第三章:再生される真実の記憶
「歩くん。この『通信速度の低下』のタイミングと、山田老人の『緑色の服の男』と『将棋盤』の証言の関連性を、クロノスに再照合させてくださいまし。そして、施設内の配線図、特に通信ケーブルや電源ケーブルの配置図を入手してください。そこに、犯人が仕掛けたトリックの全貌が隠されていますわ。」
神崎冴の指示を受け、日向巡査部長は慌ただしく動き出した。佐倉玲子サイバー対策課長は、既に松永健太のスマートフォンと施設内のネットワークログの深掘り解析を進めており、氷室蓮プロファイラーは、松永の過去の人間関係、特に高梨厳との接点について、さらに詳細な聞き込みを行っていた。チーム全体が、神崎の紡ぎ出す仮説の糸を辿るように、一斉に動き出したのだ。
数時間後、緊張した面持ちで佐倉が捜査本部に現れた。彼女のタブレットには、新たなデータが表示されている。
「神崎警部補、日向巡査部長。松永健太のスマートフォンから、驚くべきデータが検出されました。事件当日、彼が山田老人のスマートスピーカーを遠隔操作した際、同時に『高周波音発生アプリ』を起動させていた痕跡があります。そのアプリは、人間の可聴域を超える高周波音を発生させるものでした。」
「高周波音…!」日向巡査部長は息を呑んだ。「それが、高梨厳氏の死にどう関係するんですか?」
「そして、このアプリの起動と同期するように、松永のスマートフォンから、施設内の電源系統の管理システムへの不正アクセスが確認されました。ごく短時間ですが、高梨氏の部屋の特定のコンセントの電力供給が、異常なほど上昇しています。」
佐倉の報告に、神崎の目は、獲物を捉えた猛禽類のように鋭く光った。
「おやおや、やはりそうでしたわね。その高周波音、そして電力供給の上昇。それが、密室で高梨氏を殺害するためのトリック、そして山田老人の記憶を歪めるための仕掛けだったのですね。」
神崎は、広げられた施設の配線図に指を這わせた。
「高梨氏の部屋には、特定の電子機器が置いてありましたわね。例えば、電磁波を発生させる治療器や、高出力のオーディオ機器など。」
「はい。高梨氏は難聴気味で、高性能の補聴器を常用していました。また、部屋には音響にこだわって導入したという高音質のオーディオシステムも設置されていました。」日向巡査部長が答える。
「ビンゴ、ですわね。」神崎は静かに笑った。「松永は、山田老人の部屋のスマートスピーカーから再生させた『誘導音(猫の鳴き声と数字の羅列)』と、自身のスマートフォンから起動させた『高周波音発生アプリ』を同時に使用した。そして、この高周波音は、隣接する高梨氏の部屋の壁を透過し、彼の補聴器やオーディオシステムに、不自然な『共鳴振動』を引き起こしたのでしょう。」
日向巡査部長は、ゾッとした。
「つまり、その振動が、高梨氏の体に直接影響を…?」
「ええ。特定の高周波音は、共鳴することで人体にめまい、吐き気、そして心臓の異常な拍動を引き起こす可能性がありますわ。特に、常時補聴器を使用していた高梨氏のような高齢者にとっては、その影響はさらに甚大だったでしょう。極端な話、心臓発作と酷似した症状を引き起こし、そのまま死に至らしめることも可能ですわ。」
神崎の言葉は、冷徹な真実を突きつけた。松永は、直接手を下すことなく、デジタルな操作と音波を使って、高梨厳の命を奪ったのだ。
「そして、電力供給の不正な上昇は、その高周波音を発生させるための電力ブースト、あるいは高梨氏の部屋の特定の機器を意図的に過負荷にさせることで、彼の苦悶を増幅させ、心臓に決定的なダメージを与えるためですわね。まるで、心臓発作に見せかけるかのように。」
その時、氷室蓮が新たな情報を持って入ってきた。彼の顔には、疲労の色よりも、確信の色が濃く浮かんでいる。
「神崎警部補。松永健太のプロファイリングから、彼の動機、そして犯行時の心理状態がほぼ特定できました。松永は、家族が経営していた中小企業の倒産後、高梨厳氏に対して深い恨みを抱いていました。しかし、彼は直接的な復讐ではなく、高梨氏が大切にしていた『名誉』、そして『記憶』を貶めることを望んでいました。」
「名誉…記憶…?」日向巡査部長は首を傾げる。
「はい。高梨氏は生前、自身の成功体験や、過去の功績を施設内で頻繁に語っていました。しかし、その裏には、松永の家族企業を破滅させたような、冷酷な側面も存在しました。松永は、その高梨氏の『栄光の記憶』を、彼自身の死と共に葬り去りたかったのです。」
氷室は続けた。
「そして、松永は山田老人の認知症の症状と、彼の過去の記憶に深く精通していました。彼は山田老人に対して、極めて献身的に接することで信頼を勝ち取り、その心の奥底に眠る『特定の記憶の断片』を把握していた。例えば、山田老人が過去に飼っていた『黒い猫』の記憶や、彼が若い頃に熱中していた『将棋』に関する記憶をです。」
神崎は、ニヤリと笑った。
「なるほど。だから、『猫の鳴き声』と『将棋盤』ですわね。それが、山田老人の記憶を誘導し、混乱させるためのキーワードだった。犯人は、山田老人の脳内に、自身の犯行を隠蔽するための『偽の記憶』を植え付けようとしたのですわ。」
神崎は、山田老人の証言をまとめたメモを手に取った。そこには、「緑色の服の男」「黒い猫」「将棋盤」という言葉が何度も登場する。
「『緑色の服の男』は、施設の職員が着る制服の色でしたわね。そして、松永健太もまた、緑色の制服を着用していました。つまり、山田老人の脳内では、『緑色の服の男=犯人』という図式が形成され、同時に『黒い猫』や『将棋盤』といった、彼にとって馴染み深い、しかし事件とは無関係の記憶が紐付けられることで、真実の記憶が曖昧になり、捜査を攪乱する効果を狙ったのでしょう。」
日向巡査部長は、その巧妙さに背筋が凍った。人間の記憶の曖昧さ、特に認知症を患う老人の脆弱性をここまで悪用するとは。
「ですが、神崎警部補。その偽の記憶の中に、犯人が意図せず残した『綻び』があるとおっしゃいましたね。それは一体…?」
日向巡査部長の問いかけに、神崎は、再び山田老人の証言メモの「将棋盤」という言葉に指を置いた。
「山田老人は、『緑色の服の男が将棋盤をぐずぐずと…』と証言していましたわね。これは、単なる将棋の駒の動きではありません。高梨氏の部屋には、将棋盤はありませんでした。しかし、この施設には、入居者が自由に使える娯楽室があり、そこに将棋盤が置かれていますわ。」
神崎は、ゆっくりと立ち上がった。彼女の視線は、遠くを見つめている。
「そして、その娯楽室の監視カメラ映像を解析したところ、事件発生とほぼ同時刻に、松永健太が娯楽室に立ち寄り、将棋盤の駒をいくつか動かしている姿が映っていましたわね。」
日向巡査部長は、ハッとした。そんな瑣末な行動が、まさか。
「松永は、自身の完璧なアリバイを補強するために、意図的に娯楽室に立ち寄り、監視カメラに自分の姿を映し出した。そして、その際に、山田老人の記憶を誘導するための『刺激』として、将棋盤の駒を動かした。それが、山田老人の証言の『将棋盤をぐずぐずと』という言葉として残ったのですわ。」
神崎は、不敵な笑みを浮かべた。
「しかし、その行為が、松永自身の足跡となりましたわ。なぜなら、その『ぐずぐず』という言葉は、山田老人にとって、将棋の駒を特定の場所に動かす『特定の意味合い』を持つ言葉だったからですわ。」
神崎は、山田老人の部屋に戻り、彼の将棋盤の前に座った。そして、将棋の駒をいくつか動かし、「ぐずぐず」と呟いた。その動きは、特定の将棋の定石、あるいは山田老人にとって特別な意味を持つ配置を再現していた。
「山田さん。あなたにとって、『ぐずぐず』という言葉は、将棋の『特定の局面』を意味していましたわね?それは、あなたが高梨氏と将棋を指した際に、いつも高梨氏が苦悩した、あの局面ですわ。そして、その局面こそが、高梨氏が唯一、あなたに敗北を喫した、彼の『記憶』の中で最も悔しい瞬間だった。そうでしょう?」
神崎の言葉に、山田老人の目が、それまでの虚ろな色から、一瞬だけ、はっきりと澄んだ色に変わった。彼の表情に、鮮明な記憶が蘇ったかのような、複雑な感情が浮かんだ。
「ああ…そうじゃ…あの時…あの局面…あいつは…あいつはいつも、そこで苦しんだんじゃ…。」
山田老人の口から、途切れ途切れではあるが、真実の記憶の断片が漏れ出した。それは、高梨厳の「敗北の記憶」であり、松永が最も葬り去りたかった「栄光の記憶」の裏側だった。
「神崎警部補…まさか、松永は、その将棋の局面を使って、高梨氏に精神的な揺さぶりをかけていたんですか…?」日向巡査部長は、その発想に驚愕した。
「ええ。その可能性はありますわね。松永は、高梨氏が憎んでいた相手に、最も屈辱的な『敗北の記憶』を、死の直前まで与え続けたかったのでしょう。同時に、その行動が、山田老人の記憶を操作するための『偽の刺激』としても機能した。まさに一石二鳥の巧妙なトリックですわ。」
全ての証拠が揃った。松永健太は、高周波音と電力操作で高梨厳を殺害し、山田老人の記憶を操作することで、自身の犯行と動機を隠蔽しようとしたのだ。彼の「完璧なアリバイ」は、自身のスマートフォンからのデジタルな操作と、山田老人の心理を弄ぶための「偽の刺激」によって、逆説的に崩壊した。
松永健太が取調室に連れてこられた。彼の顔には、これまで保っていた冷静さが完全に消え失せ、焦燥と絶望が入り混じっていた。
「松永さん。あなたは、高梨厳氏の殺害を認めますわね?あなたは、高梨氏の財産が既に動かされていたことを知り、彼が持つ『情報』そのものを消し去ることを目的としましたわ。そして、そのために、山田老人の記憶を弄んだ。そうでしょう?」
神崎は、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で問い詰めた。
「…そんな…馬鹿な…。なぜ、そこまで…分かったんだ…!」
松永は、椅子に深く沈み込み、顔を覆った。彼の声は、悔恨と恐怖に震えていた。
「あなたの『完璧主義』が、あなた自身の首を絞めましたわ、松永さん。あなたは、デジタルな足跡を残さないように、そして物理的な痕跡も残さないように、周到な計画を立てましたわね。しかし、あなたは『人間』である以上、完璧な犯罪は不可能ですわ。感情の痕跡、そしてごくわずかな『ミス』は、必ず残るものですわ。その『通信速度の低下』、そして山田老人の『ぐずぐず』という記憶の断片。それが、あなたの傲慢さであり、同時に、あなたの『人間の死角』でしたわね。」
神崎は、静かに語りかけた。その声は、冷徹でありながら、どこか諦めを促すような響きを持っていた。松永の顔からは、もはや憎悪も傲慢さもなかった。残っていたのは、ただ深い絶望だけだった。
事件解決後、日向巡査部長は神崎に問いかけた。
「神崎警部補。まさか、あんなデジタルな操作と、心理的なトリックが組み合わされていたなんて…。僕には全く分かりませんでした。」
日向巡査部長は、自身の未熟さを痛感していた。
神崎は、コーヒーカップを片手に、ニヤリと笑った。
「おやおや、歩くん。人間は、常に自分が信じたいものを信じるものですわ。松永は、自身の『記憶の操作』が完璧だと信じ込み、そのためにごくわずかなデジタルな痕跡を残してしまいましたわ。そして、山田老人の記憶は、歪められはしましたが、真実の断片は決して消えませんでしたわ。どんなに隠蔽しようとしても、人間の感情と、そこに刻まれた『記憶』は、決して嘘をつかないのですわ。」
その日の夕方、神崎はクロノスの端末に向かって静かに語りかけた。
「クロノス。今回の事件で、あなたも少しは『人間』、特に『記憶』と『感情』の奥深さについて学べましたかしら?」
クロノスのディスプレイが淡い光を放ち、無機質な女性の声が響いた。
「データ分析の結果、人間の記憶の特性、および感情がデータに与える影響に関する新たなアルゴリズムを構築しました。これにより、将来的なプロファイリングの精度が向上する可能性が示唆されます。」
神崎は満足げにニヤリと笑った。彼女の目に、新たな好奇心の光が宿る。
「フフフ、そうですわね。それは素晴らしい。ですが、クロノスくん、どんなにデータが膨大になろうとも、どんなに分析精度が上がろうとも、人間の心の奥底に潜む『謎』を完全に解き明かすことはできないでしょうね。だからこそ、私たち探偵の仕事は、決してなくならないのですわ。これからも、私たちの『死角』は、きっと新たな事件を呼び込むことでしょうからね。」
神崎はそう言い残し、立ち上がった。