4.ミッドランドとデビル
ロウとはつくものの、その名に地球を冠するロウアースもまた、一日二十四時間の周期を持ち、朝になれば太陽が昇る。
ただし、ここミッドランドにおいて地平線から朝日が登ることを常識とするのは、下層の人間だけだ。上層部の高さとなるともはや地面は見えないため、地平線は存在しない。代わりに太陽が顔を出すのは雲の彼方、雲平線である。
太陽は、ハイアースのそれと同じくこの天体に恵みの光を等しく注ぐ。すべての生き物が享受できる、唯一の光。そんな暖かい朝の陽ざしに照らされて、一つの巨大な建造物が空を飛んでいた。
ミッドランドの治安を守る、ゼロ課の前線基地スカイベースだ。第二階層でのデビル掃討作戦を一日がかりで完全に終え、本来あるべき第五階層まで戻ってきたのである。
ハイアース人から見れば、十階建てのビルとそこに付随する各種施設を備え持つ巨大な構造物が空を飛ぶことなど、夢物語でしかないだろう。しかしその基本構造は、要するに飛行船と同じである。ただその規模がでたらめにでかいのと、用いられている動力やガスが、ハイアースのそれとは大きく異なるだけのことだ。
「飛空艇の肝は、何と言っても変質性特殊ヘリウム、通称浮きガスっす。ヘリウムはハイアースにもあるんすよね?
この浮きガスは、基本的にはそのヘリウムと同じっす。ただ特殊、って言われるのは他にも性質を持ってるってことで……この浮きガス、窒素と化合することで逆に空気より重くなるんっす!
この性質を利用して、飛空艇は空に浮いて、上下の移動を制御してるんっすよ!
そいでもって、この浮きガスから窒素を除去する装置も重要っすね。この装置と浮きガスのためのタンクが必要なんで、飛空艇のデザインは大体クジラみたいなふっくらした形になりがちなのは、個人的にはちょっと好かないんすけども」
……そんな、センティのマシンガンのような説明を受けながら、レテナは唖然とした表情を終始はりつけたまま、スカイベースの客間から外の光景を眺め続けている。
眼下に広がるミッドランドの景色は、彼女の常識とは全く違う。建物という建物の大半に、上下左右あらゆる方向に何らかの建物が建っているのだから、まったくわけがわからなかった。
上に目を向けてみれば、そびえたつ家屋のタワーがいくつも並んでいる。そして、それぞれのタワーを結ぶかのように、横に伸びる家屋。それを見たレテナの第一印象は、成長を続ける菌糸だった。これが、ミッドランドどこに行ってもこんな感じだと説明されれば、それこそ唖然とするしかないというものである。
「え? なんでこんな街なのかって……えっと……その、重力をこう、アレしてコレする装置があるんっすけど、それを使ってこの街の建物は造られてるんっすよ。
それが上にも横にも広がって、こんなでっかい国になったっていうか、そんな感じで?」
だがその説明を求めても、センティから返ってくるのは要領の得ない曖昧なものばかり。飛空艇の構造はまだしも、街の構造に関する知識は持ち合わせていないのだろう。
まあ、レテナだって自由の女神像の構造なんて聞かれても説明できない。身近にあるからと言って、その仕組みを完全に理解している人間なんてさほどいやしないのだ。文明とはそういうものである。
リーブなら、わかるだろうか。そんなことをふと思ったら、彼の顔が脳裏に浮かんだ。最後に見た時と同じ、とても弱弱しい笑みを浮かべていた。
彼は、いまだにメディカルルームから出てこない。昨日の苦しみ方は尋常ではなかったし、無理もない気はした。しかし、彼はレテナにとって命の恩人だ。そんな人が、出逢った直後に死ぬなんて事態は、起こりうるにしても絶対直面したくない。
無造作ともいえるミッドランドの街並みを眺めながら、レテナはただリーブの無事を祈る。それしか、彼女にできることはない。
彼女は、目の前で行きかう飛空艇を眺めながら、リーブの無事をひたすら願い続けていた。
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一方その頃。
レテナが待機している客間から最も離れた場所にある隔離病棟で、リーブは何重にも重ねられた強化ガラスで隔てられた隔離病室にいた。そこで点滴を受けている。中身は非常に特殊なものだが、一般的な点滴と方法自体は同じなのでさしたる問題はない。右腕から伸びるチューブと、それがつながるパック。中身は既にだいぶ少なくなり、もう少しで点滴も終わるだろう。
ぼんやりとその薬液の動きを眺めているリーブ。そのチューブが繋がる彼の右腕は、ひじから先が真っ黒に染まっていた。色素が沈殿したものではない。確かに、光を反射しない様は絵具か何かで塗りつぶしたようでもあるが、実際のところこの黒い部分は鉱物のように硬質化しており、腕がそのまま石になったような感覚があった。しかしこの状態でも触覚は変わらず、手を動かすにしても違和感がまったくないことが逆に気持ち悪かった。
意識を強化ガラスの外に向けてみる。そこには、メディカルスタッフと話し込むスウォルの姿がある。とはいえ、通信機器を介さない限り、あちら側の会話は聞こえない。今リーブがいるこの小さな病室は完全に外と隔離されており、よしんば暴れたとしても、簡単には突破できない造りになっている。
どうせ後で診断結果をスタッフから聞くことにはなる。というか、その内容を話し合っているのだろう。そう結論付けて、リーブは小さくため息をついた。
そうしてしばらく、点滴に身を任せること約十分。薬液が完全になくなり、不意に現れた特殊素材のカバーが臭いものにフタをするかのように腕を覆い、点滴は終わった。
それからメディカルスタッフから外に出るようマイク越しに告げられた彼は、用意されていたカッターシャツに腕を通す。さらに手袋をつけて黒い肌の手を隠し、そこでようやく扉が開いた。
扉の先は五重になった気密室だ。厳重すぎるといえば過ぎるが、リーブがその身に宿した病の前には、これくらいしなければ安全とは言えない。
空港の検疫にも似た手間暇を潜り抜けて、リーブはメディカルルームに戻ってくる。それを出迎えたのは、他でもない上司のスウォル。
「よっ、お目覚めだな。気分はどうだ?」
「いつも通り、あんまりよくはないスね。まだ若干だるいし」
「そうか……いつも通り、か……」
リーブの返答に、スウォルは苦笑を隠さなかった。事情を深く知っているだけに、下手な慰めなどはできないのだろう。リーブとしても、なんだかんだと言われるより、いっそ突き放してもらったほうが楽というものだ。
「リーヴェットさんの現在の侵食率はおよそ五十三パーセントです」
そんな彼らに対して、雰囲気などどうでもいいとばかりにメディカルスタッフが口をはさんだ。あくまで仕事と言わんばかりの、抑揚少ない事務的な口調である。
「一般人であれば既に規定値を超えており、本来であればもうあなたには表に出る資格はありませんが……今打ったのは特製のデビル因子用抗生物質です。進行を緩和することができます」
「……遂に一般へ普及しだしたんですね」
「最近な。まあまだべらぼうに高くて、金持ちかデビルハンターにしか使用が認められてないんだけどな。俺らでも、侵食率がある程度高まるまでは使わせてもらえないし」
保険適用は受けられるのだろうか。決して多くはない口座の残高を脳裏に浮かべながら、リーブはそんなことを考える。
「動物実験および過去の使用実績から、この抗生物質を定期的に投与していれば、侵食率が七十パーセントあたりまで上昇しない限りは、即座のデビル化はしません。
投与は点滴なら二日に一回ですが、個人の家で簡易的にやるなら一日二回です。今回は一日二回のほうで五日分処方を出しますので、必ず使用を続けてください」
「はい」
「それから……今のあなたは既に半分デビルです。発信器を着けます」
「……はい」
「もし何らかの兆候があれば、即座にあなたの身体を麻痺させ、拘束します。よろしいですね?」
「…………。はい」
良心的なインフォームドコンセントに見えるが、実際のところリーブに拒否権はない。拒めば、そのままあの強化ガラスの病室に逆戻りだ。そして、二度と出られないだろう。リーブはまだ、あそこで無為な時間を過ごそうとは思わない。これだけ意識がはっきりしているのだから。
デビル化。それが、リーブが罹患した病の名である。正式には、星屑感染症候群。デビル因子と呼ばれる微生物が体内に入り込み、徐々にデビルへと変じる恐ろしい病だ。と同時に、すべてのデビルはこれによって生まれる。そう、生物に害をなすデビルも、元をただせばこのロウアースに住むごく普通の生き物なのだ。昨日リーブが対面したデビルも、鶏がデビルになったものである。
デビル化はデビルと接触したり、どこかに付着して残っていたデビル因子が何らかの理由で体内に入ることで始まる。具体的には血液感染がほとんどだ。体内に入り込んだデビル因子は一か所に固まり、星屑と呼ばれる結晶体を形成する。これに端を発して、徐々に宿主の肉体は変異していき、やがて宿主は異形となる。昨日の雄鶏デビルで言えば巨大化がわかりやすい例だし、いまだその途上にあるリーブで言えば、右腕の星屑化がそれに当たる。
潜伏期間は短く、どれだけ長くても一年もあれば大体の生物はデビルとなってしまう。そしてデビルになれば、もうそれは破壊の本能しかない化け物だ。今度は、自分が理不尽な暴力の権化になってしまう。昨日のセンティとスウォルの対応は、レテナがいかに納得できずとも、一番妥当な反応なのだ。
リーブがこれを発症させておよそ半年。彼自身も、そろそろ潮時だろうとは思っている。だがそうはいっても、デビル化が直接死に結び付くわけではない。彼が最も恐れるのは、家族を奪ったデビルどもを斃したくてデビルハンターになった自分が、デビルになってしまうこと、そのものである。
デビルの理不尽を最も知っているはずの自分が、自我を失ってただの化け物に成り下がることなど、とても彼のプライドが許せない。最悪の場合は殺してくれと周囲に伝えてはあるが、それでも安心はできなかった。
「……今後のことだが、リーブ。発信器を受け入れる以上俺からどうこう言うことはできない。無論、規則通りに禁止事項を言うことはできるが」
「わかってますよ」
発信器が埋め込まれた腕輪を右腕につけられながら、リーブは頷く。視線はスウォルの顔へ向けられている。上司の表情は、真剣だった。
「だがとにかく言えるのは、まず何よりも『重力制御』を使わないことだ」
「…………」
「お前、昨日かなり使っただろう? いや、状況からして無理からぬことではあるが、それでももう少し加減はできただろう。そうすれば、ここまで一気に侵食率が上がることもなかっただろう」
「ええ……まあ。……はい」
耳が痛い。さすがに実働部隊長なだけはある。スウォルの指摘は、まさにその通りだった。
「だから、『重力制御』は禁止だ。わかったな?」
「……はい」
守ると確約はできないと内心つぶやきながら、リーブはがくりとうなだれるように頷いた。
重力制御。それは、デビル化の進行に伴ってリーブが身に着けた異能力だ。文字通り、重力を操作する力であり、先日雄鶏デビルが突然転倒したのも、これによる。
デビル化が起こると、その肉体の変異に並行して不可思議な能力に目覚めることがある。過去の統計からいくと、その確率はおよそ五割。この能力によって、罹患者は時に人間を超越した力を発揮することができるが、それはデビル化の進行を早めるもろ刃の剣だ。能力が覚醒して喜ばしいかどうかは、誰にもわからないだろう。
そしてこの重力制御は、このミッドランドにおいてはありふれた、かつ有用性の高い能力だった。なぜなら、地に足を着けて行動できる範囲が少なく、特殊な重力力場が無数に存在するミッドランドでは、戦闘のみならずあらゆる選択肢を大きく広げるのだ。
昨日レテナが降ってきたとき、直撃した二人を無事たらしめたのもこの能力があったからこそ。もちろん、スウォルの言う通り結果的にそれはリーブのデビル化を速めたのだが、リーブはこれでよかったと思っている。
「……そうへこむな。監視役にはうちのカイトを出してやる、いつでも頼れ」
「マジすか。……そーすね、そうさせてもらいますか……」
「よし、そうと決まったら戻るぞ。レテナ君とセンティが待っている」
「……うぃっす」
そうして二人は、いつもより控えめに話を盛り上げながらメディカルルームを後にするのだった。
今回は説明回でした。
ミッドランドの街並みと、デビルについて。倒すべき敵が自分たちのなれの果てという結末は、最近既にセオリー化している気もしますけど、ね。