後篇
私と小隊長代理殿がゆっくりと進むと、彼女は私たちに椅子を勧めてきた。あくまでも柔らかく笑んで、敵意はないと示してくる。正直、やりにくい。
「立ち話は疲れるでしょう。どうぞ座って。剣もそのままでどうぞ」
彼女も優雅な所作で椅子に座ると、ほう、と溜息を一つ吐いた。
「あなた方と、少しお話をしたかっただけなの。応じてくださってありがとう。
お茶の用意がなくてごめんなさい……魔族の淹れたお茶は、飲みたくないのではないかと思って」
「……いえ。それで、お話したかったこととは何ですか?」
彼女は何故だか今にも泣き出しそうな微笑を浮かべて、静かに話し出す。私と小隊長代理殿は、その微笑から目が離せなかった。
「……少しね、疲れてしまったの」
「何にですか?」
「歩み寄れないことに。この先、ひとりでいることに」
「何があったんですか?」
「聞いてくれる? ああ……指輪を持ってるのね、だから優しいのね」
「指輪?」
彼女は遠くを見つめるような表情を浮かべて続けた。
「──わたしにはね、兄がいるの。いえ、いたの。
わたしはここから随分遠い山中で暮らしていたけど、兄は人間に紛れて、見つからないよう慎重に静かに暮らしてたわ。
兄とは、数年か、下手をすると十数年に1度会うくらいだった。
そうね、あなたたちとは少し時間の感じ方が違うから、のんびりしているとそのくらいになってしまうのかもしれない。
たまに会って、お互いどうしてたのかを話すのが、とても楽しみだった」
そうして、彼女は涙をひとつ零した。
「ここへ来る少し前に兄を訪ねたのよ。
そうしたら、兄は、魔族だから殺されたのだと言われたの。教えてくれた人間は、わたしに、だから魔族のことはもう忘れなさいと。
……もう、わたしの家族は誰も残っていない」
彼女は、涙を零しながら笑んでいた。
私にも小隊長代理殿にも、彼女にかける言葉を見つけられなかった。
「それから、兄と親しかった人間に会いに行った。どうして兄が死んだのかを知りたくて。魔族だから殺されたというけれど、何故そうなったのかが知りたかったの。
……会いに行った先で、彼女に言われたわ。
“あなたも穢れた魔族に惑わされるところだったのね。でももう大丈夫。あいつは殺したから。悲しむ必要なんてないのよ、目を覚ましなさい”」
私は思わず小隊長代理殿を見る。彼も、驚愕に目を見開いていた。
「……まさか、アニタ?」
「彼女を知っているの?」
「あなたはスードの妹なの?」
「兄を知っているの? やっぱり、あの場にあった魔法の痕跡はあなたのものだったのね」
彼女はまた微笑む。とても儚く見える微笑だった。
「わたしは彼女の言葉に我慢できずに……彼女に……アニタに呪いをかけてしまったのよ。
彼女がその内に抱えている醜い感情と同じくらい醜く死ねと。
──その代償がこれ」
彼女が手袋をはずすと、すっかり黒く染まった指先を差し出した。
「あなたも魔法使いならわかるでしょう? わたしは死の呪いを掛けて、その反動に侵されている。長くないわ。
このまますべてが黒くなれば、わたしは魔物に変わるでしょう。
わたしは魔族だから、あなたたち人間よりも大きい魔力を持っている。わたしが魔物になってしまえば手に負えなくなるわ。
……だから、わたしを殺して。もう生きていたくない」
彼女は椅子から立ち上がり、跪いてから、思い出したように顔を上げた。
「ああ、もうひとつだけ。
あなた方討伐騎士が、あの村でどう調査したかを教えてもらったわ。きちんと調べてくれて、明らかにしてくれてありがとう」
彼女は私たちに心からと思える笑顔を見せた後、頭を垂れ、髪を横に流して首を晒し、何かに祈りでも捧げているかのように胸の前で手を組んだ。
私は椅子から動けないまま、ただ彼女から目を離せないでいた。
小隊長代理殿……騎士ギーゼルベルトが立ち上がり、彼女の傍らへ立つ。
目を閉じ、ひとつだけ息を吐くと、鞘を払い、その剣を彼女の首へとあてた。
「……貴女の魂が安からんことを。そして、貴女の来世に光あらんことを」
祈りの言葉を呟いて、騎士ギーゼルベルトは剣を振り上げ、それから一息に振り抜いた。
* * *
「ああ、どうしよう」
王都に戻ってから5日が過ぎた。
討伐報告書は戻ってから3日以内に提出しなければならないが、すでに期限を2日オーバーしてしまっている。
どう書いたらいいのか、ただ紙の上のインクの染みを増やすだけで、まったく進んでいない。宿舎の机に向かい、ただだらだらと時間だけが過ぎていくのに身を任せていた。
「エディト、いる?」
どんどんと扉を叩く音と一緒に、エルネスティの声がした。返事をして、部屋に入ってもらう。
「小隊長殿が呼んでるわ。報告書はまだなのかって」
「ああ……うん……ぜんぜん書けてない……」
エルネスティが呆れたように頭を振る。
「とりあえず、呼ばれてるから行ってきなさいよ。で、説明してきなさい」
「そうね、そうする」
はああああ、と重苦しい溜息を吐きながら騎士団の本部へと向かった。ついでに、そういえばと思い出して、簡単な探知魔法を唱えておく。
……本部ホールに飾られたあの角を、探知魔法を通して眺めると、確かに大きな魔力が残っていた。まるで生き物のように渦巻いている。これが死んでるものの残した角とは、とてもじゃないが思えない。これが、ヤレット殿が言う「角は生きている」ってことなのか。
騎士カーライルの魔王討伐から6年近く経ってるのにこれでは、探知魔法が使えるものであれば誰も、魔王が滅んだなんて信じないだろう。
そういえば、騎士カーライルの魔王討伐はどう行われたのだろうか。
“討伐”と言うけれど、私はいったい何を討伐しているのだろう。
小隊長殿の部屋に入ると、開口一番「ひどい顔だな」と言われた。
そんなにひどい顔をしているのか。
「ちょっと今回は堪えました」
「らしいな。ギーゼルベルトも同じことを言っていた」
「小隊長代理殿もですか」
「ああ」
「……すみません、なので、報告書が全然書けていません」
小隊長殿は、仕方ないという風に息を吐いて、なら、口頭で済ませるかと言った。そのほうがありがたい。小隊長殿の言葉に甘えて、概要の口述と質疑に答える形で、報告書を作成していった。
私の姿が相当にへこんで見えたのか、小隊長殿が、この後酒でも飲むか? と言った。
「そうですね。そうしたい気分です」
* * *
夕刻の町に出ながら、私はこの前から考えていたことを口に出してみた。
「……小隊長殿、討伐って、何なんでしょう」
小隊長殿は驚いた顔をして、それから何故だか慰めるように私の頭を抱き寄せ、ぽんぽんと叩くとこう言った。
「それは、自分で考えるしかないな」
翌朝、再び私は頭を抱えていた。
事故は無しだったはずなのに、どうしてこうなった私。
言わずと知れた誰かも、横で頭を抱えていた。
「酒は飲んでも飲まれるな。身に染みました」
「……だな」