になると、顔を近づけなくてはわからないほど真っ白になり、先生も黒板をあきらめて、口頭で授業を続けなくてはならないほどになっていた。
濃い霧に紛れて、いたずらをする者、おしゃべりをする者があちこちから出始める。
小倉先生も、これでは授業にならないと判断するが、家に帰すわけにはいかないな、と思った。こんな霧では道を間違えたり、クルマに轢かれたりすることもあり、危険だと考えたからである。
「霧が晴れるまで、今日は自由時間にします。それぞれ、将来自分のなりたいことを考えて、ノートに書いてください。ノートが見づらい人は心に思うだけでもいいですよ」
それを聞いて、クラスのほぼ全員がわーっと歓声を上げた。一部の者は先生の指示通り真面目に没頭していたが、ほとんどはおしゃべりばかりしていた。今日ばかりは仕方がないわね、と先生は溜め息をつくのだった。
3時間目になると、もう誰が誰だかわからないほど霧で真っ白になっていた。まるで、白い闇の中にでもいるようだった。
美奈子は声を頼りに、浩と元之を呼んだ。
「浩-、元くん-、どこにいるのー?」
机の角にぶつかる音を立てながら、浩と元之は声の元へと近づいていった。
「ふう、やれやれですよ。これなら、目をつぶって歩いた方がまだましというものです」と元之。
「やっぱ、こいつはただ事じゃないぜ。みんな、人のいない廊下へ出よう」
「自然魔法らしいわね。じゃあ、あたし達の出番だわ」美奈子が呪文を唱えようとすると、浩は、
「おっと、こいつはおれの初仕事だ。いいか、おれ様に力を見てな」
「あんまり大きな声で言っちゃダメですよ。そばに誰がいるかもわからないのですから」元之が注意する。
「わかってるって」さっきよりもトーンを落として、浩が答えた。「リラディス! この霧を速やかに消し去れ」
呪文と共に、霧が次第に薄れて、ついにはすっかり消えてしまった。浩は、どんなもんだいという顔で2人を見比べている。
「ああ、よかったわ。これで一安心ね」
「今のはいい呪文でしたよ」元之も感心した。
自然魔法は、魔法元素がたまたま集まって発生する。だから、何が起こるのか皆目見当もつかないのだ。それらを解決するのが、5人の魔法使い達なのである。
もっとも、今ここには3人しかおらず、1人は1億年前の過去に、もう1人はいまだ見つからずにいたが。
霧がなくなったので、また元の授業に戻ることができた。生徒達は、なんだ、もうおしまいかなどとがっかりする声が多かったが。
放課後、美奈子達3人が道を歩いていると、あちこちから悲鳴が上がった。
「きゃー、ネズミよ。うちのリンゴを3つも囓っていったわ」これは八百屋のおかみさんだった。
「ひゃあっ、うちのパンを食ってやがる。ふてえ野郎だ」こちらはパン屋の主人。
立ち止まってみていると、小さなネズミがちょこまかと走り回っては、店の商品を食べまくっているのだった。それも、黄色いネズミが。
「あれももしかして、自然魔法だって言うんじゃねえだろうな?」浩が聞いた。
「そりゃあそうでしょう。この世に黄色いネズミなんかいた試しがありますか?」これが元之の返事だった。
「大変、いったんランドセルを置いて、あのネズミを捕まえなくっちゃ」
そういうわけで、3人は急いで家に駆け戻った。
美奈子が「ただいまー」と言ってもなんの返事もなかった。どうやら留守のようだ。
「きっと、産婦人科へ赤ちゃんを見てもらいに行ったんだわ」ランドセルを自分の部屋のイスに掛けると、待ち合わせをしていた元之の家の前へとやって来た。
2人はとっくに来ていて、見るからに気合いが入っていた。何しろ、これが魔法使いの任務なのだから。
「さて、ネズミめどこへ行きやがったかな」浩は辺りを見渡した。
「町中を歩いてみましょう。悲鳴が上がっているところに、黄色いネズミいたり、ですよ」
「そうね。きっと、まだこの辺をちょろちょろ走り回っているに違いないわ」
美奈子達は4丁目の町をあちこち歩いてみた。すると、魚屋から店主が棒きれを持って飛び出してきて、
「この汚らしいネズミめ、ぶちのめしてやる!」
「いたわ。でも、ここで魔法を使うのはまずいわね」
「逃げ出したところを追いかけましょう」
「よしきた!」
ネズミはサンマをもくもくと食べていた。
「ねえ、さっきより大きくなってない?」
「そんなことねえよ。気のせいさ」浩は言ったが、元之はそれを否定した。
「いいえ、さっき見たときはハツカネズミ位の大きさでしたが、明らかに大きくなっています。早いところ取り押さえないと、取り返しのつかないことになりますよ」
ネズミはサンマを骨まで囓り尽くすと、悠々と店を出て行った。
「それ、今です。追いかけましょう!」元之が走り出し、あとの2人もそのあとを追った。
町外れに来たところでネズミは立ち止まり、ほかに何か食べるものはないかと、キョロキョロし始める。
「あたしに任せて」美奈子は呪文を唱えた。「ピュアリス! ネズミを石のように固まらせて」
ところが、石のように固まってしまったのは美奈子のほうだった。
「なんてこと! あのネズミは魔法を跳ね返すのですよ」元之は驚いて叫んだ。
「リラディス! 美奈子を元に戻せ」浩の呪文のおかげで、美奈子の拘束は解かれた。
「ありがとう、浩。それにしてもやっかいだわ。魔法が効かないなんて」
「こうなったら、正統派で行くしかありませんね」と元之。
「どうするんだ?」
「うちに虫取り網があるので、それで捕まえましょう。待っていてください、すぐに戻りますから」
そうしている間にも、黄色いネズミは何か食べ物の匂いを嗅ぎつけたらしく、タッタッタッと走り出し、再び町の方へと向かった。
今度はスーパーに入り込む。ここならなんでも揃っているから、たらふく食べ放題だった。
来ていた客はカゴを放り出して逃げるし、女性店員は怖がってレジの陰に隠れるしで、黄色いネズミにとってはまるで天国だった。
「ピュアリス!」美奈子は小声で唱えた。「この声を元くんに届けて! ネズミは坂下スーパーにいるわ。早く来てっ」
ほどなくして、虫取り網をかついだ元之がやって来た。
「どこにいるんですか?」
「ほら、野菜売り場のコーナーだ。どうやらニンジンが好きらしいな」
「では、見事捕まえて見せましょう」元之は背後からそっと近づき、ニンジンごとネズミを捕らえた――。
つもりだったのだが、ネズミは網をすり抜け、今度はキャベツに取りかかりだした。
「なんてネズミでしょう。物質を通り抜けてしまうんですね」悔しそうに元之が歯がみをする。
「なんとか捕まえる方法はないか?」浩は額にしわを寄せた。
「そうだわ、博物館に魔法の虫取り網があるじゃない。あたしが魔法昆虫を捕まえたときのあれよ。あれならいけそう!」
「わかりました。至急取ってきてください。ネズミはまだ、当分居座っているでしょうから」
その頃には、黄色いネズミはドブネズミくらいの大きさになっていた。
美奈子は走った。普通に歩けば、博物館まで30分近くかかる。それを往復するとなると、1時間もかかってしまう。その間にどれだけ大きくなるか、考えただけでもゾッとした。
息を切らせながら博物館へと着くと、館長室に飛び込み、
「館長、例の魔法の網を貸してください」
「どうしたんだね、いったい」
「自然魔法のネズミが出たんです。普通の虫取り網ではすり抜けてしまって、捕まえられないんです」
「5人の魔法使いがなんとかしてくれるんじゃないのかね?」館長は悠長に構えている。けれど、まさか自分達がその魔法使いだとは言えず、
「一刻の猶予もないんです。食べ物を食べるたびにどんどんお大きくなって、大変なんです!」
「わかった、わかった」館長は隅に立てかけてある魔法の虫取り網を取って、美奈子に渡した。
「ありがとう、館長。感謝します」美奈子は急いで博物館を出ると、再び走ってスーパーへと駆け戻った。
この虫取り網は、百虫樹の昆虫を逃がした者にしか扱えない代物だ。しかし、最後の昆虫、ヒカリアゲハを逃がしておいたおかげで、今も美奈子なら使えるのだった。
「ネズミはどこ?」ハアハアと息を切らしながら、美奈子は聞いた。
「総菜売り場でおしんこを食べてらあ」呆れたように浩が答える。
美奈子はごくりと唾を飲んで、ネズミに狙いを付け、一気に被せた。
もくろみ通り、ネズミは網の中でもがいている。
「捕まえたのはいいけど、これどうする?」虫取り網の口をしっかり押さえながら、美奈子は尋ねた。
「まあ、自然魔法ですからね。そのうち消滅するでしょう。それまで、館長に預かっていてもらえばいいんじゃないでしょうか」
「そうね、そうするわ」
ネズミ騒動も終わって、言えに帰る美奈子。すると、ソファーに座っているおかあさんがいた。
美奈子はその隣に掛け、
「お腹の赤ちゃん、どうだった? 病院へ行ってきたんでしょ」
すると、おかあさんは目に涙を溜め、こう言った。
「胎動がないんですって。おそらくは死産だろうって、先生がおっしゃるの」
「そんなっ」美奈子はびっくりして、それ以上何も言えなかった。
ただできるのは、おかあさんに寄り添って一緒に悲しみと不安を分かち合うことだけだった。
*次回のお話*
16.見晴らしの塔