二話目
「うーん……うん、これからよろしくね、花ちゃん」
『フラワーショップやまぶき』の店の奥にある居間。座布団の上に正座した私は布団のかかっていない剥き出しのコタツを挟んで中年の女性と向き合っていた。
彼女はにっこりと人好きのする笑顔を浮かべて、スッと手を差し出す。
私のバイトが軽々と決まった瞬間だった。
「え? ……は、はい」
私は、ひきつった口元を必死にあげて、彼女と同じように手を差し出すので精いっぱいだった。
ギュッ。
握られた手をブンブンと上下に振られる。
「いやー、女の子のバイトが来てくれて、おばさん嬉しい!」
「そ、そうですか」
「花屋だってーのに、おっさんとヤンキーしかいないでしょ? 店員に花がないって思ってたのよ!」
「や、山吹さんがいるじゃないですか」
「あら、アタシのこと? やだもう花ちゃんったら!」
バシッ!
「うっ」
照れた彼女に背中を平手で叩かれた。
せ、背中が痛いどころじゃないんだけど……! 力強いな、この人!
「うふふ、アタシのことは彩子でいいよ。ほら、ウチ家族でやってるから皆山吹だし」
「あ、そうですよね……分かりました」
「うん」
にこにこ。
「…………」
彩子さんが素敵な笑顔で私を見つめてくる。
「………………」
「…………」
え、何この間。
彼女はにこにこ笑ったまま何も言わない、動かない。
ど、どうしたらいいの、これ。
「あ、あの……?」
「ふふ、あ・や・こ」
……あ、この人名前読んで欲しいのか。
「彩子さん」
今呼んだのは私じゃない。
男の人の声。この空間にはあるはずのない物だ。
「なーに母親を名前で呼んでんのよ。生意気だぞ」
彩子さんはじろりと睨み上げる。その視線の先にはいつの間にかあの変態男がいた。
「え、呼んで欲しいんじゃないの?」
「アンタじゃなくて花ちゃんに呼んでほしいの!」
居間には上がらず、店からこっちを覗き込む彼と目が合う。
へらぁ。
気の抜けた笑顔を向けられた。
ドッと汗が噴き出た気がする。面接が終わって気が緩んでいたのに緊張状態へ一気に逆戻りだ。
「あ、俺のことも一慶でいいよ。えーっと、花ちゃん?」
「あ、こら! ドサクサに紛れて、全くアンタってヤツは……」
「だって、ウチ皆山吹だろ? ややこしいじゃん」
私の意思はどこにある。
彩子さんがじっとりと息子を見て、溜め息をついた。
「ったく……で? なんか用があったんじゃないの?」
「そうだった、お客さんが花束作って欲しいって」
「はあ!? アンタそういうことは早く言いなさい!」
バンッ!
目の前のコタツを叩くようにして彩子さんは立ち上がった。
「カーネーションをメインにしたいってさ。なんかノビオシリーズが欲しいみたい」
「ノビオ? うーん今ウチにないわね……あ、ごめんね花ちゃん。ちょっと待っててもらっていい?」
「へ? は、はい」
思わず返事をしちゃったけど、え? 帰っちゃだめなの?
「花ちゃんの相手は俺に任せて!」
変態男がぐっと親指を立てる。
相手しなくていいから! 仕事に戻って!
「アンタに任せんの不安だわ……」
そう思うなら息子さん連れてって下さいません!?
私の思いとは裏腹に、彩子さんは居間を下りて店に出ていく。
「あ、このバカ息子に何かされたら思いっきり殴っていいから!」
それって、喜ばせるだけじゃない?
「別に俺は今すぐ殴ってくれても構わないよ」
「え、遠慮します」
「えー」
ガッカリすんな。
彩子さん、早く帰ってきて……。
》》》 《《《
店に来てこの一慶とか言う男を見た瞬間、逃げようかと思った。
ぶっちゃけ、面接バックレようと思った。
だって無理だよ! 相手はヤバい変態だよ!? 昨日の今日でなんでまた会っちゃうんだよ!
山吹ってバイトの面接受ける花屋もそんな名前だなって思って変に印象に残ってたけど! まさか、そこの息子だとは思わないじゃん!
「…………」
「…………」
「………………」
「……うーん」
畳の上に敷かれた座布団の上で小さくなっている私をよそに、一慶さんは居間には上がらず、畳に腰かけて、じーっとこっちを見続ける。
あ、穴が開く……。
「なんか、元気ないね。昨日はあんなに喋ってたのに」
「え、そ、そうですか? いつもこんな感じですよ……?」
お前のせいだよ!
しかも昨日のはパニック状態だったんだよ!
「ふーん」
何か考え始めた。
頼むから、また変な事言い出したりしないで。
「ねえ、結局ウチでバイトするの?」
「あ、はい。お、お世話になります……」
やっぱり、辞めるってダメかなぁ。でも、彩子さんにそんなこと今更言うとか、私に出来るのかな……無理だろうな。
あの眩しい笑顔を見たら、絶対そんなこと言えない。
「そっか! 嬉しいな!」
にっこりと笑う顔は彩子さんに似ていた。
「あ、あはは」
私は嬉しくない。
「ねえ、ねえ」
なんだ!? また殴れとか言ってくる気か!?
「花ちゃんって、花に詳しかったりする?」
あ、違った。
「えと、いえ……実は全然知らなくて。たまたま学校帰りにここのバイト募集の張り紙を見て電話しただけなんです」
「そうなんだ。名前が花って言うぐらいだし、花が好きなのかと思った」
「いや、あんまり名前は関係ないというか。あーっと、私イラストの専門学校に行ってるんですけど、花の絵とか描く参考になったらなって……ホントそれだけなんです」
「え、花ちゃん絵かけるの? 凄いね!」
キラキラとした眼差しが私を貫く。
ぐ、眩しい。
「す、凄くなんてないですよ。大した絵は描けません。ホントは美大に行きたかったんですけど、私じゃ無理で……それで専門入ったぐらいですし」
「うーん、俺からしてみれば十分凄いけどなあ。俺なんて高校卒業した後のことなんて何にも考えてなかったから、今この店の手伝いするはめになっちゃったし。花のことなんて、何にも知らないのにさ」
こうして話していると普通の人だな。
……は! いやいやいや、騙されたらダメだ。昨日の出来事を忘れたの!?
「店に出るようになって一年たつのにお袋には役立たずって、よく言われるよ。しかも親父は入院しちゃうしで大変」
「え! お、お父さん入院してるんですか!?」
「うん、胃潰瘍で。だいぶ酷い状態らしくってさぁ。退院しても安静にさせるってお袋気張っちゃっててね。だから、バイトが来てくれて助かるよ」
なんてことないみたいに平然と言っているけど、お店、結構大変な状態なんじゃ……。
「あの、それなら未経験の私より、経験者か花に詳しい人を雇った方がいいんじゃないですか?」
「ええ? だいじょぶ、だいじょぶ! 俺だって同じようなもんだし」
だからだよ!
使えない人間雇ったって負担になるだけだ。
「でも……」
「お袋がいいって言ったんだ。それでいいんじゃない?」
「そうね」
「彩子さん!」
「うふー。なんか新鮮だわ、その呼ばれ方」
待ち望んでいた人物の登場に、内心ホッとする。
やっぱり彼と二人きりは精神的にキツイ。
「なんだ、もう戻って来ちゃったのか」
「おい、悪かったわねぇ。ほら、アンタはさっさと店戻る!」
バコンッ!
「わ」
彩子さんが息子の背中を力いっぱい叩いた。
凄い音がしたわりに、当の本人は全く痛がる素振りを見せない。
「しょうがないか……じゃあね、花ちゃん」
「は、はあ」
立ち上がり、一慶さんはへらりと笑って手を振るとあっさり店へと戻って行った。
それを見送ると彩子さんは居間へと上がってきて、面接の時に座っていた座布団へと座った。
「で、さっきの話だけど」
「はい」
「花ちゃんがバイト未経験なのも、花のこと詳しくないのも知って、それでもお願いしたのはアタシなんだから、花ちゃんはその辺り気にしなくていいんだよ」
「……はい」
まるで子供をなだめるみたいに優しく笑う彩子さんに私は頷くことしかできない。
「ハイ! それじゃあ、花ちゃんのシフト、決めちゃおうか」
》》》 《《《
「カーネーション、人気ですね。母の日は過ぎたのに」
定番の赤や可愛いピンクのカーネーションが揺れる。
バイトを始めて数日。辺りがだいぶ暗くなってきた店内で私は初めて店じまいの準備をしていた。
たっぷりのフリルが女性的で見た目にも鮮やかなその花を私はまじまじと見つめる。
「ん? まあ時期だしね。カーネーションって年中出回ってるけど、やっぱりこの四月から六月辺りが一番多く店に並ぶよ」
一慶さんは水揚げの作業をしながら笑って私の疑問に答えてくれる。
本人は花に詳しくないとか言っていたけど、やっぱり花屋の息子さんなだけあって、私なんかよりずっと良く知っていた。
「花ちゃん、ちょっとおいで」
「なんですか?」
一慶さんに呼ばれて彼に近づくと、一輪の花を目の前に差し出された。
「ほら、これもカーネーションだよ」
「わあ! なにこれ凄い、花びらの先が縁取りしたみたい。赤とピンクのコントラストが綺麗ですね」
深い赤色の花びらに、くっきりとした濃いピンクの縁取りがされたカーネーションはどこか大人びた色気がある。
「これ、ホントに生花ですか!? なんだか作り物みたい」
「へ? ぷっ……あはははは!」
「ちょ、ちょっと、笑わないで下さいよ!」
いつもの人の良さそうな笑みじゃなくて、本当に可笑しそうに笑うもんだから恥ずかしい。
「ははっ……ごめん。あー、いや、本物の花だよ。ノビオレッドっていう品種」
「ノビオレッド?」
「これの他にも縁取りされたのがあるんだけど、そういうカーネーションの品種をノビオシリーズって言ったりもするんだ」
「へー、花って色々な品種があって凄いですね。私こんなカーネーションがあるなんて知らなかった」
「まあ、ウチじゃ普段扱ってないからなあ」
「そうなんですか?」
「うん。お客さんから欲しいって言われれば発注するけどね。ウチみたいな小さい店は普段から店先にそんなたくさん揃えて置くことはできないし」
差し出されたノビオレッドをジッと見下ろす。
お客さんの注文が無ければ知ることもなかった花なわけだ。
「花ちゃーん、外の花中にしまってくれた?」
彩子さんの声にはっとする。
「あ、はい! 終わりました!」
「そう、それじゃあもう遅くなる前に上がっていいわよ」
「分かりました。お疲れ様です」
「お疲れ」
店の奥から出てきた彩子さんに私は頭を下げて、着けていたエプロンを外す。
「あ、そうだ一慶」
「ん? なに」
「もう外暗いし、アンタ、花ちゃん家まで送ってあげなさい」
ギョッとした。
え!? 彩子さん急に何言い出してんの!?
「わかった」
「ちょっ! ちょっと待って下さい。私一人で帰れますから!」
「いーのいーの、遠慮しないで。ウチのバカ息子なんてこき使ってくれちゃっていいんだから」
遠慮じゃありません。
「あの、でも」
「この間、変なのに絡まれたばっかりだろ? 送ってくよ」
ええ! 絡まれましたね! 変なのに! アンタとかな!
「え、そうなの? なら、なおさら一人で返せないじゃん。花ちゃん独り暮らしなんでしょ?」
「そう、ですけど」
「あ、もしかして迷惑? おばさんのお節介だった?」
「え! そんなことないですよ!」
「なら、いいわよね」
ニッコリと彩子さんが良い顔で笑う。
「じゃ、いこっか」
いつの間にか前掛けを外した一慶さんが彩子さんと同じような顔で笑う。
あ、これ逃げられない。
〈続〉