迷子の巡査部長と謎解きの警部補
「えっと……捜査一課は……どっちだ?」
日向歩巡査部長は、手に持ったしわくちゃの庁舎案内図を睨みつけ、途方に暮れていた。今日から警視庁捜査一課配属。やる気だけは満タンだったが、広大な庁舎の複雑な構造は、地方の小さな署から来た彼にはまるで巨大な迷宮だった。右に曲がれば総務部、左に行けば鑑識課。彼が目指す捜査一課は、案内図上ではここから目と鼻の先に見えるはずなのに、なぜか一向に辿り着かない。
「くそっ、もう遅刻寸前じゃないか……!」
焦るあまり、足がもつれる。廊下の角を曲がった拍子に、彼は脇に置かれていた清掃用具のバケツに足を引っ掛けた。ガシャーン!という轟音とともに、泡立った水が廊下一面にぶちまけられる。
「うわあああ!」
日向は慌てて謝ろうと顔を上げたが、そこにいたのは、目を丸くして立ち尽くす清掃員のおばさんだけだった。
「す、すみません!すぐ拭きますんで!」
日向は慌ててポケットからハンカチを取り出したが、もちろんこんなものでどうにかなる量ではない。まさに「不幸体質」という言葉が彼のためにあるかのようだ。
そんな日向のドタバタ劇を、少し離れた廊下の隅で、一人の女性が静かに眺めていた。彼女は、体にぴったりと沿った黒いスーツにノーネクタイという、警察官らしからぬ装いをしている。長い指が、顎のあたりを彷徨い、不意に、口元に薄い笑みが浮かんだ。神崎冴警部補だ。
神崎の目は、日向の一挙手一投足を捉えていた。彼の焦り、右往左往する視線、しわくちゃの案内図を握りしめる手の形、そして何より、彼が廊下で立てた騒音と、そこから生じた水たまり。神崎は、それらすべてから、彼の置かれた状況と、そのおおよその性格を見抜いていた。
(おやおや、随分と慌てているようですね。今日の新規配属組の誰かでしょう。それにしても、こんなところでバケツをひっくり返すとは。なかなか、愉快な人物だ。)
神崎は、まるで舞台を観劇するかのように、静かに日向の様子を見守っていた。
その時、庁舎の奥にある食堂から、けたたましい声が響いてきた。
「私の財布がない!誰か盗ったわね!」
怒りに満ちた女性の声に、日向は反射的にそちらへ顔を向けた。警察官としての正義感が、彼のドタバタを忘れさせたのだ。
「事件発生か!?い、今すぐ向かいます!」
日向は、バケツから目を離し、食堂へと駆け出していった。その姿は、まるで獲物を見つけた猟犬のようだ。清掃員のおばさんは、泡立った水たまりの前で呆然と立ち尽くしている。
神崎は、フッと笑みを漏らすと、日向の後を追うようにゆっくりと食堂へ向かった。彼女は騒ぎの中心には行かず、入り口付近で立ち止まり、周囲の様子を観察し始めた。
食堂の中央では、中年女性がテーブルを叩きながらヒステリックに叫んでいる。
「この中に泥棒がいるわ!絶対そうよ!私の財布は、さっきまでここに置いてあったのに!」
日向は、すでにその女性の前に駆け寄り、状況を把握しようと必死だった。
「落ち着いてください!何があったか詳しく教えてください!」
だが、彼の問いかけは、混乱する食堂の喧騒に飲み込まれていく。周囲の職員たちはざわつき、互いに疑いの目を向け始めた。日向は、無関係な中年男性に「あなた、今、変な動きをしましたね!?」と詰め寄ったり、証言を求めるあまり、混乱している女性をさらに興奮させてしまったりと、状況を複雑にするばかりだった。
神崎は、そんな日向の姿を、どこか楽しげに見つめていた。彼の行動は、事件解決には全く役立っていないが、その一生懸命さだけは伝わってくる。
神崎の視線は、食堂の隅々へと巡らされた。人々の視線、テーブルの上の食器の配置、床に落ちた小さなパンくず、そして窓から差し込む光の角度まで。彼女の観察眼は、すべてを情報として捉えていた。被害を訴える女性の服装には、わずかなコーヒーのシミがついている。隣のテーブルに座っていた男性は、手に持っていた新聞を不自然に握りしめている。そして、食堂の入口にある、足拭きマットのずれ。
神崎は、静かに日向の元へと歩み寄った。
「おやおや、君。随分と、お熱心なことですね。ですが、その方は泥棒ではありませんよ。」
神崎の声は、騒がしい食堂の中でも、不思議と日向の耳にはっきりと届いた。日向はハッと振り返る。
「え、!?ど、どうして…!?」
「それよりも、この状況は、泥棒騒ぎではない。そうでしょう、おばさん?」
神崎は、被害を訴える女性に、穏やかに問いかけた。女性は、神崎の冷静な声に、少しだけ興奮が収まったようだ。
「な、何を言ってるんですか!私の財布は…」
「ええ、財布はここにはない。しかし、盗まれたわけではない。あなたは、先ほどまで、このテーブルでコーヒーを飲んでいましたね?」
女性は頷いた。
「そして、その時に、誰かがぶつかって、あなたの服にコーヒーを少しこぼした。慌てて立ち上がった拍子に、あなたはその財布を、椅子の背もたれに引っ掛けた。そうではありませんか?」
神崎は、食堂の隅にある、誰も気づいていなかった小さな手がかりを指差した。そこには、女性が座っていたと思われる椅子の背もたれの裏に、二つ折りの財布がひっかかっていたのだ。椅子の色と同化し、ほとんど見えない位置だった。
「あ…!」
女性は財布を見つけ、顔を赤くした。同時に、日向も「ええ!?そんなところに!?」と声を上げる。彼の目は、まるで奇術を見せられたかのように驚きに満ちていた。
「ですが、なぜコーヒーのシミが…?」
日向が尋ねると、神崎はフッと笑った。
「そのコーヒーをこぼしたのは、おそらく、先ほどあなたが廊下でひっくり返したバケツの水が原因でしょうね。」
神崎は、ニヤリと笑いながら、日向が慌ててポケットから取り出したハンカチの、ほんのわずかな濡れ具合と、その顔についた水滴を指差した。
日向は、自分のドジがこんなところでつながっていたことに、顔を真っ赤にして固まった。食堂の職員たちは、安堵の息をつき、ざわつきが収まっていく。
騒ぎが収まり、日向は神崎に感謝と同時に、その正体不明な人物への好奇心を抱いた。この人は一体、何者なんだ?
「あ、あの…あなたは一体?」
日向は、自分の全てを見透かされているかのような神崎の視線に、畏敬と困惑が入り混じった複雑な感情を抱く。
神崎は、日向の顔をじっと見つめ、フッと笑う。
「おやおや、君は新しく配属された日向くんですね。広報課、でしたか?」
わざと間違った部署を口にする神崎に、日向は慌てて訂正した。
「いえ!捜査一課です!巡査部長の日向歩です!今日から配属になりました!」
「そうですか。それは失礼。私も今日から捜査一課の警部補になりました、神崎冴です。どうぞよろしく、日向歩くん。」
神崎は、淡々とした口調で自己紹介をした。日向は、まさかこんなミステリアスな人物が自分の上司になるとは夢にも思っていなかった。
「それにしても、日向くん。君は随分と慌てているようですが、何かお探しものですか?もしかして、私と同じ部署の場所、だったりしますか?そのしわくちゃの案内図から察するに、随分と道に迷われたようですね。」
神崎の言葉に、日向はギクリとし、顔を赤くする。彼の手に握られた案内図は、まさに彼の混乱ぶりを物語っていた。
神崎はニヤリと笑い、「フフフ。どうやら、私たちの付き合いは長くなりそうですね」と呟く。
日向は、このミステリアスで偏屈な警部補が、自分の上司になることに、期待と同時に大きな不安を抱きながら、捜査一課への初出勤の重い扉を開けるのだった。