間章 アニタ
「ごきげんよう、ガルシアさん。今日もいい香りね」
朝、いつもの時間。カウンターの向こうから声を掛けてきたのは、お隣のサンダース夫人だった。
「いらっしゃいませ! いつもごひいきにしてくださってありがとうございます」
あたしは焼き立てのパンを手早く並べながら愛想よく答える。ウサギの獣人である夫人はその上品なガウンの首元からあふれるふわふわ真っ白な毛並みを見せびらかすように、お尻を大きく振りながらツカツカと真っすぐレジに向かって歩いてくる。
「いつものやつを頂戴」
「はい、焼き立てですよ!」
カリカリのバゲットとあんパンを三つずつ、トングで袋に詰めて夫人に手渡す。
「いつもありがとう。ところで貴女、聞きまして? 大きな声じゃ言えないけれど、ドゥニさんのところ、とうとう別れたのですって」
夫人は内緒話をするように、あたしに向かって小声でささやく。
あたしは内心で始まったぞ、とつぶやいてから「えぇー、そうなんですか!?」と大げさに驚いてみせる。
「ええ、たった二年、二年よ。前々から噂にはなってましたけれども、やっぱり異種族間って長続きしないものなのかしらん。あっけないものねぇ……ってあら、新婚さんの前でする話じゃなかったかしら。ごめんなさいね」
長い前歯がのぞく口元を手で覆いながらオホホホと笑うと、夫人は大して悪びれた様子もなくすぐに次の世間話を始める。「そういえば駅前にできた新しいブティックが……」いつものことだ。夫人にとって、このひとときは恒例の朝の楽しみになっているらしい。でなけりゃお隣とはいえ、いかにも上流家庭の夫人がこんな小さなパン屋に毎朝顔を出すなんてありえない。
あたしもおしゃべりは嫌いではない。気を付けなければならないのは、話に夢中になった夫人があげく支払いを忘れて帰ってしまうことだ。
(それさえなけりゃ、いい人なんだけど……)
とはいえ、上客は上客。あたしはいつものように適当に相槌を打っては笑顔で夫人の長話をやり過ごす。
「ところであなたたち、たまにはお休みを取って旅行にでも行ったらどうなの? 新婚さんだっていうのに、毎日働きづめじゃない。そりゃあこの店のパンが食べられないのは、わたくしだっていささか困りますのよ。なにしろここのは主人の大好物ですからね。え、そう、ニンジンの次くらいよ。午後のティータイムにあんパンが出てこないとわかると夕食まで機嫌が悪いのだから。あら、ほんとよ」
あたしがどう答えたものか困っていると、厨房からキースがのっそりと出てきて人懐っこい笑顔を浮かべた。
「やあいらっしゃいませ、ミセス。いらぬ心配をかけて申し訳ない。俺の甲斐性がなくてアニタには苦労をさせっぱなしだ」
笑顔のまま、あたしの肩に腕を回してそんなことを言うキース。毎日たくさんのパン生地を捏ねている太い腕。あたしの大好きなたくましい腕だ。
「別に、苦労だなんて思っちゃいないよ」
本心だ。こうして毎日キースとふたり、暮らしていけるだけで充分幸せなのだ。
……いや、もうふたりだけじゃない。
キースは大きな手のひらであたしの頭をぽんぽんと撫でながらのんびりした声をあげる。
「しかし、夫人の言うことにも一理ある。旅行なんて動けるうちに行っておいたほうがいいしな。それに今なら季節もいい。北方では地球由来のサクラの開花に成功したって言うじゃないか。うん、たまには休みを取るのもいいかもしれない」
あたしはキースの言葉に目を丸くした。驚かそうと思っていたのに。
「知ってたの……?」
言うと、キースは返事の代わりににっこりと笑顔を浮かべた。それを見てサンダース夫人はあらあら、と楽しそうな声を上げる。
「おめでとう、アニタ。あなたもついにママね」
あたしは赤くなってうつむいてしまう。
「でも、気を付けた方がいいわ」
えっ、とあたしは思わず声を上げた。夫人の声色が、ぞっとするほど暗かったから。
「来たのよ。奴らが。こんな田舎の惑星にも、ついに来たのよ」
いつの間にか、夫人はあたしに背を向け、うずくまって震えていた。その背にじわっと赤い染みが生まれたかと思うと、夫人の真っ白な毛並みを侵食するようにずくずくと拡がり始める。
慌てて、大丈夫ですかと声を掛けるあたしを無視して夫人は続ける。
「始人の長アーデルベルトは大帝を称し、戦争に参加していなかった辺境の惑星までをも支配下に置こうと、軍団を差し向けているわ。そこに住んでいるのが始人ならば事実上の奴隷として惑星の資源を吸い上げ、獣人ならば虐殺して入植する。奴らは人ではないわ。わたくしの毛皮を剥いで首に巻き、泣き叫ぶ息子の前で嗤いながら夫を撃ち殺した」
夫人が振り返る。その眼窩は真っ黒に落ちくぼみ、純白だった毛並みはまだらに染まっている。ところどころに剥がれた毛皮がぶら下がり、その根元には赤黒い肉と骨が露出している。あたしは声にならない声を上げた。
「逃げなさい、アニタ。奴らは人ではない。奴らは悪魔よ」
そう叫ぶと夫人は倒れ伏し、動かなくなった。
夢だ。これは、悪い夢に違いない。
呆然とするあたしに、キースが力なく声をかけてくる。
「逃げろ、アニタ。お腹の子と一緒に。俺はもう、お前を守れない」
「キース……?」
壁に寄りかかり、ぐったりとした様子の彼は、あの太い腕を血糊で真っ赤に染めながら、息も絶え絶えに声を絞り出す。
「セリオンに……行け、アニタ。ばあ様が言ってたろ。あそこなら安全だ」
「やだよ、キース。あんたを置いて、行けるわけないだろ」
泣きながら言うと、キースはあたしの背中に腕を回して、抱きしめた。仕方のないやつだと言うように優しく頭を撫で、涙でぐしゃぐしゃになったあたしの顔を血だらけの手で拭った。そうしてお互い血で真っ赤になったあたしたちは最後のくちづけを交わした。
「さよなら、アニタ」
キースはあたしの目の前から消えた。
暗闇に取り残されたあたしはとてつもない不安と、絶望と、悲しみの中、うずくまってずっと一人しくしく泣いていたが、やがて立ち上がると、歩き出した。お腹の子だけが、希望だった。
歩いて、歩いて、ふと気配を感じて振り返ったとき。
そこには血錆びた、巨大な人型の鉄の塊があった。
機動装甲とか着装機甲とか呼ばれる巨大な有人戦闘ロボットは、惑星への侵略戦争における地上戦での主役だ。
帝国の機動装甲による占領部隊は時に<狩人>などと呼ばれることもある。彼らはあらゆる惑星環境や地形に対応し、電子妨害をものともせず、ただひたすらに戦闘と敵拠点の破壊を続ける。搭乗しているパイロットは特殊な訓練と洗脳にも近い『教育』を施されていると言われ、一切の恐れを抱くこともなく、一つの指示系統のもとに全員が有機的に動作するそうだ。
恐るべき数のイェーガーが淡々と戦線を進める様は百鬼夜行などと呼ばれて恐れられた。たとえそこで生き残ったとしても、彼らが通り過ぎた後に歩兵部隊が地上を占拠し、暴虐の限りを尽くす――巨大な人型は、まさに絶望の象徴だった。
生まれて初めて機動装甲を見たあたしは、「逃げろ」という誰かの叫びにも足がすくんで動けなかった。
走ってくる人々に突き飛ばされ、倒れた地面に転がっていた死体を見てようやくあたしは這いずるように逃げ出した。
たくさんの人々が殺された。
太っちょなあたしはドタドタとみっともなく走り回って泥だらけになった。
それでも走って、走って、体中の酸素が無くなってついにその場に倒れこんだとき、そこはセリオンへ向かう航宙船の中だった。
船の中はあたしと同じように血で汚れてボロボロになった獣人たちでいっぱいだった。
助かった……。
そう思ったとき、あたしは自分の足元にできたわずかな血だまりと、そこに浮かぶ小さな赤黒い塊に気付いた。
それが何かを理解したとき、あたしは叫んだ。
人目もはばからず、狂ったように。
あたしは、絶叫した。
*
*
*
「アニタさん、大丈夫ですか、アニタさん!」
あたしは目を覚ました。そこにいたのはココノとかいう始人の女の子だった。心配そうにあたしの顔をのぞきこんでいる。
夢……。
あたしは荒く息をつくとベッドの上で体を起こした。
「あ、ああ……、ちょっと悪い夢を見たんだ。悪いね、起こしちまって」
「いえ……」
ここは惑星セリオンの警備基地、その一画にある宿舎。小さなキッチンが付いたワンルームの二人部屋だ。あたしがここで寝起きするようになってもう十年余りも経つ。
あたしは基地の食堂で炊事長をやっていた。本来なら安全な中央の街で暮らしてもいい身分なのだが、あたしは戦場に残ったクチだ。別に珍しいことじゃない。帝国に恨みを抱えている者は少なくないからだ。
あまり長く居るので、ふつう軍属の独り身には与えられないはずの個室をもらえる話もあったのだが、その時は断った。別に遠慮したわけじゃなく単に引っ越しが面倒だっただけなのだが、こんなことになるんだったらあの時きっちり個室をもらっておくんだったと、今になって思う。
「あの、これ、どうぞ」
ココノの手にあったのはマグカップに入ったホットミルクだった。あたしは礼を言って受け取ると暖かなカップに口をつける。そのミルクはこの惑星固有種の動物の乳だった。家畜化して基地で飼育している。少しクセがあるが素朴な味わいで、あたしは好きだ。
ようやく気持ちが落ち着いてきたところで時計を見ると、もう明け方だった。朝食の仕込みをしないといけないので、どのみち起きる時間だ。ココノも着替えを始めている。
「ガルシアさん、か……」
夢の中で聞いた言葉を思い返す。なつかしい名前だ。
あたしのつぶやきを聞いたココノが不思議そうな顔をしている。
「あたしの苗字だよ。ここでは ”あらゆる種類の獣人が家族のように助け合って生きる社会を” っていう意味の大綱領があってね。苗字は一度捨てることになるんだ。名前だけじゃ判別に困るときは、最初に種族や住んでる街の名前を付けるのさ。あたしなら猪獣人のアニタ、ってね」
苗字を捨てるのは辛かった。夫との最後の繋がりを絶たれるような気がして、愕然としたものだ。それを聞いたら、ココノは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「なんであんたがそんな顔するんだい。夫が死んだのは別にあんたのせいじゃないだろうに」
そう言いつつ、複雑な思いが胸をよぎるのを止められない。久しぶりにこんな夢を見たのも、彼女の影響であることはあきらかだ。
彼女は二か月ほど前にセリオンに降ってきた。始人では初めての例らしい。基地のリーダーであるハルの命令で、三週間ほど前から彼女を厨房で働かせることになった。人間を働かせるなんてそれだけでも充分迷惑な話だってのに、なぜか部屋まで同じにされた。他にも空き部屋はあるはずなのに――どうやらあたしに面倒見ろっていうことらしかった。
「それでも……わたしが来なければアニタさんがうなされることもなかったんじゃないかって……思うんです」
あたしは複雑な思いのまま、空のカップを見つめた。
あたしの境遇はおおむね彼女にも伝えてある。牽制のつもりだったのだが、今となっては少し後悔している。なぜって、ココノは気の優しい娘だったからだ。そのために、あたしは敵のはずの彼女をすっかり嫌いにはなれないでいた。
「せめて夫のDNAデータをとっておければよかったんだけどねぇ」
あたしはつとめて朗らかな口調で言った。ココノはそれを聞いてまたよくわからない、という表情を浮かべたので、あたしは中途半端な知識をひけらかすことになった。
「あんたたち始人はさあ、あたしら獣人のことを『親の意思で子供の遺伝子を操作する倫理観の欠如した忌避すべき存在』とか思ってんのかもしれないけどさ、あたしらだって好きでやってるわけじゃないのさ」
なんせ単純な生殖では、多くの場合正常な子供は生まれないからだ。
近縁種での生殖の場合は比較的確率は高いらしいけど、それでも何らかの疾患を抱えて生まれてくることが多い。開拓時代に遺伝子をいじりすぎたからだって言うけど、詳しいことはよくわからない。
もちろん、理由があるからといって自由に遺伝子を操作してよいわけではない。そこには多様性の問題がある。みんながみんな好きに遺伝子を操作していたら、そりゃあ美男美女ばかりになったりするかもしれないだろうけど、環境の変化や伝染病であっさり絶滅する可能性だってあるのだ。
だからあたしたち獣人はふつう、<ハーモナイザー>と呼ばれている技術を使う。多様性を維持しつつ、致命的な遺伝子の欠落や欠陥を補完・補正する技術だ。
ハーモナイザーは、DNA情報とそれを基に受精卵にはたらきかけるナノマシンから構成される。どこかの惑星の獣人一族が開発したそうだが、技術を守るためか詳細は秘匿されているようだ。
そんなわけでハーモナイザーの動作原理や遺伝子補正のアルゴリズムなんかも、実はよくわかっていないらしいけど、あたしたちはみんなそれを使っている。ちょっと不気味な感じはするが、世の中なんてそんなものなのかもしれない。身の回りの家電製品でさえ、原理を理解して使っているものなんかほとんど無いのだ。
あたしとキースはもっとも一般的な指輪型のハーモナイザーを使っていた。キースが自分のDNA情報をハーモナイザーに入力し、あたしがそれを身に着けることで効果があらわれるタイプのものだった。
「ハーモナイザー……ですか」
「そう、なくしちまったんだよねえ、そいつを」
セリオン行きの航宙船に乗ったとき、あたしの左腕はひじから先が無かった。帝国の機動装甲に襲われた際、ブラスター銃で焼き切られたのだ。腕はなんとか再生できたが、薬指にはめていた指輪は結局見つからずじまいだった。
「あとはまあ、死んだ子の遺伝子クローンをお腹に戻すっていう手もあったんだけどね。これは倫理的に受け付けない連中も多いんだ。それで赤ん坊の遺体は、よりによってあたしが気を失っている間に葬られちまった。目覚めたとき、あたしは半狂乱になって周りのひとにつかみかかったらしいよ。まったく覚えちゃいないんだがね」
そう言ってあたしは笑ったが、ココノは厳しい顔つきで下を向いている。
あたしは話をしたことを後悔した。胸が痛む。相手は憎い人間のはずなのに。
ハルは、こうなることがわかっていてあたしにお守りを押し付けたのだろうか?
……そんなはずはない。
アイツにはヒトの心なんぞわからない。だから逆に、こんな非道ができるのだ。
それでも、あたしは考えずにはいられない。
もし、あの子が生きていたら、これくらいの年恰好だったろうかと。
「つまんないことしゃべっちまった。すまないね、忘れておくれ。さあ、朝食の支度をしに行こう」
あたしたちはまだ静かな朝の基地内を並んで歩き出した。
*
朝七時。対宙警備隊の北極圏第六区基地で唯一の食堂は、無数の獣人たちでごった返していた。
彼らは眠そうな目をこすりながら一列に並び、対面式の長いカウンターを移動しながら、銀色のプレートに食事の盛られた器を載せていく。
「すみませーん、『本日のサラダ』ください。そう、ネギ抜きで」
「ふかふかあんパンくださいニャ、カツブシたっぷりね」
「ちょっとぉー! フルーツ切れてるんだけど、なに食べろってのよ! すぐ補充してちょうだい!」
「おい、俺はいつもブルーレアだって言ってるだろ! 焼きすぎなんだよ! あ? そうだよ、あの血がしたたる感じがいいんだよ!」
「あー全然足りねぇー! なあこのナットゥ豆、大皿いっぱい盛ってくれよ!」
あたしたち獣人の食事は始人たちとそう変わらない。
カウンターには何種類ものパンにサラダ、スクランブルエッグ、チーズ、ハム、ヨーグルト、シリアル、フルーツ、果てには朝だというのにステーキやら生魚やらカレーやらラーメンやら、様々な料理が並んでいる。これを用意しているのは、もちろんあたしたち料理人だ。
獣人は基本的にほとんどが雑食の生き物だ。肉・魚・野菜・穀物・乳製品、なんでも食べる。
これには様々な理由があるのだが、大きくは二つに分けられる。
ひとつは、生存戦略によるもの。いろんなものが食べられたほうが生存に有利だというわけ。
そもそも動物というのは肉食草食を問わず、じつは生きるのに必要な栄養素はたいして変わらない。ただそれを肉を食べて摂取するか、植物を食べて摂取するかの違いがあるだけだ。
それはすなわち生きるための戦略の違いであり、狩猟に特化した身体能力や牙、はたまた植物からタンパク質を得る特殊な消化器官や臼歯などの身体的な構造の違いとしてあらわれる。
逆に言えば、肉食や草食に特化した身体に進化したことで、それ以外のものを食べなくなってしまっただけで、本来はどちらも食べられるに越したことはないわけだ。
だから獣人たちもよほど特殊な事情がない限りは、肉食も草食も可能な身体構造・消化器官を備えている。あえて肉食や草食にこだわる必要はない。あたしたちには偉大なる脳みそがあり、その気になれば狩りをすることも果実を探すことも農耕をすることもできる。栄養を摂取する手段は多ければ多いほど良い、というわけ。
……とはいえ、なぜか獣人たちには偏食な連中が多い。やはり取り込んだ動物の遺伝子が本人の気質に影響を与えているようなのだ。そんなわけで朝からステーキやサシミをリクエストされることもあり、あたしたち料理人にとっては迷惑この上ない。
いくら他のものが食べられないからって、脂身たっぷりのステーキをじっくり焼いてカリカリのガーリックと付け合わせのマッシュポテトを添えて提供するのはやっぱり手間だし、朝からそんなものモリモリほうばっている姿は見てるこっちが胃もたれしてくるわけで……。
……話を戻す。獣人が雑食である理由のふたつ目はもっと精神的なものなんだそうな。
宇宙に進出して長い期間が経過した人類だけど、食事のメニューはそれほど変わってはいない。もっとも、人類は数千年の昔からパンを食べていたわけで、たかだか数百年で食事の嗜好を変えることはできなかったってだけのことなんだけど。とにかく、それは獣人にとっても同様だった。
つまり獣人は栄養うんぬんよりも食事の嗜好・文化を変えることを嫌った。いくら環境適応のために肉食獣や草食獣の遺伝子を取り入れる必要があるからといって、生肉や生野菜しか食べられなくなるのは御免こうむる、と。
ワガママ言ってるようだけど、それは獣人にとって「人間らしさ」を維持するために重要な要素のひとつだったのかもしれない。まあ、あたしだって来る日も来る日も生野菜ばかり食べてる自分を想像したらゾッとするわけで。
とにかく、獣人たちの始祖は遺伝子操作の際、できるだけ食文化が激変しないよう細心の注意を払った。その結果、食堂は朝から多種多様な食事を提供しなければならず、その厨房はまさに戦場のようなありさまで、あたしたちはそこでたたかう戦士のひとりとなったわけだ。そう考えると、なんとまあ余計なことをしてくれたものよ、と思わざるを得ないわけだが……。
「ココノ! 肉の解凍が間に合ってないじゃないか、何やってんだい! それにさっさと食器を持ってきな、大行列ができちまってるよ!」
「はい!」
「うわっ、スープぶちまけちまった! おーいココノ、床掃除お願い! 急いで!」
「はい!」
「おい、サボりのイヴァンが今日もいねえぞ! 洗い場に皿が山積みだ! 頼むよココノ!」
「はい!」
ココノはパタパタと厨房内を走り回っている。彼女がカウンターに顔を出すと騒ぎになる可能性があるので、裏方で食器洗いや食材の準備をしてもらっている。
最初はこんなトロそうな娘に何ができるんだと思ったものだが、意外と物覚えが良く、教えれば素直に吸収したので、三週間経った今では料理人みんなにいいようにこき使われていた。
嵐のような朝食の時間が過ぎ、後片付けやら昼食の仕込みを終えると、休憩時間となる。
あたしは食堂の端っこのテーブルでひとり息をついているココノの元へ向かった。持っていたココアのカップをひとつ差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
少し戸惑った後、ココノはおずおずとカップを受け取った。
「疲れたかい? 今朝は早くに起こしちまったからね」
「いえ……大丈夫です」
なかなか他の獣人たちと打ち解けられない様子の彼女を気にかけて、よくこうして話しかけているのだが、三週間経っても懐いてくれる気配はない。今もこうしてだまってお茶を飲んでいるだけで、特にココノのほうから話しかけてきたり、冗談を言ったりすることはない。
そんな彼女を同僚たちも不気味がって積極的に関わろうとはしなかった。「人間を厨房で働かせるなんて、毒でも入れられたらと思うと心配だぜ」などとあからさまな皮肉を言う者までいたが、これは正直もっともな意見だとあたしだって思う。
ハルは「彼女にそんなことをするメリットはありませんよ」と言っていたが、ココノはちょっと何を考えているのかわからないところがあるし、何より始人だ。向こうから見れば、あたしたち獣人は排除すべき敵……だろう。
……でもまあ、三週間も寝起きを共にしていれば他に気付くこともある。
まず彼女は仕事の手を抜くことがない。戦場に近いこともあって粗野で大雑把な同僚たちが多い中、生真面目なのか彼女は皿洗いも掃除も細かいところまで完璧にこなしてみせた。
それどころか、よく他人の分まで手伝ってくれているようだ。さすがにまだ調理は任せられないが、おかげでそれ以外のことはひととおりなんでもできるようになっていた。もっとも、これは頼まれたらイヤと言えない性格が幸い(?)しているようではあったが。
休みの日はよく外を散歩しているようだ。ある日「花瓶はありますか?」と聞いてきたので渡すと、外で摘んできたらしい白い花を挿して、机に飾って眺めていた。
その満足気な表情を見て、あたしは少なくとも悪いやつじゃなさそうだなと思ったわけで。
結局、彼女はちょっと人見知りな普通の女の子だったわけだ。今だって、カップに視線を落としているように見えて、こちらをチラチラと気にしている。彼女なりにコミュニケーションをとりたい、という気持ちはあるようなのだ。
「そうだ、あんたに渡してくれって、ハルから頼まれてたんだった」
あたしはココノに電子マネーのカードを渡した。
「これは……?」
「給料だよ」
そう聞いて、ココノは驚いたように目を丸くした。まさかホントにもらえるとは思ってなかったのだろう。あたしだってそうだ。
普通、給料は銀行に振り込まれるわけだけど、そのためには市民登録が必要だ。それにココでは現金も流通していない。個人端末からの電子決済が当たり前だ。そもそも給料を支払うこと自体ムリだろうと思っていたら、ハルからやたらケバケバしい金色のカードを渡された。
『……これで払うって? 律儀な奴だね。しかし、どこから出てきたのさ、このお金』
と言ったらポケットマネーだと言われた。本当に律儀な奴だ。
「買い物は部屋の端末からオンラインでできるから。街まで行くよりよっぽど手軽だよ。市民IDがなくったって、支払いさえできればどこにだって配送してくれる。あとで住所を教えてあげるよ」
そう言うと、ココノはポカンとした表情を浮かべた。
「どうした? 正真正銘、あんたのお金だよ。そいつで、本でも服でもなんでも買えばいいさね」
だが、ココノはポカンとした表情を崩さなかった。
「え、なんだい。まさか、買うものがなんにも思いつかないってわけじゃないだろうね?」
そのまさからしく、彼女は小さく口を開けたまま、まじまじとカードを見つめるばかりだった。
*
*
*
ある日、あたしは一人で格納庫へやってきた。最近食堂に来ていない狐娘にランチを届けるためだ。
「おーい、クズハ! いるんだろう?」
大声で呼びかけるが、返事がない。
「お前さんの好きなイナリズシだぞ! いらないなら持って帰るよ!」
そう言うと、視線の端でぴょこんと白いものが動いた。
ガラクタの山のふもとに転がった毛布の陰から、太いシッポが飛び出ていた。
「そんなとこにいたのかい」
あたしが声を掛けると、毛布の中からボサボサの白い毛のかたまりが這い出てきて挨拶をした。
「ふぁぁ~、おぉ……オバちゃんか、よう来たな。おはようさんや」
「もう昼過ぎだよ。ほれ」
あたしはクズハに包みを渡した。
「おぉーありがとうな! うちオバちゃんのおいなりさん大好きやわ」
さっそく包みを開けると、クズハは幸せそうな表情でイナリズシにかぶりついた。
「裏イナリは五目にしといたよ」
あたしが言うとクズハは「わんだふぉー!」とかいいながらがつがつとイナリズシをたいらげていった。
「ところで最近食堂に来ないじゃないかい。こないだの騒動で謹慎でもくらったのかい?」
「ぶふぅー!」
クズハはコメの粒を吹きだしてむせた。こないだの騒動とは、基地で鹵獲していた帝国の戦闘ロボが暴走した件だ。
「ゴホ、げほ……ア、アホ! あれはちょっとしたミスや! あれっくらいで謹慎なんぞくらってたまるかい! 今めっちゃ忙しくて手が離せんだけや!」
「建物ひとつ半壊させといてあれくらいとは恐れ入るねぇ……」
あきれ顔のあたしに、クズハは半笑いで答える。
「ま、まあ結果的に人的被害はなかったんやし……ヨシとしようや、な!」
すると、どこかから空き缶が飛んできてクズハの頭に命中した。
「あ痛ーーっ!!!」
「アホか! ここに立派な怪我人がいるんだよ!」
振り返ると、大きなシートを被ったガラクタの山の上で、頭に包帯を巻いた白黒ストライプの獣人があぐらをかいてこちらをにらんでいた。ビャッコだ。
「なにしてんだいそんなところで」
「なにって……見りゃわかんだろ! 昼メシだよ昼メシ!」
あわてたように傍らからサンドイッチを取り出してかぶりつく。
「ふぅ~ん……」
必死にごまかしているが、おおかたビャッコもクズハの様子を見に来たのだろう。あたしにはわかる。こいつは素直じゃないのだ。
「まあいいや。あんたたち、不規則な生活してないで食事はちゃんと摂んなよ。まだ子供なんだから」
「おい! オレまでガキ扱いすんなよ!」
「あはは! 一番のわんぱく坊やが面白いことを言うね!」
ビャッコは不満げに顔をしかめるが、それ以上は何も言ってこない。
この二人は四年くらい前に難民としてセリオンに降り立った。あたしから見ればまだペーペーの新人みたいなものだ。
他にも同時期にセリオンにやって来た連中は大勢いるけど、中でも彼らは異端児だった。
当時、実年齢で十八歳くらいだったビャッコは街で暮らすのを拒否し、軍に残って帝国軍のロボットと戦う機動装甲乗りに志願した。
素行の悪さから慎重な意見も多かったそうだけど、結局は本人の強い意思と適性が認められて、半年後には専用機を与えられるという、パイロットとしては異例のスピードで任に着いた。
クズハはさらに異例な扱いを受けた。当時まだ九歳になったばかりだった彼女はすでに最先端の機械工学をマスターし、重要な論文をいくつも発表していたそうだ。
セリオンには惑星外の技術を取り入れるすべがほとんどない。空から降ってくる帝国軍のロボットの残骸を解析しようとして首をひねっていたセリオンの技術者に対して九歳のクズハは的確な解説を行い、すぐさまファランクスの兵器にフィードバックして戦力増強を図ったそうだ。その頭脳はベテランの技師ですら舌を巻くほどだったらしい。まさに超天才という感じだが、正直あたしは今でもただのチビッ子にしか見えない。
そんな彼女が目の前でうまそうにイナリズシをほうばっているのを見るのは本当に不思議な気分だった。
彼女が首都の研究所からの要請を蹴って、こんな辺境の戦場で機械の残骸に囲まれて暮らしている理由を、あたしは一度だけ尋ねたことがあった。
「あんな、待ってんねん。おとんとおかんをな。うちだけ先にセリオンに来てもうたから、きっと寂しがってんねやろ? せやから二人が来たら、いちばんに迎えに行くん。そのためには、ここにおんのが都合ええやろ」
それ以来、あたしはこの狐娘の世話を焼き続けている。いつか、この娘が両親に会える日がくればいいと願いながら。
――時々、あたしは考える。
あたしはいったい、ここで何をやっているのだろう、と。
夫にも子供にも先立たれ、生きる気力を失くし、半分はヤケで、もう半分は帝国への恨みで戦場に残ってきたつもりだった。
でもあたしにできることなんてみんなの食事を用意することくらい。戦う力なんてないし、武器を作る技術だってない。もちろん作戦を立てたり、指揮を取ったりなんて想像もつかない。
それでも、こうして他人の世話を焼き続けていると、こんなあたしでも誰かの役に立っていると思えてくる。始人たちとの戦いに、一役買っている気分になれるのだ。
……本当にそうなのだろうか?
あたしがクズハの世話を焼いているのは、間接的とはいえ結局はあたしの個人的な恨みを晴らすためなのだろうか?
だとしたら、あの始人の娘の世話をしているあたしは……今のあたしは、いったいなんなのだろう?
あたしは、なんだか空恐ろしい結論に至りそうな気がして、必死に思考を頭の隅に追いやった。
「で、ロクに食事もとらずにいったい何の作業をしてるんだい? 見たとこ、あいかわらずゴミの山しかないみたいだけどさ」
積もりに積もった機械類を眺めながらあたしは言う。
「ゴミやなんてとんでもないでオバちゃん!」
目をキラキラさせてあたしの顔を見上げるクズハ。その視線はすぐに足元に転がっていたモバイル端末の画面にくぎ付けになる。そこには何かの機械の解析図が表示されているようだった。
「見てみいこの機構……明らかにその辺の機動装甲とはワケが違う。動力は一見ふつうの核融合炉みたいやねんけど、おそらくはなんらかのプロトタイプやわ。装備の大半は用途不明、セキュリティも超一級品や。すごすぎてまったく解析が進まんで! ほんま、あのネエちゃんいったい何者なんや……」
「おい、クズハ」
ビャッコが尖った声を上げる。
それを聞いて、あたしの中で何か悪い予感が膨れ上がるのを感じた。
「あのネエちゃん……?」
「あ……」
クズハは明らかにうっかりしていた、という表情を浮かべて、気まずそうにしている。
「……ココノのことかい?」
二人は黙ったままだ。
あたしはビャッコがあぐらをかいているガラクタの山に近づいて、そこにかけてあったシートを力任せに引っ張った。
「うわ、ちょ、なにすんだよ!」
慌てて飛び降りるビャッコ。
シートの下から出てきたのは、大きな人型のロボットだった。
「これは……?」
夜の闇を思わせるような、光沢の無い真っ黒な装甲。
滑らかな曲線で構成され、一見して無駄のないシンプルなシルエット。
そのロボットは座り込むような体勢で、明らかに他のガラクタとは異なる存在感を放っていた。
ロボットの背中は大きくひしゃげ、隙間からコクピットのようなものを覗かせている。
あたしは思い出した。セリオンに来る前に、これと同じようなロボットに追い回され、命からがら逃げ回ったことを。
「まさか、あの子が……ココノが機動装甲に乗ってたなんて、言わないわよね」
あたしは二人を振り返った。
焦ったように目を逸らすクズハと、呆れたようなビャッコの表情。
ふたりの態度が、あたしのその言葉の正しさを物語っていた。
あたしは自室に向かって走り出した。
*
基地に届いた郵便物などは、巡回ロボによって個人の部屋まで配達されることになっている。
部屋に着く直前、大量の荷物を反重力ホバーで運びながら移動するロボとすれ違ったあたしは、悪い予感が高まるのを感じながら角を曲がって部屋の入口に面した廊下に出る。そこには、今まさに何かの荷物を受け取ったと見えるココノが、小さな包みを抱えて部屋の扉を閉めるところだった。
「ココノ!」
あたしは大声をあげながら扉を開ける。
その剣幕に驚いたのだろう、そこにはいぶかしげな表情のココノが立っていた。
「……どうしたんですか?」
「今の荷物はなんだい」
自分でも驚くような、冷徹な声が出ていた。
それを聞いたココノは少し眉をひそめ、戸惑うようなそぶりを見せた。
「あの……なにか、あったんですか」
その言葉に、あたしはショックを受けた。
この数週間、それなりに彼女のことを理解したつもりでいたからだ。
言葉足らずだけど、素直な娘だと思っていた。
「なぜ、質問に答えないんだい……何を、何を隠しているんだい」
ココノは無言のまま目を見開いた。何かを言おうとして、何を言えばいいのかわからない、そんな表情だった。
「あんたが、あの恐ろしい機動装甲を乗り回していたなんて……信じられない」
ココノは、ハッとした表情を浮かべ、慌てたように首を振って否定した。
「アニタさん、ちがいます……ちがう……」
その声は、つぶやくような弱々しさだった。
「わたし、その……記憶が」
『彼女は記憶を失っているんだ』
ハルの言葉を思い出した。だからなんだというのだ。機動装甲のことは聞いていない。あれに、どれだけの獣人が殺されたと思っているのだ。たとえ記憶が無くても、危険なことに変わりはないではないか。
「何を考えているんだい……ハルも……あんたも!」
ココノは無言で首を振っている。その背に隠れるように、テーブル上に置かれた小さな包みが見えた。
あたしはココノを押しのけ、その包みを奪った。
紙でできた包みを力任せに引き裂いて開ける。
「あっ!」
ココノが止めようとするが、包みは内袋ごと勢いよく破れ、中から白い粉がもうもうと舞い上がった。
「これは……」
呆然と立ち尽くすあたしの背中に、しがみつくようにしてココノが額を当てている。
「ごめんなさい……ごめんなさい……アニタさん。あなたが何を聞いたのか、わからないけれど、隠すつもりはなかったの」
掠れるようなその声は、小さく震えていた。
「わたしは軍人で、パイロットだった。記憶はないけど、きっと、あなたたち獣人にひどいことをしていた……ごめんなさい、言えなかったの。ごめんなさい……」
あたしは、少しずつ理性を取り戻していた。
(この香り……)
なぜなら、その白い粉はこれっぽっちも危険なものではなく、あたしのよく知ったものだったから。
「ココノ……なぜ、小麦粉を?」
あたしは振り返って聞いた。
ココノは、はらはらと零れる涙で潤んだ目をそっとそらして、恥ずかしそうに言った。
「あの、パンの焼き方を、教えてもらおうと思って……でも、なかなか言い出せなくて、それで……」
あたしは、もうすっかり恥ずかしくなった。
彼女は、ただきっかけを求めていただけだった。あたしと仲良くなるためのきっかけを。
初めて給料をもらって、何に使うか、きっと悩んだことだろう。
それで買ったのが、小麦粉だって? それを口実に、あたしにパンの焼き方を教えてもらおうって?
「本当、バカじゃないのかい、あんた……」
あたしはココノを抱きしめた。
「アニタさん、わたし……」
「ごめんよ、ココノ。後生だから何も言わんでくれ。あたしが愚かだったよ」
あたしは彼女の涙ではらした目を見つめた。深く澄んだ碧の真っすぐな視線が、あたしの胸に突き刺さる。あたしはそれを甘んじて受け入れる。
「許しておくれ、ココノ。あんたが過去に何をしてたって、今のあんたが負い目を感じる必要はないんだ。今のあんたを、あたしは信じる。いつかみんながあんたのことを理解してくれるまで、あたしが味方になってやるさ。だから、あんたもあたしを信じてくれていいんだ。頼ってくれていいんだよ」
ココノはあたしのお腹に顔をうずめて、嗚咽交じりに何度もうなずいた。
「顔を上げておくれ。あたしのせいで、泣きべそをかかせちまってすまなかったね。さあ、一緒にパンを焼こう。いずれはあんたにも厨房で活躍してもらわないと」
「……いいんですか?」
意外そうな表情を浮かべるココノに、あたしはようやく笑顔を向けることができた。
「いいに決まってるだろう、いつだって人手は足りてないんだ。文句なんか言わせないさ」
あたしはココノの頭をポンとたたく。その手が小麦粉だらけだったので、彼女の頭まで白くなってしまった。よく見れば、部屋中が真っ白だ。あたしたちは思わず顔を見合わせた。
「……まずは、掃除をしないといけませんね」
「ちがいない!」
あたしたちはゲラゲラと笑った。
(すまないね、キース)
あたしは、心の中で夫に謝った。
あんたや、子供の敵かもしれない娘を、あたしは好いちまったようだよ。
それでいいのさ、と胸の内で声がする。
あたしはその懐かしい声に胸がいっぱいになる。
誰かを、何かを恨み続けるなんて、もともとお前の性に合ってないんだ。やっと気づいたのか? 仕方のないやつだな。
太い腕が、あたしの頭をやさしく包み込む。
見つけられる気がした。
憎しみにすがった生き方ではなく、もっと前向きなもの。
あたしがこの惑星でなすべきこと。
ビャッコやクズハたちの顔が思い浮かんだ。
夫の声はもう聞こえない。だけど、あたしの心は晴れ晴れとしていた。
今夜は、きっとよく眠れることだろう。