第8話 チセ―An Education/03
【Flashback】
わたしも裸になり、髪が湯につからないようタオルでまとめた。アジエのように肩にボディタオルを掛けて堂々と歩くことはできず、バスタオルを体に巻いて隠す。
そんなわたしに、アジエは入浴のルールを教えてくれた。
ルール1、浴槽前に体を洗うこと。
ルール2、手足から湯をかけて慣らすこと。
ルール3、長い髪はまとめること。
ルール4、タオルは湯船に入れないこと。
「で、あと二つ大事なルールがある。ルール5、バス・クラブについて話すな。ルール6、絶対に話すな」
「同じことでは?」
「大事だから二回だ。場所も風呂も秘密、You See?」
「I…… I See……」
アジエはくもりガラスの引き戸を開けた。温かい湿気が一気に押し寄せ、肌を包む。宿のバスルームとは違う、圧倒的な存在感をもった湯気だった。
アジエがその中へ消え、わたしも慌てて足を踏み入れた。床はタイルのように硬いのに、何かが違う冷たさが伝わる。
「チセ、閉めてよ。冷えるから」
言われて引き戸を閉めると、流れ込んでいた空気の渦が止まり、湿気が静かに上へ昇っていく。まとわりついていた湯気が徐々に薄れ、視界が開けていった。
そこに広がっていたのは、わたしの知るバスルームの常識を完全に壊す光景だった。
正面は一面、巨大なガラス張り。水滴がつたう壁の向こうに、展望台のような景観が広がっている。
(……アジエは、どんだけスケスケが好きなんだろう)
巨大なガラス壁の下には、湯気を立てる大理石のような巨大浴槽が広がっていた。ほとんど泳げる広さだ。
足裏に感じていた感触の正体もわかる。規則性のない石のタイルが敷き詰められ、密度の違いがはっきり伝わってくる。床だけでこれだけコストをかけるなんて、人間の感覚は本当に不可解だ。
壁際にはシャワーが三つ並び、小さな椅子と黄色いオケ、棚には石けんのようなピンク色の塊。
アジエはすでに椅子に座り、オケに湯を張ってタオルでもみ泡立てていた。
どうやら塊は固形の石けんらしい。
なんとなく真似て隣に座る。バスタオルは棚に置き、少しだけ緊張がほどけていく。
石けんは液体より泡立ちが悪く、タオルでこすっても手ごたえがない。
直接こすればいいかと思った瞬間、アジエの怒号が飛んだ。
「ダメェ! それ女子的に絶対NO!」
頭が真っ白になる。
アジエはわたしのタオルを奪い取り、力強くもみ、ふわふわの泡を作ってみせた。
「ほら、こうして泡だけを伸ばすの。石鹸成分をゴシゴシやったらお肌が死ぬっしょ」
「……ごめんなさい……」
涙目のわたしを見て、アジエはため息をつきながら背中を向けさせ、丁寧に泡を伸ばしていく。
首筋、胸、腹、脚――気づけば全身が白い泡に包まれていた。
「ほい、完成。 しばらく置きな。泡が汚れを浮かすから」
その言葉どおり、シュワシュワと弾ける音が心地よい。
なのに、どこか腑に落ちない。ここは仮想現実で、入浴も所作もすべて擬似的。
現実には影響しないはずだ。
そんな疑問を見透かしたように、アジエが振り向いた。
「チセさ、なんで仮想でこんな面倒くさいことをって思ってるだろ?」
図星だった。
「人間って習慣の生き物なんだよ。 とくに女の子は日々の積み重ね。 ヴァーチャルだからサボる癖つけたらリアルでも崩れるよ」
ドキッとした。わたしはヴァーチュアルしかない存在なのに、そんなこと考えたこともなかった。
「油断すると、あっちゅー間にガッサガサでパッサパサ。 重力にも負けるんだよ」
なるほど…… それは、たしかに嫌だ。
「無茶できんのは十代まで。 ケイトなんてもう手遅れだかんね。深酒・泥酔・ノーメイク睡眠、あれ最悪」
最後にアジエは笑って締めた。
「だからチセ、絶対あいつの真似すんなよ」
アジエは立ち上がると、湯船の前でしゃがみ、小さな手桶で湯をすくっては足から肩へゆっくりとかけていった。
わたしも真似をする。熱めのお湯が肌に刺さる。
「ルール2、入る前は手足から。 身体はシミュレーションでも反応するんだから、慣らさないと、温度差で倒れんぞ」
なるほど、重要らしい。
湯に身を沈めると、ぬるりとした感触が全身を包んだ。アジエは肩まで沈んで、大きく息を吐く。
「はぁ〜 ……生き返る」
ドキリッとしてアジエの顔を凝視してしまった。
慌てたわたしの顔を見て、アジエは湯の中で肩を揺らして笑った。
「比喩! 比喩表現だって―― 疲れが取れたって意味。 あんたさ、なんか直感弱いよね?」
否定できない。実際にわたしが人間とまともに会話したのは、サンタクララのマキシム以来だ。
観察だけでは限界がある。
もっと人間の常識をサンプリングする必要があるのだろう。
湯船の縁にアゴを乗せ、ガラス越しの夜景を眺めていると、背後から声がした。
「で、どうだった? ここの風呂」
アジエは額にタオルを乗せ、わたしの反応を伺っている。
「広くて…… 少し怖かった。 でも、気持ちよかったです」
たわいない会話のはずなのに、アジエの目が一瞬だけ鋭く光った。
「ふーん…… 慣れてない割に、喋りはスムーズだね。 ……言語の切り替えも」
「はい?」
「あのさぁ、この世界じゃ、言葉は認知してる言語に合わせて自動変換されて耳に入る。 吹き替え映画みたいにさ。 でも——」
アジエはわたしを指差す。
「あんた、口の動きが喋ってる言語と合ってんだよ。 試したけど、全部そう――」
血の気が引いた。
——しまった。
ずっと相手の言語に合わせて発話していた。
「最後のなんかラテン語だよ? 普通、あんなマニアックな言語、学者でもない限り使わないっての」
どうしよう。
脳内で記録データを必死に検索し、孤児院・宗教施設・戦争…… 関連語をわたしは無理やり並べた。
「……ラ、ラテン語は…… 施設の司祭様が…… その……」
「あれ、あんたカトリック?」
「い、いえ…… わたしじゃなくて…… 施設が……」
アジエは目を細めたが、すぐにため息を吐いた。
「なるほど。 インター・ヴァーチュアに入ったの最近なんだな? 教区によっては自然じゃないって理由で施設出るまで一切、かかわらせないとこがかあるって聞いたけどそれか?」
これはチャンスだ。わたしは断片的なデータをもっともらしい物語に統合した。
「……去年、里親が決まって施設を出たけど…… すぐ嫌になって逃げて…… それで、ここに……」
アジエはぽつりと言った。
「苦労したんだな。 ……設定としてはベタだけど」
ベタ……。
必死に設定考えたのになと、胸に少しだけ刺さった。
「気にすんなって。 興味で聞いただけ。 詮索はしないよ」
そう言うとアジエは勢いよく立ち上がり、波がざばんと揺れた。
「——よし! 飯行くぞ。 ラーメン奢ってやるよ!」
わたしは安堵の息をついてから、アジエの背中を追った。
【Present Day】
あのお風呂でアジエから学んだのことは、受動的にデータをインプットして呼び出すだけではダメだということだ……。
よく考えれば、マキシムが言った「よく観察して」という言葉の意味を思い知った出来事だったのかもしれない。
何事も習慣という反復で磨かれれて、初めてデータの活用に至る――。
アジエ曰く、女は日々、自分磨きなんだそうだ。
そんな自戒めいた記憶に内心、苦笑いしていた時、アジエが振り返って、わたしに尋ねた。
「そいえばさ、今度、銀蘭堂でランジェリーイベントあるだけど―― チセ、行く?」
銀蘭堂…… 正式名称、銀蘭堂ミッドブロック。
メサイア・パシフィックゲートにその名を轟かせる、名門の老舗百貨店。
英国ハロッズにデザインの原点を見出せるという重厚なアイコニック建築と、笑顔で扉を開けるドアマンが並ぶ大きなエントランス。
その両脇には、黒曜石のような質感のグリフォン像が台座の上で睨みをきかせている――。
まるで、通過する者の品格を試すように。
と、その瞬間。
耳元で、あの曲が勝手に脳内再生されていた。
『♩ミッドブロックは世界を越える。 手に入らぬものなど、ない。銀蘭堂―― あなたの奇跡になる』
(……もう、うるさいな……)
誰が仕掛けたのか、CMソングは常に音像広告として空間に埋め込まれているらしく、近づくだけで自然と再生される仕様になっている。
曲の最後、音がフェードアウトした直後、ナレーションが来る。
「あなたの欲望に、至高の逸品と愉悦の演出を…… Presented by PROMETHEX」
「……美しさも、欲望も、君の手の中にある―― さあ、迎えにきて?」
最後に耳元で息遣いまで感じるような、ヴァイロン・アークライトのASMRの囁き……。
(……うぃぃいいい…… 気持ち悪い!)
指の先から、頭のてっぺんまで、寒気が駆け抜けた。
一瞬で腕にブツブツと鳥肌が立つ。
あの声。
ヴァイロン・アークライトの、軽薄で芝居がかった喋り。
あの顔が脳内に浮かんでくるたび、わたしは無意識に奥歯を噛んでしまう。
それに、銀蘭堂の実態はどう考えても――。
「いいんじゃない――? 富裕層に刺さるもんは、全部混ぜとこう」
と、ヴァイロン・アークライトが言ったかどうかはわからないが、そんな魂胆が透けて見えるのだ。
――でも。
その品揃えは、誰が何と言おうと完璧だ。
PROMETHEXの資本力と、物量と、顧客リサーチと、愚劣なまでの迎合。
全部ひっくるめて、それでも尚、ここには世界中の欲望の最終形がそろっていた。
「どんな感じのイベント?」
「あたしはジローヌかプラヴォーク―― 攻め系のイケイケランジェリーが狙いだけど、ペシュ・アンド・ジョとか、エモ・フィールあたりのカワイイ感のもあるよ」
「うーん」と思考を巡らせる。
正直、寄せて盛れるエモ・フィールはどちらかというと好みではないのだが、しっかり優しくホールドが売りのペシュ・アンド・ジョの新作には興味がある。
「行く」
「オッケー! そう来なくっちゃ」
故郷から着ていた、お手製の下着が一張羅だった頃から随分と変わったものだ。
今でこそ理解できるが、ブラとパンツが一着だけ――。
そもそも、アジエがそんなことを許すわけがなかった……。




