刀と頑執
単品でお読み頂けますが、「刀と因果」→「刀と矛盾」→今作 という時系列となっております。
もし気に入って頂けましたならば、前2作もどうぞご覧あれ。
恥じらう桜も春に色めく
そこに後ろ暗さがあるかの如く――。
≪空から鶯、何処吹く風≫
桜の花芽吹く駿河国、駿府城の本丸庭園。
庭に開け放たれた座敷の上座には壮齢の女城主 安養院とその娘 咲耶姫。
「婿選びとな?」
花の京都より左大臣の孫娘、東条路 御行。幼さ残る小さな口と鼻の上に、切れの長い目は上品な冷たさを帯びている。ツンとした表情を扇子で覆い、春の日差しを凌いでいる。
安土の大商人である安楽 濫吾。候補者中で最も高齢。干物の様な骨ばった外見だが、豪快な男であるという。鬢の白髪が跳ねているのを時折手で押さえつけるのが癖らしい。
越前の国主の第三子、口門 回問。厳めしい顔つきの武人。直情で挙動不審。口はへの字に曲がって滅多な事では沈黙を破らない様に見えるが、案外饒舌な方らしく3人の中で最初に口を開いたのはこの男であった。
「それで、他の二人に勝てば咲耶姫と娶ることが出来るということなのだな」
「此方にもそないな粗野な争いごとに参加しいゆうのでおじゃりますの?」
東条路殿は白粉でのっぺりした眉間へ不快そうに皺を寄せて言った。すると病弱な主人に代わってこの国を切り盛りする女傑、安養院殿は抑揚のない声で尋ねる。その様子はまるで合理的という言葉に人の皮を被せたかのようである。
「東条路殿。それは、御辞退という意味で?」
「ケラケラ、そんなまさか。此方に掛かればこないな男共なぞ相手に足らひん。少々退屈や思うただけでおじゃる」
「ふん、小生意気な貴族の娘め。大体、女のお前が何故に咲耶姫に求婚しているのだ!」
「女が女の美しさに焦がれて悪う御座いますやろか? ああん、咲耶姫はん。さぞや可愛いのでおじゃろうな…」
「ふざけるなッ! 女子と女子が好き合うなど、馬鹿げたことだ」
「喧しいお人やわ。衆道とか、男同士でもそないなもんはありますやろ」
「衆道は侍の道に通じる高潔な精神規範の道でもあるのだ。だが女同士は、駄目だ!」
「なんや、それ。理屈も通らん言い訳並べて。あな汚らしや」
「あ、穴汚らしいだと! キィーーッ!! 誰ぞ、刀を持てェ!」
口門殿が騒ぎたてる中、安楽殿が重い口を開いた。
「――騒々しい。姫の御前ですぞ」
「ふ、ふんッ。分かっておる」
「ほれ見よ、いい歳くって怒られておじゃる。ケラケラ」
「東条路殿、貴殿もじゃ」
「う」
「――まったく。こんな茶番を見る為に儂は安土から来た訳ではないのですぞ。して安養院殿、その婿選びで競うのは何なのですかな、そろそろお聞かせ願いたい」
「それは――
《座敷に吹きこむ風。姫の輪郭を透かせた御簾がはためく》
「お待ちいただきたい。その婿選び、もう一人参加しても良いですか?」
「何奴。一体何処から這入った?」
「城の正面より」
「なんじゃと? 城の警備はどうなっておる」
「ああ。全員、斬り伏せましたよ」
「な、な、嘘も大概にしろ! 今日はこの城の兵だけでなく、我ら3人が連れてきた護衛も含めて千人は詰めているのだぞッ!?」
「ええ。正しくは1026人、城内外で屍となっていますね」
「…こ、こりゃ! そこの田舎侍!」
「――い、いな!? 拙者の名は口門回問だ!」
「なんでも良いわ! 回問とやら、手に刀を持っているのじゃ。お前さんが行きなはれ」
「ふ、ふざけるなッ。拙者は、まだ人を斬ったことはないのだぞ」
「はあ…? なんちゅうヘタレ侍やろか。せやったら此方を斬ろうしたのは、何ぞ? 誰かが止めてくれるう思ったから、此方を脅す程度に刀を振り回そうとしなさったのでおじゃるか?」
「う、五月蠅い! くそう、やればよいのだろう、やれば!」
「ちょいとお待ち下さい。僕は殺されそうになったから彼らを殺したに過ぎませんし、僕はただ――
「黙りゃ、そもそも不逞の輩がここまで這入り込んでただで済むと思ったんかいな。斬れ、斬っておしまいなはれ」
「……。ええええい、ままよ!」
口門回問殿は構えも滅茶苦茶、気合いも遮二無二に突っ込んだ。
――ように見えたがその実は、突如として現れた男の拍子抜けするほどの殺気の無さや、ここで城の兵を皆殺しにしたこの男を返り討ちに出来れば咲耶姫に見惚れられるかもという打算を加味して、刀を振りかぶっていたのだろうが。つまり、刀で決闘に及ぶにあたって最低最悪の状態で向かっていったのである。
《鹿脅し。竹筒が石を高らかに打つ》
刃と刃が噛み合う鋭い音と共に、乱入者に向かって行った口門回問殿が吹き飛ばされて襖を突き破った。
と誰もが思った。口門殿自身もそう思ったに違いない。だが、吹っ飛んだのは乱入者でも口門回問殿でなかった。
「……おや」
「痛てて…。そ、双方、刀をお納めください」
「誰じゃ、貴様は。兵の生き残りか」
吹き飛んだのは、そう――ここまでジッと隣の部屋に隠れていた己である。
安楽は壊れた襖の残骸から立ち上がった己に、猛禽類を思わせる双眸を向けていた。
「己は流浪の剣客商売をしておりまする阿倉 伝奇と申す。こちらの城で剣術指南役の國柳殿と御手合わせ願う約束で道場に控えていたのだが、騒ぎを聞いて来てみれば、このようなことに」
「國柳さん…。ああ、彼はもう僕が二つに斬ってしまったよ。ごめんね」
「…さ、左様ですか。いや流石、病葉 祇園殿。剣の腕前は噂に違わぬようで御座るな」
「――む。阿倉とやら、今…その男を病葉祇園と云ったか? それはまことか…?」
「ええ。確かに僕の名は病葉祇園ですね」
「むぅ、まさか…! いや、それならばそうか」
「安楽殿、何がどうだと言うのか、拙者には訳が分からぬのだが」
「存ぜぬのか? 病葉殿はあの十剣聖が一人ですぞ」
「な! 十剣聖!? 父上からチラと聞いたことがあるが、あの一騎当千とかいう剣士がこのような優男だと!」
「此方もその名だけは知っておるが…」
「むう…。しかしこの腕前を見れば、よもや贋物ではあるまい。して十剣聖、病葉祇園殿は何用でここへ参られた」
「いや、実を言いますと咲耶姫に惚れてしまったので、婿選びに参加しようと」
「な…!!」
「は!?」
「お恥ずかしながら先日、たまたま城下の竹林の庵で茶会をされていた咲耶姫の姿を見てしまったんですよ。ちょうどその時、姫もこちらを見て、まるでそよ風が吹くように僕へ微笑んだのです。いやあ、コロリです。かねがね噂では駿河の国の姫こそ天下一の美人と聞いていましたが、百聞は一見に如かずとはこのことですねぇ」
「さ、されど病葉殿。貴殿の力を持ってすれば、咲耶姫を略奪して抱えてしまうこともできよう。どうして、そのようにまどろこしい真似をなさる」
「おいおい、安楽殿。余計なことを…!」
「いえ、そうしようかとも思ったのですがね。…まあ、正々堂々やることにしたのですよ」
「し、しかし――
「よろしいでしょう」
「あ、安養院殿!?」
「病葉殿の気概に免じて、候補者として婿選びへの参加をお認めします」
「馬鹿な。儂が婿候補になるまでに一体いくら、この国の為に御用金を納めたと」
「安楽殿。貴殿の『善意』はそれ以上でも以下でもなく確かに有難く頂戴いたしました。しかし、これを御用金等と言って仕舞ってお困りになるのは貴殿ですよ? 徳川と石田殿の決戦が近い今となっては尾張と駿河は信長公の時代と違い、お互い逝く道を違えているのですから」
「む、むう。…それはご最もな意見ですな。それで、婿選びは何で競うのですかな? また招かれざる闖入者が現れないうちに、お聞かせ願おう」
「――母上」
御簾の奥から、か細い声が安養院を呼んだ。
「咲耶…何じゃ」
「妾が夫のことなれば、妾自身で誰が相応しいかを決めとう御座います…」
「どのように選ぼうと言うのです?」
「明日の日の出から、誰が一番先に千万階段を登り切り富士山本宮竹生野大社まで着くことが出来るか。それで決めとう御座います」
「本当にそのようなことで良いのですか? これまで、あんなに夫を持つのを拒んでいたのに」
「はい、よろしゅう御座います」
「…だ、そうで御座います。如何でしょうか皆様」
「なんだ競争か。ほほう…、では残念だったなあ~。座敷の奥でジメジメと育った能面面の女子と足腰の油も枯れ果てた老人には階段登りはさぞ辛かろう。普段は登って精々、屋敷の敷居がいいところなんだろうよ?」
「おのれ、似非侍の分際で此方を愚弄するか! く、口門ぉ~ッ」
「おやおや、負け犬が吼えておる。うわっはっはっは!」
「ひ、姫様。儂は商売柄、腰を屈めていることが多い故、余り体をつかうことは出来ません。どうか、代走者を立てて儂の代わりに登らせる、ということは許して頂けませぬか」
「な! くどいぞ油屋安楽。姫はそういった身体の屈強さを計る為にこの方法で婿選びをと言っているのが分からぬか。なあ咲耶姫様よ!? 他に頼ろうとする軟弱者は要らぬ、そういうことで御座るな?」
「代走者の件、結構です。認めます…」
「――さっすが姫はお優しい!」
「この人ほんま典型的なアレな奴どすな、いっそ清々しいですわ。――ほな、妾も代走者はんを付けさせてもらいます」
「そ、それは駄目で御座ろう。東条路殿はお若いのだから、自分の脚で動けるであろう!」
「東条路様も、お好きなように」
「咲耶姫のお優しさは無尽蔵で御座るなぁ!」
「この…! いや、もう何も言うまいて」
「あ…。それと、阿倉様」
「え? 己に何用で御座いますか」
「如何です? 貴方様も参加されて見ては」
「ひ、姫! この男はただの牢人に御座る!このような身許も知れぬ男を婿候補にするなど――!」
「そもそも立候補すらしてないのですぞ!」
「姫よ。そなたの言うことならどないなことでも叶えてやれるが、それには此方も反対じゃぞ」
「あ、僕は別いいですけれどね」
「如何です、阿倉様」
「……」
《再び鶯。庭の池の隅には桜の花びらが溜まっている》
――己は辛くもその一撃をかわした。空を斬ったそれは一瞬前まで己の立っていた筈の地面を易々と割り裂いてしまった。轟音が先か、岩盤は一度に地表からめくれ上がるや、次の瞬間には崩壊をまぬがれず、その上に積もる雪と共に深い亀裂に飲み込まれてゆく。人が成したる刀痕にはおおよそ見えぬ、暗い谷底に雪塵が立ち込める。己は思わず息を飲んだ。
だが、次なる敵の攻勢は息を吐かせる間もない。己の目前に立っている、天を脅かす程の大男は地をも砕くその剛腕を翻し、鞭を振うかの如き速さで両の手の平を打ち合わせた。その瞬間、凄まじい破裂音が空中を走った。激しい空気の振動、いや『爆発』は己の骨まで震わせて、全身が軋みをあげた。鼓膜から眼球まで、体の柔らかいものが不気味にうねるのが感じられ、この激痛も一体どこから伝わってくるのかすら分からない。
「うぐぅッ…!!」
己が呻いたのは一瞬だった。百戦錬磨と自分で言うのもなんだが、これでも数々の戦場を生き抜いている。痛みには慣れていた。だがこの一瞬、それすらも隙なのだ。相手は『十剣聖』、彼らはそれを見逃すほど凡庸な存在ではなかった。
――十剣聖
たった一人でも一国を相手取りそれを滅ぼすなど造作も無いような剣豪の、いや剣鬼たちの総称である。彼らの多くは人に称えられながらも規格外の力故に畏れられる為に人里から離れて暮らしている。先の話で己が邂逅した左 室町という十剣聖も、一人離島で暮らしていた。
彼らを陣営に引き込めば、天下の行方も見えてくる。そう言っても過言ではない。事実、徳川と石田並びに多くの国主たちは秘密裏に決戦に向けて十剣聖へ接触を試みている。
かく言う己も、肥前の国から使わされた密使である。緊迫した情勢が続いている最中ということもあり他藩とのいざこざを避けるために、流浪の剣客として各地を歩き回っている。出来ることなら十剣聖を召抱えよ。出来なければ、敵側に付くかも知れぬ剣聖に毒を盛るなり寝首をかくなり、戦の舞台から退場願え。それが己の役目であった。これは非常に、酷な任務と言ってよい。
剣聖と相対してた者が生きて帰る、そんな事例が極々稀であることこそ、剣聖を剣聖たらしめる理由なのだから。
敵は十剣聖が一人、午莉阿手と云う巨漢である。武器を持たぬところ、彼自身の体全体が刀と同等の役割を果たしている、まさに全身凶器の怪物であった。
「くぅッ…!!」
避けられない一撃というのは当たる前から自然、分かってしまうものだ。それが肉を裂き、血管を破って、骨を砕く前に、己はその殺気によって既に殺されていた。そしてその直後に予想通りと云うべきか、凄まじい一閃が肉を裂き、血管を破って、骨を砕く。右脇から入った一撃は肋骨を易々と破壊すると、肺を抉り取って尚深くに斬り込んだ。心の臓を真っ二つに、溢れ出た血の奔流は背中の左の皮膚を破って飛び散った。
己の悲鳴は喉から溢れこみ上げた血でくぐもる。ぶちまけられた熱い鮮血が雪を溶かし、生臭い湯気が上がる。
白い吹雪の中で、あの咆哮が聞こえた。
ぽっかり空けられた胸の空洞に冷たい風雪が入り込んで、自分が感じられなくなったいく。
――消えて行く。
寒い、寒い……ただ孤独だ。
気持ちが……悪い…。寒……い。
――何も持たず、持つことすら拒み、全て殺してでも追い求めた仇に、逢えもせずに死ぬのか。
せめて一太刀
腕の一本でも取らなければ
せめて、殺す為に生きたと誰か言ってくれ
誰かッ
「――ワあぁァァアッッ!!」
「おや、朝――いや、まだ朝ではないか。…夜更けから穏やかじゃないね。何かあったのかい?」
「ゆ、夢か…?」
「随分とうなされてたみたいだ。ほら、汗を拭きたまえよ」
「…む。かたじけない」
糊の効いたパリッとした紺の袴に淡い朱色の裃がいかにも風流人らしい涼しげな男は病葉祇園殿である。見た目は優男で裕福な商人の若旦那にしか見えぬが、『十剣聖』の一人である。
「――やっぱり、僕が怖いのかい? 僕が言うのも何だけれど、どうか気を確かにね」
「否。心配は無用に御座る、病葉殿。若造ながら己はこれでも結構な修羅場を乗り越えてきております故」
「ほう。では今、阿倉くんが見ていた悪夢はその過去の修羅場の何れかなのかい?」
「…は。決して滅ぼすことの出来ぬ化物のような男と極寒の地で3ヶ月間…食うや食わず、昼も夜も分からなくなるほど延々と殺し合いを続けたときの事を思い出した…いや、否。あの時の恐怖と緊張を忘れられないので御座る」
「ふうん、成程ね。もしかしてそれは越後での事かい? うん、僕も風の便りで訊いたよ。謎の剣客と堀家の兵どもが、賊に身を堕とした十剣聖の一人を討伐した、とね」
「…風説が全てではありませぬが…いや、その話は御所望なればいづれ必ず致しましょう。しかし、今はどうか」
「――あ、悪かったね。別に君が嫌がる話を無理に聞く積りは無いよ」
「かたじけない。実はまだその闘いが終わってから一月と経っていない故、まだあの壮絶な死闘の日々が記憶に蘇り、毎夜うなされているのです。出来ることならば今生、十剣聖の剣士とは刀を合わせたく御座いませぬよ」
「安心したまえ。少なくとも僕は君と刀を交えることは無いさ。いや、これから先…君が相対するであろう十剣聖たちの相手を僕が引き受けてもいい。それが君と僕の取り決めだからね」
「それを聞いて安心致した。今日の婿選びでは己が他の3人の候補者を妨害して病葉殿を勝たせる、病葉殿は我らの陣営でその十剣聖の力を振って頂ければ、お互い目的は果たされまする。ああ、よかった。十剣聖とやりあうのはそれだけで、人の命を縮めるというものです」
己は我ながら情けない声で苦笑する。
《遠く、犬の声》
「そりゃあそうさ。恐怖を楽しむなんて、常人には出来ないからね。それ以上に、人斬りを楽しむなんて以ての外だ」
「…そう言えば、病葉殿が剣聖になられたのは十年ほど前でしたな。自ずから望んで剣聖になるような方に見えませぬが、一体どんな因果でそうなられたのです?」
「なに、詰まらない話さ。僕も昔は誰よりも強い力を望んでいただけのこと、今じゃ丸くなったがね」
「つまり、剣聖を打ち破ったのですか」
「まあ、そうだね」
「相手の名は、何でありましたか」
「ん? どうしてそんなことを聞くのかね。…僕が討ったのは高天原 万丈とかいう男だったけれど」
「左様ですか…。いえ、妙な話をしました。実は、己は父の仇を探しておりまして。ちょうど十数年前に父を殺した者がいるのです」
「それが剣聖の話とどう関係あるのかね」
「己の名は阿倉 伝奇と申します」
「阿倉…。ああ! 失念してたよ。ということは君の父は阿倉 原典か。なるほど、確かに彼はあの頃、何者かに敗れ十剣聖の座を譲っているね」
「あの時分、織田信長公や武田信玄公といった英傑が各地で熾烈な戦を繰り広げ、その中で十剣聖も多くの戦火にその身を置いておりました。故に、当時入れ替わった剣聖は四人、近来で類を見ぬほど激しい入れ替わり立ち替わりでありました」
「確かにあの頃は相当、戦場を潜りぬけたよ。挑戦者だけでなく、その時の剣聖同士が出会い決闘するなんてこともあった。しかしそうなると、君の父上を殺した仇がその時新たに剣聖になった新参者であるという保障も無いということになってしまう。新参者四人全員が前剣聖との決闘に勝利し地位を奪ったという確証はないからね。運良く同士討ちが起こって、その後釜に座った者も居るかもしれないよ?」
「…確かに。やはり、一人一人確かめるより他に道は無いようです」
「邪推かも知れないが、一つ訊いて良いかな?」
「無論です、なんでも答えましょう」
「親の仇討ちは君にとってのなんだね」
「……さて、何で御座いましょう。今は分かりませぬ」
「ほう。分からないのに何故そうまで求めるのだい?」
「物語に起承転結があるように、起こったことは結末へ向かうもので御座るよ」
「そうかい。いや、案外君は詰まらない男のようだ」
「よく無個性と云われます」
「まあそれも君の生き方か。何、物語が終わる頃にはその文体によって狂言回しにも性格が出て来るものさ。焦らず、まだ結末の見えないうちは自由にやるといい。君は、まだ大丈夫さ」
すると病葉殿は表情に僅かな影をつくり、その内に何かを思ったらしかった。が、すぐに元の柔和な笑顔に戻って口を開く。
「ま、皆その中で迷っているのかも知れないがね。さあ、準備して行こうか。日の出前に富士山麓へ」
《一陣の風。犬の足音》
富士山麓、『千万階段』入り口。蒼褪めた朝霧が濃く立ち込めている。
《山頂の寺の鐘》
己は刀に付いた血糊を払って鞘に納めた。ここへ来る途中、他の候補者の誰かが差し向けたのであろう、夥しい数の兵たちが殺気を荒立たせて襲ってきたのである。斬っては駆け、斬っては駆けた。挙句に道に迷ったりもした。そのお陰で、ここまで来たときには既に朝日は登っていた。敵は目論んだ通りに、まんまと己らより優位に立ったのだ。
「さて、どうしたものか」
幸い、遅れは致命的なものではない。今から急いで階段を登れば追いつくことも可能だろう。己は霞みの奥へと続く階段を見上げた。
――しかし。
混戦の最中に病葉殿の姿を見失ってしまったのは痛手であった。共闘してこの競争を勝ち抜く、まあ正確に言えば病葉殿を確実に勝たせるつもりであったのだが、当の本人と共に行動できないとなると何かしら『不確定要素』が強くなる。となると、やはりこちらは他の候補者を確実に排除し、負けない為の『確定要素』を着実に制圧していかねばなるまい。
「――また、こんな役回りか」
溜息はまだ白く残る。体にまとわりつく寒気を一蹴し、己は千万階段の第一段目足をかけた。
他の3人の候補者が立てた代走者に追いつき、競争が終わるまでは彼らに大人しくしておいて貰わねばならない。無論、剣の腕に訴えてもである。
《リン、と風鈴の音。》
階段脇の石灯籠の影から、耳たぶに小さな風鈴を垂らした法師。
「何奴」
「うぬが阿倉 伝奇か」
「左様」
「拙僧は安楽 濫吾の代走人、石作法師と申す。恨みは無いがぬしには鬼籍に名を列ねてもらう」
「謹んで遠慮致す」
「案ずるな。拙僧の寺でならば葬式代は2割引きしておいてやらう」
「本当か!?」
「嘘じゃッ!」
石作法師は目をカッと開いて、手に持っていた仕込杖の刃を抜いた。己もすかさず鞘を払い、抜き打ちに刃を交えた。鋼のぶつかり合う鋭い音が爆ぜて、虚空に消えるまでの瞬く間に己と法師の立ち位置は一瞬前と逆転している。
「このッ。坊主の癖に、嘘も平気で吐くとは」
「ぬしは知らぬか。坊主は嘘しか云わぬのだ」
「ん? 待て、それじゃ『坊主は皆、嘘しか云わぬ』ということも嘘になり、つまり坊主は正直だということに…む? だがそれでは正直者なのに嘘をついていることになる…? 結局どういうことだ」
「本質は虚構を孕み、偽りは真実を映す。これ即ち釈迦の教え也」
「成る程…」
「馬鹿者め、嘘じゃッ!」
法師の仕込刀が頬を掠める。
「……ッ!」
「ほう、これも避けたか。うぬも中々やるのう」
己は無言で刃を立てた。この無駄な問答のせいで呼吸が乱される。
「確かに、ここで時間を喰っておる暇は無かったのう。では拙僧も本気で行かせてもろう」
そう言って、石作法師は刀を納めた。
「…?」
予想外の行動に己が動揺したその瞬間、石作法師の殺気が膨れ上がった。
刹那、己は前に転がり見えない『刀身』を避けた。背後にあった石灯籠が見事に真っ二つになって階段を転げ落ちていった。法師はいつの間にか抜き身になっている刀を再び鞘に納めていた。
「見えぬ斬撃。名づけて『居合 鎌居断ち』 今度は逃さぬぞ」
「次があると思うなッ!」
己は云うが早いか、刀を右下段に階段を駆ける。法師まであと三歩のところで、また『鎌居断ち』が縦に一筋、風を斬る。己がそれを紙一重に避けたところで、石作法師が刀を大上段に構えたまま莞爾と笑った。
「惜しかったのう、居合というのは嘘じゃ。抜き打ちで無くともこの剣技は発動でき――
「――そんなことだろうと思ってたよッ!」
己は下段に構えた刀を振り上げた。間合いはまだ遠いため切先は法師の鼻先にも及ばない。
が、刀に巻き上げられた礫が石作法師の顔に飛んだ。「むぅッ…!!」と呻いて思わず顔を背け怯む法師へ、すかさず諸手突きを放つ。石作法師は何とか体を翻してそれをかわし、己へ向けて刃を横に薙いできた。だが己は刀を持つその手を掴みながら当て身をくらわせ肘を顔面へ叩きこんだ。
「……ッぷぁ!!」
鼻血を吹きだしながら石作法師が倒れ、階段を転がり落ちて行く。石作法師の両耳の風鈴が喧々鳴って遠ざかっていった。
「信じていたさ。あんたが根っからの嘘吐きだってな」
己は額の汗を拭う。
「まずは一人」
《砂利を踏む音。山の傾斜を風が下る》
「む、貴殿も婿候補の代走者とお見受けした。己の名は阿倉 伝奇。婿候補の一人で御座る」
「安楽の代走者を追い抜いたか。なるほど貴殿もそこそこの実力者と見受ける。我は帝より従七位の位を賜り近衛府にて将曹を務めている真亡家が次女、真亡 文匣です」
「宮廷に仕える選りすぐりの武官でも名高い真亡家の人間か。一筋縄では行かないらしいな」
「お互い名乗りも終えたところで、いざ尋常に勝負…」
「――」
「と、云いたいところであるが」
「な、なんだ?」
「御領を守護する他に任を受けるのは本意ではないが、左大臣より勅命を受けここへ参った次第。このような私益の戦で刀を汚したくはない。ここは一端お互いに手を結び、先に口門回問が雇った代走者に追いつこうではありませんか。それならば我と貴殿が斬り結ぶかどうか、その結論はまだ先送りに出来きましょう」
「先送りしたところで意味はないと思うが……敵に漁夫の利を与えないというのは最もな意見だ。ここで争っていてる暇はないな」
「よろし。では行こうではありませんか」
《朱色の鳥居、鳥居、鳥居、そして鳥居。並び立つ鳥居の中を男が歩く》
「待たれよ。貴殿が口門殿の代走者で御座るな」
「――左様ゥ。柳生 車持だァ…。お前さん方等二人仲良く登って来てェ、そういう関係なのかァ…?」
「我には、貴殿がどういう関係のことを言っているのか解しかねます。――しかし、あの柳生家が口門などの成り上がり国主に雇われるとは、世俗は随分と世知辛くなったものですね」
「おおっとォ…、勘違いしちゃいけないィィ。柳生家はこんな男女の縁結びを請け負うほど暇じゃねぇんだァ…。まあァ、お前さん方になら言っても大丈夫かァ…。某の目的は、病葉 祇園よォ…。口門の若造には悪いがァ、ちょっと姫様を借りてくのさァ…」
「来るべく大戦に向けて、か?」
「まあお偉い爺さん方が言うにはァ、そういうこったァ…。病葉が惚れたとか云う咲耶姫とやらを誘拐すれば、暫くはこっちの言うことも大人しく聞くでしょうゥ、ってねェ…」
「悪いが、病葉殿にはもう先約があるゆえ諦めてもらおう」
「ほおォ、さてはお前さン…端っからそれが狙いだろォ…」
「答える義理は無いな」
「ごほん、それでは咲耶姫は東条路様のものでよいのですね」
「いや、そうは上手くいかないもので。己は病葉殿が姫を勝ち取るのに協力すると云う約束をしている。詰まり、真亡殿をここから先に行かせることは出来ないということです」
「それは残念だ。それで、貴殿も姫は人質として必要だ、と」
「まァ、そうだねェ…」
「となれば、止むを得ません」
真亡殿が剣を抜いた。スラリと煌めいた長剣の切先が流水の如く踊って忽ち襲いかかって来る。己も刀を抜いて彼女の妙技を何とかいなしてその必殺の間合いから離脱する。
――と、今度は柳生の兇刃が己を襲った。己は鞘を逆手に持って一撃を凌ぎ、お返しとばかり一太刀を振う。一歩引いてそれを避わすと、頭の被り笠を己へ向けて投げつけてきた。笠が「ふわぁり…」と空中で廻っている、――その笠の中心を剣先が突き抜けてきた。柳生は笠を目くらましにして己に突きを放って来たのだ。それも、とんでもなく迅い。
避けきれない。ぬらりっ――と伸びた刃が己の頬を深くなぞった。
「うっ…ぐ!」
「ほおォ、辛くも避けたかァ…。やるねえェ」
柳生殿が血の付いた刃を見て薄笑いを浮かべる。だがそこへ、今度は真亡殿が斬りかかっていった。鶴が舞うように、ひらりひらりと敵を翻弄する長剣は的確に相手を追い詰める。柳生殿の剣が邪道ならば、真亡殿の剣は正しく王道である。太刀筋の一寸にまで無駄を省いたその軌道は輝いてさえ見える。柳生殿はその一つ一つを吟味するように目で追いながら、間合いから逃れた。
「おっとっとォ…、危ないじゃないィ…!」
「不本意ながらァ、この状況では尋常に勝負とはいかないのでェ、悪しからずゥ」
「真亡殿、口調移ってますよ」
「ハッ!? くっ、不覚…! こ、これは偶々だ、我が影響を受けやすい女だと思わないで下さい!」
「は、はあ…。――む? だが真亡殿はさっきまで己と一緒に居ても何も変化していなかったな。ということは……己には影響を与える個性すら無かったということか!? うぅむ…そんな……」
「何だかお前さん方面白いねェ…。斬るのが惜しくなっちゃうよォ…」
「そんなこと言ったって、結局は斬るんだろう」
「まあねェ…」
柳生殿は悩ましげに笑って、無精髭を撫でた。
「所でェ…お前さん方、『竹取物語』知ってるだろォ…?」
「我は知っている」
「己も知っているが、それがどうしたと」
「かぐや姫が月に帰るときィ…、あいつ急に冷めたよなァ…」
「…ああ、そういえば天の羽衣を着るとその途端、人の気持ちがなくなったと物語に御座ったな」
「結局ゥ、竹を取って慎ましく暮らしていた筈の爺婆はァ、かぐや姫拾って喜んだのもつかの間ァ結局はその喜びも上回る喪失感を抱えたまんま死んでいったァ…。月に帰ったかぐや姫はもう老いぼれ共のことなんざ覚えても居ないってのになァ?」
「わ、我はそこまで考えたことはなかったですが…」
「結末が悲劇に収束するならばァ…心温まる過程も茶番に過ぎンとは思わんかァ。過ぎたるは及ばざるが如しってなァ…。普通の竹だけ取っていればよかったものを、人の手に余るような光る竹に触れて、人の手に余りある幸福を望んだ爺の非を責めるのは自由だァ…。だが問題はそこじゃァないィ…」
「……」
「かぐや姫が人と違ったのはァ…、自分から終結を迎えないことで終末を迎え入れたことだァ。これは茶番を演じない賢い選択だと思わンかァ…? 結末はやってくるがァ、終末は自分で迎えられるゥ…。だがお前さん方はどうだァ? 考えてみろォ、刀で殺し合った結末が血以外の何色で染まるゥ? 若いお前さん方ならァ、まだ色で染める余白が残ってるだろォ…。だからこんな斬り合いしてないで、町に出て恋人の一人や二人作っていればいいんだよォ」
「――た、確かに。そうなのでしょうか…?」
「真亡殿、簡単に流されてはいけませぬぞ!」
「はっ。いかんいかん! わ、我は我の意志で動いているから心配は無用です」
「認めようとはしないのか」
「お前さんもなァ…阿倉。若いのは年長に従うものだァ」
「何だ、急に説教臭いことを言い始めて。さっきまでその未来ある若者を殺そうとしていたのは貴殿ではないか。――それと思い違いなさるな、己は結末が血色でも過程が茶番でも当然なのだと受け入れよう。千年世に残る物語とはそのほとんどが悲劇なのだからな」
「――そうだそうだ! 阿倉殿の云う通り。悲劇が待っていようと、我は我の生き方どおりに生きる」
「真亡ちゃんは兎に角ゥ…。ああ、若いねェ。そりゃあそうだァ…悲壮感は時として人を駆り立てるゥ」
《鳥居の影が石段に射す。春の風が降りる》
真亡殿は柳生殿の左に並び、刀で火花を散らしながら階段を駆けて上がっていき、己は二人の追撃をかわしながら、時には立ち止まり斬り合いながら、千万階段を先だって登っている。3人が駆け抜けた瞬間に次々と、群居する鳥居が切り刻まれ崩壊していく。自然、土埃に追われるような形で階段を上がっていく。
柳生殿が身を屈めて己の払った刀身を避けつつ真亡殿の足元を薙ぐ。真亡殿は華麗に跳躍し刀を避け、長剣で空を裂く。3者は攻めつ守りつ拮抗状態のまま、ついに山の竹生野大社の境内に着いたのであった。
《頂上の巨大な鳥居。――ゆっくり、倒壊する》
「ここは」
「どうするゥ…? もう着いちゃったけどねェ」
「ここで、決着を着けましょうぞ。最後まで生き残った者が姫のことろまで行く。異存はありませぬな」
「ま、いいさァ」
「ええ、承知致しましょう」
「…――」
《3人が其々構える。音は――ない》
突如、神社に火の手が上がる。――と同時に、叫び声。
「…何だ何だ、折角いい所なのにようゥ。本殿の方だなァ。どうするゥ…、お二方よォ?」
「どうするもこうするも、神社には東条路様も居らすのです! 万一、大事があれば我は一族の面汚し…!」
「咲耶姫に何かあったのだろうか…?」
《春の風。境内には火炎が渦巻く》
「本殿も酷い有様だ。ん、これは…安楽殿か…! 一太刀で絶命しているところ、下手人は並みの剣士ではないな」
「東条路様! 東条路さまァーーッ!! 何処で御座いますッ!?」
「火の手が早い。はやく見つけなければ…! 誰かおらぬかー!」
「――だ、誰ぞ! おお真亡ではないかッ」
「や、柳生の! 助けてくれェーッ!!」
「ややァ、これは口門殿」
「東条路様!! お怪我は御座いませんかッ?!」
「ううぅ、遅いッ! 此方まで死ぬ所じゃったわ!」
「や、柳生の。早く早くここから逃げるぞ。アレは正気ではない、正気の沙汰じゃないッ…!!」
「一体何が起こっているのです? 一体誰が?」
「それは――
言いかけた口門殿がカッと目を見開いた。血を口から溢れださせ、そのまま崩れ落ちる。背後から斬られ、肩口から腰辺りまでほぼ一刀両断、辛うじて腹部の皮一枚でつながっている。口門殿は畳に血だまりを広げながら最後の息を吐いた。
「――ひいッ!!」
東条路殿の白粉塗りの顔でも見て取れるほど、その顔色は恐怖にサッと蒼褪めた。己も、燃え盛る回廊の奥から歩いてくる者に目を驚かせた。
「お前は…!」
「あ、阿倉ァ 伝奇ィ…ッ。先はよくもやってくれたなあ!!」
「――石作法師…!? 一番初めに倒した筈だが…」
「我ら3人が三つ巴に争っていたとき、先を越されたのか」
「みたいだねェ…。阿倉さんよォ、やるんならしっかり殺って呉れんかねェ…」
「追い抜いたのは事実だが、殺したとは誰も言っておりませぬぞ」
「刀を抜くってことはどちらかが死ぬまでやり合うってことだろうがァ」
「阿倉殿、柳生殿。今は言い争いをしている場合ではないでしょう」
「咲耶姫は渡さぬ、咲耶姫は渡さぬ、咲耶姫は渡さぬ、咲耶姫は渡さぬ…!!」
「東条路殿、石作法師はどうしてあのように乱心を?」
「此方に聞かれても知らぬっ。…安楽の代走者が一番に着いて、『勝負は着いた』と姫は申したのおじゃる…。『石作法師の労もねぎらいたい』と姫のいる座敷に安楽と石作を呼んだのじゃ。それから直ぐに安楽の悲鳴が聞こえて」
「姫様、姫様、姫様は渡さぬぞ」
「――取りあえず、あの男を片付けて姫を探さなければなりませんね」
「自分の尻は自分で拭いなァ…」
「分かっている」
「いや、それには及ばない。御苦労だったね、阿倉君」
「病葉殿!」
病葉殿は朝に見たカラリとした涼やかな服装のまま、まるで周囲の凄惨なようすから乖離した風貌で登場した。
「病葉殿。念の為に言っておきますが、その男の太刀はかなり早いですぞ。この程度の距離ならば一瞬、いや刹那に斬り込んでくるでしょう」
「ほう、それは凄い。じゃあ、僕と速さ比べといこうか」
病葉殿は刀を抜いた。炎の臙脂色を照り返す刀身は構えられた。石作法師は相変わらずブツブツと呟きながらも柄に手を掛けている。誰かが、唾を飲む音がした。
刹那、血飛沫があがった。焼けていない白い障子が朱に染まる。
「――あぁぎゃあああッ!!」
無論、刀を落として斃れたのは石作法師である。病葉殿は刀を鞘に納めた。
「馬鹿な…我の目をもってしても見えないのですか!!」
「速い、どころじゃねェなァ…いや、まさか斬るまでの『過程』が無いのかァ…!?」
「病葉殿、これまで何処に?」
「口門殿が差し向けた兵に攪乱されて、道に迷ったんだよ。――それより、咲耶姫の無事を確認せねば」
《皆々様…。奥へいらっしゃいませ》
「咲耶姫…?」
「ここに姫が…? 姫、扉を開けます!」
開けるとそこには、一人の少女が凛としてあった。艶やかな髪は畳を怪しく這い、炎の色を黒く輝く深緑の髪に宿している。情熱的で煽情的。にも関わらず、けっして咲耶姫は『美女』であると形容出来なかった。『美女』以上の何かであった。
というのもそれは、美女が持つことの出来ない、それに反するような、無垢で冷たい『少女』が永久凍土のように彼女の中に僅かばかりも解けないまま残っているのだ。雪のように白い肌は雪よりも澄んでいて、あたかもそれ自体が輝いているように見える。長い睫毛は慎ましく瞳を遮って、少女の如何なる感情をも読み取らせてくれない。それなのに少女に柔らかく神々しいまでの慈愛を有しているような印象を抱かざるを得ないのは、彼女の唇が自ずと微笑するような奇跡の造形をつくりだしてい為であろう。
咲耶姫を見てしまった者は言葉を失ってその姿を眺めていた。彼女の傍らに安養院殿の亡骸が横たわっているのにも誰も気付かなかった。
「姫…」
病葉殿が白昼夢に居るような表情で呟き、一歩進み出た。
「病葉様。わたくしを愛して下さいますか」
病葉殿は姫の足元に身を投げて、その手を取ろうとした。だが、病葉殿はそのまま石のように動きを止めた。
「どうなさったのです…? わたくしを愛して下さらないのですか」
「――」
そのまま今度は、姫は立ちすくんだままの己たちへ語りかけた。
「わたくしに、想いを寄せてくれるお方は居られないのですか…?」
その言葉に。そこに居た全員が、己も、柳生殿も、その全員が息を飲んだのである。永遠のような一瞬が過ぎて、東条路殿がようやく息を吸い込む音がした。
「咲耶姫、此方が――
東条路殿が信じられない様な目で、腹から突き出た刀と、真亡殿とを見た。そして、何か言おうと口を開いた瞬間に大量の血を吐いて斃れた。
「真亡殿ッ…!! な、何を?」
「――あ。あ…!!」
真亡殿は瞳孔も開いたまま主君の血で染まった手を見た。
「わ、我は……! 我は…」
「は、ははっ。成程、石作法師が乱心したのも姫のこの魔力か。真亡くんと言ったね…。君も僕と同じ、主君殺しだ」
「わ、病葉殿?」
「僕の異名は『国崩し』 絶望の剣客さ」
「仕えた国の臣下をすべて斬ったァ、と云うのは病葉のことだぜェ…。まともそうな顔してェ、こいつは頭のてっ辺からつま先までェ、全部狂ってるのさァ」
「な…! そんな……」
「僕が昔仕えた国を滅ぼしたのは、事実だ。でも実際、僕はそれほど狂っているのだろうか。考えてみたまえよ、阿倉君。永遠はない。ならば手に入れたものも何時かは失うのが定めなんだ。そんな結末しかないこの世に、価値がある過程と呼べるものがあるのかい? 」
「――ならば! どうして咲耶姫の婿選びに参加したのですか!?」
「その訳を正当化できる理屈を、僕は持っていない。子供が欲しい物をねだるのに合理的な理屈を、誰が知っているんだい? 僕は力を欲し、権力を欲し、友を欲し、女を欲した。どれもこれも、手に入ったよ。僕の十剣聖の力を持ってすれば。だけどね、その時点ですべて失ったも同然なんだよ…」
「あ、貴方は我がままだ、狂っている!」
「否定はしないさ。きっと僕の力がもたらすであろう結末も分かっている。でも幸いにして、この力は僕の欲求を叶えるのに適しているんだ。解ったんだ。手に入れずして、欲しい物を手に入れる方法を。君は分かるかい?」
「……ッ」
「咲耶姫を愛した人間を、全員殺す。これまでのも、これからのも。僕以外に誰も彼女を愛させない。どうだい、理に叶ったことだろう――!? それには先ず、君らからだ」
「病葉殿ッ!!」
「阿倉よォ、狂人を相手に無駄だァ。しかも悪いことに相手は最強の狂人だァ…。あいつから生き残るにはァ、共闘するしかねェ。真亡ゥ、お前さんもだァ」
「あ、ああ……」
「不本意だが、仕方ない! ――クソ、また十剣聖とやりあう羽目になるのかッ!」
《炎の中、不気味に屹立する病葉。笑みを浮かべる咲耶姫》
真亡殿の刀が空を薙いだ。――だが病葉殿、いや病葉は、据えた目のままにそれを避けて逆に真亡殿へ斬り込んだ。先に口門を庇ったときに己が吹き飛ばされた、あの斬撃が真亡殿を襲った。
「ほう」
病葉は感嘆の声を洩らした。真亡殿はあの斬撃を完全に流したのである。いかな優れた剣客でも、あれを出来るのは極僅かだろう。真亡殿は流水が剣筋を反らせるようにするりと敵の攻撃を流して、さらにまた斬り込んでいく。
そこへ柳生殿が、病葉へ向かって豪快な逆胴斬を放った。病葉は真亡殿の刀を避けながら、柳生殿の胴斬りを刀で受け止めた。すると柳生殿は、自分の刀を手放した。そして病葉の刀を敵の手ごと掴んだのである。
「無刀取り・三ノ型『風車』ァ!!」
病葉の刀は柳生殿の手にもぎ取られるとクルリと逆巻いて、そのかつての持ち主の肩口から斬ろうとした。だがそれよりも早く、病葉は柳生殿に握られた刀をあっさりと手放すと、もともと柳生殿が持っていた刀を足で蹴り上げて右手に握り、柳生の秘剣を受け止めたのである。
「これを防ぐかァ、化け物めェ…!!」
「柳生殿、伏せろ!!」
「何しやがるゥ!?」
「ふぅ…ッ! 『居合 鎌居断ち』!!」
己は石作法師の剣技を模写して放った。鋭い音だけが空を斬り裂いていく。病葉はすう…と目を細め刀を正眼に構えた。そして、見えない刃へ自分の刀の刃を縦に合わせて、それを相殺してしまった。
「う、嘘だろう、細い刀の刃と刃を……!!」
「もうこの神社も長くもたないようだ。そろそろ終わりにしよう」
「余裕ぶりやがってェッ…」
「――あああッ!!」
真亡殿と柳生殿が同時に斬りかかった。己の前に、焼け落ちた梁が落ちてくる。
《神社が倒壊していく。怨恨に満ちた炎は益々激しさを増している》
真亡殿は、自らの君主と同様に腹部へ刀を突き立てられ、柱に立ったまま死んで留められている。柳生殿は血だまりの中に倒れていた。柳生殿は血の滲む歯を食いしばりながら、何を想ったか咲耶姫に手を伸ばす。咲耶姫はフッと柳生殿に屈託の無い微笑を与えた。それと同時に、柳生殿の手が床に落ちる。
病葉は生き残った己に感情の無い目を向けた。
「僕の技は、『斬る』と云う過程を越え『斬った』と云う結果しかもたらさない。始点もないまま終点を落とすと、そこに線は描けない。残るのは一つの、仮想された点だけだね。知ってるかい? 点っていうのは正確な意味合いを持たせよとすると我々の目には見えないものなんだよ。ただ筆に墨を浸してポンと落すんじゃ点じゃあない。それは大きさを持った円だ。点というのは、存在しながら実在しない。冷酷だけど優しい、すべてを兼ね備えた概念と思わないかい?」
「解しかねまする――」
「何故だい」
「貴殿の人生のみが貴殿の過程を表す。それは間違いでありましょう。物語とは書かれ、読まれてこそ物語として成立する筈のもの。書いただけで終わるならば、存在せぬのは過程でなくて物語そのものだ。だが、貴殿は存在している。この島国の人々から十剣聖として『読まれている』。『国崩し』という人物像が考えられている。それは貴殿が死せども結末を迎えない。人の世が続く限り、物語は終わらない。始点は貴殿の剣技よりも前、気付くよりも遥か以前から存在しているのです」
「…その自論は立派なものかも知れないね。けれども、それは僕自身が抱く絶望に答えを与えられるものじゃないんだよ。さっきも云った通り、これに正当化できる理屈はないんだ」
《囂囂と燃え上がる炎。崩れる本殿》
「病葉様、もう御仕舞にしましょう」
「……ふむ?」
咲耶姫が口を開いた。焼けつくような熱さの中、彼女はそこだけ取り残された聖域にいるように慎ましやかに座していた。
「終わりに…しましょう」
咲耶姫はもう一度言う。病葉の目に炎が揺らめいた。
「――なるほど、その手もある。君となら、僕は怖くないよ」
「ええ。初めて病葉様に逢った時から、貴方様にはわたくしと同じようなものを感じておりました…。貴方様が城までいらしたときは、わたくし胸が詰まるように嬉しかったのです。わたくしは、欲しいものをすべて手に入れてしまう欲の深い女です。すべての花が欲しい、すべての喜びが欲しい、すべての愛が欲しい。…事実、すべて手に入れました」
咲耶姫は安養院を一瞥したが、その瞳は優しく涙に光っていた。
「母上はこの上なくわたくしを愛して下さいました。わたくしが欲しがる物を与えて下さいました。けれどその対価のように、すべてを手にして放さないわたくしの心は、いつしか失う哀しみを求め始めたのです。ただ桜の木が恐ろしかった。鶯の声が恐ろしかった。愛される幸せが恐ろしいかった。わたくしは愛するものを失うことで、ようやく愛を感じ取れたのです」
「安養院殿を殺したのは、まさか…」
「失望なさいました? それより前から、婿選びにわざわざこんなことをさせたり、病葉様と阿倉様の参加を認め、石作法師を惑わしたののも、わたくしでの強欲で御座います。ほら、わたくし決して善良な女ではありませんわ。本当に御免なさいね」
「咲耶姫」
病葉が姫に寄り添う。
「物語は終結に近付いている…。ここらが、僕らの頑執を満たす最初で最後の機会だと思う」
「ええ…。最初で最後で最高の機会です。病葉様は無下になさりましたけど、わたくし、貴方様のお言葉にとても感動致しました。ね、阿倉様。厚かましいと仰らず、どうか約束して下さいませんか。傲慢なわたくしの、たった一度の『一生のお願い』を」
「まさか二人ともここで……。解りました。どうぞ、云って下さい」
「有難う御座います。では、『咲耶姫と病葉は羽衣に身を包み、真ん円のお月さまへと帰っていった。』わたくしたちの物語はそう締めくくって下さいませ」
「――はい」
「本当に有難う御座います。御恩は忘れません」
「――阿倉君。君との約束を反故にしてしまって、悪かったね。あと殺そうとして」
「殺そうとしたことをついでのように言わないで下され。まったく本当に、とんだ無駄骨で御座った」
「ははは。じゃあ僕も、厚かましいけど一生のお願いを言おうかな」
「はあ、本当に困った御人だ…」
「いやなに、ただ僕に言わせてくれるだけでいいんだよ。『さようなら、君は僕にとって最高の友人に成り得た』 ――ふう。さ、早く逃げたまえ。ここはもう焼け落ちる」
「――病葉殿。さらば」
《――囂囂。立ち去る阿倉。目を閉じる二人》
日も沈んだ空へ、富士の山から煙が月に伸びている。
…………
……
…
「顛末を知るは己のみ。か」
己は焼け爛れた炭の荒野を一人眺めていた。
神社のあった境内に、たった一本の桜の木が残っている。
仕方がないので、己はこの木を物語の結末とすることにしよう。
そして『国崩しと咲耶姫』物語は、また別の話――
《空から鶯、何処吹く風》