3品目「それ、もう“店”なんじゃない?」
“文化祭”――それは、1年に一度だけ開かれる、学校最大の非日常。
部活の枠も、学年の壁も、空気の温度もぜんぶ変わる、魔法のような2日間。
初めての模擬店。初めての看板メニュー。初めての“本番の味”。
そして、千果にとっては、初めての「勝負」だった。
まだ何も知らない彼女たちが踏み出す、最初の秋――。
九月。
蝉の声が少しずつ静かになり、教室の窓を抜ける風が心なしか涼しくなってきた。
廊下には、文化祭のポスターや飾り付けが増え始め、校内はそわそわとした空気に包まれていた。
「いよいよ、文化祭って感じだね!」
そう声を弾ませたのは、料理部の副部長・香坂楓。
千果がこの数か月でもっとも尊敬し、勝手に“味の師匠”と呼んでいる人物だ。
料理部の今年のテーマは「エスニックフェス」。
カレーを主軸にしたメニュー展開で、教室を丸ごと“異国の屋台”のように演出するらしい。
「棗、準備どう? 夏野菜カレーの仕込み、ちゃんと進んでる?」
「うん! 試作はもう何回かやったし、昨日やっと“これだ!”っていう味が決まったよ!」
そう言って笑う千果の頬には、ほんのりと自信の色が灯っていた。
「“棗千果特製”って書いて、いい?」
「え、名前出すの?!」
「だってこれ、棗の味でしょ? 初めての看板だよ?」
驚きつつも、千果は内心こっそり嬉しかった。
──私の名前が、メニューになる。
地味で、どこか空気のように過ごしていた千果にとって、それはとても特別なことだった。
*
文化祭前日。
料理部の教室は、机と椅子が片づけられ、まるで屋台村のようにカラフルな装飾が施されていた。
天井には旗、壁には手描きのスパイス図鑑、カウンターにはメニューと値段表が並ぶ。
「これ、ほんとに高校の文化祭か……?」
悠真がぽつりと漏らした言葉に、誰もがうなずいた。
試作を重ね、調味料の比率を微調整し、仕込みと段取りを分担して、
部活全員で汗だくになりながら仕上げたこの空間。
「なんかさ……“店”だよな、もう」
誰かが言ったその一言に、笑いが起きた。
でも、それは冗談なんかじゃなかった。
千果のカレー鍋のスパイスの香りが、
教室の外の廊下まで、じわじわと染み出していく。
そんな“匂いの宣伝”に誘われて、文化祭当日――
とんでもない出来事が、彼女たちを待ち受けているなんて、
このときの千果はまだ、知る由もなかった。
文化祭初日。
開場のチャイムが鳴ると同時に、料理部の教室の前には長い列ができていた。
「えっ、何これ……行列できてる!」
千果は目を丸くして、列の先頭を見た。
その視線の先には、クラスメイト、後輩、先生たち、そして見知らぬ外部の人々まで――
SNSで“文化祭で本格スパイスカレー食べられるらしい”と広まったのが、前日の夜。
写真付きで投稿された試作カレーの一皿が、思った以上にバズっていた。
「#文化祭ガチ勢 #スパイス革命 #棗千果のカレー」
そんなタグがついた投稿は、瞬く間に拡散されていたのだった。
「棗、最初の注文きたよ! 夏野菜カレー、2つ!」
「う、うんっ!」
厨房スペースに入った千果は、すでに慣れた手つきでルーをすくい、温めた野菜と一緒に盛り付けていく。
少しピリ辛な香り、トマトの酸味、鶏肉の旨味――
すべてが溶け合ったあの“棗千果の味”。
「お待たせしました!」
お客さんに手渡すと、受け取った人は思わずふわっと笑った。
「うわ、香りすごっ。めっちゃいい匂い……」
「SNSで見たやつだ。ほんとにこの高校で出してるんだな……」
その一言が、千果の胸にふわりと火を灯した。
自分の作った料理が、誰かの期待になっている。
誰かの“楽しみ”になっている。
──あぁ、料理って、すごい。
厨房の隅で、そっとメガネを外して額の汗を拭った千果の顔は、真剣そのものだった。
*
昼過ぎ。
ふと、千果の耳にある会話が届いた。
「……あの子、だよね? あの、スパイスカレー作ってる……棗千果さん」
「写真より実物のほうが、可愛いじゃん……!」
店の外、スマホ片手に話している女子生徒たち。
まさか自分の名前が他人の会話に出てくるなんて思っていなかった千果は、顔を真っ赤にして身を引いた。
でも、どこか、嬉しかった。
*
文化祭の終了とともに、教室は静かになった。
完売した夏野菜カレー。
空っぽの寸胴鍋。
カレーの匂いだけが、まだほんのり漂っている。
「棗、おつかれ!」
楓が笑顔でタッチしてくる。
「どうだった、初めての“自分の店”は?」
「……夢みたいだった。けど、夢じゃないんだよね」
千果は静かに答えた。
そして、鍋を洗いながら、ひとつ心に誓っていた。
――来年は、もっとすごいカレーを作る。
この一年で、もっと上手くなる。
きっと。
【千果レシピ・秋】
「棗千果の夏野菜スパイスカレー」
材料(2〜3人分)
•鶏もも肉:200g(一口大にカット)
•玉ねぎ:1個(みじん切り)
•トマト:1個(ざく切り)
•パプリカ(赤・黄):各1/2個
•ズッキーニ:1/2本(輪切り)
•ニンニク:1片(みじん切り)
•生姜:1片(みじん切り)
•サラダ油:大さじ1
•水:300ml
•塩:小さじ1〜
•ココナッツミルク:100ml(お好みで)
スパイス(千果ブレンド)
•クミンパウダー:小さじ1
•コリアンダーパウダー:小さじ1
•ターメリック:小さじ1/2
•ガラムマサラ:小さじ1/2
•チリパウダー:小さじ1/4(辛さは調整可)
作り方
1.鍋に油を熱し、ニンニク・生姜・玉ねぎを飴色になるまで炒める。
2.鶏肉を加えて表面が焼けるまで炒め、スパイスを加えて香りが立つまで炒める。
3.トマトを加えてさらに炒め、水を加えて煮込む(15〜20分)。
4.夏野菜を加え、柔らかくなるまで煮る。
5.お好みでココナッツミルクを加え、塩で味を調整して完成。
ポイント:
・スパイスは焦がさないように、油と一緒に短時間でしっかり加熱。
・トマトの酸味が決め手。
・ココナッツミルクを加えるとマイルドでクリーミーな仕上がりに。
・できれば一晩寝かせると、味がなじんでさらにおいしい!
初めての文化祭、本気の模擬店。
不安と緊張で手が震えながらも、千果は確かに“誰かに届く料理”を作った。
名前を出すこと、味で勝負すること、SNSで広まること。
それら全部が、彼女にとって初体験で、まるで夢のようだった。
けれど、千果はその“夢”を、現実に変えてしまった。
最初の一歩は、確かにここから始まった。
そして彼女は気づく。
料理の力が、人を笑顔にし、時に心を動かすものだということを。
この物語は、ここから少しずつ“プロの現場”へと近づいていく。
でも、今はまだ、文化祭の小さな教室から。
次は2年目の春。
もっと上手くなりたいと願う、千果の新しい一年が始まる――。