第一章 惑星セリオン・4 陽光
『お姉さま、見て、見て!』
スペースコロニーの中央を走る真空チューブ列車のステーション。その連絡路の向こうからひとりの少女がぱたぱたと駆けてくる。
あたりは擬似太陽のゆるやかな光によって照らし出され、おだやかな昼下がりを演出している。
限りなく透明な無菌ケージの中でまっすぐに天を仰ぐバイオツリーが美しい並木を描き、時とともに色合いを変える天球ドームはシミ一つない青に染め上げられている。
その色はいにしえの故郷の惑星の空。今や旧式の映像データでしか存在しない、伝承上の色彩。
まじりけのない清浄な人工大気の中で、少女の琥珀色の髪と汗が生き生きとかがやいて見えた。
わたしは微笑んで彼女を迎える。
『ほら見て、ひゃくてんよ! わたし、才能があるって! お姉さまとおなじとこに行けるって!』
精神同調の試験結果が表示された端末を高々と掲げながら、うれしそうにわたしの胸に飛び込んでくる。
よかったね、と声をかける。
少女ははじけるような笑顔を向ける。読むまでもなく、歓喜と安堵があふれていることがわかる。
彼女はその屈託のない笑顔のままで、わたしに身体をあずけ、ぎゅっと抱きしめてくる。
わたしを、信頼しきっている。
『わたし、かならずお姉さまのところまで上がっていくわ。そして<ポラリス>の一員になるの!』
ちくり、と正体不明の痛みが胸を刺す。
そう――がんばってね。
そう言ってわたしは少女の頭をなでる。
ほのかに、嗅ぎなれた薬品の香りがただよった。
――がんばって。
繰り返す。
少女は満面の笑みを浮かべると、大きくうなずいた。
*
*
*
――最初に目に入ったのは、ゆるやかに時を刻むようにしたたる点滴のしずくだった。
小さなチェストの上に置かれたモニタが、心拍数や体温などいくつかのステータスを表示している。
(ああ……わたし、また倒れたんだっけ……)
ココノはぼんやりと白い天井を見つめた。
倒れる前の記憶はあやふやだった。巨大な戦闘ロボと対峙して、獣人の兄妹が襲われて、それから……。
(……だめだ、思い出せない)
頭痛がする。ココノはふたたび目を閉じた。
(あの子たち、無事だったのかな)
何か、昔の記憶を取り戻しかけたような気もする。
思い出そうと、ココノは記憶を巻き戻す。ふわりと浮かび上がるパワードスーツ、青ざめた表情のメイファン、通路に倒れ伏すビャッコ……
(……だめだ)
いつの間にか荒くなっていた呼吸をととのえる。頭の中でぐるぐると映像が渦を巻く。気分が悪い。
ココノは結局思い出すことをあきらめ、何度か目をしばたたくと、もう慣れたという様子で体を起こそうとした。
「――ああ、いいですよ。そのままで」
涼しげな男の声がした。
まったく気配がなかったので、ココノはおどろいて声のした方を向いた。
そこには、端正な顔立ちの青年が椅子に腰掛けて何もない空中を見つめていた。
「あなたは……」
「私は、ハルです」
青年――ハルは答えながら椅子から立ち上がると、ココノのベッドへ歩み寄った。ココノは思わず身を固くしたが、青年は脱落していた電極パッドをココノの身体に貼りなおすと、ふわりと上掛けをかけてくれただけだった。
「もうしばらく、安静にしていなさい」
医者のような口調で告げると、また椅子に座って何をするでもなく、遠くを見つめ始めた。
ココノはハルという名前に聞き覚えがあった。
「パルクさんが言っていたここのリーダーって、あなたのことですか?」
「そうです」
ココノが横になったままたずねると、ハルはココノのほうを向きもせず、静かな声で答えた。
「我々はこの惑星セリオンの唯一の国家、オラニムスの国軍に属しています。外からの侵入者を排除する警備隊――通称ファランクスと呼ばれていますが――その第六区隊の隊長、というのが私の肩書きです」
「ファランクス……」
ココノは確かめるようにつぶやいた。予想外に多くの情報が返ってきた気がする。
「の、区隊長です。他にも聞きたいことはありますか? 答えるかどうかはわかりませんが」
ハルは相変わらず空中を見つめながら、感情の見えない口調でそう言った。
「たしか、パルクさんはあなたのことを医者だと」
ココノの言葉に、ハルは初めて微笑のようなものを浮かべた。
「パルクならそう言うでしょうね。DNAがみな異なる獣人の医療は簡単ではありませんから。しかしそれは私の本来の役目ではありません」
ココノはそれが説明になっているのかどうかよくわからなかった。
「侵入者を排除、というのは……わたしのような」
「それはちょっと違います」
ココノの言をさえぎって、ハルは声を上げた。
「聞いたことがあるかもしれませんが、この惑星に人間が降りてくることはないのです――今となっては『通常、ない』と言うべきかもしれませんが――。ファランクスが相手にするのは、運よく故障せずにフォトン・ベルトを抜けることができた無人戦闘機や自律戦闘ロボの類です」
「でも、わたしも侵入者には違いないでしょう?」
そう言うと、ハルは少し考えるようなそぶりを見せた。
「どうでしょうか。フォトン・ベルトは不思議なことに獣人にだけは影響を及ぼさないことがわかっています。――実はあなたも獣人なのでは?」
そう言われても、記憶のないココノには答えようがないのだった。
「冗談ですよ。DNA検査では、あなたは99.9%始人であるとの結果が出ています」
まるで冗談を言っているようには聞こえない口調だったので、ココノはどうにも応答に困った。
「えっと……ハルさんも、獣人……なのですよね?」
代わりにそんなことを聞いてしまった。
「いえ、私は……ああ、ちょっと待ってください」
ハルはそう言って、急に押し黙ったかと思うと、やにわに顔をココノに向け、ニコリと微笑んだ。
「あなたの処遇が決まりました。当面、我々の隊で保護するようにとのことです」
突然の言葉に、ココノは驚いた。どこかと通信をしているようなそぶりはなかったからだ。
「中央は相当あなたの扱いに困っているようですね。ほとんどこちらに一任、というか丸投げしてきました。混乱していると言ってもいいかもしれません。あきれたものです」
淡々とした口調で上層部批判を口にしながら、ハルはココノの目を見据えた。
「――それで、あなたはどうしたいですか?」
*
*
*
シュッと小さな音を立てて部屋のドアがスライドして開いたかと思うと、のんびりした声が入ってきた。
「やあココノ、元気かい」
「パルクさん」
ココノは新たにあてがわれた部屋で寝起きを繰り返す日々を過ごしていた。
「聞いたよ、ハルに『働かせてくれ』って頼んだんだって?」
部屋を訪れたパルクはベッドわきのスツールによじ登るとちょこんと腰掛けた。
垂れ下がった灰褐色のしっぽが大きく揺れる。
「ええ、しばらく考えたんですけど、でも……」
「その前に、まずは身体を治さないと、ね」
長身の女性が両手にトレイを抱えて現れた。
「やあメイファン、君もいたのか」
パルクは短い腕を上げて挨拶をした。
「ハルに頼まれたのよ。彼女の身の回りの世話をするように、ってね」
そう言ってメイファンはココノに水の入ったカップと錠剤をいくつか手渡した。
「ハルさんは、もう歩き回っても大丈夫だとおっしゃっていたのですが」
ココノの言葉に、ふたりはそろって難しい顔をする。
「あー、おいらはもう少し、その、経過を見たほうがいいんじゃないかなって、思うけど」
「そう……ね、あんなことがあったばかりだもの。無理はよくないわ」
ふたりの言葉はどこか歯切れが悪かった。どうやらあまり出歩くのを歓迎されていないようだ。
その理由をココノは問いただせずにいた。性格的に、というのもあったが、ふたりがココノのことを案じて言ってくれているらしいことを感じているからでもあった。
「おふたりがそう言うなら……」
そう言ってココノは錠剤を飲み込むと、ふたたびベッドに横になった。
その様子を、監視カメラのモニタ越しに眺めている影があった。
「けっ、まったくご趣味がよろしいことで」
モニタの光だけがたよりのうす暗い部屋の中で、腕組みしながら鼻をふんと鳴らしたのはビャッコだった。
「べつに私の趣味で監視しているわけではありませんよ。それに、このモニタはあなたに見てもらうために用意したのですから」
静かな声で答えたのはハルだ。
「はぁ、オレに!?」
ハルの言葉に、大仰に驚いてみせるビャッコ。
せまい監視室にはビャッコとハルのふたりしかいなかった。部屋の壁は防音で、内緒話をするにはおあつらえ向きと言えないこともない。
「彼女のこと、どう思います?」
ハルは世間話でもするような調子で言った。
「どうって、なんだよ」
答える気もない、といった感じでワシワシとアゴの毛をかきむしるビャッコ。
「悪人に見えますか?」
その言葉に、ビャッコは毛を逆立てると低い声でうなった。
「人間なんかみんな悪人だ!」
「しかし、彼女がいなければ犠牲者が出ていたかもしれない」
ハルは先日の戦闘ロボの暴走のことを言っているのだ。彼はあの時外出していて不在だったのだが、基地内の監視カメラの映像からその一部始終を把握していた。
「あの人間が何考えているかなんてオレの知ったことか! てめえ、オレに何を言わせたいんだ! あんなやつ、独居房にでも閉じ込めておけばいいだろうが! パルクなんかをホイホイ会いに行かせるから、あのバカすっかり情が移っちまってる、人間なんかどうせ最後は死刑になるのが目に見えてるってのによ!」
ビャッコは食ってかからんばかりの勢いでツバを飛ばしながら叫んだが、ハルは相変わらず涼しげな表情を崩さなかった。
「私は、彼女に興味があります」
ビャッコはそれを白けた顔で聞き流した。
「けっ、おめーがそんなこと言うとはな。気味わりぃ、いったい何があったっつーんだよ」
「いえ、それが何もないんですよ」
ハルは困ったような、からかうような声を出した。
「この建物内で私の目を盗んで事をなすことがどれだけ困難かはあなたも知っているでしょう」
ハルの言葉はけして大げさではなかった。監視カメラはもちろん、電子錠の開閉記録から基地内外への通信データ、自販機の購入履歴、果ては便座の温度設定に至るまで、およそ彼に入手できない情報はなかった。そのことを理解していたビャッコは、だまって続きをうながすように視線を送った。
「私が見る限り、彼女はここへ来て以来なにひとつ怪しい動きをしていません。それどころかあの兄妹を救ってすらいる。嘘発見器にかけても、彼女がなんらかのたくらみを持ってここに来たという可能性は見出せなかった」
「だから悪人じゃないってか、ハッ! おまえさんらしくもない回答だぜ。ノーテンキなこと言ってんじゃねえよ。あいつは軍人だ。あの銃の腕を見たんだろ!? 理由なんかそれだけで十分じゃねえか! それに、記憶喪失っていうのがウソじゃなけりゃ、何をたくらんでいたか忘れっちまってるだけかもしれねえ。記憶が戻った途端にオレたちみんなズドン、だぜ!」
銃を撃つ真似をしながら、ビャッコは一息にまくしたてた。
「そうかもしれません」
意外にも、ハルは素直に応じた。
「記憶以外にもうひとつ、彼女には謎があります」
「謎?」
ハルはモニタに映るココノを見つめた。
「なぜ彼女がフォトン・ベルトを抜け、地上に降り立つことができたのか、ということです」
ビャッコの白いヒゲが一本、ピクリと動いた。
「そりゃー、オレも気になるな。何かわかったのか?」
「いえ……ただ、ひとつ言えるのは、彼女のDNAには明らかに人為的に手を加えた形跡があった、ということです」
「なんだそりゃ、やっぱり獣人だったってのか?」
ビャッコは眉間にシワを寄せてうなった。
「そうではありません。DNA自体は99.9%ヒトです。染色体の数も、ゲノムサイズも、遺伝子の数もヒトのそれです。ただ、タンパク質の生成器官であるリボソームの構成にかかわる遺伝子情報の一部に、ヒトの主要な配列パターンのどれとも一致しない部分がわずかに存在しているのです」
ハルはモニタから目をそらすことなく、静かに続けた。
「生物にとってDNAは設計図にすぎません。その身体機能としての発現はDNAから生成されるタンパク質が担っている。加えて彼女は細胞内のミトコンドリア数も異常に多い。体重の数パーセントに影響するほどです。おそらく受精卵の段階でなんらかの操作が行われています」
ハルの説明に、ビャッコは渋い表情のまま首をひねった。
「おい……よくわかんねえけど、それがフォトン・ベルトを抜けるカギになるってんなら、とんでもなく重要な情報なんじゃねえのか? お偉いさんは何て言ってるんだ」
「上層部には報告していません」
「なんだって!?」
室内に素っ頓狂な声が響いた。
「報告すれば、彼女は中央に連行され、モルモットにされるでしょう。私はそれを望みません」
「おいおいおい……重大な背任行為だぞ。そんなこと、オレにしゃべっちまって大丈夫なのか」
「上に報告しますか?」
どことなく楽しそうな声色でたずねるハルに、ビャッコはあきれ顔で答えた。
「オレは清く正しいイチ軍人だぞ。ヘタすりゃこの惑星の行く末にかかわるような重要な情報を、わざわざ隠し立てする理由なんかないね」
ビャッコがそう言うのをわかっていたように、ハルはひとつ大きくうなずいた。
「まあ、私もいつまでも隠しおおせるものとは思っていません。遅かれ早かれ、彼女は連れて行かれるでしょう」
そう言って空中をにらむハルの目はどことなく悲しげに見えた。
「その後はさんざんに身体を刻まれ、薬漬けの実験材料になる日々が待っている。自由はなく、人道的な扱いなど到底期待できません。あげくにはバラバラに解剖され、骨の髄まで抜かれて低温保存されるのが彼女の運命でしょうね」
淡々とした口調で語るハルを、ビャッコは醒めたような、やるせないような表情で見つめていた。
「人間だって……オレたち獣人に似たようなことをしてきた。お互いさまさ」
「否定はしません。しかし、考えてみてください。生殖を是とする始人にとって、遺伝子操作は最大の禁忌のひとつ。だとしたら、彼女はいったいどんな立場の人間なのでしょう。いや、そもそも人間扱いされていたのかも怪しい。獣人からは恐れられ、始人としても居場所なく、あげく寄る辺もない宇宙の果てで惨めな最期を迎える。それが彼女の……」
「わかった。もう、わかったよ」
ビャッコは、はーっと息を吐くと、大きな耳の裏をボリボリと引っ搔いた。
「ハル、オレはお前を信頼している。ただ……そうだな、おめーが元々人間側だってことを忘れてたみたいだ」
それを聞いたハルは、心配することはないとでも言うかのように、穏やかな表情を向けた。
「私はあくまで彼女に興味があるだけです。中央に引き渡して頭の固い連中のおもちゃにされるのが気に食わない。もう少し彼女を観察していたいというだけの話です。ただあなたに意見をうかがったのは、わたしよりもあなたのほうが人を見る目がある……というか、危険に対する直感を期待してのことです。それでも、あなたも彼女を閉じ込めたほうがいいと思うのですか?」
「あたりめえだろうが! 人間のクセに、獣人のすみかで働きたいだなんてずうずうしいやつだ」
「働きたい?」
おうむ返しに尋ねたハルは、すぐに思い至ったように続けた。
「ああ、それは私が彼女に提案したのです」
「はあ?」
ビャッコはひどく間の抜けた声を上げた。
*
パルクとメイファンが出ていった後、ベッドでまどろんでいたココノは誰かが部屋に入ってくる気配で目を覚ました。
「パルクさん?」
入り口に向かって声をかける。そこに立っていたのは白黒ストライプの大柄な獣人だった。
「あ……」
ビャッコは無遠慮にベッドに近づいてくると、剣呑な目つきでココノを見下ろした。
「あ、あの、何かご用ですか……?」
伏し目がちにたずねる。返事はない。
(怒ってる……)
ココノはなぜビャッコが怒っているのかわからなかった。と同時に考えても無駄だと思った。
(なにせ自分は人間なのだ)
ココノが下を向いて押し黙ってしまうと、イラついた声が降ってきた。
「なんなんだよ……オマエは」
不機嫌さを隠そうともしない声色に、ココノはますます身を縮こまらせた。
すると、ビャッコはココノの腕をつかんでベッドから引っ張り出すと、そのまま部屋の入り口に向かって歩き出した。
「来い」
ココノは裸足のまま、部屋の外へ連れ出された。
*
ビャッコに手を引かれ、というより引きずられるようにして、ココノは灰色の通路を歩いた。
時折すれ違う獣人たちはココノを見ると一様にギョッとした表情を浮かべた。中には歯をむき出して威嚇してくる者もいたが、多くは怯えて距離を取ろうとする者たちばかりであった。
「おまえを恐れているんだ。あいつらは軍属だが、元はこの惑星の外からやってきた難民だ。人間にひどい目に合わされてきた連中ばかりだ」
ビャッコはそう説明した。
「もっとも、パジャマ姿のお前さんに怯えてシッポを丸めるような腰抜けばかりだ。元難民という点ではオレも同じだが、オレはあいつらとは違う。オレは人間など恐れちゃいない。人間なんかいつかこの宇宙から根絶やしにしてやるさ」
言いながら、ココノの手を引いてずんずんと歩いていく。ココノはただ、なされるがままにだまってついていくより他になかった。
やがて、開けた場所に出た。そこには、薄汚れた格好をした獣人たちが老若男女の区別なく、ひしめきあっていた。
「彼らは難民だ」
喧騒を眺めながら、ビャッコは言った。
「オレたちの仕事は戦うことばかりじゃない。外からやってくる難民を保護するのも目的のひとつだ。最近は難民が多くてな、なかなか中央で引き受け先が決まらないから、こうしてここで一時保護してるわけだ」
ココノはあたりを見回した。獣人たちはみなどこかさえない表情をしている。きっと、新天地に対する不安が大きいのだろう。
「フォトン・ベルトは獣人には影響を及ぼさない。だが、航宙船のほうはそうはいかねえ。大半が着陸前にぶっ壊れちまう。無事にここに辿り着けるかどうかは五分五分ってとこだな。みんな着の身着のままなのも、墜落する航宙船から慌てて脱出したからさ。まあ持ち出すような財産があるやつは、わざわざ危ない橋わたってこんなとこに来やしないんだがな」
ビャッコの言葉は、どこか自嘲気味に聞こえた。
「おっと!」
そのとき、ひとりの獣人がココノの肩にぶつかった。あたりにばらばらと色とりどりの果物――見たこともない色と形であったが――が散らばる。どうやら抱えていた荷物を落としたらしい。ココノはあわてて転がる果物を拾い上げた。
「いやー、悪いねお嬢さん……」
熊のような毛皮に覆われた大柄な獣人はにこやかに笑っていたが、ココノの姿を認めると、その体躯に似合わぬ俊敏な動きで飛びすさった。
「お、おい……その娘、ひょっとして人間じゃないのか?」
「だったら、なんだっていうんだ」
ビャッコはまるで挑発するように答えた。
「なんだじゃないだろう、どうして人間がこんなところにいるんだ! セリオンに人間はいないんじゃなかったのか、おい!?」
「けっ、でかい図体して、こんな子供にびびってんじゃねえよ。なんでセリオンに人間がいるか、だって? そんなの、オレが知りたいくらいだ」
「なんだと!」
ココノは悪い予感が急速に膨れ上がっていくのを感じていた。あたりにいた他の獣人たちも、騒ぎを聞きつけて集まってきていた。
「人間だって!?」
「おい、人間がいるぞ!」
彼らは数メートルほどの距離を取って二人の周りを取り巻きつつあった。
ココノは鈍い痛みを感じると同時に、足元にまだ青い果実が転がったのを見た。
誰かがココノに向かって投げつけたのだ。
「俺の息子は人間に殺されたんだ」
誰かがそう言ってココノに果物を投げた。ココノは腕を上げてそれを防いだ。
「うちの家族だってそうだ」「俺だって」
声は次第に大きくなり、次々とココノに向かって物が投げつけられた。ココノはやめて、と小さくつぶやくとその場にうずくまった。人々の声はほとんど叫び声に近くなっていった。
「殺せ」
誰かの声が聞こえた。
「殺せ!」「そうだ殺せ!」「人間は殺せ!!」
毛むくじゃらの、大きな腕がココノの長い髪をつかむと、乱暴に引っ張り上げた。ココノはうっとうめいて苦しげに息をつく。
「やめて……」
かすれた声を上げるココノ。
しかしそれを聞いた獣人は、まさしく獣のような唸り声を上げると、そのままココノを宙へ持ち上げた。
「俺の息子も……」
獣人が言いかけたとき、ココノは目の前に火花が散り、周囲の景色が歪んでいくような感覚を覚えた。
(この感じ……)
それは、この惑星で目覚めて以来、何度か体験していた<予兆>だった。この後、まるで他者の記憶や思考が流れ込んでくるかのように、ココノには『見える』のだ。そのことを、ココノはまだ誰にも打ち明けられずにいた。
(また、『見る』の? 何かを……)
直後、わずかな意識を押し流すように、ココノの頭にイメージが流れ込んできた。
『殺せ!』『殺せ!』
荒廃したスラム街の一角で、大勢の人々が声を上げている。
『我ら始人の治安を取り戻せ!』『危険な獣人は排除せよ!』
人々の中心では、十数人の獣人たちが身を寄せ合うようにして集まっていた。彼らの表情は一様に恐怖に彩られ、怯え切った様子が伝わってくる。
『やめろ! ぼくたちがいったい何したっていうんだ!』
一人の小柄な獣人の少年が進み出ると、人々の上げる声はさらに激しさを増した。
投げつけられる石から身をかばいながら、少年は必死に叫ぶ。
『たのむからやめてくれ! ぼくたちは武器も持っていない! 何も危害なんか加えやしない!!』
少年は大きく腕を広げてみせる。その瞬間、飛んできた石がこめかみを打ち、少年はすぐに頭を抱えてうずくまるはめになった。
『ばかやろう! 前に出るな!』
毛むくじゃらの獣人が少年の肩を掴んで引き寄せる。しかし、少年はそれを振りほどいた。
『ちくしょう! こんなマネしなくったって、出てけってんなら出ていくさ! この卑怯者ども!』
血気盛んな様子の少年はおさまらない。
『捕まった仲間はみんな、ロクな食事も与えられずに死んだ。お前たちのやってることはただの虐殺だ、こんなことを続けてただで済むと思っているのか! 理性ってもんがあるなら今すぐやめろ!!』
『エシオ!』
毛むくじゃらの獣人が少年の名を叫んだ時、乾いた破裂音とともに一条の光弾が少年の胸を貫いた。
声もなく崩れ落ちる少年。その前に保安局の者と思しき始人の男がエネルギー銃を手に歩み出た。
『”ただで済むと思っているのか”?』
倒れた少年を抱えて呆然としている獣人を見下ろし、男はニヤニヤしながら周囲の人間に呼びかけるように言った。
『反抗的な発言だ。市民に危険が及ぶ可能性が高いと判断した』
『き、貴様……』
怒りに牙をガチガチと震わせながら、獣人は燃えるような瞳を男に向け、うなった。男はそれを見てフンと鼻を鳴らすと、嘲りの表情を浮かべる。
『やはり雑種は猛獣と変わらんな。飼い慣らせぬのなら、殺すしかない』
男は目の前の獣人に向かってライフルを構える。
そのとき、横から伸びてきた腕がライフルの銃身を掴むと、そのまま握力でぐにゃりとひん曲げた。
驚いた男が目を向けると、縮こまっていたはずの獣人たちが、いまやみな立ち上がり、飛び掛からんばかりの表情で唸り声を上げている。
『殺せ!』
それが人間と獣人、どちらの陣営から発せられた言葉なのかはわからない。
毛むくじゃらの獣人が目の前の男に飛び掛かった後、辺りは獣の咆哮と銃声、そして人々の怒号と悲鳴に包まれた。
もはや止める者などなかった。
ただ怒りと恐怖だけが、その場を支配していた。
「……俺の息子も、同じことを言った。やめろ、と。そして殺された」
大きな褐色の体躯を震わせて、低い声があたりに響いた。
イメージの奔流は収まり、ココノの目の前には怒れる獣人の顔が戻ってきていた。
「あなたは……」
ココノは何も言えなかった。彼の怒りを収めることのできる言葉は、とうていココノの内には存在しないように感じられた。
抵抗することはできた。だが、ココノは観念したように目を閉じた。自分が始人であること。それがすべての元凶であり、外すことのできぬ枷であると、痛切に感じた。
「おねえちゃん!」
幼い声が響いた。
「おい、なにしてんだ! そのひとはおれたちの命の恩人だぞ!」
大きなシッポがふたつ、するすると大柄の獣人にまとわりついていた。ともに戦闘ロボから逃げ回った、あの兄妹だ。ふたりは自分たちの胴回りくらいはありそうな太い腕にからみつき、げっ歯類特有のノミ状の歯を突き立てている。
「あなたたち!」
ココノは目を見張って叫んだ。
「ガキは引っ込んでろ!」
褐色の獣人はまるで意にも介した様子もなく、もう一方の腕を軽々と振って、ハエでも散らすように兄妹をはねのけた。
「やめなさい!」
ココノは思わず褐色の腕をつかんでいた。その瞬間、ギラついた黒目がちな瞳がココノを真正面から見据え、唸るような声がとどろくと、ココノは腕のひと振るいで5メートルもはね飛ばされ、冷たい通路の床に無様に転がった。
「いい度胸だ、殺してやる」
大柄な獣人は牙をむき、完全に理性を失ったようにふらふらと近づいてくる。
「わ、わたしは……あなたの息子さんを殺した人間とは違う」
ココノは、震える身体を起こしながら、必死で声を絞り出した。
「無抵抗の者を殺すことは……あなたがやろうとしていることは、その人間と同じではないのですか」
ココノはうつむいたまま、顔を上げることができずにそれを言った。苦し紛れだった。
そもそも、自分にこんなことを言う資格があるのかどうか、自信が持てなかった。記憶を失う前の自分が、軍で一体どんなことをやっていたのかわからないのだ。
「それを、お前が言うのか。人間である、お前が……?」
獣人はゆっくりと近づいてくる。
もう、何を言っても無駄だ。ココノは本当に観念してその場でうなだれた。
その時、獣人とココノの間に割って入る影があった。
「おう、ちょっと待った。ストップだ」
ビャッコだった。邪魔をされた獣人は顔をしかめながらそこをどけと言わんばかりに腕を振るう。
「待ったっつってんだろ」
軽快な動きで腕を躱したビャッコは、逆に足払いをかけて獣人をその場に転がした。
「なにしやがる!」
「うるせえ、黙ってろ」
吠える獣人に向かってビャッコはハンドガンを突きつけた。獣人はそれを見て青ざめた表情をしながらも、理解ができないとばかりに大きく唸り声をあげた。
「て、てめえ……一体どっちの味方なんだ!」
それを聞いたビャッコは一瞬、恐ろしい形相になった。が、冷静を保とうとするかのようにひとつ大きく息をつくと、くるりとココノの方へ向かって振り向いた。
「分かったか? 人間がここで働こうなんて、無理な相談なんだ」
ココノは床を見つめたまま、ビャッコの言葉を聞いていた。
それが言いたかったのか、と頭が理解すると同時にやるせない思いが胸にあふれ、目に涙が滲んできた。
かすれた声が、こぼれるように口をついて出た。
「わたし……」
「わたし、わかってました」
出歩くことに対して、パルクやメイファンがいい顔をしなかった理由もこれなのだ。
「でも、ハルさんが言うから……! わ、わたしだって、わかってたんです! 働くなんて、無理だって。だから、だから……!」
絞り出すような、嗚咽交じりの叫び声が、響いた。
「だから、言ったのに……!」
そう、言ったのだ。あのとき、ハルに。
「――あのまま部屋に閉じ込めておくように、ってか?」
ココノはハッと顔を上げた。ものすごく不機嫌そうな顔のビャッコがそこにいた。
「本当なのか」
ビャッコはさも不満そうに言った。
「……どうして」
「ハルから聞いた。信じてなかったけどな」
獣人の、澄んだブルーの瞳を見つめながら、ココノはつい先日のハルとの会話を思い出していた。
*
*
*
「理由を聞いてもいいですか?」
まだ部屋を移る前、白い天井のある小さな個室でベッドに腰かけて床を見つめるココノに向かい、ハルは珍しく驚いたような口調でそう言った。
「なぜって、わたし、きっとみなさんに嫌われていると思うんです。パルクさんは親切だけど……それに、やりたいことなんて、ないし……」
ココノはそこで言いよどんだ。
「それで、部屋に閉じ込めろと? しかしあなたはそれでいいのですか。この後、あなたがどうなるか、少しも想像がつかないわけではないでしょう」
ハルの言葉は、ココノの未来がけして明るいものではないことを示していた。
「あまり考えたくは、ないですけど……でも、逃げ出す度胸も、ないし」
そう言って、ココノは諦めたように笑った。
逃げ出す、という言葉が示すものにハルは想いを巡らせるように一瞬空中を見つめた。
「本当にやりたいことはないのですか? 例えば、記憶を取り戻したい、とか」
それを聞いても、ココノはふるふると首を横に振った。
「なんとなく、ですけど……記憶を取り戻しても、あまりうれしいことにはならない気がするんです。軍人だったっていう話だし。もし記憶を取り戻したら、わたし、きっと平気でみなさんに向かって銃を向けます。そんな気がするんです」
どことなく確信めいたものがある言い方にハルは違和感を覚えたようだったが、「そう、決めつけるのはどうかと思いますがね」とだけ言うと椅子から立ち上がってカップを取り出し、一人前分のお茶の準備を始めた。
ハルは何かを考えている様子だったが、やがて暖かいハーブティーを淹れ終わると、カップをココノに向かって差し出しながら、とても良いことを思いついたような表情でこう言った。
「あなた、しばらくここで働いてみませんか?」
ココノは一瞬何を言われたのか理解できず、その場で固まった。
ぽかんとした表情のままカップを受け取るのも忘れて、しばらくハルの端正な顔立ちを見つめながら、まるで人形のようだ、と場違いな感想を抱いていた。
*
*
*
「ぜったいウソだと思った」
ビャッコは、吐き出すようにそう言った。
「人間の分際で、おとなしく牢に入ろうなんてヤツがいるわけねえ。いたとしたって、何か企みあってのことに決まってる」
そう言ってビャッコは床にうずくまるココノの顔を見下ろした。今にも泣き出しそうな顔で気丈ににらみ返す少女の顔がそこにあった。
その表情に、ビャッコは一瞬、そこにいない人物の影を重ね、面くらった。
『そう、兄さんは他人の気持ちなんかこれっぽっちもわかろうとしない! 勝手すぎるわ!』
(ふざけるな! なんで、アイツのことを思い出すんだ……!)
「オレは、生きる気力のねえやつはキライだ」
動揺を押し隠し、ビャッコは静かに言った。自分に言い聞かせるかのような言葉だった。
「そんなのは死んでるのと同じだ。イライラする。死にたいのなら今すぐ殺してやる」
そう言ってココノに向かってハンドガンを向けた。
それを見て、ココノはよろよろと立ち上がった。
立ち上がると、ビャッコの硬い毛に覆われた腕をつかみ、ハンドガンを自らの胸に押し当てた。
ビャッコは血が沸騰するような想いにかられた。
だが、手が震えてうまく引き金が引けない。
『だって、しかたないでしょう。知ってるんだもの。私。死ぬのよ。もうすぐ』
「やめろ!!」
ビャッコは叫んだ。
まるで何か幻影でも見ているかのような獣人の様子に、ココノは眉をひそめた。
「なんなんだ、お前は……!」
ココノはビャッコが何を言っているのか理解できなかったし、ビャッコ本人もとまどっていた。
ココノを自由にするように、とハルからは言われていた。今だって、けして殺そうと思って来たわけではなかった。ココノの真意を確かめる、そんな気持ちで監視室を飛び出してきたはずだ。
(なのになぜだ! コイツのやることなすこと全てがオレをイラつかせる! ただの弱っちい人間の分際で!)
誰もが状況を把握できずあたりが騒然としだしたとき、小さな灰色の獣人が「おい、何やってんだ!」と叫びながらトコトコと走ってきた。パルクだった。
「ビャッコ! その手を下ろせ!」
ビャッコはハッとした様子であっさりと銃を下ろした。
パルクはココノに駆け寄ると、その体を気遣うようにゆっくりとビャッコから引き離した。
「ハルに言われて来てみれば……。ビャッコ、お前……見損なったぞ」
振り返りもせずに言うパルクを哀しげに見やると、ビャッコはバツが悪そうに踵を返してトボトボと歩き出した。
「おい! まだその人間との話は終わってねえぞ!」
叫んだのは、先ほどまでココノを痛めつけていた大柄褐色の獣人だった。
「ハルの命令だ。そいつに手を出すのは許さん。何かあったらお前は逮捕だ」
歩きながらビャッコは言った。
それを聞いて褐色の獣人は憤慨した様子でビャッコの肩をつかみ、振り向かせた。
「てめえ、自分で言ってることわかってんのか! たった今こいつを殺そうとしてただろうが!」
直後、大柄の獣人はその場に横たわって悶絶した。あたりに苦しげな悲鳴が響き渡る。
ビャッコがハンドガンで足を撃ち抜いたのだ。
喧騒の中、ビャッコは無言でその場を後にした。もはやその背中を追う者はなかった。
「行こう、ココノ」
すぐさま医療班を呼んだらしく、通話機を下ろしながらパルクがそう言ってココノの腕をつかんだ。
たくさんの獣人たちの視線を背中に浴びながら歩き出す。その後ろをあの獣人兄妹たちが続いた。
「ビャッコのこと、許してやってくれないか」
歩きながら、そうパルクは言った。
「……あいつは、人間に身内を殺されたんだ」
いつか見たイメージがココノの頭をよぎった。
それは降りしきる雨の中、小さな亡骸を抱えるビャッコの姿。
見てはいけないものを見たような気がしていた。はたしてあれは彼の弟か妹だったのだろうか。
「許すもなにも……」
目を伏せ、言葉に詰まるココノ。
そう、悪いのは自分なのだ。嫌われ者のくせに、嘘をついて働きたいなどと言い出した自分だ。
逃げ出すことも、自死を選ぶ度胸もなく、死神のように周囲に恐怖をまき散らす存在。
「わたしが人間だから……」
「おねえちゃん……」
兄妹の妹が心配そうに声をかけるが、ココノの反応はない。
「ねえ、ココノ」
見かねたようにパルクはその場に立ち止まると、小さな体を精一杯伸ばしてココノの頬にふわふわした腕をあてた。
「おいらは、君の命を救けた。君を人間だと知っていながら。おいらは間違ったことをしたんだろうか?」
ココノには答えられない。
「おいらは、人間にだっていいヤツはいると思ってる。みんなだって、頭のどこかではわかってるはずさ。ただ、ここに来ている連中は、散々な目に合ってきたばかりだ。人間に対する恐怖や怒りで、ガッチガチになっちまってるのさ。だけど……」
パルクはそこで言葉を切った。
「君に見せたいものがある。ついてきてくれるかい」
そう言うと、通路の端にあった扉を開けて、やや細い道を歩きだした。どうやら非常路のようであるらしかった。
ひとけのない通路をしばらく進み、いくつか階段を上ったあと、パルクはひとつの鉄扉の前で足を止めた。
扉は非常用らしく手動で開けるタイプで、ドアノブがついている。
パルクは無言でココノを振り返った。開けろということらしい。
ココノはそっとドアノブに手をかけた。扉は重かったが、錆ついたりはしていないようだ。
扉は音もなくゆっくりと開き、隙間から光がこぼれた。どうやら、建物の外のようだった。
(この香り……)
ココノは一瞬手を止めた。
不思議な香りが鼻を突く。鼻腔を通して旧い記憶が刺激されるような、奇妙な感覚。
意を決して扉を開け放つ。
そこに広がっていたのは、あきれるほど遠く、彼方まで続く広大な草原だった。
建物は辺りよりほんの少し高台に位置している。周囲がわずかに整地されているだけで、そこから先はくるぶしほどの高さの細い草が延々と生い茂り、眼下に向かってうねるように緑の絨毯を広げている。
目線を上げていくと、緑はやがて空の青に変わった。白くかすむその境が地平線であることに気付くのに、ココノはしばらくの時間を要した。
見上げるにつれ、空は青さを増していく。大きな綿雲がゆうゆうと浮かんでいる。ふと、自分は本物の雲を見たことがあるのだろうか、という疑問が沸く。コロニーには雲がないからだ。
だが、知っている。そう言えるものが己の中に、確かに在る。
(懐かしい……)
ココノは自然と足を踏み出していた。素足の裏に、硬く暖かな土の感触を覚える。ゆっくりと頭をめぐらせる。
開いた傘のような形をした樹木が草原の中にまばらに生えている。節くれ立った幹、バラバラにねじ曲がった枝。葉の陰から大きな鳥が飛び立つのが見えた。
遠くで砂煙が舞っている。それに合わせて、何か大きな動物の群れが移動しているのが見える。
よくよく見れば、はるか彼方に山の稜線が薄くシルエットを描いている。いったいどれほどの距離があるのだろう。まるでスケール感がつかめない。
視線を大地に転じる。柔らかな草葉の間に、点々と白い花が揺れている。その周りをチョウのような生物がひらひらとせわしなく飛び交っている。
顔を上げ、胸いっぱいに大気を吸い込む。甘い花の香り、それに青臭い葉と湿った土の匂い、やけた岩、よどんだ水、獣の糞と微生物の匂い。わずかな熱と湿り気をはらんだ風が運んでくる、自然と生命の息吹。
違和感を覚えて足元を見やる。いつの間にか草原を踏みしめていた足指の間を、小さな虫が這いずっている。手を伸ばしてそれを掴もうとするが、草の上に落ちる自分の影にまぎれて見えなくなってしまった。
(影……)
ココノはハッとして顔を上げる。
「恒星が、見える……」
青い空の一点が、まばゆい光を放っている。
ココノはこの惑星を取り巻くというフォトン・ベルトの話を思い出していた。それは超高エネルギーの電磁波と粒子線の嵐。だが、今見えているこの光は――。
「不思議だろ」
パルクの穏やかな声が聞こえた。
「この光は、フォトン・ベルトを抜けて地上に到達しているらしい。どういう理屈なのかはまったくの不明。こいつのおかげで惑星内の気温は平均15℃に保たれているし、植物は光合成して大気圏を酸素で満たすことができる。だけど、なぜ宇宙からこの惑星は見えないのか、反射光は、輻射熱はどこへ行くのか、これまた不明。なにより不思議なのは、一日の長さがきっかり86400秒だってことだな」
「まさか……!」ココノは息をのんだ。
「そのまさかさ」
パルクは面白そうに歯を見せてニッと笑った。
「なあ、ココノ、本当にここは獣人の……獣人たちにとってだけの楽園なんだろうか?」
ココノは、パルクの大きなまるい目を見つめた。動物型の獣人の表情はわかりにくい。けれど、黒目ばかりのうるんだ瞳の奥には、たしかに真摯な光が灯っているように思えた。
「おいらたちにとって楽園なら、人間にとっても楽園のはずだろう? うまく言えねえけどさ……そうだったらいいなって、思う時があるんだ。ここぐらいは、誰もいがみ合うことのない、平和な世界にって……ばかばかしい話かもしれないけど」
「そう、ですね……そうかもしれない」
ココノはふいに、自分が何か大きな、逆らいようのない流れに巻き込まれようとしているような思いに駆られて、顔を上げた。
そこには先ほどと変わらず、無窮の空と大地が広がっている。変わったのは、自分の心だ。果てしなく広がる世界のすみずみまで、流れる血潮のように脈動し満ち満ちるなにものかの意思を感じる。なすべきことがあると、語りかけてくる。
「大いなる意思……」
ふと漏らしたつぶやきは風に乗って溶けた。
「大丈夫か、ココノ?」
心配そうにパルクが声を掛けてくる。それでココノは、自分の頬を伝う涙にようやく気付いた。
「パルクさん……大丈夫です。わたし……もう少し、頑張ってみます。この世界で、生きることを」
「そうか」
パルクはそれ以上何も語らなかった。
夕刻に差し掛かろうとしているのか、空はわずかに光を失いつつあった。次第に茜色を帯びてゆく世界を、ココノはいつまでも飽きずに見つめていた。
こっそりついてきていた獣人兄妹たちが、その足元に寄り添った。無言のまま、三人は並んで穏やかな風に身を任せていた。
パルクもまた、それを無言で眺めていた。ただいちど、わずかに目を細めて、ぱたりとひとつシッポを振った。
四つの影は、風にそよぐ草原の中でいつまでも揺らめいていた。