0.スタート・アゲインスト
けたたましい音が鳴り響いている。それは否が応にも神経を粟立たせ、この音の聞こえないところに行きたいと思わずにはいられないほど激しい。
そう。これは危険を告げる警報。音の聞こえないところへ、一刻も早く逃げろ。そんな意味を持った、非常に強力なもの。
この街に住むものならば、この音が意味するところは誰でもわかる。それこそ条件反射として、生まれたときから身体の奥底にまで刻み込まれた、一種の原体験とすら言える。
しかし今、大きく壁をえぐりとられたアパートメントの一室にへたりこむ少年には、その警報は届かない。いや、届いてもなお、そこから動けない理由がある。
少年の目の前には、巨大なモノがいた。遠目に見れば、二本足で立つそれは、人間のように見えなくもない。しかしその全身は、筋骨隆々というにはあまりにも大きく盛り上がり、野太い四肢は丸太という比喩すら足りそうにない。その顔と思われる場所は、青白い石らしきものが鱗のようにびっしりと覆われていて、その奥底からのぞく、これまた青白くて丸い光が、いかにも異形じみておぞましい。
そんな化け物の両腕には、二人の人間が握られていた。原型をほとんどとどめていないが、手の隙間からだらりと垂れ下がる四肢の形状から、男女であることはかろうじて見て取れる。唯一、平時と変わらず光を供給し続ける部屋の明かりが、二人の男女を、そして異形を無慈悲に照らしていた。
この男女が、今この場で言葉をなくした少年の両親であろうということは、想像に難くない。
警報が、鳴り続いている。
異形は、圧殺した二人を壁に投げつけた。その衝撃でアパートメントは大きく揺れ、部屋の壁には大きな亀裂が走る。
「ひ……ぅ、あ、あ……」
ぎろり、と少年をにらみつけた青白い丸に、彼は悲鳴にもならないかすかな声を絞り出した。それは恐怖という、生物としての本能だったが、彼にはそれしかすることができなかったのだ。
異形が、のたりと少年ににじりよる。品定めでもしているかのように、小さく小首をかしげながら。
「壊……ス……。ゼン、ブ……」
そして、そのたどたどしい言葉と共に、異形が片腕を大きく振り上げた。次の瞬間、それが少年の頭上に振り下ろされるであろうことは、その場を目撃したものがいれば誰でも想像がつくだろう。あの分厚い肉の塊が降り注げば、少年の華奢な身体など、ひとたまりもないことも。
少年は、ただその掲げられた腕を見つめることしかかなわない。
そして――無慈悲な鉄槌が、振り下ろされる刹那。火薬の炸裂音が周囲に連続して響き渡った。それとほぼ同時に、異形の腕が大きく方向を変え、その勢いはさらに、異形の身体のバランスさえも崩した。
地震と勘違いするほどの地鳴りを響かせて、異形が床に倒れる。
「そこまでだ!」
異形が倒れることに遅れて、コンマ数秒。穿たれた壁から、一人の男が現れた。左手には中口径の拳銃を、右手には黒い刃の剣を。そしてその銃口は、まっすぐに異形へ向けられている。
「デビルよ、そこまでだっ。これ以上は、絶対に許さないよ!」
銃口を異形――デビルに向けたまま、男は油断なくゆっくりと部屋の中に入ってくる。その姿を少年は、デビルを見つめるそれと同じ、信じられないものを見る目で見つめていた。
警報が、鳴り続いている。
その中で、男の持つ拳銃が連続で火を吹いた。連鎖する射撃音は等間隔で、そこにためらいは一切感じられない。
そして、放たれた銃弾はいずれもデビルに命中し、その巨体から血が吹き出す。その色は、青。
「むむっ、タフだね!」
しかし、それだけの攻撃を受けてなお、デビルはゆらりと立ち上がった。ダメージを受けていないのか、それともそのダメージを感じていないのか。
いずれにしても、全弾使いきってしまった男には、弾を補充する時間が必要。だが彼の両手は空いていない。片手のみでマガジンを入れ替える技術を持っている彼ではあったが、どうしても隙はできてしまう。その一瞬の隙に、デビルは一気に男との距離を詰め、その野太い腕で男の肉体を殴り抜けた。
「ぐ……ッ!」
骨が折れる鈍い音と、肉が裂ける低い音が響いた。同時に、男が手にしていた剣が宙を舞い、少年のすぐ後ろの床に突き刺さる。
男は、すばらしい動きでデビルの攻撃を剣で防いでいた。刃にデビルの拳が吸い込まれ、勢いに任せていたその腕は、まっぷたつに裂ける。しかしそれでもなお、デビルの攻撃はとどまることを知らず、男の左腕に直撃したのだった。
「だ、……だが……これで……ッ!」
攻撃の衝撃が収まり、デビルが次の攻撃に移ろうとした、刹那。男はデビルの頭部に、装填を完了した銃を当て、引き金を引いた。
轟音、轟音、そして轟音。
ゼロ距離で放たれた複数の銃弾は確かにデビルの頭を撃ち抜いた。何発も連続した銃撃の威力は増幅して跳ね上がり、デビルの頭は成長しきったザクロのように破裂する。青い血と、青い石が砕けて飛び散る。
そのままわずかな間、デビルの身体は静止していた。しかしほどなくして、頭という中枢を失った肉体は静かに後ろへと倒れ伏した。またしても、地鳴りが響く。
「……ふう」
デビルが死んだことを確認して、男は小さくためいきをついた。
それから彼は、ずっとその場で呆然としていた少年に歩み寄ると、身を屈めて、視線を少年のそれへ重ね合わせる。
男の瞳は、鳶色をしていた。
「……君、大丈夫だったかい?」
そして男は、優しく。努めて優しく、少年に声をかける。
その言葉に、少年はそれまで切れていた感情が一気に押し寄せてきたのだろう。
恐怖と、怒りと、悲しみと、憎しみと……ありとあらゆる負の感情を一つに凝り固められて、少年の心を打ち鳴らす。
「うわあああーっ!!」
そして少年は、大声で泣いた。泣くと同時に、男の身体にすがりつく。
そこにあるのは、親しんだ両親の身体でもなければ、その香りすら、かすかにもあるわけではない他人の身体だ。
けれども、今の少年には、寄りかかる壁が必要だった。すべてを失った少年にとって、それはどんなものでもよかった。
ただ、少年にとって幸いだったのは、そこにあった壁が人であり、また良心の持ち主だったということだ。
「……すまない。もっと……もっと早く、来ることができたなら……」
男の瞳が、後悔と謝罪の色で曇る。そして、無事な左手で、少年を抱きすくめる。
「ごめんよ……君を……君の家族を……守れなかった……。どうか、どうか許してくれ……」
警報が、鳴り続いている。
その音に負けないくらいの声で泣き叫ぶ少年の後ろで、床に突き刺さったままの黒い剣が――決して光を反射するはずのない剣が、部屋の明かりを受けてかすかに光った……。
プロローグになります。
本編は次からです。