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亡国のエクスプレス

作者: 七日

出発と徴兵の現実


 雪は音を吸い込む。

 クラコウジアの冬は、街ごと毛布でくるんだように沈黙させてしまう季節だった。工場のサイレンだけが、朝の空気を無理やり揺らす。煤けた棟と棟のあいだを、凍りついた川風が走り抜け、掲示板の紙をばたつかせた。紙には黒々とした太い文字――《密告は市民の義務》《臨時評議会は祖国を守る》――。


 その日、郵便配達は足早だった。玄関の扉を叩く音が二度、間を置いて三度。

 マレクが開けると、配達夫は赤い封蝋の貼られた封筒を差し出し、やや目を逸らした。

「署名を。……ご武運を」

 そう言って彼は雪の粒を肩に残したまま、次の家へ向かった。


 封蝋は固かった。指先の皮を引き剥がすような感触の後、紙の匂いが冷たい空気に混ざる。

 《徴兵令》――印字はにじみもなく、ただそこに在ると告げていた。集合日時、場所、持ち物、出頭しない場合の刑罰。名前は間違いなく、マレク・ドラゴヴィッチ。


 台所から妹が顔をのぞかせた。火の弱いストーブに手をかざし、湯気の立たない鍋を見つめている。

「何て書いてあったの?」

 マレクは紙を折り、上着の内ポケットにしまった。

「工場からの……通知だ」

 嘘は短く、雪より乾いていた。妹はわずかに眉をひそめたが、追及はしなかった。追及しても、何も変わらないことを知っている年齢になっていた。


 午後、工場の主任に令状を見せると、主任は苦い顔で唇を噛んだ。

「前払いは出す。わずかだが……妹さんを飢えさせるな」

 封筒は薄い。けれど、その薄さが今の家には重かった。マレクは礼を言い、ポケットの内側にさらに内側へと押し込んだ。


 翌朝、駅前広場は列で満ちていた。

 青年たち、少年に近い面影の者、髭を剃り忘れた者、義足を杖で叩いている者まで混じっている。軍医は生ぬるい消毒液の匂いをまとい、聴診器を胸に押し当てては、ゴム印を紙に叩きつけた。ゴム印の音が、雪の無音に妙にくっきりと響く。


「次」

 呼ばれたマレクが上着を脱ぐと、軍医は肺の音を一度だけ聞き、背丈を測り、視力表を指さした。

「見えるか?」

「見えます」

「合格。髪は切れ。靴は――」

 彼はマレクの古びた靴を見て、言葉を飲み込んだ。

「……補給所で支給される」


 支給所で渡された軍靴は半サイズ大きく、冬の革は石のように固かった。歩けば踵が擦れ、皮はすぐに赤くなった。コートは重く、匂いは馴染まない。背中に貼りつく番号札の紙が、妙に身体の一部でないものを着せられた感覚を強めた。


 広場の端、雪に埋もれかけた屋台で、妹が待っていた。毛糸の帽子を深くかぶり、古いマフラーを胸に抱えている。

「これ、もっていって」

 彼女は言ってマフラーを差し出した。毛糸はところどころほどけ、祖母の針仕事の跡が不器用に残っている。

 マレクは息をのみ、無言でそれを首に巻いた。

「すぐ帰るよ。春には」

 妹は頷いたが、目は笑わなかった。彼女の指先はひどく冷たく、しかし離れようとしなかった。笛の音が鳴る。列が動く。

「行かなきゃ」

 彼は手を離す。妹は唇を噛み、手を振った。マレクは振り向かない。振り向けば、足は雪に根を張るだろう。


 軍のトラックが列をのせて駅へ向かう。車窓の外で、ポスターが次々と後ろに流れていく。笑顔の兵士、掲げられた旗、太い書体のスローガン。

 駅は民間人の立ち入りが禁じられ、鉄条網と憲兵で囲まれていた。臨時の詰所では、当座の身分証と支給品が配られた。黒パン半斤、缶詰一つ、果物はない。お茶は薄く、砂糖は消えて久しい。


 ホームの向こうに、それは停まっていた。

 黒い装甲板で側面を覆い、窓には鋼の格子がはめ込まれている。機関車の吐く蒸気が、冬の空気の中で白く膨らみ、すぐまた風にちぎれて消えた。兵士たちは小声でささやく。

「鉄の棺桶だ」「前線まで一本で行くってよ」「戻ってきた奴を見たことがない」

 冗談のように言われた言葉は、冗談であるはずの音を持っていなかった。


 隊長が書類を読み上げる。声は訓練された抑揚で、寒さより機械的だ。

「ドラゴヴィッチ――」

「はい」

「兵員車両三号、下段。武器は支給後まで貸与なし。規律に従え。勝手な通行は禁ずる」

 金属の札が手のひらに落ちる。小さな重みが、身体の重みを決めるかのように確かだった。


 乗車の列が動き出す。

 鉄の踏み段は凍りつき、皮の靴底がぎしりと鳴いた。車内は思っていたよりも狭く、寝台は二段、通路は一人がやっと通れる幅。暖房の管が低く唸り、交通路の天井からは薄い結露が滴っている。誰かが咳をし、誰かが鼻をすすり、誰かが小さく祈っていた。


 発車まで時間があるというのに、ホームの空気は慌ただしい。憲兵が後方車両との通路に立ち、肩に掛けた銃が目を光らせる。兵と高官の車両とを分ける分厚い扉は閉じられ、金色の取っ手が冷たく輝いていた。

 扉の脇に掲げられた小さな銘板には、擦り切れた文字――《関係者以外立入禁止》――。その「関係者」が誰なのか、マレクには想像もつかない。ただ、この列車に“上下”があるのだと、扉の厚みが教えていた。


 ポケットの中で、妹のマフラーの端が指先に触れた。毛糸は粗く、そこにあるはずの体温は、とっくに雪に奪われていた。

 マレクは窓の外を見た。ホームの先、線路は白い大地の奥へ奥へと伸びている。飛び立つ鳥はいない。風ばかりが急ぐ。


 笛が鳴り、車体がわずかに震えた。

 誰かが「行くぞ」と言い、誰かが「戻ってこいよ」と返した。髪を刈られた頭がいくつも揺れ、誰もが自分の揺れだけを気にしている。

 マレクは深く息を吸った。冷たい金属と油の匂いが胸に刺さる。吐く息は白く、すぐに消えた。消えるたびに、何かが少しずつ減っていくように思えた。


 列車が動き出す。

 最初の一押しは重く、次の一押しで、ホームの柱がゆっくりと後ろへ流れ始めた。鉄の車輪が凍てついたレールを踏み、音は一定のリズムに落ち着く。

 ゴトン、ゴトン。

 そのリズムは、どこかに向かっているはずの足音で、同時に、戻れないことを告げる鼓動でもあった。


 マレクは寝台に背を預け、天井を見上げる。薄い塗装の隙間から、前の戦争の痕が覗いている。指でなぞれば塗料が剥がれそうだ。

 窓の外、雪原が動く。動いているのは列車のほうだが、見えるのは世界が動いていくさまだ。世界は彼を置いていき、彼は世界を置いていく。


 隣で誰かが荷物を落とし、笑いが起きた。笑いは乾いているが、ないよりはましだ。

 マレクはマフラーの端をもう一度確かめ、目を閉じた。

 「鉄の棺桶」は、確かに彼を飲み込んだ。吐き出すのがいつか、どこかであるのか、今は誰にもわからない。わかっているのは、次の駅に着く頃には、この列車の中で別の何かが始まっているだろうということだけだ。


 ゴトン、ゴトン――。



 装甲列車「鉄の棺桶」は、雪嵐の大地を黙々と走り続けていた。外の世界は白と灰色の地獄であり、ここに閉じ込められた兵士たちにとっては、食堂車だけがわずかな安らぎの場だった。


 夜、定時点呼が終わると、兵士たちは決まりきった狭いベッドを抜け出して、食堂車に集まった。木製のテーブルには擦り傷や古い彫り込みが残っており、過去にここを使った兵士たちの無聊と退屈が刻まれていた。


「よし、次は俺の番だ。勝負はシンプルだ、出目で決めろ!」

 そう言ってサイコロを振るのは、赤ら顔の兵士。歓声と罵声が同時に上がり、酒の代わりに配給された温いコーヒーがこぼれる。


「またかよ、あんた運だけは異常に強いな!」

「お前らこそ、勝つ気あるのか? 賭けはなしだ、名誉だけで十分だろう?」


 テーブルゲームは兵士たちの夜を満たす唯一の娯楽だった。将棋盤もトランプも欠けていて、駒やカードのいくつかは手製だったが、それでも彼らは心から笑った。


 マレクは、その輪の端に座り、慎重にカードを切っていた。勝負事は得意ではなかったが、ここに混じっているときだけは、徴兵の重苦しさを忘れることができた。


「なあ、ドラゴヴィッチ。お前んとこ、兄弟はいるのか?」

 対面の兵士が、ふと話題を振った。


「妹が一人。まだ十歳だ。……俺がここにいるってこと、どこまで理解してるのか分からないけどな」

「なるほどな。俺はガキが三人いる。下の娘は俺の顔をもう忘れてるだろうさ」

「帰ったら、また思い出すさ。あんたの声と、叱るときの目つきでな」


 一瞬、沈黙が流れたが、それは不快ではなく、むしろ温かい。互いの家族を思う気持ちが、鉄の棺桶の冷たい空気を和らげていた。


 その時だった。隣で黙ってカードを見つめていた青年が、わずかに口を開いた。黒髪を短く刈り込み、痩せた顔立ちのその男――イェルジ・コヴァルスキは、マレクと同じ日に徴兵された唯一の仲間だった。


「俺には、帰る家がない」

 彼の声は淡々としていたが、その裏にわずかな棘があった。

「戦争が始まる前に、村は燃えた。家族も……誰も残っちゃいない」


 言葉を失った他の兵士たちは、気まずそうに視線を逸らした。しかし、マレクだけは黙ってカードを置き、イェルジを真っ直ぐに見つめた。


「なら……俺が帰るときは、お前も一緒に帰れ。妹に会わせてやる。お前を“兄貴の友達だ”って紹介する」


 イェルジは一瞬だけ目を見開き、そして小さく笑った。

「変なやつだな、お前は」

「お前の方がな」


 二人はその夜、初めて心から笑い合った。雪原を駆ける列車の轟音にかき消されそうになりながらも、確かに芽生えた友情は、鉄の棺桶の冷たさをわずかに和らげた。



 夜明け前、軍用列車は雪に閉ざされた山岳地帯を走っていた。鉄の塊が谷間にこだまするたび、窓の外に積もる雪が揺れ、淡い光を反射していた。


 その日も兵士たちは訓練帰りの疲れを癒やすように、食堂車や自分の寝台で思い思いの時間を過ごしていた。イェルジは小さなカードを器用に切り、隣の兵士をからかいながらゲームを続けている。マレクはその笑顔を横目で見て、こんな時間がずっと続けばいいと心のどこかで願っていた。


 だが、列車の後方に連なる高官専用車両の扉が、きしむような音を立てて開かれた瞬間、その願いは無惨に断ち切られる。


 血相を変えた副官が兵士たちの前に姿を現したのだ。彼の軍服は乱れ、胸には汗がにじんでいる。

「将軍が……! 将軍が殺された!」


 その声は、車内を一瞬にして凍りつかせた。


 兵士たちは顔を見合わせ、ざわめきが広がる。だが副官の鋭い眼光がそれを押しとどめた。彼は拳銃を抜き、震える声で叫んだ。

「この中に犯人がいる! 誰一人逃すな!」


 その場にいた誰もが息を呑んだ。食堂車のカードの山が崩れ落ちる音すら、やけに大きく響いた。イェルジも、マレクも動けずに立ち尽くす。


 副官は狂気じみた勢いで命じた。

「全員、武器を差し出せ! 列車が目的地に着くまで、誰ひとり信用はできん!」


 兵士たちは渋々銃やナイフを差し出す。マレクも腰のホルスターから拳銃を取り出し、金属の冷たさを最後に感じながらテーブルに置いた。隣に立つイェルジも、同じようにゆっくりと短剣を差し出す。


 列車の鉄輪の響きが、不気味な心臓の鼓動のように車内を震わせていた。



軍事列車「鉄の棺桶」は、雪と氷に覆われた平原を軋むような音を立てながら進んでいた。外の世界が凍りついているのと同じように、その内部でも人々の表情は凍りついていた。


「なぜ俺たちが丸腰でいなきゃならねぇんだ?」


「こんな密室の中で、信じられるのが自分の拳だけだってのに……」


兵士たちの不満は、居住車両の空気を重たくしていた。将軍殺害の衝撃が冷めぬうちに、副官セルゲイ・トロファノフの命令で、全員の銃器と刃物が没収された。それらは鍵付きの武器庫に封じられ、副官の私室にある金属製のロッカーに保管されたという。鍵は彼が肌身離さず持っていた。


マレクは、車両の端で黙ってそれを聞いていた。イェルジが「まあまあ」と苦笑交じりに場を和ませようとしていたが、効果はなかった。張りつめた空気は、いっそ凍りつくほどだった。


そのとき、車両の扉が開き、一人の女性が姿を現した。副官付きの文官、ダリア・ルジナ。冷静沈着で、感情をほとんど表に出さない彼女が、珍しく僅かに険しい表情をしていた。


「ドラゴヴィッチ二等兵、来なさい」


マレクは黙って立ち上がった。


「副官が応答しません。部屋は内側から施錠されているようです。念のため、あなたの目で確認してもらいたい」


列車の揺れに合わせて揺れる通路を進みながら、マレクの胸には言いようのない不安が広がっていた。副官のトロファノフは粗暴で権威的だったが、鉄のような男だった。その彼が、応答しない?


二人は後方車両の端にある副官室の前に立った。ドアは鈍い金属音を立てて閉じられており、呼びかけても中から返事はない。ダリアがドアノブを回したが、動かない。


「鍵がかかっています」


「……破りますか?」マレクが低く言った。


「その判断はあなたに任せます。私は文官です」


マレクは小さくうなずき、来た道を引き返した。兵士の一人に斧を、もう一人に鉄棒を持たせ、再び副官室の前に戻る。


「命令だ。扉を破壊する」


数度の打撃の後、頑丈なドアが軋みを上げ、ついに音を立てて倒れ込んだ。中から漏れ出す冷気に、一同は思わず顔をしかめた。


室内は静まり返っていた。窓は凍りつき、湯気の立たないティーカップが机に残っている。そしてその中央、冷えきった床の上に――副官セルゲイ・トロファノフが倒れていた。


身体はすでに硬直し、瞳は虚空を見ていた。


マレクは即座に駆け寄ったが、息はない。首元には、よく見なければ見落とすような、小さな赤い痕――まるで針でも刺したような跡があった。


「……鍵は?」


ダリアが低く呟いた。副官の手元には、鍵束が握られていた。


マレクはその場に沈黙した。将軍に続き、副官までもが死んだ。


しかも、施錠された密室で。



副官の死体が発見されたあと、車内は一気に緊張の空気に包まれた。


武器を持たない兵士たちは、互いの顔を見合わせるばかりだった。張りつめた沈黙のなか、誰かが吐き捨てるように呟いた。


「また誰か殺られたのか……?」


マレクは、副官の部屋から戻ったばかりの足取りで、居住車両の集会所へ向かっていた。彼の顔は血の気を失っていたが、それ以上に重いのは、その目に浮かんだ「理解の及ばぬもの」への怯えだった。


イェルジが近づいてきて声を潜めた。


「どうだった?」


マレクは小さく首を振った。


「中で……セルゲイ副官が倒れてた。施錠されてた。完全に密室だ」


周囲にいた兵士たちがざわめき出す。


「将軍が死んで、次は副官だ。しかも誰にも気づかれず?」


「誰がやったって言うんだよ、もうこの列車にまともな人間いねえのか?」


その言葉に、ある種の集団ヒステリーが火を灯した。容疑と疑心が列車の中をじわじわと侵食し始めていた。


マレクがためらいながらも言った。


「ダリアさん……文官の彼女が、様子を見に行ったけど、返事がないって俺を呼んだ。開けてみたら、もう……」


「ふん、女がなんで最初に気づくんだ?」

その皮肉混じりの一言に、マレクが反射的に反論しかけたが、声を飲み込んだ。疑心に毒された空気に、正論は届かない。


そこへ、医療係のステファン・マレツが副官の部屋から戻ってきた。顔には緊張が滲み出ている。


「死因は毒だと思う。痙攣の痕が首と肩に……注射痕のようなものが見つかった」


「注射だって? じゃあ医者のお前が真っ先に疑われるな」

と、誰かが吐き捨てた。


ステファンの目が細くなった。


「今の状況で冗談を言う気はないぞ」


その時、壁際にいたルカ・ボロヴィッチが低く唸った。


「おい、時間を確認したやつはいるのか? 副官が死んだ正確な時刻だ」


「……そういや、今朝、列車が鉄橋を渡ったとき、変な揺れを感じたな。副官の部屋もその直後だったかもしれん」


「鉄橋?」マレクが顔を上げた。「……列車の振動で何かが?」


その言葉に、アントン・カジミエルがピクリと反応した。だが、誰もまだ「確信」に届くことはなかった。



扉が破壊されてから半日が経った。副官セルゲイ・トロファノフの死は、列車内にさらなる重苦しさをもたらしていた。


彼の部屋は今も封鎖されたままだった。誰も立ち入ってはいない。マレクはダリア・ルジナから、「調査のため、誰か信頼できる者に室内を確認してもらいたい」と依頼を受けていた。もちろん名指しだった。


その朝、彼はひとりで部屋に入った。異様な静けさ。空気は冷たく、どこか重い。


部屋は乱れていなかった。椅子は倒れておらず、書類も整然としたまま。死に様の痕跡はない。ただ、副官は机に向かって倒れていたという。


マレクは机の周囲を注意深く観察した。椅子は金属製、背もたれは低くシンプルで、頭をもたれるような構造ではない。凶器が仕込まれていたとすれば……と彼の視線が止まったのは、壁際のラジエーターだった。


その一角に、換気口のような金属の格子が取り付けられている。マレクは近づき、慎重にそのカバーを外した。


中には、小さな金属製の部品が詰め込まれていた。針状の何かと、それを固定するバネ、そして薄い板バネのような仕組み。中央には小さな管状のスペースがあり、そこに何かが装填されていた痕跡がある。


マレクは息を呑んだ。この装置は、何かを発射する仕組みだと直感した。しかし確証が持てない。彼はすぐに部屋を出て、通信兵アントン・カジミエルの元へと向かった。


アントンは少し驚いた様子で立ち上がったが、マレクの表情を見てすぐに真剣な顔つきに変わった。


「これを見てくれ。副官の部屋の換気口の裏にあった。お前なら、何かわかるかもしれない」


数分後、二人は再び副官の部屋に戻っていた。アントンは慎重に装置を観察し、何度か指で軽く触れて構造を確認した。


「これ……おそらく、共鳴振動トリガーだな。特定の振動に反応して、内部のバネを弾かせる仕組みだ。針を打ち出すようになってる」


「毒針か?」


「だろうな。発射時の抵抗を極力減らして、正確に狙った角度で出せるようになってる。すぐに壊れるように作られているから、証拠も残りにくい。……正直、俺たちの技術じゃここまでやれない。かなり専門的な知識が要る」


「つまり、部屋は閉鎖されていたわけじゃない。時間差で殺せる仕組だったんだな」


マレクの言葉にアントンは頷いた。


「それに、この装置は『鉄の棺桶』の構造を知り尽くしてないと無理だ。普通の兵士が思いつくようなもんじゃない」


沈黙が落ちた。列車が軋みながら走る音だけが響いていた。


マレクは立ち上がった。


「アリバイを確認する必要があるな。あのとき、誰がどこにいたのか……お互い、話してもらおう」


マレクは思わずあたりを見回した。無線士の目は、思考の底で何かに突き当たろうとしているように見えた。


「君は、これを誰にも見せてないな?」


「まだだ」


「なら、もう少し泳がせてみるか。俺の手元でしばらく預かってもいいか?」


「誰が、こんな装置を作ったのか……それより、これをいつ、どうやって仕掛けたのか」


マレクは頷いた。アントンは無言で小さな工具箱を開け、仕掛けを慎重に中へと収めた。



副官の遺体が搬出され、封鎖された部屋の前に立つ者はいなくなった。


---


その夜、居住車両では寝台の薄明かりの中で、兵士たちがひそひそと話し合っていた。


「おい、あんたたちはその時間、どこにいたんだ?」


ルカが、壁にもたれたまま声を出した。声色は低く、威圧的だが、怒鳴るようなものではない。ステファンが、寝台に座ったまま答えた。


「俺は医務室だ。副官に提出する傷病者リストを整理してた。ピョートルにも聞いてくれ。俺のところに茶を持ってきたから」


「アリバイ作りじゃないといいがな」


「言葉を選べ、ルカ」


今度はニコライが立ち上がった。珍しく、声に怒気が含まれていた。


「副官が死んだ。だが、それで誰かを犯人扱いする権利はないはずだ!」


「お前に言われたくないな、ニコライ坊や。高官のコネで乗ったくせに、現場の汗も知らねえくせに」


空気が一気に張り詰めた。だがイェルジが立ち上がり、片手を挙げた。


「よせ。今は誰が疑わしいとか、そういう話をしてる場合じゃない」


彼はわずかに笑いながら、マレクの方へ目をやった。


「なあ、マレク。お前はどう思う? 密室で、犯人の姿がどこにもない……これは、普通の殺人とは違うよな?」


マレクは答えず、ただ静かにイェルジを見返した。


その夜、誰もが眠れなかった。車輪の音が重く、夜の闇が鉄の箱を包み込む中、次の朝がどれほど遠く思えたことか。



副官セルゲイ・トロファノフの部屋に仕掛けられていた装置は、アントン・カジミエルによって、列車の共鳴振動を利用して毒針を発射する巧妙なトリックだと判明した。しかし、それが誰の手によるものかは、未だ闇の中にある。


マレクとアントンは、車両の通路を静かに戻りながら、ひそやかに言葉を交わした。


「君の言う通りだとすると……これ、かなり前から計画されてたってことだな」

マレクの声は低く、警戒を含んでいた。



マレクの脳裏には、各人の顔が浮かんでは消えた。医療係のステファン、密輸の噂があるルカ、そして……アントン自身。


居住車両に戻ると、すでに兵士たちは集まっていた。だが、その場の空気は異様な緊張感に満ちていた。


「……おい、ニコライがいないぞ」

イェルジが周囲を見渡して言った。


「さっき、ひとりで将軍の部屋に入っていった。ピョートルが見たって」

ルカが吐き捨てるように続けた。


「何の権限でだ。まさか証拠隠滅でもするつもりか?」


騒ぎが広がる前に、マレクはイェルジと目配せし、将軍の部屋へと急いだ。


---


将軍の部屋の扉が開いた瞬間、異様な光景が目に飛び込んできた。ニコライ・ズデノが、将軍の遺品の山を前に、明らかに動揺した様子で突っ立っていた。机の上には開かれた書類や、手にしたままのペーパーナイフがあった。


「何をしている、ニコライ」

マレクが慎重に声をかけた。


「……私じゃない、私は……ただ、父の名前が記録にあるか確認しただけだ。将軍は、我が家の名をどう評価していたのか、それを……!」


「そのために、勝手に部屋に入って漁るのか? 言い訳にはならんぞ」

ルカが背後から低く言った。


ニコライはマレクを見た。「君は分かっているんだろう? この中に犯人がいると。だが、なぜ誰も動かない? 全員が疑心暗鬼で身動きできなくなってるだけじゃないか!」


その目は焦燥と怒りに満ちていたが、どこか虚ろでもあった。


「落ち着け」

マレクが一歩踏み出す。


だがその時、突如として非常ベルが鳴り響いた。


「前方の連絡車両で扉の施錠異常!?」

イェルジの声に、誰もが顔を見合わせた。


非常ベルはすぐに止んだ。だが不穏な空気だけが車両内に残されたまま、誰もが次に何が起きるか分からず、息を潜めていた。


その時だった。


「貴様ら……貴様らがやったんだなッ!」


怒声とともに、ニコライ・ズデノが立ち上がった。顔を真っ赤にし、目を見開いたまま周囲を睨みつける。硬直していた兵士たちが、咄嗟に距離を取った。


「待て、落ち着けニコライ!」


ルカが声をかけるが、ニコライは耳を貸さなかった。


「俺を陥れるつもりか!俺はなにもしていない!将軍とも、副官とも口を利いたことさえない!」


彼は何かに取り憑かれたように叫び、ルカに掴みかかろうとした。その瞬間、マレクがとっさに身体を入れ、肩でニコライの動きを押し返す。


「離せ!貴様もグルか!全員グルなんだろうがッ!」


「誰もお前を陥れたりしていない!」


マレクの声も届かず、ニコライはなおも暴れようとする。


「やるしかないな……!」

ルカが舌打ちし、イェルジに目配せをした。


イェルジはすでに背後に回り込んでいた。手慣れた動作でニコライの腕を取り、金属製の簡易手錠をかける。兵士たちも一斉に取り囲み、押さえ込んだ。


「くそっ、やめろ……俺じゃない……俺じゃ……」


ニコライの叫びは、しだいに嗚咽へと変わっていった。


「誰か、静養室に運べ」

ルカの一言に、数名の兵士がうなずき、暴れるニコライを引きずって後方の車両へと連れて行った。


一同はその場に取り残され、しばし沈黙した。


「……今ので、全員が疑念を抱いたな」

アントンが低くつぶやいた。


「だが、逆に言えば、やはり違う可能性もある。あの若造が、こんな巧妙なトリックを仕掛けられるとは思えん」

ルカは腕を組み、どこか納得のいかない表情をしていた。


「いずれにせよ、拘束した以上、彼はもう動けない。これで少しは安心できるだろう」

ステファンが呟いた。


だが、その言葉には誰も返さなかった。

沈黙の列車は、再び、薄暗いトンネルへと滑り込んでいった。


ニコライ・ズデノは、鉄製の簡易手錠で連結部の支柱に固定されていた。荒い息を吐きながら、彼は目の前の床を睨みつけている。誰も口を開かなかった。


その場にいた全員の耳には、数分前の凄絶な光景が焼きついていた。錯乱したニコライが、ドアの隙間から逃げようとした兵士を突き飛ばし、壁に叩きつけてしまった――幸い命に別状はなかったが、腕は不自然な方向に曲がり、失神していた。


「……どうしてあんなことを」

マレクの呟きに、ルカが渋い顔で答えた。

「最初から危うかった。あいつは、自分が疑われることに耐えられなかったんだ」


兵士たちは黙り込んだ。マレクは、傍らでじっと立ち尽くすイェルジに目をやった。彼の顔は強張っていたが、その視線はニコライではなく、何かもっと遠くを見ているようだった。


「……お前、大丈夫か?」

イェルジに声をかけると、彼はゆっくりとマレクの方を見た。

「……ああ。なんとか、な」

いつもの軽口はない。だが、声は震えていなかった。


マレクはふと、数週間前、訓練所での夜を思い出す。宿舎のベッドの上で、二人並んでぼんやりと天井を眺めながら話したこと――。


「お前さ、戦場行ったらどうしたい?」

「戦場なんて行きたくねえよ。だが……どうせなら、誰かを守る方がマシだな」

「……俺も、そう思うよ」


思い出すと同時に、マレクは今のイェルジに重なる違和感を覚えた。あれほど「守る」と言っていた男が、今はまるで――。


「マレク」

不意にイェルジが声をかけてきた。

「お前さ、あの副官の部屋で何を見つけたんだ? さっきから顔色が冴えない」

「……換気口の裏に、小さな仕掛けがあった」

「仕掛け?」

「共鳴振動で作動する毒針装置だ。アントンに見てもらった。……それで、副官はやられた」


その瞬間、周囲の兵士たちが息を呑んだ。ニコライではなく、もっと前に仕込まれていた――つまり、誰かが明確な意図を持って、最初から副官を殺そうとしていたということになる。


イェルジがゆっくりと顎に手を当てた。

「つまり、犯人は……あの部屋の構造も、列車の振動も計算に入れていたってことか」

「そうだ」

マレクは頷いた。そして口を引き結びながら言葉を継いだ。

「……犯人は、俺たちの中にいる。いまだに、な」


列車の外では、雪が深く積もり始めていた。沈黙の中で、凍りついたような緊張が再び走る。


そのタイミングの正確さ、設置の手際、そして発見されなかった大胆さ。どれを取っても素人の犯行とは思えなかった。


---


その日の午後、ダリア・ルジナが個別に全員のアリバイを確認し始めた。形式的なものではなく、極めて冷静で論理的な尋問だった。


「事件があった時間、あなたはどこにいましたか?」


ダリアの問いに、兵士たちはそれぞれの答えを返す。ステファンは医務室、アントンは無線室、ルカとマレクとニコライは同じ区画の寝台室にいた。イェルジは見張り任務を交代で終えた直後だったという。


「イェルジとは……同室でしたね?」


「はい」


「彼の動きに不審な点は?」


「ありません。ずっと寝台で休んでいたように見えました」


ダリアは淡々とメモを取りながら、誰にも断定的な言葉を向けることはなかった。ただ、彼女の目は全員の一挙手一投足を観察していた。



---


騒動がひと段落し、車内は再び重苦しい沈黙に包まれていた。副官セルゲイ・トロファノフの死の衝撃は大きく、誰もが次に疑われるのは自分かもしれないという緊張に苛まれていた。


自分の知っている誰かが関与しているかもしれない。 その考えは、マレクの胸を冷たく締めつけた。


その夜、彼はイェルジの寝台を訪ねた。何か……何かがひっかかっていた。


寝台のカーテンを開けると、イェルジの姿はなかった。代わりに、枕の脇に何かが落ちているのが目に入った。


それは、くしゃくしゃに折り畳まれた一枚の紙だった。


マレクはそれを拾い上げ、周囲に誰もいないことを確認してから、慎重に広げた。


紙には、数字と記号が組み合わさった暗号のような文字列が並んでいた。


意味はわからなかった。ただ、その紙の端には小さなマーク――軍用の暗号通信で使われる送信記号が印字されていた。


「なんで……こんなものが……イェルジの寝台に……?」


マレクはしばらく紙を見つめたまま動けなかった。


友人の寝台で、なぜ軍用暗号のようなものが見つかるのか。


疑念は、静かに芽吹いていた。


彼はその紙を折りたたみ、誰にも見られぬよう懐にしまった。そして、しばらくイェルジの様子を注意深く観察することを心に決めた。


自分が間違っていることを、願いながら。


(……違う、思い過ごしだ。あいつがそんなことをするわけない)


そう自分に言い聞かせたが、胸の奥には得体の知れない重石のような感情があった。


その夜、マレクは長く眠れなかった。


朝靄が薄く立ちこめる車窓の外を眺めながら、マレクは昨夜拾った紙片を再び取り出した。イェルジの寝台に落ちていたそれは、今でも彼の胸をざわつかせる。幾何学的なパターンと数字列――どう見てもただの落書きではない。思い出そうとしても、イェルジがこの紙を扱っていた場面はなかった。


「……アントンに見せてみるか」


朝食後、マレクは車両を一つ越えて、無線機器の整備をしていたアントンのもとへ向かった。


「アントン、ちょっと、これを見てくれないか」


アントンは顔を上げ、手を拭きながら紙片を受け取った。


「ふむ……見覚えがあるな。軍の通信で使われてる旧式の符号形式だ。だけど、これ……」


彼は眉をしかめて、紙の数字列を指でなぞった。


「――この形式、"時限信号"に近いな。特定の時間に特定の端末で開いたときだけ、意味を持つようになってる。内容まではわからないが……このタイムスタンプ、"22時13分"ってのは明らかに意図的に仕込まれてる」


「……その時間って、副官が殺されたとされる直前だよな」


「そうだ。しかもこの数字列……目的地の位置情報と一致してる可能性がある」


マレクの背筋に冷たいものが走った。副官の端末にこの暗号が表示されていたとしたら――彼はそれに気を取られ、装置の仕掛けが作動する時間に、あの椅子に座っていた可能性がある。


「このコード、どこで見つけたんだ?」


アントンの問いに、マレクは言いよどんだ。


「……イェルジの寝台の下に落ちてた」


しばらく沈黙が流れた。アントンはその視線をマレクから逸らさずにいたが、やがてため息混じりに言った。


「……慎重に行けよ。今、誰を疑ってるかなんて、口にしないほうがいい」


マレクは紙片を受け取り、無言でうなずいた。


マレクは、紙片をポケットに戻しながらイェルジの様子を遠巻きに観察した。彼は普段と変わらぬ表情で朝食を済ませ、兵士たちと軽口を叩いている。だが――どこか違和感がある。わずかながら視線を逸らすような仕草、他人の動きを気にする間。昔なら気にならなかった些細な挙動が、今は疑いの色を帯びて見える。


(……本当に、イェルジが?)


そう思いたくはなかった。唯一信じられると思っていた友人が。だが副官殺害のトリックに必要だった条件と、あの紙片に書かれた時刻と場所。すべてが、ある一点で繋がっていくような気がした。


アントンとのやり取りを終えたマレクは、しばらく一人で列車の廊下を歩いていた。


寝台車の窓から、夜明け前の青ざめた地平線が見える。


迷いを振り払うように顔を上げたその時、機関士アンドレイが声をかけてきた。


「ドラゴヴィッチ、ちょうどよかった。軍からファクシミリが届いている。宛先は“将軍閣下”になってるが……中身を確認してもらえるか?」


マレクは一瞬、戸惑った。


「将軍……?」


死んだはずの男の名に、妙な重さがある。だがアンドレイは構わず続けた。


「照会内容は、“イェルジ・クルパ”について。軍籍記録が見つからないらしい。“該当IDは無効”だとさ。何かの手違いかもしれんが――」


マレクはその言葉を遮るように、ファクシミリの内容を見た。


確かに、送信元は軍本部。照会者は将軍。記録を求めた人物は明らかに「彼の素性」を疑っていた。


(まさか……この照会が、将軍殺害の引き金に?)


手の中の紙が急に重く感じられた。



列車は雪原を突き進んでいた。氷点下の空気が窓の内側にまで染み込むような冷たさを帯び、夜明け前の闇が車両内の空気をさらに重くしていた。


ずっと考え続けている。ファクシミリの内容――「イェルジ・クルパの徴兵記録が存在しない」という一文が、頭の中で何度も繰り返されていた。


(じゃあ……イェルジは、いったい誰なんだ?)


隣の寝台車では、依然としてニコライ・ズデノが拘束されていた。あの暴走事件から、彼はひとことも口を利いていない。兵士たちの中には「ニコライがすべての犯人だった」と思い込んでいる者もいたが、マレクにはそう思えなかった。


何かが足りない。だが、何かが繋がっている。


そんなとき、静まり返った車両に、かすかな足音が響いた。


「……マレク?」


声の主はダリア・ルジナだった。寝間着の上から厚手の軍用コートを羽織り、手にはメモ帳を持っていた。


「こんな時間に?」


「あなたが起きてると思ったの。……少し話せる?」


二人は空いていた小さな談話室に入った。明かりは落とされていたが、ダリアは自分の膝の上でメモ帳を開いた。


「副官の死以来、私もずっと記録を見直していたの。でも、どうしても引っかかる部分があるのよ」


「引っかかる?」


ダリアは頷いた。


「この列車の警備体制は厳重すぎるくらいなのに、あまりに犯行が大胆すぎる。将軍の殺害に始まり、施錠された部屋での副官の死、どれも、計画的すぎる」


「……そうですね」


「そして何より、セルゲイ副官の死は、明らかに“内側から開かれなかった”ことを前提に仕組まれていた。まるで、密室トリックを誰かに“見せる”ためのものだったようにすら思える」


マレクは黙ったままうなずいた。


「あなた、副官の部屋で何かを見つけたのね」


ドキリとした。


だがマレクはすぐに否定しなかった。


「……はい。あの椅子には仕掛けがありました。アントンが確認しました。特定の振動で毒針を撃ち出す装置です」


「やっぱり」


ダリアはメモ帳に何か書き込んだ。彼女の筆跡は几帳面で、だがその表情はどこか翳っていた。


「アントンには報告したの?」


「はい。彼は冷静でした。誰が、どこから、どうやって仕掛けたのかを考えている」


「……私にも、気になることがあるの」


ダリアは立ち上がり、窓の外に目をやった。


「この列車に乗っている誰かが、軍の誰にも知られていない“裏の指令”で動いている気がしてならないの。しかも、それは将軍ですら気づいていなかったか、あるいは知っていても止められなかった」


「その“誰か”が、イェルジかもしれない」


マレクの言葉に、ダリアはゆっくり振り返った。


「証拠はあるの?」


「……ない。でも、徴兵記録がなかった。それだけで十分じゃないですか?」


「いいえ、それだけでは足りない。軍には記録の消去という選択肢もある。重要なのは、彼が“何を知っていて”、何を“隠しているか”よ」


マレクは、再び沈黙した。


そのとき――


車内にアラート音が響き渡った。


「エンジン出力低下、前方車両に異常信号!」


車掌ピョートルの声が響き、全員が跳ね起きた。


マレクとダリアは顔を見合わせ、同時に立ち上がった。


新たな異変――それが、最後の謎への導火線となるとは、この時まだ誰も知らなかった。


---


マレクとダリアは廊下を駆け抜けた。非常信号の出所は先頭近くの制御車両——列車の心臓部だった。車掌ピョートルが受信した信号を機関士アンドレイに伝えに走ったのだろう、機械音と人の足音が重なり合っていた。


「エンジンが落ちた? そんなはずは……」


「この寒さの中で列車が止まったらまずいぞ!」


兵士たちが慌てて起き出し、騒然とする車内。だがマレクは直感的に思った。


(これは……何かの“隠れ蓑”だ)


誰かがこの混乱を利用して動こうとしている。マレクはすぐさまダリアに言った。


「イェルジを見てきます。彼がどこにいるか、確かめないと」


「私も行くわ」


ふたりは寝台車両へ引き返す。イェルジが寝ていたはずの簡易寝台に目をやると、そこは——空だった。


「……いない」


マレクはわずかに息を呑んだ。


その時だった。背後の通路の奥で、静かに扉が閉まる音がした。


マレクは音のした方へ駆け出す。


通路の突き当たり、小さな物資室。鍵がかかっている。


「中に誰かいるか?」


返答はない。


マレクはすぐ近くの備品箱から鉄パイプを取り出すと、ドアノブの隙間に差し込んでこじ開けた。


「――イェルジ!」


中にいたのは、間違いなくイェルジ・クルパだった。


だが、彼はマレクに驚くでもなく、ただ静かにこちらを見ていた。その表情は、どこか空虚で、冷たくも見えた。


「どうしてここに……?」


マレクが問うと、イェルジは淡々と答えた。


「騒がしかったから、避難していたんだ。列車が止まったら、凍死しかねないからな。暖房のある場所を探していた」


「……本当に?」


「疑っているのか?」


マレクは言葉を飲み込んだ。その瞳の奥に、あの“何も知らない友人”の表情はなかった。


ふと、イェルジの足元に目をやると、銀色の金属片がひとつ落ちていた。拾い上げようとすると、イェルジがそれを踏み潰した。


「何でもない。ただのネジだろう」


「……ああ」


この瞬間、マレクは心の奥で、何かが壊れる音を聞いたような気がした。


「戻ろう。ダリアが心配している」


「そうだな」


ふたりは無言のまま通路を引き返した。


(……あの目は、何だ?)


マレクの胸の奥に、確信と不安が同時に芽生え始めていた。


部屋に戻ると、列車の異常はすでに収束し、車掌ピョートルの「問題なし」という報告が響いていた。出力低下の原因は、一時的な圧力低下による安全装置の作動。危険はないと説明される。

しかし、マレクには別の可能性が頭をよぎっていた。

(誰かが、あえて列車を止めた。あるいは、注意を逸らすために)

数時間後、静けさが戻った車内。ニコライは拘束されたまま意識を取り戻し、ダリアの指示で個室に隔離された。兵士たちの動揺もようやく落ち着き、いつも通りの配給が配られた。

マレクは食堂車の片隅で、黙々とスープをすすりながら考えていた。

アントンが仕掛けを分析した結果、副官の死は「特定の時間に彼がその場にいること」が前提だった。そして、イェルジの寝台に落ちていた時限暗号のような紙。照会で“存在しない”とされた軍籍。

すべてが、一人の人物を指しているように思える。だが、決定的な証拠はない。

そのとき、ドアが開き、アントンが入ってきた。

「一つ、確認できたことがある」

マレクは顔を上げる。

「副官のパソコン……再起動ログがあった。時間は、22時13分。あの橋を渡った直後だ」

マレクは息をのんだ。

「つまり、あの暗号が……そのタイミングで表示された可能性がある?」

「可能性は高い。もし副官がそれに気を取られて、椅子に座っていたとしたら……トリガーは完璧だった」

「……イェルジは、“その時間に副官が椅子にいる”と確信していたってことだ」

「あるいは、座らせる“理由”を仕込んでおいた。あの暗号が」

マレクは無言でうなずいた。友人のはずの男が、今や列車内の誰よりも静かに、しかし確実にこの“舞台”の鍵を握っているように思えてならなかった。

列車はまた、進み始めていた。



マレクは立ち上がり、列車の通路を歩き出した。夜の帳が降り、車内は静まり返っている。時折、線路の継ぎ目を超える音が、彼の胸の高鳴りと共鳴した。


イェルジの寝台車は、後方にある。

足を止めるたび、呼吸が浅くなる。今なら、引き返せる。だが――


(もう……確かめずにはいられない)


彼は扉を開けた。薄暗い車室の中、寝台のカーテンがわずかに揺れている。

その中に、彼はいた。



イェルジは、わずかに視線を落とした。


「来ると思ってたよ、マレク」


マレクは頷く。返す言葉はなかった。すでに、知るべきことは知ってしまった――彼の名前が、軍の記録に存在しないということを。


「……あのファクシミリを見たんだな。」


イェルジは、寝台の端に腰を下ろしたまま、振り返らずに呟いた。狭い個室の中、灯りはぼんやりとした非常灯だけだ。沈黙の中、マレクはゆっくりと扉を閉じ、重い足取りで近づいていく。


「……ああ。それと、暗号の紙も。アントンに見てもらった。お前が副官を仕留めた方法、全部分かった」


しばしの沈黙。イェルジは深く息を吐き、小さく笑った。


「そうか……もう、隠す必要もないな。あれは俺が送った。副官が椅子に座る時間を操作するために」


「なぜ、こんなことを?」


マレクの声は震えていた。イェルジはようやく振り返り、低く、しかし静かな口調で語った。


「……俺はクラコウジアの兵士じゃない。かつて、この国との戦争で、俺の村は焼かれた。家族も、誰も……残らなかった。俺には、帰る家がない。だから、復讐のために諜報員になった」


「最初から、俺たちを騙すつもりだったのか?」


「違う。……いや、最初はそのつもりだった。でも、マレク、お前と過ごした時間は……俺にとって、唯一“人間”でいられる瞬間だった」


マレクは視線を逸らし、拳を握りしめた。


「黙っていても、お前は生きて帰れない」


イェルジの声が変わる。冷えた鋼のような響きだった。


「高官も副官も、もういない。この列車が終点に着けば、お前は“容疑者”として処分される。口を開けば、俺が何をしたかを話すだろう。そして――お前も、殺される」


マレクは目を見開いた。


「……黙っていろというのか」


「そうだ」


その瞬間、イェルジが動いた。怒りでも憎しみでもない。まるで、決められた運命に従うように、マレクの胸ぐらを掴み、壁に押しつけた。


「黙って、何も言うな……!」


マレクはもがきながらも、首を絞められ、呼吸が苦しくなっていく。イェルジの手は震えていた。


(……だめだ、このままじゃ――)


必死に手を伸ばし、マレクはイェルジのポケットに触れた。その内ポケットに、固い感触――ナイフ。反射的に引き抜き、次の瞬間、イェルジの腹部に深く突き刺した。


「っ……!」


イェルジの目が見開かれた。手の力が抜け、マレクは咳き込みながら床に崩れ落ちた。


「……いつか、こうなる運命だったんだ」


イェルジはそう呟き、膝をつき、そのまま床に倒れ込んだ。マレクは、血に染まったナイフを見つめ、呆然としていた。


そのとき、外から声がした。


「大丈夫か!? マレク!」


ドアが強く叩かれる。マレクははっと我に返り、辺りを見渡す。血の匂い、倒れた友、激しく打ちつけられる扉。


彼は窓を開け、冷たい夜風を浴びた。足をかけ、最後にもう一度、イェルジの方を振り返る。


「……ごめん」


その一言を残し、マレクは列車から飛び降りた。




 列車から飛び降りたマレクは、夜の原野を這うようにして逃げ続けた。


 列車の音は次第に遠ざかり、代わりに彼の耳に残るのは、自らの荒い息と、胸に刻まれた鼓動だけだった。


 身体中が痛み、足も擦りむいていたが、立ち止まるわけにはいかなかった。振り返れば、すべてが終わってしまうような気がした。


 線路脇の斜面に転がり落ち、木々に身を隠してただひたすらに逃げた。背後で聞こえる兵士たちの怒声や汽笛の音は、遠ざかるどころか耳に焼きついて離れない。泥と血にまみれた制服のまま、マレクは何日も夜を越えた。身を洗う川も、暖を取る火もなく、ただ飢えと恐怖だけが同行者だった。


数ヶ月が過ぎた。


 マレクは国境付近の村々を転々とし、偽名を使って工場や港湾で短期労働を続けた。身を隠しながら生きる日々は、容赦なく心と体を削っていった。


 だが、ある日――彼の前に、ひとりの男が現れた。


 スーツ姿の、異国なまりの男。


「マレク・ドラゴヴィッチ、だな?」


 マレクは無言のまま身構える。


 だが男は、淡々と語った。


「安心しろ。我々は“味方”だ。お前の“友人”――クルパからの繋がりでな」


「……イェルジ、のことか」


「彼が仕えていた組織の名は出せん。ただ、君の立場と状況は、我々には理解できる。選択肢を与えよう。ここに残り、やがて捕まるか……あるいは、我々の仲間となり、名前を捨てて出国するか」


 男は、薄い封筒を差し出した。


 中には、一枚の偽造パスポートと、航空券。


「行き先は、君が選べ」


 マレクはそれを受け取り、ただ小さく頷いた。



***



 空港は、マレクの足音すら飲み込むほどに広く、冷たい。


 彼は出発ロビーの隅を歩いていた。

 群衆の中をすり抜けながらも、その表情には緊張の色が濃かった。


 ポケットの中には、他国の諜報組織から渡された偽造パスポートがある。

 搭乗券も手にした。すべてが整っている。

 あとは、無事に出国審査を抜けるだけ。


 何十もの案内板が、出発ゲートの情報をせわしなく更新していた。

 だがその文字列のどこにも、マレクの行く先を告げるものはない――それが、どれほど異国の街の名であっても。


 彼は、最後の列に並ぶ。


 目の前では、ひと組の老夫婦が、審査官に笑顔を向けていた。

 指紋、顔写真。無言で、機械が人間を照らす。


 そして、いよいよ自分の番。


 パスポートと搭乗券を差し出しながら、マレクは視線を伏せた。

 あえて緊張を隠すために。


 審査官が数秒間、モニターを睨みつけ――そして無言で、スタンプを押す。


「どうぞ」


 その言葉は、銃声よりも静かだった。


 マレクは、肩をひとつ落とし、ゆっくりと歩を進める。


 ――だが、その瞬間だった。


 警報音。

 鋭い電子音が構内に響き渡り、すべてを凍らせた。


 「セキュリティ・アラート発令。全職員は持ち場へ。全出国ゲートを封鎖せよ」


 構内放送が響き、ロビーの空気が一変する。

 騒然とする人波のなか、マレクは振り返ることすらできなかった。


 兵士たちが現れた。


 複数名。自動小銃を手に、出国エリアへ向かって一直線に走ってくる。

 彼らの視線の先――それは、紛れもなくマレクだった。


 「動くな!伏せろ!」


 群衆の悲鳴。逃げる者。立ち尽くす者。


 マレクは、最後の一歩を踏み出そうとした。


 パンッ!


 乾いた銃声が、空港の天井を突き抜けた。


 一発で十分だった。

 マレクの身体はふわりと崩れ、まるで命を知らない人形のように、床に横たわった。


 手から滑り落ちたパスポートが、血の海に浮かんでいた。


群衆の一部が悲鳴を上げ、兵士たちが周囲を取り囲む。

 空港構内の監視カメラがすべて、ひとつの身体を中心に動きを止めていた。


---


 構内放送が再び響く。


 「重要告知。国家命令により、当空港は一時閉鎖されます。すべての出国便は無期限で停止されました」


 兵士たちが警戒態勢を強める中、ロビーに残された人々は、ただ呆然と立ち尽くすだけだった。


 その瞬間、構内に別の警報が響き渡る。先ほどのセキュリティ・アラートではない。

 もっと異質で、もっと――政治的な色を帯びた警告音だった。


 「こちら政府広報局。首都にて軍上層部による反乱の兆候が確認されました。全空港、全鉄道網を直ちに封鎖せよ」


 構内の電子掲示板がすべて赤に変わる。

 【全便運航停止】【全ゲート封鎖】【国家命令による緊急措置】


 兵士たちが互いに無線で指示を飛ばし合う。

 一部の将校が騒然とした面持ちで出口へ向かう中、一般客たちは呆然とその場に立ち尽くしていた。


 政変――クーデターが始まった。


 それはまるで、マレクの死が引き金だったかのように。


 ガラス張りの空港ロビーに、再び銃声が響く。

 だが今度は、遠くのほうで、何発も、何重にも、まるで誰かがどこかで「答え」を求めているかのように――。


---


エピローグ:国境なき待合室


アメリカ・ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ国際空港の国際線ロビー


同時刻、空港では緊急放送が館内を駆け巡っていた。


> 「すべての国際便はただちに停止されます。クラコウジア共和国は臨時戒厳令を宣言し、全渡航者の出国・入国を一時凍結します……」



ターミナル内の一角、入国審査のブースで、一人の男が足止めを食らっていた。

中年の男、丸めた背中にくたびれたベージュ色のコート、手には一缶のピーナッツの缶詰を抱えている。


「あなたの国、クラコウジアは……今、存在していないことになっています」

係官は困ったように言った。


男は、訛りのある英語でゆっくりと聞き返す。


「クラコウジア……ノー?」


審査官は目を伏せると、書類を机に置き、別室への案内を促した。


それから数時間後。

空港内のテレビモニターが、広場の映像と共に、臨時軍政の開始を告げていた。


> 「クラコウジアにおける政権交代により、国家は一時的に国際的認知を失いました。これにより――」


男は、静まり返った制限区域のベンチに一人で腰掛け、その映像を見つめていた。

スクリーンの中では、彼が知るはずの街並みが、軍靴と銃声に覆われていた。


誰にも聞かれないように、小さく、声もなく。

彼の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。


行き場を失った男は、故郷が崩れる音を耳にしながら、

そのただ中にいることも、戻ることもできず、

静かに、世界の狭間に取り残された。


そして――

誰も知らないまま、一人の若者が、死をもって「真実の連鎖」を断ち切っていたことも。



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