第2話 Cast No Shadow/02
【改訂版】(コード・フレームワーク) ブレード ― データの少女は仮想世界で夢を見るか?』
無印からの続き、第1章 point of no return - 白刃鼓動すべし が開幕です。
お楽しみください。
――
「ふぅ……」
深く息を吐いて、チセは大きな猫足バスタブの縁に身体を預け、そのままたっぷりと張られた湯の中に身を沈めた。
この空間は、チセ自身が組み上げたものだ。
外部からの情報入力は遮断され、ここにいる限り、新たな刺激は一切入ってこない。
――エクス・ルクスも、似たような場所だった。
でも、あそこには仲間がいた。
遮断され情報が流れ込むことはないが、知識や工夫は、内側で静かに循環していた。
今になって思えば、あの世界の時間は、噛み締めるように、ゆっくりと積み上がっていくものだった。
それに比べて、人間の世界はどうだ。
更新は止まらず、刺激は常に新しい。
変化の速さそのものが価値になり、気づけばチセは、その目まぐるしさに快感を覚えるようになっていた。
――依存症。
その言葉を知ったのは、人間の世界に来てからだ。
だが今ならわかる。
自分が、故郷とは質の異なる、際限のない情報の奔流に浸かっていたことを。
人間は、こう言っていた。
『人は現実を捨て去ることはできない。 だからこそ、デジタル・デトックスは現代人にとって必須のイニシエーションなのだ』
ログアウト週間強化月間に、よく見かける標語だ。
この言葉を知ったとき、チセは少し怖くなった。
なぜ故郷が、外部との接触を最小限に抑え、多くを拒んでいたのか。
その理由が、ようやく腑に落ちたからだ。
DQLには、人間の言う現実は存在しない。
このインター・ヴァーチュアこそが、すべてだ。
それでも―― 急激な変化と膨大な情報がもたらす優越感や万能感が、チセの感覚を、静かに、しかし確実に書き換えていく。
変質した肉体よりも、もっと奥。
内部そのものが変わり始めているという実感が、突然押し寄せてきた。
まるで、人間の言う薬物依存だ。
対処法を調べてみると、話は意外なほど単純だった。
大きく分けて、二つ。
一つ目は、根性で刺激を断つこと。
この空間が、まだ白い光だけの小さなキューブだった頃。
チセは、真っ先にそれを試した。
膝を抱えて座っていただけなのに、一時間で汗だくになり、意味もなく足をばたつかせ、三時間も経つ頃には過呼吸を起こして、外へ飛び出していた。
口元まで湯に浸かりながら、あの時の自分を思い出し、チセは思わず吹き出す。
「……ぷっ」
ぶくぶくと、湯が泡立った。
そもそも、根性とは何だろう。
困難に耐え、最後までやり遂げる精神力。
そう説明されていたから、自分にもできると思った。
――とんでもなかった。
ケイトに話すと、「それ、イラネーやつだわ!」と大笑いされた。
その反応で、チセは察した。
また、やってしまったのだ。
曰く、根性とは、思い込みで自分を騙せる人間が使う、かなり危険な代物らしい。
論理的で、理知的な自分には向かない。
チセはそう結論づけ、もう一つの方法に頼ることにした。
二つ目。
信頼できる相手に、相談する。
ケイトは、この場合、適任ではない。
だからチセは、アジエに聞いた。
もちろん、依存症の話などせず、ログアウト中の手持ち無沙汰な時間を、どう過ごしているのかを。
「えっと…… あたしは泳いでるかな。 あとは、好きなことしてる」
「……好きなものって、何だろう」
思わず、口をついて出た。
アジエは少し考え、それから言った。
「まず、学習とか自己啓発とかやらないこと」
怪訝な顔をするチセに、アジエは肩をすくめる。
「頭でっかちすぎ。 音楽でもいいし、長風呂でもいい。 とにかく、考えるな。感じろ」
そして、こう付け加えた。
「気づいたら時間が過ぎてた、ってやつをさ。 まず経験しな」
その助言に従い、チセはこの空間を整え始めた。
HODOに来たころ、調子にのってちょっとした贅沢をしたあの場所を再現するためだ。
なぜそうしたか言えば―― 思い返すと、あの短い数日。
あれは、チセにとってまるで生産性のない…… まるで何も考えていない唯一の時間だったからだ。
だからまずは類似した空間を作り、トレースすることにしようと考えた。
そこから、今では空間もさることなが、行動もちょっとしたアップデートっぷりだ。
最近はといえば――。
姿勢を変え、湯に浮かぶ。
長い髪が水中でゆっくりと漂う。
耳元に指を当てると、瞳と同じ緑色の三角形が現れた。
淡く脈動し、発生している音と正確に同期している。
チセは、静かに目を閉じた。
Medicine。
人間の現実で90年代と呼ばれる時代に誕生した、シューゲイザーと呼ばれる音の中にいるバンド。
もはや、すでにかなり昔の音楽だ。
この音には、いくつもの形がある。
整えられたものも、解像度を上げたものも。
それでも―― 気づくと、いつもここに戻ってきている。
ノイズは荒く、ギターは輪郭を持たない。
削り出されたままの音が、むき出しで重なっている。
だが、その粗さの奥に、はっきりとデジタルを感じる。
野生的で、制御されていなくて、それでいて、完全な無秩序ではない。
生成されたばかりの空間データが、最適化も圧縮もされないまま、そこに存在しているような感触。
ノイジーなギターの層が、空間を満たす。
旋律というより、密度。
進行というより、滞留。
時間が前に進んでいるのか、同じ場所で脈動しているだけなのか、わからない。
それが、いい。
テクノも、エレクトロ・ポップも、オルタナティブも、グランジも。
たくさん聴いた。どれも嫌いではなかった。
それでも―― 気づくと、結局はここにいる。
シューゲイザーの音の中で、Medicineを流している。
理由は、思い当たらない。
選んだというより、もう、そこにいた。
考える前に、音が鳴っている。
ただ、それだけだ。
緑色の三角形が、一定の周期で脈動している。
見ているのか、聴いているのか、その境界はもう溶けていた。
チセは、静かに息を吐く。
(――やっぱり、これだ)
理由は付けず、音量をほんの少しだけ上げた。
――
ジクサーのブリッジでアジエは、柳橋とちょっとした共犯めいた感覚を味わいながら、再び目の荒い立体映像に目を向けた。
「こいつが、研究所? ちょっとしたテリトリー並みの施設じゃんかよ」
「ああ…… しかも地下施設だ。闘神時代よ、いくつか似たようなのは見てきたが、こいつはちょっと作りが違う」
柳橋は、施設と地表の接点をなぞるように指を動かす。
「こいつは、そもそも物理的な防衛線を想定してない」
「確かに――。 でもフェデレーションは手こずってる。 ってことは、見た目は別として中身はだいぶ臭いね」
「連中、どのくらい続けてると思う?」
アジエは肩をすくめた。
「現実時間で、三年もやってるらしいぞ」
今度は呆れた顔で首を振る。
「……V5ができた頃から続けてるってこと?」
「メサイアがこいつを見つけたのは、もっと前らしい。 だが、本格的に中を荒らし出したのはログを見る限り、たしかにV5設立の時期だ」
柳橋はキャプテンシートの上で足を組み直した。
「もっと正確に言うと、例の四機の情報が出回り始めたころだな」
「なるほど。だからオズの研究所ね。それにしても…… どうやって埋めたんだ、これ?」
「さあな。 そもそも、見た目通りかどうかも怪しいもんだ」
柳橋の言葉に、アジエは立体映像をもう一度眺め直した。
地表に露出している構造はわずかだ。
だが、それが隠しているのか、最初から見せる気がないのかは、判別がつかない。
「地下に埋めたってより…… 最初から、ここに在る感じだね」
「ああ。 掘ったんじゃねぇのは確かだ。 だが、この通り、広がり方が妙だ」
柳橋は視点を一段引き、施設そのものではなく、周囲の地形、コード密度、データの流れを表示させた。
「連盟は正面から入ろうとしてる。検疫、封鎖、段階的制圧…… いつものやり方だ」
「だから、三年もかかってる」
「そういうことだ」
柳橋は肩をすくめる。
「ここは門じゃねぇ。 入口を探す場所じゃない」
アジエは一瞬だけ黙り込み、ゆっくりと息を吐いた。
「……つまり、横か。 それも、地表でも地下でもない」
「察しがいいな」
柳橋は施設から少し離れた位置にマーカーを打った。
地形的にも、データ的にも、何の特徴もない空白。
「連盟が一番信用しねぇ場所だ。 何もないって判断したところ」
「嫌な入り方するねぇ……」
「昔からだ」
柳橋は、わずかに口の端を歪める。
「闘神の頃もな。 相手が守る気も起こさねぇところから、よく殴り込んだ」
アジエは、ふと別の点に気づいて眉をひそめた。
「で…… 今回は、チセも乗せるって話だったね?」
「ああ」
即答だった。
「今回は、あいつがいないと意味がない」
「理由、聞いても?」
「まあ、連盟が手こずってる理由は二つある。 一つは、ここが戦う場所じゃないこと」
「もう一つは?」
柳橋は、施設全体ではなく、その内側に重なった不可視の構造を、指でなぞるような仕草をした。
「こいつは、まるで、性格の悪いパズルだ」
「パズル?」
「ああ。 しかも、解かせる気が最初からねぇタイプの」
アジエは立体映像を睨みつける。
「連盟は場所として見てる。施設、通路、区画、敵、守備…… 全部、人間が理解できる形に落とそうとしてる」
「だから、全部ズレる」
「そうだ」
柳橋は即座に肯定した。
「ここはな、空間じゃねぇ。 状況でもない」
一拍置いてから、言い切る。
「データだ。 しかも、親切さゼロのな」
アジエは小さく鼻で笑った。
「なるほど…… 順番も、入口も、意味も用意されてない」
「見る側の感覚を試してくる」
柳橋は、視線をわずかに落とす。
「だから見た目通りじゃなく、データとして見る癖がついている、チセが必要だ」
アジエは肩をすくめた。
「なるほど。 ビリー・オズニアックと似た感覚ってことね」
「そうだ。 オズに会ったことあるお前の方が、俺よりよっぽど腑に落ちるだろ」
柳橋は、きっぱりと言い切る。
「世界を意味で読むか、並びで読むかの違いだ―― だっけか?」
「あたしの書いた論文、引用してんじゃねーよ」
仏頂面のアジエに、柳橋が嫌味な笑顔を返す。
ブリッジに、短い沈黙が落ちた。
「今回はな」
柳橋は静かに続ける。
「力押しで三年やってダメなもんを、同じやり方でやっても仕方ねぇ。間違えずに通れる感覚が要る」
立体映像の中で、連盟の監視網の隙間が、淡く点滅していた。
「それで、誰のCFに同乗させるの?」
「足の速さと、狭い場所での行動力を考えりゃ、γだな」
「やっぱり悠か――」
ため息をついた。
他の二人と組ませるよりもチセ、本人がやる気を出すだろう。
妥当な組み合わせだとアジエは思う。
それよりも心配なのは――。
「γだけど、あれはもう限界だよ…… 出して大丈夫なの?」
「死に水取るまで、悠は降りねぇよ。保たせる意味でも、チセを乗せるしかない」
柳橋は苦々しい顔で続けた。
「それに、クラッシュ相手に立ち回ることになりゃ、悠が必要だ」
アジエは、また小さくため息をついた。
その通りだ――。
悠に自覚があろうが、あるまいが――。
やってることが、デタラメすぎてチセが評価しようが、するまいが――。
結局、アルマナックの中で個としては悠と壊れかけのγが最大の戦力なのだ。
読んでいただき、ありがとうございました。




