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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼姫伝/序の幕 白髪の修羅

作者: 木津寝伸二

以前、ゲームの二次小説として書き下ろしましたが、そういった要素を除いて武侠小説として書き直してみました。

お楽しみいただければ幸いです。

また作中に歴史上の人物や実際の地名が登場しますが、この物語はフィクションであり、事実とは何の関係もありません。


2013/06/20追記

文中に多数の武侠小説の用語が登場する為、後書き部分に用語解説を追加しました。読者の皆様の参考になれば幸いです。

 仏法に六道(りくどう)、即ち心の有様を指し示す(ことわり)在り。

 天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を持って人は輪廻する物也。

 

 修羅道を歩みし者、常に世の争いと戦の中に身を置く物也。(しか)して艱難辛苦(かんなんしんく)現世(うつしよ)に在らず、その心の内にある物也。


 時は明崇禎(すうてい)九年(一六三六)初夏。


 稲妻が山の稜線を浮かび上がらせ、雷鳴が響き渡る。

 空を全て覆い尽くすように、分厚く立ちこめた雲は一切の光源を遮断し、 真の夜の闇が見渡す限りの大平原を支配している。吹き荒れる雷雨はまるで大地の全てを押し流さんとするかのような勢いだ。

 そんな中、闇の中から生まれ出たのではないか、と錯覚する程美しい毛並みの黒馬が、雷光にその輪郭を浮かび上がらせながら、向かい風とは思えぬ速度で飛ぶように駆け抜けていく。

 その背には同様に真っ黒な雨具を身に付けた騎手が跨っている。この周囲で遊牧民として暮らし、馬や羊を追う者たちでも舌を巻くような凄まじい手綱捌きだ。ぬかるんだ泥土を物ともせず、黒馬は風雨の中を突き進んでいく。

 いや、仮に見る者があるとすれば、それよりなによりこんな状況で旅する騎手の正気を疑ったに違いない。

 平原といっても、そこには街道が走り、行商や旅客の馬車も走っている。道筋には少ないが雨露を凌げる旅宿もある。いくら余程の事情があるとしても、視界を塞がれたような状況で馬を駆るのは自殺行為としか思えない。

 だがしかし、実はここ半年程前から、日中にその周辺で旅の一行が行方不明になったり、近隣の住民が身包みはがされて無残な屍となって見つかったり、という事件が後を絶たなかった。

 特に酷いのは陜西省の西南、甘粛省とを隔てる邽山(けいざん)の麓にあった集落を襲った惨事だ。家屋は焼き払われ、住民十戸二十六名、老若男女問わず全て皆殺しになり、亡骸は村外れに掘られた穴に裸で投げ捨てられていたという。

 これに対して陜西をはじめ周囲の自治区から憲兵による調査団が三度派遣され、また名を挙げようとする武侠達のグループがいくつか旅立っていったが、そのどれもが同じ邽山付近で消息を絶ち、誰ひとり帰らなかった。

 そうして、ここ数カ月の間は誰も寄りつこうとしなかった土地に、今その漆黒の騎手が現れたのである。

 やがて山西省から陜西省に入り、街道をしばらく南南西に走った所で、騎手は手綱を引いた。

 雷光が辺りを眩く照らし出したほんの数瞬の間に、道の脇に立つ大きな(けやき)の木が見えた。その根元まで、馬をゆっくりと歩ませる。

 木の高さは三十メートル、直径ニ十メートルといった所だろうか。街道を覆う程枝葉を伸ばし、その青葉が強風に激しくざわめいている。

 騎手がそれを見上げていると、再び雷光が閃いてその全容をまばゆく照らし出した。

 その枝の先に、二十個程の大きな実のような物がぶら下がって揺れていた。

 勿論、欅に実など付く筈がない。

 それは行方不明になっていた調査団、剣侠達の生首であった。ある女の頭はその黒髪で吊るされ、モンゴル髭を蓄えた男は太い枝に後頭部から鼻梁まで串刺しにされていた。

 その内の一つ、未だ幼さを残した十五、六の少女の濁った瞳と、騎手の視線が重なった。死ぬ間際に何を見て、どのように死んだのか、その表情は苦悶を浮かべたまま固まっていた。

 なにかがポロポロとそれから零れ落ちて地面に転がる――肥え太った蛆虫だった。

 騎手はそれをしばらく見つめた後、手綱を操って方角を変え、馬を一気に加速させた。主従一体となったその黒影は、まるで放たれた矢のようだ。

 目指すは陜西の方角のさらに延長上、邽山――。


 邽山の山肌にへばり付くようにして、その集落はあった。

 名はない。ここ一年程前に出来たばかりの小さな隠れ里だ。

 約二十戸のあばら屋のような小さな家が輪になって立ち並び、中心にそれを六つ程繋げたような二階建て家屋が一軒ある。どの家からも灯りが漏れていたが、山里に面した窓は全て塞がれていた。

 住人達はいわゆる山賊、強盗の類で、各地から流れて来たならず者の集団だった。当然最近起きている事件もこの一団の仕業である。

 度重なる戦で住む場所を追われて喰いつめた百姓や客商売の者たちもいたが、その大部分がかつて兵士として朝廷軍に仕官した者たちだったが、四年前の一六二七年、時の実権を握っていた宦官魏忠賢(ぎ・ちゅうけん)が誅殺され、ホンタイジが一気に勢力を拡大すると同時に職に焙れた武侠のなれの果てだった。

 中には武勇に秀で武林(ぶりん)だけではなく広く江湖(こうこ)に名の知れた者達も少なくなかったが、今彼らに共通しているのは、誰もが侠気など微塵も残っていない事だ。仲間内でも盗みや殺しを平気でやるような外道に落ちぶれてしまったのである。

 今、そのほとんどの住民が、村の中心にある唯一の酒場兼雑貨屋に集まり、酒宴に興じている真っ最中だった。華北から西北へと向かう輸送団を襲い、金目の物からそうでない物まで、全て剥ぎ取って皆殺しにした後の祝勝会、といった所である。

 吹き抜けの店の二階、全てを見下ろせる丸机に、まるで巨岩から削り出したような大男が座っていた。

 ただそこにいるだけで、暴力的な雰囲気を周囲に発散している。この男こそ集団の頭目、名を窮奇(きゅうき)という。

 その名はかつて、『双鎚の使い手』、『徳の高い修真者』として大陸中に知れ渡っていた。

 しかし、或る日露西亜(ロシア)と内蒙古(モンゴル)自治区の狭間にある朱箕(しゅみ)へと仲間達と冒険に出かけ、窮奇ひとりが戻ってきた時から、それは英雄ではなく血も涙もない殺戮者の代名詞となった。

 古来から朱箕の山々には仙人達が暮らしている、という言い伝えがあり、未だ近隣の者達の間にそれを信じる者も多かった。また同様に妖怪が出没するという噂もまことしやかに囁かれており、何人(なんびと)も入る事の許されぬ霊峰であるとされていた。

 なのに窮奇達がそこに踏み入ったのは、彼が絶対的な忠心をもって仕えていた、名将袁崇愌(えん・すうかん)が冤罪を仕組まれ、数日を経ずして処刑されるやも知れぬとの報を受けたからだった。

 袁崇愌は義侠心に秀でた名君であった為、配下の兵は勿論、世の侠客や臣民からの信頼も厚かった。その為、ホンタイジからしてみれば国を平定するのにどうしても邪魔だったのである。

 主君を捕らわれた臣下達は、主を救おうとあらゆる万策を尽くした。しかし処刑までの日取りが一日、また一日と迫っても冤罪を払う証拠は見つからない。

 そんな最中(さなか)に窮奇達が朱箕山を目指したのは、もはや神頼みにも近い一心からであった。常人では見破れぬ罠も、数千年を生きる仙人ならばその法を見破れるかも知れぬという願望からだった。

 そうして、朱箕に入った彼に何があったのかは誰にも判らない。だが、窮奇は山から下りた晩に麓の民家で一夜を過ごした後、翌日家の者を皆殺しにして行方をくらませた。


 袁崇愌の処刑が実行されたのは、その二日後の事である。


 以来、大陸各地で巨大な双槌を持った凶人による殺人や強盗といった事件が相次ぎ、遂にはお尋ね者として賞金を懸けられ追われる身となったが、逆に追手の全てを返り討ちにして大量の屍の山を築くという有様だった。

 一度だけ天津市の廃屋に潜伏している所を追いつめられ、木桑道人(もくせいどうじん)という軽功(けいこう)暗器(あんき)の達人との一騎打ちに敗れて左目を失い捉えられたものの、その翌日には牢を破って逃走した。

 生半可な腕では到底敵わぬ、この妖怪に勝るとも劣らぬ殺人鬼は、やがて旅の道中で悪人共をかき集め、人里離れたこの邽山山中に遂に拠点を作ったのである。

 当初は五十名程の大人数だったが、無茶な襲撃や村への焼き打ちを行っているうちに数を減らし、半数の二十と五名の猛者だけが残った。その妻や夫、子供たちを含めた三十八名がこの集落の住民だった。

「さ、(かしら)。一杯やってください」

 どんよりと曇った隻眼で、階下の部下達のどんちゃん騒ぎを見るともなく見つめていた窮奇が声の方へ振り返ると、彼の右腕、泰楊(たいよう)が酒壺を掲げてこちらに媚びるような視線を送っている。

 酒杯を差し出し、泰楊がなみなみと注ぐと、窮奇はグイとそれを一息で飲み干し、その腰を抱き寄せた。彼女は嫌がる素振りも見せず彼の太腿に腰を下ろし、逆にこすりつけるように尻を捻った。

 そうしておいて窮奇の瞳を見つめたまま顔を仰向かせて長い舌を突き出し、酒壺を傾ける。放物線を描いて零れた酒が口から溢れて顎を伝い、襟ぐりの大きく開いた服を濡らして豊かな胸の谷間に水貯まりを作った。

 そのあまりにも淫蕩な眺めに窮奇は鼻を鳴らし、女の胸に顔を埋めて舌先で酒を啜った。泰楊が鈴の転がるような笑声を洩らす。

 泰楊は元々この大陸の遥か南、ボルネオ島北部、ブルネイに巣食う海賊の頭目の娘だった。

 その異常な性癖は、幼い頃から周囲の者達を震撼させる程だった。

 兎に角、人間や畜生を問わず、生き物をジワジワと嬲り殺す事を何よりの悦びとしていた。体のどこかを切り取って、それが長く苦しめば苦しむ程異様に興奮する、生来のサディストだったのである。

 その心の醜さと裏腹に、泰楊は誰もが目を奪われるほどの美女に成長していった。しかも大層な知恵の持ち主で、誰も何も言わない内からひとりで広東省の港や漁村へと渡り、漁師や商船の乗員から航路を聞き出してくるようになった。

 そこに罠を張って誘い入れる手際には思わず父親も舌を巻いた。娘が船に乗るようになってから、年の稼ぎが月で稼げる程だったのである。

 しかしこの毒婦が、相も変わらず海賊達とその家族から厄介者扱いされているのは変わらなかった。

 白旗を上げて無抵抗に積荷を差し出すのであれば、いかな海賊であろうと命まで奪いはしない。下手に事を荒立て追手がかからぬように、という保身の為ではあるが、『盗みはしても人殺しはしない』、というのが彼等の暗黙のルールだったのだ。

 だが泰楊は違う。相手の船に乗り込み興奮すると、是が非でも血を見ずには収まらないのだ。なんの力もない女子供にまで斬りかかるものだから、手下たちがそれを止めようとするとこちらにも襲いかかってくる有様。現に手足を斬り飛ばされた者も多く、一人の若衆が手当てが間に合わず死に至った事もある。

 頭目である父親にも面子がある為、ほとほと困り果てていたのだが、そんな折に追手の目を逃れる為、窮奇がブルネイへと渡って来た。

 その大男と賭けに興じた際、その形に娘をよこせ、と申し入れてきた時には、内心しめたと思ったものだ。あとは絶対に勝てない出鱈目な手さえ出せばよかったのである。

 突然現れたどこか狂人めいた雰囲気を漂わせる大男に自分の身柄が奪われたと知っても、泰楊は恐れるどころか逆に面白がって自分から付いて行った。故郷や家族への名残など欠片もない女だった。

 それからの泰楊はまるで水を得た魚のようだった。窮奇の行く所、血の流れない場所はなかった。しかも彼女が一緒になって残虐な行為に耽り始めると、この大男は大笑呵々(たいしょうかか)として喜んだ。

 それから数年経ち、窮奇が徒党を組み手下を使うようになると、改めて泰楊はその才覚を現わしていった。ただのボスの女から参謀役にのし上がっていったのだ。

 生まれ故郷のように疎まれる事もない。それどころか泰楊がその残虐性を示す度に、手下共は怯え敬ってくれるのだ。彼女にとっては今がまさにこの世の春といった風だった。

 窮奇が唇を求めてくると、泰楊は口を開けて自分から舌を差し込んだ。彼の牙のように太い犬歯を舐め上げると、思わずブルリと全身が震えた。彼女はこの獰猛な男を心の底から愛していた。


 建物の外で荒れ狂う風に、ガタガタと音を立てていた入口の両扉がいきなり開いた。

 突然吹き込んできた雨と凄まじい風音に、思わずその場に居合わせた者全員が声を失って目をやると、そこには全身をすっぽりと黒い雨具で包んだひとりの人物が立っていた。

 顔は布切れの影になっていて見えない。僅かに覗く口唇の白さが、身に付けた黒と相まって異様に際立っていた。

 漆黒の騎手は首を左右に振って店の中を見渡すと、客達に背を向けてドアを閉めた。

 盗賊たちがあまりに異様な風体に呆気にとられている間に、騎手は床を鳴らしながら部屋を横切って奥のカウンター席に近づいていった。全身から雨滴が零れ、その後に線を描く。

「酒を」

 騎手はカウンター席腰掛け、雨具の下から取り出した瓢箪を置き、短く言った。意外にもまだ若い女の声だ。

 言われた初老の店主はギョッと目を見開き、数回瞬いた後、途方にくれたように階上の窮奇の方を見上げた。面白そうにこちらを窺っている泰楊とは逆に、彼は面倒くさそうに顎を立てに振って見せた。

 店主が瓢箪に樽から酒を注いでカウンターに戻すと、女は栓を抜いて直に口を付け、数回喉を鳴らした。さも旨そうにふうっ、と息をつき、そのまま周りの空気などお構いなしにチビチビとやり始める。

 無言のまま動揺、殺意、緊張といった感情が渦巻く中、ついに泰楊が堪え切れなくなった様に声を上げて笑い始めた。

「あははは、あぁ可笑しい。人殺し共が急に借りて来た猫みたいに黙りこくっちゃって――(ねえ)さん、こんな山の中になんの用か知らないけど、いい度胸だねぇ。周りの野郎どものツラを拝めば、尋常じゃない場所という事ぐらい分かるだろうに」

 その声が聞こえてないかのように、女はカウンターに両肘をついたまま瓢箪を傾けていた。その背中には緊張もおびえも窺えない。

「おやまぁ。本当に大した度胸だねぇ」

 こちらも更に面白い、といった風情で泰楊が窮奇の膝の上で身をくねらせる。

「でも、そんなにつれなくしないでおくれなぁ。ね?

 それにいつまでも店の中でそんなボロ布ひっかぶってるもんじゃないよ。素敵なお顔を拝ませて頂戴な」

 女がスッと瓢箪を左手で持ち、店主の方へ差し出した。そのまま左右に振ってみせる。どうやらもう空になってしまったようだ。しかもまだ飲み足りないらしい。

「女ァ!! ふざけるんじゃねぇぞっ」

 怒声を張り上げたのは、入口に近い卓に付いていた弓使いの若者だった。顔の右半分は如何にも年頃の若者らしい美しい顔をしていたが、左半分は醜く焼け爛れている。その年齢とは関係なく、それ相応の修羅場を乗り越えてきたのだろう。

 姿同様精神まで病んでしまったこの男は、泰楊を恋慕しており常日頃からまるで女神か何かのように信奉している事で有名だった。

「泰楊の(あね)さんが脱げって言ってるんだ、さっさと脱がねぇかっ」

 全員の視線が女に集中する。いつもなら若者の言葉に迎合して声を上げるより早く相手に殴りかかるような手合いばかりなのに、何故か緊張して動けない。

 外道たちと言っても、かつては戦闘のプロだった連中だ。その内なる本能がこう囁くのだ。

 この女はヤバい、と。

「ようし、俺が剥ぎ取ってやらぁっ」

 周囲の仲間達の様子に気づきもせず、若者は椅子を倒して立ち上がり、音を鳴らして女の方へ向かって歩き出した。

 バシュッ、と発射音がしたのはその時だ。二階の席にいた額に曼荼羅(まんだら)の刺青を入れた女が、腰に下げていた弩弓を目にも止まらぬ速さで放ったのだ。

 ぶわっ、と黒衣の裾が翻って、店中に雨の飛沫を飛ばした。女の身体が回転しながら、持っていた瓢箪で矢をはじき返した。

 それは狙いだったのか偶然だったのか。方向を変えた矢じりは女の方へ向かっていた若者の右太腿を貫通し、柱に深々と突き刺さった。

 物凄い悲鳴が上がり、盗賊共はようやく各々獲物に手をかけて立ち上がった。今まで抑えられていた殺意と憤怒の気が一気に膨れ上がり、息苦しい程店内に充満した。

 たった自分ひとりに向けられたその鬼気に脅えも怯みもせず、立ち上がった女は瓢箪をカウンターに置くと、ゆっくりと雨具を脱ぎ捨てた。

 再び店内に動揺が走った。

 女のあまりの美しさと、その異常さ故に。

 腰の辺りまで伸びた白い髪、白亜を思わせる白い肌。色素のない唇――その代わりに鮮烈に印象に残る真っ赤な双眸。

 女は白子(アルビノ)であった。

 そしてその容貌をなんと表現していいのか。女のそれはあまりにも神懸かっていた。男はおろか女ですら時を忘れて見惚れる程の天上の美がそこに集約されていた。

 ほっそりとしているが、付く所にはちゃんと肉のついた身体は、泰楊でさえ霞む程だった。白い肌を更に強調するように黒で統一された服装は、誰も見た事がない異国の物だった。胸元の大きく開いた袖のない革の上着。二の腕まで隠す長手袋。大きくスリットの開いたスカートからは、膝まで届く革靴を履いた足が覗いている。

 そしてその背に背負われ長剣は、床に届きそうな程長い。どう見ても雨具の下に身に付けていれば判りそうなものなのに、何故誰も気付けなかったのか。

「……《鬼姫》だ」

 不意に誰かが、呟くように言った。

「《修羅の鬼姫》だ」

 その声が震えているのは、驚きの為か、或るいは恐怖なのか。

 だが、その名にどのような効果があったのか。さざ波のように動揺が広がり、命知らずの悪人共は女から目をそらす事も出来ずに咽を鳴らした。


 突然、窮奇が笑い始めた。

 雷鳴すらかき消すような哄笑(こうしょう)に、幾人かがビクッと身を縮ませ、ある者は茫然とした。

 お頭が笑っている。いつも昏い眼をして感情を面に出す事がない彼が、まるで子供のように独眼を輝かせながら喉を上げて嗤っている。

 窮奇の胸に顔を埋めていた泰楊は、そんな夫をキョトンと見上げていたが、やがてこちらもつられたように笑い始めた。

「そうか。お前が《修羅の鬼姫》か」

 ひとしきり笑った後、窮奇は泰楊の頭を撫でながら言った。

「その噂、聞いた事がある。異人との混血、しかも白子の剣侠がいる。俺のような者を殺す仕事しか受けず、しかも許しを乞う者だろうと斬って捨てる、と聞く。そのせいでどの侠士からも嫌煙され、どの武林にも属さぬそうだな。

 だがその剣の腕、生まれながらに修羅の境地を究めているという。それは本当か?」

 《鬼姫》、と呼ばれた女は、ルビーのように紅く燃える瞳で窮奇を捉えながら応えない。

 ただその右手だけが上がり、剣の柄を握り締めた。

「そうか」窮奇がずい、と上体を起こして笑った。「ならば、試させてもらうまでだ」

 窮奇の声がそう言い終わるや否や、女の周りにいた三人の男達の姿が掻き消えた。

 縮地法――軽功を用いて、相手との距離を一気に縮める移動法である。

 超高速度で刀使いと剣使いが左右から、床を蹴って飛んだ匕首使いが頭上から女に襲いかかる。

 ()った――まるでスローモーションのように時間の間隔が引き延ばされた世界で三人は確信した。もう刃は交わしきれない距離まで女に近づいている。

 そう思った途端、剣の軌道から女の姿が掻き消えた。

 左右から伸びる刀身を、その速度を上回る速さで避け、身を屈めた女は床に水平にした剣を一閃させた。

 何が起こったのか理解する事も出来ずにいる刀使いと剣士の首を、長剣が薙いでいく。

 さらに刀身は光の軌跡を描きながら、頭上に。

 女の身体が匕首使いの双剣すれすれに伸びあがり、斬り上げられた刃が股間から頭頂まで真っ二つに切り裂いていく。

 実際には瞬きするかしないかの攻防の内に、刀使いと剣士の身体は縮地の勢いが止まらぬままに床を滑って転がり、双剣使いは血と内臓を迸らせながらカウンターの外側と内側に転がった。

 カウンターに降り立った女は相変わらずの無表情だ。

 その頭めがけ、裂帛(れっぱく)の気合と共に振り下ろされた大斧が、カウンターを絶ち割って木切れの雨を降らせた。同時に放たれた弓矢と法術師による短時間詠唱の魔法が、運悪く女の後ろに立っていた店主の身体に命中、爆発四散させた。

 斧の一撃をかわし再び宙に舞い上がった女の左手が伸び、斧使いの顔面を鷲掴みにすると同時に雷撃を放つ。頭の中で雷球が膨れ上がり、一瞬で彼の脳を焼き全身の血を沸騰させた――五行のうち、(ごん)属性の雷撃魔術だ。

 女はただの剣士ではない。法術師としての才もあるらしいと判り、盗賊共は戦慄した。

 感電して震える斧使いの頭に手をついて、更に跳躍する女の身体に向かって突き出された鉾や剣は、然し全て空を斬った。使い手たちは唖然となる。完全に無防備な空中にある躰でどうやって攻撃を避けられるのか想像もつかなかった。

 一つの丸机に着地しつつ女が剣を振るうと、その一刀だけで胴が輪切りにされ、首や腕が飛んで血と叫び声をまき散らす。卓の周りにいた四名が一瞬で命を失くしていた。

 その仲間の死体を押しのけて、四方から襲い来る凶刃を、女はブリッジのように身体を曲げて躱し、続くもう一太刀を左手だけで体重を支えながら、うつ伏せになって躱す。まるで体操選手の美しい演技をみているかのようだ。

 更に倒立して三刃目を躱すと、女は間近にいた女剣士の首に足を巻き付け、太腿で締め上げながら体重をかけた。

 倒れ行くその躰を盾にしつつ槍使いの頭の上半分を斬り飛ばし、女剣士の頸椎をへし折ってから床を転がって走り出す。低い姿勢を維持したまま移動する様は、もはや人ではなく何か別の生き物のようだ。

 法術師たちがその影を追いつつ方術を叫ぶ(シャウト)、階上から二人の弓使いも次々と矢を放つ。

 しかし当たらない。確かに捉えたと思っても、それは残像を穿つのみだ。

 何よりも恐ろしいのは、女がまだ受け太刀すらしていない、という事実だ。斬撃も魔撃もなく、全てを寸前で躱しきってしまう。

 そしてその剣技の凄まじさ。長いだけでどこの誰が打ったのかなど到底わからぬ安っぽい剣にしか見えないのに、その刃が一閃すると重鎧でさえ美しい断面を見せて斬り裂かれてしまう。

 戦闘が始まってから僅か数十秒と経っていないのに、仲間の半分を失った盗賊達は恐慌状態に陥った。幾度も戦場を乗り越えてきたというのに、これ程恐ろしい目にあった事などありはしない。

 真正面から突っ込んでくる女の攻撃を避けようと、ある者は後退り、或る者は恥も外聞も捨てて出口に逃げだそうとした。

 その後を無情な刃が追い、上半身を断ち、背中から袈裟斬りにする。床は零れた血と酒で水たまりのようだ。

 狭い室内という状況が、更に状況を悪化させた。もう敵も味方も関係なく、血迷った女法術師が火炎属性の範囲系魔法を放ち、たちまちのうちに周囲の仲間の躰を炎上させた。

 肉の焦げる臭いを振り撒きながら、火柱と化した六人の男女がもがき苦しむ様は、まるで狂った舞いを踊っているかのようだ。

 慌てて階上から放たれた暗器使いの手裏剣が、女法術師の眉間に刺さって絶命させる。

 しかし時既に遅く、炎は一階の床や柱に燃え移りたちどころに火の海に変えた。

 窮奇がやにわ立ち上がり、泰楊を抱きかかえて窓に向かって突っ込んだ。慌てて二階にいた手下共が後を追う。


 叩きつけるような雨の中に降り立ったのは、窮奇と泰楊を含め僅か六名――暗器使いが一名、弓使いが二名、鉾使いが一名のみ。

 振り返った盗賊達の目の前で、二階建ての酒場の一階部分が焼け落ちて崩れた。

 雨音の中、しばらくの間は誰も口を利けなかった。

「……畜生」

 あまりの事に茫然とした手下達の心境を代弁するかのように、男の弓使いが膝をつきながら涙声を洩らした。

 大陸中で負け犬と罵られ、人目を避けて生きてきた。自分と同じく卑劣で残酷な、仲間とも呼べないような者達の集まりだったが、それでも皆が安息出来る場所を求めていたに違いない。

 一年前、ようやくそれを手に入れた。そう思っていたのに。

 がっくりと項垂れ、水溜りの中に手を付いて啜り泣く。

「散々泣いて命乞いする奴らの村を焼いといて、手前はそれかよ」

 女暗器使いが吐き捨てるように言う。遂に弓使いは声を上げて泣き始めてしまった。

「……《修羅の鬼姫》、これで終わりか。つまらんな」

「そうね。あーあ、きっと楽しませてくれると思ったのに」

 そんな場違いな会話が聞こえてきて、虚ろな視線を向けると、珍しく感情を露わにした御頭と退屈そうな姐御の顔が見えた。

 炎に照らし出された二人の貌は、まるで得体のしれない人外の物に見えた。


 集落のど真ん中にある建物が、紅蓮の炎に包まれているのにようやく気付いた盗賊共の家族たちが、家の外へ出て悲鳴や泣き声を上げ始めた。手荒い仕事をしていた者はほぼ酒場に集まっていたから、女や子供、老人や病人という非常時には役に立たない者ばかりだ。

 地下に酒蔵もあった為か、土砂降りの中でも一向に火は消えそうもない。こんな時に炎や水を操る法術師がいれば頼りになるのだが、その全員が今まさしく焼かれている最中だ。

 だがこの時、そんな仲間の事より手下達の念頭にあったのは、

 ――さすがにあの女でも、この炎の中では助かるまい。

 という安堵の思いだった。

 正直あんな化物を相手にしていたら命がいくらあったって足りはしない。自分達を遥かに凌ぐ圧倒的な暴力の中から、こうして生き延びた事こそ今は喜ぶべきだ。

 そう思った矢先、酒場の屋根が吹き飛んだ。

 そこから宙高く舞い上がった女が、弓使いの物らしい弾弓で、ピタリと窮奇に狙いを付ける。

 雨を斬り裂いて放たれたそれに向かって、窮奇は傍らにいた鉾使いの躰を引っ掴んで突き出した。

 親指の先程もある太さの弾に胸を貫かれ、鉾使いは驚愕に目を見開いて窮奇を見つめる。

「お頭ァ…」

 言葉と共に血を吐きだした手下の躰を地面に放り出し、窮奇は改めて土砂降りの雨の中で女を見つめた。

 炎を背後に、盗賊達と向き合ったそのシルエットすら美しい。

 だがその姿とは裏腹に、その満身から漂う鬼気の凄まじさよ。

 その姿は、まさに鬼のように見えた。

 ひぃ、と女弓使いが声をあげて尻餅をついた。しかしもうそれを揶揄する者など誰もいない。

「いい……あの娘いいわぁ。たまンない、ゾクゾクしてきちゃう」

 それとは対照的に、泰楊が熱い吐息を洩らし舌で口唇を舐める。彼女は蕩けたような視線で女を見つめていた。

「ねぇねぇ、頭ぁ。アンタの前にあたしが味見してもいいだろう?」

 甘い声でねだる泰楊に窮奇が頷くと、彼女は心底嬉しそうに進み出た。

「フフフ、嬉しいっ――じゃ、そろそろアンタ達はお逃げ。邪魔だし」

 それが自分たちへ向けられた言葉だとは思わずに、生き長らえた三人の子分達はポカンとなった。

 泰楊が苛立たしげに舌打ちする。

「ほら、そこにいられると邪魔なんだよ。あたしが本気出せないじゃないか。とっとと家族連れて消えちまいな」

 手下共は自分の耳を疑った。些細な気の迷いに過ぎなかったとしても、まさかこの女が彼等の身を案じるような言葉を口にするとは。

 これ幸いと、振り返りもせず逃げ出した手下達を見向きもせず、泰楊はにィ、と満面の笑みを浮かべた。

「さぁ、これでもう邪魔者はナシだ。楽しませておくれよ?」

 土砂降りの中、鬼と呼ばれる女と毒婦と呼ばれる女が相対して向かい合う。ふたりの間の距離はおよそ二十メートルといった所だろうか。

 水飛沫を上げて、泰楊が走り出す――縮地法。

 時間の間隔が伸び、宙に止まっているように見える雨の粒をはじきながら、泰楊は得物も持たずにみるみる女との距離を縮めていく。彼女が縮地の技を使える事は夫以外の誰にも知られていなかったが、かといってこのまま挑めば間違いなく女の一刀の前に崩れ落ちる事は明らかだった。

 剣の柄に手をやり、こちらも縮地の法で女が地を蹴った。

 そのたった一歩で泰楊を剣の間合いに捉え、彼女は剣を抜こうとして――しかし、出来なかった。

 こちらに突き出された泰楊の両腕の袖が、ばらり、とほぐれた。

 シュルルル、と音を立てながら幾千幾万にも分かれた黒糸が、まるで女の躰を包み込まんとするように、あらゆる方向から同時に襲いかかる。

 身を捻ってその包囲が閉じる前に、横っ跳びに飛んで間一髪交わした女を、糸の波が追う。

 泰楊の纏っていた黒い着物は、もはや完全に解れきっていた。着物の下に身に着けていた肌着一枚の姿で、彼女は余裕の笑みを浮かべたまま肩にかけた黒糸を両手で操つる。

「――秘剣、仙滅刀(せんめつとう)

 朱い唇からそう零した泰楊の言葉は、雨の中でも不思議と良く透って聞こえた。

 自由自在に向きを変え、四方から襲いかかる黒糸の先端には確かに小さな刃が付いていたが、しかし生き物のようにうねるそれを果たして剣と呼んでいいものか。


 仙滅刀の名は、ブルネイに伝わる口伝の伝説に登場する。

 かつて大陸の北東、黒龍江省に住みついて年に一度生贄を要求していた悪神を倒す為に、旅の鬼仙が用いたというのがこの刀だった。

 実は糸ではなく、若くして死んだ娘達の髪の毛に、外法の力を持って魔力を吹き込まれたというこの妖刀は、岩を貫通し相手の刀を斬り裂く程の力があったのだという。

 それがどのようにして遥か南のブルネイの海賊の手に渡ったのかは判らないが、人の道を踏み外した泰楊がその使い手となった事実は、何かしら運命的なものを感じさせないだろうか。


「ホラホラ、どうしたのよ《鬼姫》さんっ」

 泰楊が嘲るように叫ぶ。

「逃げ回るだけかい?アタシはさっきから一歩も動いてないんだよっっ」

 唸りを上げて振り下ろされた黒髪の刃が、女が立っていた場所の地面を穿つ。その房から伸びた幾筋かの刃が、別々に動きながら女の後を追う。

 泰楊の周りを円を描くように移動しながら、女はどうしても必殺の間合いに入れないらしい。しかし、だからといって一定の距離以上は引き離されない。

 内心、泰楊は舌を巻いていた。彼女の剣を見た者は、今まで窮奇以外は一太刀目で命を落としていたのだ。

 ましてやこの雨で視界も悪く、縮地では直線的な動き以外は出来ないから、あくまで可視範囲内の体術でしか避ける事は出来ない。一度に四方から攻める攻撃をどうやって避けられるのか、泰楊にはまるで想像もつかなかった。

 不意に女が立ち止まって、追尾してきた糸の波を刀で弾いて方向を変えた。

 今夜初めての受け太刀だった。

「おや?」

 泰楊は女の突然の行動に、こちらも攻撃の手を止めてキョトンとしたが、すぐに満面の笑みを浮かべて頷いた。

「そうかい――もう、逃げるのは終いかい」

 女は応えない。只、刀を上段に構え腰を低く落とした。

 言葉などいらない。それで充分だった。

 暗がりの中、女のあの紅い瞳が自分を見据えている事を思って、泰楊はブルッと躰を震わせた。強敵を迎えた歓喜の念故だった。

「それじゃ、行くよ。こいつが躱わせるかい?」

 そう呟いて泰楊は両腕をうち振るう。黒髪がバッと宙一杯に広がって、あらゆる方向から女に向かって伸びていく。

 女が低い姿勢から、そこに向かって正面から飛び込んだ――縮地法。

 馬鹿な。加速した分躱わす事も出来ないじゃないか、と泰楊は思う。この女、万策尽きて破れかぶれになったのか。

 そこまで考えた時に、女が上段に構えていた剣を何もない空間に向かって振り下ろした。

 確かに糸がその体躯を捉えたと思った時、突然女の姿がかき消えた。

 泰楊が目を見開いた瞬間、唐突に目の前の何もない場所から、刀身が現れるや彼女の躰を袈裟斬りにした。

 手を伸ばせば届きそうな距離に、女の美貌と赤光を放つ双眸があった。斬られたのだという事実さえ忘れて、泰楊は思わず恍惚となった。

 左肩から右腹まで朱い線が走ったかと思うと、ドバッと血が噴き出した。その勢いに押されるように、彼女は仰向けに倒れた。

 視界いっぱいに雨滴が降り注いでくる。それを見ながら泰楊はなんとなく昔の事を思い出す。

 島暮らししていた時、悪事を働いておきながらも人は殺さぬ、などという義族ぶった海賊共には心底虫図が走った。俺の娘だから見逃してもらえるんだ、と一々恩着せがましい父親が、実は口だけの小心者だという事など、十の歳になる前から理解していた。

 いつかここを出てやる、絶対に海では死ぬもんか。ただそれだけを想い続ける思春期を過ごした。

 そうして今、あたしは海じゃなくて雨の中で死ぬ。

 そう思うと今までの人生が情けないような悪い冗談のような気がして、彼女は心の中で自嘲する。

 しかしそれでも、窮奇が島の外へ連れ出してくれた時には、まるで異国の王子に救われた王女のような気分になったものだ。

 暴力で出来たような男をそんな風に思うのは世界で自分ただ一人かもしれないが、その気持ちだけは唯一まっすぐな物だった。いくら周囲から恐れられ遠巻きにされても、二人でいる事で耐えられた。残酷で血なまぐさい時間ではあっても、泰楊はこの数年の間は本当に幸せだったのだ。

 霞み始めた視界の中、泰楊は愛しい夫の貌が自分を見下ろしている事に気がついた。

「…頭ァ。有難うねぇ。アンタのおかげでアタシは幸せだったよ」

 独眼の大男は無表情だった。それでも泰楊は何かしら通じるものを感じて微笑んだ。

「……先に……待って…」

 言いかけて、泰楊は眠るように目を閉じた。

 同じ女とは思えないほど、その死に顔は穏やかで安らいでいた。


「俺も、すぐに行く」

 そう言って、窮奇は立ち上がった。

 振り向いて女と向かい合う。どちらも無表情で感情は読み取れぬ。

「…成程な。それが修羅の剣か」

 窮奇は抑揚のない声音で言った。

「その剣、見切ったぞ」

 そういった窮奇の目は、瞳孔が開いて真っ黒に見えた。人間らしい感情など持ち合わせていない、暗闇だけがそこにあった。


「修羅の道とは」愛した女に背を向け、その仇との距離を取りつつ窮奇は言った。

「阿修羅界に身を置き、終始戦い争う者の行く道を指す。だが地獄界、畜生界、餓鬼界の三悪趣(さんあくしゅ)には含まれず、怒りや憎しみはその者の心の在り方に帰結するという」

 充分に距離を取った所で足を止め、腰に下げていた双槌の柄を左右それぞれの拳に握り込む。

「元々、この世界が創造される遥か以前、旧世界の更に昔、六道の中には修羅は存在せず、五趣のみが存在していた。すでに人の道には四苦八苦があり、怒りや憎しみもその中に含まれたからだ。

 では、修羅とは何処からきたのか」

 その重さと感触を確かめるように軽く振り、やにわに残光すら残さぬ勢いと早さで上下、左右と振ってみせた。風が唸り、付いていた水滴がそれだけで全て蒸発する。

「それは外道よ」

 ビョウッ、と唸りを立てて振り上げた槌を、ピタリと女の貌で止めて彼は言った。

「こうして今俺が辿っている道と同じよ。違うのはお前が生まれつきそうであったという事、そして俺が六道から堕ちたという事だ――違うか?」

 その問いには答えず、女は当然のように口を開かない。ただ、鞘から剣を抜いて構える。

 クク、と喉の奥で窮奇は笑声を押し殺し、

「まぁ、いい。確かに刃を交わせば判る事」

 そう零すと同時に、その全身の筋肉が、まるで内から溢れんとする巨大な力に圧されているかのように膨らんだ。凄まじい殺気の奔流であった。

「さぁ、楽しませてくれ、修羅の女よ。互いに人外である身、見事この首落としてみるがいい」

 雷光で世界が輝きに満ち、雷鳴が轟いて地を揺るがせた。

 目の眩むような視界の中で、両者はお互いの瞳の中に、人間らしい感情の欠落した己れ自身の姿をみた。

 そうして暫くの間、二人とも雨の中で彫像のように動かない。

 やがてゆっくりと女の革靴がジリ、と土を踏み、次の瞬間その身体は弾丸のように飛んだ。

 窮奇の岩のように逞しい身体さえ、軽々と斬り裂くような一閃。

 だが、振りぬいた剣に手ごたえはなく、僅かに半歩ほど退いて躱した窮奇の左から右への強烈な振り抜きが飛ぶ。

 女はそれを右に旋回して躱したが、通常の攻撃では考えられぬ槌が生んだ風圧に圧されてバランスを崩した。初めてその目に動揺の色を浮かべて、雨水を飛ばしながらたたらを踏んで着地する。

 女の躰が後退するのに合わせて、窮奇の巨躯は既に前進している。振り抜いた一撃目の勢いを殺さず、躰を一回転させた逆の腕による再度の右から左への振り抜き。

 誰の目から見ても躱しようがない。そう思わせる攻撃を女は前転してやり過ごし、窮奇の内懐にもぐり込む。

 下から斬り上げる女の剣を右の槌で受け止めて押し返しつつ、窮奇は左の槌をその頭上へと振り下ろした。

 ――【鉄山盤破】。

 その名の如く槌の質量を変化させ、光速に近い速さで振り下ろす事によって重力波を発生させ、どんなに固い鉱物ですら叩き割るという技である。ただの肉で出来た女の躰など、頭どころか全身を粉微塵にするだろう。

 大地が穿たれ、衝撃に十メートル四方の水溜りが跳ね上がった。

 しかし、女の姿が既にそこにはない事を窮奇は既に悟っている。

 窮奇が双鎚を交差させて自分の頭をカバーするのと、バラバラと降り注ぐ瓦礫と雨に混じって逆しまに剣を突き出した女の躰が降ってきたのは、ほぼ同時だった。

 剣と槌がぶつかり、キンッと澄んだ音を立てた。窮奇は女の躰ごと槌を振って跳ね除ける。

 姿勢を低くして女が勢いを殺しながら地に足をつき、そのまま五メートル程水を蹴散らして距離を取った。

「面白い。今のを躱すか」

 窮奇の口の両端が、キュウッと釣り上がった。笑みとは名ばかりの凄惨な表情だった。

「いいぞ、実に楽しい。こんなに楽しいのは、木桑の奴と殺り合った時以来だ。まさか野盗の身に堕ちてから、二人も強敵と刃を交わす事が出来ようとはな」

 そう言いつつも、窮奇は己れの見立てが間違っていない事を心の内で得心する。

 修羅の境地とは、即ち相手のどんな攻撃でも躱しきる体術――いや、寧ろ能力というべきか。それがどのような理に基づいているかは判らないが、この女にはそれが出来るらしい。そうでなければ、確実に抑え込まれていた状態から脱出する事など出来なかったであろう。

 窮奇がその体躯からは想像も出来ぬ速さで、女に向かって突進する。筋肉で鎧われた体を一回転させながら、腕を左右同時に砲丸投げのように振って女に叩きつける。

「斬光烈波っ」

 槌が当たるより先に、窮奇の体から湧きあがった竜巻が女へ向かって突っ込んでいく。

 その風の渦に向かって、女が剣を打ち下ろした。

 突然女の姿がかき消える――先刻、泰楊の剣を躱した時と同じだ。

 窮奇の隻眼がカッと見開かれた。

 軸足と逆の足に渾身の力を込め、何もない空間に向かって突き出した。

 いや。その足は見事に女の腹部を捉え、カウンターでその躰を吹き飛ばしていた。

 軽く六、七メートル飛んだ女は水溜りの中を転がって倒れた。腹を押さえながら咳き込むと、水溜りに赤いものが混じった。

「やはり、そうか――女。お前は空間を斬れるのだな」

 窮奇は息一つ乱さずに女に向かって言った。

「空間を斬り、別の場所に繋げてそこに移動する。謂わば瞬間移動というものなのだろう。それが修羅の剣の本質」

 そう言う窮奇の声音には、つい先刻までの熱狂的な物は既になかった。見切った事で、彼の中にもはや女への興味はなくなったらしい。内臓をやられたらしい女に、既に起き上がる力は残っていまい。

「礼を言うぞ、修羅の女。おかげで久しぶりに生きているのだと実感出来た」

 窮奇がケリを付けるべく女に歩み寄る。その槌の一振りで、鬼と呼ばれた女の生は終わりを告げるだろう。

「さらばだ」

 窮奇が高々と槌を振り上げ、止めの一撃を打ち下ろそうとした瞬間、女の躰が跳ね上がった。

 窮奇に向かって突き出された左の掌から法術が迸る。

倒れた直後から詠唱されていた雷撃魔法は、振り上げられていた窮奇の槌に落雷した。

 それでも一歩後退っただけの窮奇だったが、視界は閃光で塞がれてしまう。

 その状態で、女の放り投げた剣を弾いたのはさすが元英雄と呼ばれた男だ。

 しかし、まさか弾いた剣の先に、女が既に手を開いて待ち構えていようとは。

 窮奇のすぐ右脇に移動していた女が剣を掴み、右の逆手で一閃させた。

 血煙りが上がった。

 女が膝をつくのと同時に、窮奇も膝をついた。

「……首が……俺の首が啼いているように、聞こえる」

 窮奇が半ば茫然としたように言う。その首に付けられた傷口から、物凄い勢いで血が噴き出していく。

「首袈裟に斬った切り口が、木枯らしのように鳴るのを『咽鳴り笛(のなりぶえ)』というそうだ…一度聴いてみたいと思ってはいたが……まさか自分の首で聴く事になろうとは……笑止」

 女が、剣を杖代わりにしてヨロヨロと立ち上がる。おそらく内臓を痛めているらしく、さすがに表情を歪めている。

 近づいてくる女を見上げ、窮奇は力なく微笑んだ。

「そう言えば訊いてなかったな…女、お前の名は?」

「……シャーリンドリア」

「シャーリンドリア……欧州辺りの名だったか」

 一切の感情を含まぬ女の答えに、窮奇は頷いた。

「冥土のみやげにもう一つ問うておこう……恨みなぞ多すぎて判らぬが、お前、誰に頼まれてきた?」

 更に激しさを増す雨音の中で、女の口唇が動いた。

 窮奇の独眼がハッと見開かれた。みるみる内にその瞳に人間らしい光が灯り、彼は今までにはない穏やかな口調で言った。

「そうか。そうであったのか……改めて礼を言うぞ、修羅の女よ。もはやなんの悔いもなく逝ける」

 窮奇は満足げに言って目を閉じた。ドッ、とうつ伏せに倒れて動かなくなる。

 肌を刺すような氷雨に打たれるその姿を、女はしばらくの間じっと見つめていた。が、村の外へ繋いでおいた馬の所へ戻ると、再び黒衣を纏って闇の中に消えていった。


 数日後。

 湖南省の南東、白鈴山の麓に『竹林の村』といわれる小さな山村がある。

 そこから更に獣道に入って山に分け入ると、小ぢんまりとした東屋があり、ここに三十年前から一人の男が隠遁生活を送っている。

 名は穆人生(ぼく・じんせい)といい、かつては華山派剣法の総帥であり、『神剣仙猿(しんけんせんえん)』と異名をとる武芸の大家であった。

 だが今ではすっかり農民生活に慣れたのか、知らぬ者の目にはただの村人にしか見えない。常におっとりとした物腰で、日蔭者のような荒んだ雰囲気も、智者のような威厳めいたものも一切ない。

 それでもその恩恵と師事を賜りたいと訪れる者たちは後を絶たないが、結界でも張り巡らされているのか、その住居や敷地内に無断で入れる者はいない。人と会うのは好きだが、自分の過去や偉業について触れられるのは相当に苦手らしい。

 会えるのは月に一度囲碁の相手として呼ばれる村の村長や、村で出た急病人たちなどだけだ。


 今、その東屋で穆人生と向かい合っている客は、質素で純朴そうな、いかにも農村の女といういでたちの四十がらみの女だった。穆老師手ずから淹れたお茶にオズオズと遠慮がちら口を付ける。生活の為か、実年齢より老けてみえた。

「……美味しいです」

「そうか。そりゃよかった」

 その言葉に老人はニコニコと人好きする笑顔を浮かべる。それは如何にも好々爺然としていて、身近な安心感を女は感じた。

「あの、本当に有難うございました」

 女は居住いを正すと、もう一度深々と頭を下げた。

「私共のような下々の願いを聞いてくださるなんて――これで亭主や他の村人もあの世で救われましょう」

「イヤイヤ、顔を上げなさいな。それに、今回の件は儂の不出来な『義娘』が勝手にやった事。気にかける謂われもないのでのう」

 そう答える老人の声は、あくまで優しかった。

「元々、窮奇を討伐して欲しい、と言ってきたのはアンタの息子じゃし、ウチの娘は気が乗らなければ人の頼み事なんて一切聞かんのだからのう」

 言いながら、穆人清はひと月程前の事を思い出して、更に笑みを深くした。どういう訳か結界を潜り抜けてここまでやってきた少年が、滅ぼされた自分の村の仇をとって欲しいと訴えてきたのだ。

 なんでもここに来ればあの『修羅の鬼姫』に会えると噂に聞き、母親にも内緒でやってきたのだという。名前は小平(シャオ。ヘイ)。年は四つ。

 詳しく事情を聞くと、どうやら自分の住む陜西省の詰所や町の武侠達にも頼んだのだが、当然のように(ことごと)く断られてしまったらしい。それでもどうしても仇を打ってもらいたくて、あの悪名高い『鬼姫』に頼む事に決めてしたのだそうだ。

 陜西から湖南までの道程となると、大人の足でも十日は掛かる。

 それが年派もいかぬ少年にとって、どれだけ勇気を必要としたものか。

「あら、そういえばあの子ったらどこに行ったのかしら?」

 不意に気がついて小平の母が周囲を見渡す。竹の枝で遊んでいた筈の姿がいつの間にか見えなくなっていた。

「まだまともに御礼もしないで」

「いやぁ、、大丈夫じゃよ」

 思わず眉根を寄せた母親に、穆人清は微笑んだ。

「多分、裏庭じゃろう。息子さんは誰に礼をすべきか、ちゃあんと判ってるんだろうて」


 笹の枝を振り回しながら小平が家の裏側に出ると、そこには縁側の柱に凭れかかるようにして、白紙白面の美女が座っていた。

 酒杯を手にしたまま、微風に揺れる笹の音に聞き入るかのように目を伏せている。

 その姿に小平は思わず立ち止まって、ポォっと見惚れてしまった。

 少年が目を丸くして固まっていると、やがて女がゆっくりと視線を上げて少年へ顔を向けた。真っ赤な瞳に見つめられ、小平の胸がドキンとひときわ高鳴った。

 それでも少年は恐れる事無く縁側へと近寄ると、枝を捨てて改めて女と向かい合った。

「姉ちゃんが、鬼姫なの?」

 おずおずと舌足らずに言う小平をじっと見つめて、女は首肯した。少年の顔がパッと明るくなる。

 それから、弁髪のおさげが前に垂れる程勢いよく頭を下げて拱手する。それには心からの尊敬と感謝の念が伝わって来た。

「どうもありがとう。父ちゃんの仇を取ってくれて」

 そう言いながら小平は懐に手をやると、なにやら木彫り細工のような物を取り出した。

「これ、御礼。オイラお金は払えないから、檜を切って作ったの。父ちゃんが人に有難うする時にあげなさい、って」

 みれば、少年の両手の指には血の滲んだ抱帯がいくつも巻いてある。おそらく何度も刃物で傷つけてしまったものに違いない。

 少年の差し出してくる物は、何かの魔よけなのか、それとも動物でも模しているものなのか――ひと目で判別は難しいが、得意気に差し出してくるのを女はしばし見つめ、それからフッと口元に笑みを浮かべた。そっと指先を伸ばすと、少年の手から受け取る。

 小平は途端になんとも嬉しいような、誇らしい気持ちになった。と同時に気恥ずかしさを覚えて、慌てて女から背を向けて駆け出す。

 背中に女の視線を感じながら。


 老人と母親の所まで戻ると、小平は母親の膝に抱き付きながら叫んだ。

「姉ちゃん、全然鬼なんかじゃないよっ。とっても美人で優しい人だよっ」

 それを聞いた穆人清の、カラカラと快活な笑声が周囲に谺した。


 後日、窮奇とその一味が討伐された事が、盗賊団の生き残り達の口から江湖へと知れ渡る事になった。しかし、一体何者によってそれが為されたのかは、何かを恐れるように誰一人口を噤んだまま、世に知れる事はなかった。


 ホンタイジが没し、フリン(順治帝(じゅんちてい))が即位するのは、それから八年後の一六四三年の事である。



(終劇)


(付)武侠小説・基本用語解説


*1【武林】=武術界。多岐に渡る武術の門派から構成される。在野を基本とした「江湖」とは多少世界観がずれ、官職についている武芸者は「武林」の人間ではあるが、「江湖」の人間とはならない。


*2【江湖】=一般的には、旅役者、大道武芸者、易者、博徒、薬売りなどの香具師的社会を指すが、武侠小説では、在野の英雄好漢、侠客の世界が強調される。


*3【軽功】=身のこなしを「軽く」する技。武侠小説では常人の何倍もの速さで疾駆したり、身軽に宙を飛んだりする他、水上を歩いたり、垂直の崖を伝い昇るといった技が披露される。


*4【暗器】=身体に隠し持った小さな武器。手矢や手裏剣、つぶてなど飛び道具を出す。


*5【刀】=中国では曲刀、片刃の剣を指す。


*6【剣】=中国では直刀、両刃の件を指す。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 迫力のある描写に圧倒されました。 [気になる点] 言葉が難しい気がした。 [一言] 闘争場面は思わず惹きこまれてしまいました。
[良い点] 読んでいて情景が浮き出て来るような描写はすごいと思います。 [気になる点] [軽功]や[暗器]等の言葉は、わかりにくいかもしれないので、文末等に簡単な説明をつけたほうがいいかもしれませ…
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