2.少女が降る街
「……ん?」
リーブがその異変に気がついたのは、それからおよそ一時間後のことだ。事件自体に進展はなく、……いや、現場での進展がないということはないのだろうが、報道機関に情報が回っていないだろう。
ともかく、そうして動きが見えないまま、空を見つめ続けていた彼の視界にそれは映ったのである。
空の彼方。どこまでも広がる青い空の中に、一つ黒い点が浮かび上がったのだ。そしてそれは、現在進行形でだんだん大きくなっている。
「……なんだ?」
リーブは身体を起こし、それを注視する。すると今度は、何やら甲高い音が彼の耳に届いた。
――何が起きてる?
彼は内心でつぶやきながら目を凝らし、それから耳に届く音にも気を配る。
「……ぁぁぁぁああああーっ!!」
それは、どうやら人の声のようだった。そして、どうにも悲鳴のようにも聞こえる……。
それを認識すると同時に、ようやく黒い点が何かわかる大きさになった。それは、間違いなく人だった。どうやら女の子らしい。女の子が、落ちてきている。
どういうことだ。リーブはその言葉を口にすることもできなかった。あまりにも突然すぎて、思考が止まってしまっていたのだ。
「……やっべぇ!」
しかし、さすがにそんなことをしている場合ではないと彼は我に返る。このまま放っておけば、あの少女がここに直撃コースで降ってくることに気づいたからだ。
が、気づいた時には既に遅く、少女はすぐ目の前にまで迫ってきていた。
避けられない!
そう判断したリーブは、とっさに自らの能力を発動させた。彼の黒い瞳が、一気に青く染まる。と同時に、彼は激しい衝撃に襲われた。
「ぬがあっ!?」
思わず悲鳴が口をつく。しかしそれで衝撃がなくなるわけではなく、そしてそれはリーブが思っていたよりも強いもので……結果、彼は激突されたその衝撃のまま、自身がくつろいでいた屋根を突き破り、階下に落下する。
それでも勢いはなくならない。さらに彼は自身が住む家の床をぶち抜き下の階へ落下、派手な音を上げながらその次も、そしてその次の部屋も、そしてその先の部屋も、さらにさらにさらに! という具合で彼は落ち続ける。
「ぬわーーーっっ!!」
建物という建物を貫通し、さらには階層を構成する基礎部分を横目に通過しながら、もう一度建物をぶち抜き、……それを数回繰り返し、彼は思考を許されることなく、ミッドランドの下層部へと墜落していくのであった。
しかし、かといって黙って落下し続けていたわけでもない。いや、もちろん叫んだりしていたからそうというわけではない。彼は、自身が持つ異能力を駆使して、落下速度と衝撃を殺し続けていたのである。
落下の衝撃でミキサーにかけられた肉の塊みたいにならなかったのは、このためである。ついでに言えば、何の抵抗も見せず建物を貫いたのもこのため。別に、ミッドランドの建物がなまっちょろいわけではない。
そして落ちること数分。彼は名も知らぬ哀れな一軒家の中に突っ込み、そこの床板にめり込んだところでようやく止まった。実に過酷な空中遊泳と言えよう。
「……っだあーー!」
しばらくめり込んだまま沈黙していたリーブだったが、ほどなくして復活した。周辺に転がる破片などをまき散らしながら、節々が痛む身体を起こす。
「くっそ! なんだってんだおい!? どこのどいつだちくしょう!」
悪態をつきながら、身体の調子を確かめる。とりあえず痛みはするが、致命的なけがは負っていないようだ。とっさに使った異能力が功を奏したらしい。
こうやって状況に混乱しつつも冷静な判断も忘れないのは、ひとえに彼がゼロ課で戦い抜いた経験が生きているからだ。
しかし、さすがの彼も自分に覆いかぶさる形で気絶している少女に気づいた時は、混乱に身をゆだねるしかなかった。とはいえ少女が目を覚ます気配はなく、そのまま時間が経過していくに従って、彼は少女を観察する余裕を獲得する。
が、少女に別段変わったところは見られない。人間以外の種族もミッドランドには多く住んでいるが、どこからどう見ても人間だ。年の頃ははっきりとはわからないが、リーブは自分と同じかあるいはその前後数歳くらいと推理する。こちらも目立った怪我がないので、彼のとっさの判断は本当にうまくいったようだ。
気になる点と言えば、少女の顔に既視感を覚えることか。初対面のはずだが、見たことがあるような気がしてならない。一体どういうことだろうかとリーブは首を傾げた。
「……まあ、考えても仕方ねーか。上の階層から落ちてきたことは間違いないんだろうし……」
疑問を棚に上げながら、彼は落ちてきたところを見上げる。ぽっかりと空いた穴の彼方には、黒々とした建物の影が幾重にも重なっていて、自分がいた第七階層はまったく見えない。数階層は落ちたようだ。
ミッドランドは、全十階層で構成されているタワー型の都市国家だ。一階層は一つの大規模な自治体としてまとまっており、階層が変われば言葉や文化も変わる。いわば州や県だ。一階層の高さは五百メートルであり、つまり最上の第十階層は、五千メートルに達する高度に存在することになる。
ここでは基本的に、上に行けばいくほど裕福だ。第七階層に住むリーブはかなり裕福な立場にあると言えるが、それはゼロ課に所属する故の特権があってのことで、別に彼自身が上流階級の生まれというわけではない。
しかし、それよりも上の階層から落ちてきたということは、この少女は上流階級か、あるいはなんらかの要人という可能性がある。そう考えると、相応の対応をしたほうがよさそうだと考え直すリーブ。もっとも、気絶している女性を無下に扱えるほど、彼は冷血な人間でもないのだが。
とりあえず、この状態で目を覚まされると勘違いされること間違いなしなので、ひとまず彼女を床に横たえる。
「しっかし……なんで落ちてきたかな。飛び降りたって、アトラクションにしかならねー国のはずだがなあ」
床にあぐらをかいて、リーブは思案する。静かだった。まるで人の雰囲気を感じない。もう一度空を見れば、建物との間で鳥が飛んでいた。
ミッドランドはその構造上、真下が空ということはよくある話である。しかし仮にそこから落ちたとしても、諸事情で死ぬことは滅多にない。落下速度は自由落下を大きく下回ることがほとんどだし、何より死ぬ前にどこかに着地するのだ。加えて、階層は下に行けばいくほど広くなる。だから、階層を越えての落下は滅多に起こらない。そして最悪階層を貫いても、今回のように無事というケースもさして珍しくはないのだ。
当然ながら、住人はそれを心得ている。だからこそ、この国では空からヒロインが降ってくることで始まる冒険活劇は存在しない。さすがに、今回のように上が見えないところからは珍しいと言えるが、人が降ってくること自体はわりとよくあるからだ。物語の冒頭を飾るには、インパクトが低い。だからこそ、そんなシーンは描写されないのだ。
では、なぜ少女は空から降ってきたのか? リーブは頭を回転させる。
ミッドランド人に限らず、高所から飛び降りるなんて普通はしないので、意図したわけではないだろう。かといって、殺す目的で高所から突き落とすのはこの国ではありえない。
「いや、外国人がたまにそういう殺しをやろうとして失敗してるか……」
この少女は要人であり、それを他国の殺し屋が突き落すことで暗殺しようとした……そう考えれば、一応の説明はつきそうだ。それで自分を適当に納得させることにするリーブ。
一通りの思考を済ませたところで、懐から端末を取り出す。位置情報を確認して、速やかに自宅に戻るのだ。しかし、画面に表示された番地を見た彼の顔は渋かった。
「第二階層南部地区って……おいおい、事件の真っただ中じゃねーか」
先ほどのアラートが知らせてくれた、警戒地域だったのだ。だから人の気配がないのか、と彼は内心で続ける。
デビルが出現し、それを告げる第一種警戒通報が発せられると、人々はシェルターへ避難する。それがこの国の常識であり、この国で寿命をまっとうしたいなら第一に心がけることでもある。デビル事件は多ければ毎日あり、それに襲われて死ぬ人間は年間通しても事故や殺人よりも圧倒的に多い。危険からは逃げるのが一番なのだ。
リーブ自身は、戦闘力については多少の自信がある。しかし今は療養中であり、おまけに身元不明だが恐らくは要人と思われる人物のおまけつき。できれば戦いたくない。
「とりあえず……救援依頼でいいか。ああ、その前に探知機をオンにして……」
というわけで、消極的ではあるが上司にお伺いを立てることにした。どうせ、事件がここで起きているなら近場にいるだろう。実際、返信はすぐに来た。
『事情はわからないが、わかったよ。ちょうどセンティが近場を警邏してるから、向かわせる』
「さすがスウォルさん、話が早い」
思わず笑みが漏れた。上司――スウォル・リンフォルツァントは実にできる男であり、頼れるナイスガイなのだ。
一応の準備は整った。あとは、何事もなければいい……のだが。
「……世の中、そんな都合よくできちゃいねーよな」
彼は小さくため息をついた。懐の端末が振動していた。先ほど作動させた探知機が早くも活躍した形だ。
振動の振れ幅から言って、デビルがかなり近くにいる。その確信を得て、リーブはいまだ気絶している少女をお姫様抱っこすると、一目散にその場を後にした。
「あんな狭い屋内で襲われたらたまったもんじゃねえ。まずは万一に備えて、戦いやすいところに戦略的撤退だ」
表に出てみれば、街は完全にゴーストタウンと化していた。警報は止んでいるが、逆に言えばそれは、住人の避難が完全に終わっていることを意味する。少なくともこの地区には今、本当に人っ子一人いないはずだ。
簡単に周辺に目を配る。それから探知機の動作と照らし合わせて、デビルがどちらにいるかを確認。そしてそれとは反対方向にリーブは足を向けた。
表通りの商店街に入る。その段階で、彼は迫りくるデビルの速度が、自分よりも速いことに気づいて舌打ちした。そしてそれとほぼ同時に、直前走り抜けた焼き鳥の屋台をぶち壊して、そいつは現れた。
「ゴケエ゛エエ゛ェェ!」
耳をつんざくけたたましい鳴き声と共に現れたそれは、
「……なるほど、養鶏場から出たって情報はマジらしいな」
青いとさかと、強靭な脚を持った鶏だった。あれで蹴られたら、大けがでは済まないだろう。日光を反射するくちばしは鋭利で、さながら剣か槍か。明らかに普通ではない。さらに言えば、そのサイズは明らかにメートルを超えているので、伝承に言うところのコカトリスなどの名前で呼んだほうがそれらしいかもしれない。
デビルだ。青い鉱石――星屑に、身体と心を奪われたもののなれの果て。身体を作り替えられ、自我や本能すらも破壊されたそれらを、最初にデビルと呼んだ人間の心境は察するに余りある。
が、リーブは慌てない。彼とてゼロ課の実働隊員。デビルハンターとして、それなりに修羅場は潜り抜けている。トカゲの危険種がデビル化し、ドラゴンみたいになったヤツと渡り合ったこともある。若いなりに経験は豊富なのだ。
走りながら、彼は考える。
(スピードは圧倒的に向こうが上……地の利もない、か。おー、なかなかやべーなこれ)
後ろから、手当たり次第に障害物をブッ飛ばす音が響き、実際飛ばされたいろんなものがこちらにも飛んでくる。それらをすんでのところで回避しながら、どうやら使いたくはない能力をまた使う必要がありそうだと結論付ける。
そう考えたところで、
「きゃあああぁぁぁ!!」
「うおああっびっくりした!」
胸元から爆音、もとい悲鳴が鳴り響いた。あまりの声量に耳をふさぎたくなるが、彼の手は両方ともその元凶を支えることに全力である。
「何!? え、ちょっ、なっ、何が起こってるの!?」
少女が目覚めていた。彼女にしてみれば、混乱するなと言うほうが無理だろうから、リーブはため息をつくにとどめる。
「起きたか……もうちょっとだけ気絶しといてほしかったがな」
「へ!? え、あ、誰!?」
「わりーが、あんたと会話してる余裕はない。それと、ちょっくら激しく動くから……」
その言葉と共に、リーブの瞳がざわりと青く変わった。
「……えっ?」
「口は閉じとけよ! 舌噛むぜ!」
と同時に、彼は眼前に迫っていたアーケードの脇、その柱を思い切り蹴った。そしてそのまま、後ろに倒れ……ず。彼の両足は、大地を踏みしめるのと同じようにして、その柱を思いっきり駆け上がっていく!
「えええええーーっっ!?」
少女がまた悲鳴を上げる。とはいえ、今度のものは恐怖ではなく驚きに寄った色。まあ、無理もない。リーブは今、明らかに重力を無視した運動をしているのだから。
そんな二人の眼下で、鶏デビルが柱に激突し、こてんと倒れる。スピードを下げることはできなかったのだろう、しばらく動く気配はなかった。
その隙に、リーブは一気にアーケードの天井上へと登り切り、さらにそこを駆け抜ける。
「はいよーっ!」
「えええええーーっっ!?」
今度は、大きく跳躍して雑居ビルを一つ飛び越える。
「う……嘘でしょ!? 嘘でしょそんなのおかしいわよ! 何が起きてるのよーッ!?」
そして彼が着地した先は、越えたビルの先にあるビル。の、壁だった。そのまま彼は横に走り、違うビルの壁に飛び移り、そしてそこから屋上へと走っていく。
「よーし、ここまで来れば充分だろ」
屋上まで登り切って、リーブは一息ついた。そして、都合よくあったベンチに少女を座らせる。いつの間にか、彼の瞳は黒に戻っていた。
「……っ、……っ」
少女は、もはや声も出せないようだった。瞬きすら忘れ、目を白黒させながら胸を押さえて必死に息を整えようとしている。
一方のリーブはというと、周囲を見渡し状況を確認することを怠らない。そんな彼の視線が、自動販売機を発見する。どうやら、ここはオフィスビルか何かで、ちょうど休憩などに利用できるようにしてあるのだろう。
そして彼は、迷わず端末を自動販売機に当てて二人分の水を購入した。小型のペットボトルががらんがらんと落ちてくる。
「ほい」
そして一つを、少女に手渡す。
「あ……。ん、あ、ありがと……」
彼女はそれを受け取って、中身を一気にあおった。
「……ぷはぁっ。あー、……あー、もう、何が何だかさっぱりだわ……」
「まあわからなくもないけどな……」
リーブも、自分の分に口をつける。
「とりあえず、今後のために名乗っとく。俺はリーヴェット・クレスシェーン。リーブでいい。一応、ゼロ課実働部主任」
「はあ……?……あ、あたしレテナ……」
「ん。よろしく」
「ぶしつけだけど、何がどうなってるの?……っていうか、あたし、生きてるのよね? これ、夢じゃないのよね?」
少女――レテナの問いに、リーブは頷く。そして、とりあえず自分が把握している限りの状況を簡潔に口にする。
「お前は突然空から降ってきた。で、俺に直撃して、色んなもの突き破って一緒にここまで落ちてきた。怪我がないのは、俺がいろいろ制御したから。こんなところでいいか?」
「そ、……や、やっぱりあたしが空から落ちたのは間違いないのね……」
「おう。さすがに上層部の影がないところで人が落ちてきたのにはびっくりしたぞ。お前、どっから来たんだ?」
「知らないわよ、気づいたら空にいて、落ちてたんだから!」
「……はあ?」
その発言に、リーブは思わず口が開いた。記憶が混乱しているか、あるいは何かの演技か何かか。そう思いながら。
「あ、ちょっ、信じてないわね!? 本当なのよ! 飛行機でくつろいでたら、いきなり目の前が真っ暗になって、それで……それで、気づいたら落ちてたの!」
だがレテナの次の言葉に、彼の表情は一転してシリアスなものになる。聞き覚えのある言葉があったからだ。
しかしレテナはというと、その変化がより疑念を深められたと思ったらしい。混乱した様子で、わたわたと手を振ったり立ち上がったりして、なんとか信じてもらおうと口を動かす。
「いやあの、そりゃ、わかるけど! でも、本当で、信じてほし――」
「大丈夫だ、その話信じる」
「そうよね!? 気持ちはわかるわ、あたしだって逆の立場なら、……え?」
一転して硬直し、目を白黒させるレテナ。そんな彼女に手振りで座れと促しながら、リーブは懐から端末を取り出す。
「一応、確認させてくれ。お前、出身国は?」
「へ? あ、アメリカ、合衆国……」
端末にその国名を入力しながら、彼は確信する。その国は、この世界には存在しない。そして、端末も同様の答えを導き出した。
「やっぱりそうか……」
「……どう、いうこと?」
「お前、この世界の人間じゃねーな」
「……は……?」
リーブの言葉に、今度こそ完全にレテナはフリーズした。
メインヒロイン登場です。それと申し訳程度のバトル? 要素。
次話はちゃんとバトルします。