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セオドア、遭遇





セオドアは昔のことをほとんど覚えていない。ただ、ゴミ溜めのような貧民街で、毎日お腹を空かせて道端に転がっていたことだけは覚えている。それが、セオドアの日常だったからだ。

そんな生活が一変したのは、この辺りでは見たことがない、とても綺麗な洋服を着た男が、セオドアの前に現れたからである。


『……名前は?』


当時セオドアに名前はなかった。誰にも呼ばれることがないからだ。セオドアはふるふると首を横に振った。

すると男は、なにかを考えるように、ふむ、と顎に手を当てる。


『……言葉は分かるのか?』


『……』


今度はこくりと頷く。

男は、また考えるように顎に手を当てたが、すぐに『これにする。連れていこう』と、後ろにいた大男に言った。

セオドアは後ろに人がいたこともわからなかったので、驚いて後ずさったが、大男は優しい手付きでセオドアを抱き上げる。


『お前の名は今日からセオドア・アーレントだ』


『……?』


男が、抱き上げられているセオドアに話しかけた。セオドアはきょとんと首を傾げる。


『セオドア・アーレント。お前は私と共にアーレント家へ帰り、今日からアーレント家の後継者となる。いいな』


『……』


男の人の言葉は、3歳のセオドアには難しかったが"帰り"という言葉だけはなんとなく分かったので、こくこくと何度も頷いた。

セオドアはもう、この、ゴミ溜めのような場所へいたくなかったのである。





アーレント公爵家は夢のような場所だった。

最初に会った男は公爵家の主だったらしい。セオドアが公爵家へ連れてこられて一週間で、公爵はセオドアの父となった。その父が一番に連れてきたのは母となる人である。母はとても綺麗な女の人で、抱き締められるととてもいい匂いがした。


『セオドア。あなたは私たちの息子よ。これからは好きなものを好きなだけ食べて、大きくなりなさいね』


こうして、ゴミ溜めのような場所での生活は一変したのだった。

優しい両親が出来て、空腹には困らない暮らしになり、雨や寒さを凌げる豪華な部屋は、セオドアだけのもので、綺麗な洋服は沢山作られた。

セオドアはこの上ないほどに、幸せだった。


だが、その幸せは一年後、唐突に終わる。


『……リリアに子どもが出来た』


『……』


セオドアは喜んだ。つまり自分に弟か妹が出来るということだ。両親ばかりでなく弟妹が出来るとは。自分はなんて幸せなのだ。そう思っていた。

父がセオドアをきつく睨み付けてくるまでは。


『……ちちうえ?』


『これだけは言っておく』


『ちちう……』


『リリアの産む子が男なら、お前の居場所はないと思え』


『え……っ、』


『お前は私たちの子ではないのだ。当然だろう』


『……っ、』


どうして。

この間まで、お前は私たちの息子だと、言っていたではないか。


『ちちうえ、』


『……分かったな?』


『……』


セオドアがこれ以上なにかを言えるわけがない。父の言うことは一切間違っていないからだ。

実の子がいなかったから、セオドアを拾ってきたけど、実の子がいるなら、拾ってきた子はいらない。そうなるのは、当然のことなのだ。



産まれたのが娘だったので、セオドアが再びゴミ溜めに戻されることはなかった。だが、セオドアは公爵家の後継ぎとしてだけの生活を余儀なくされる。好きなことは出来ず、自由な時間もない。

そして、セオドアは、その娘のために生きることになった。


『お前は、この子のために生き、この子のために死になさい』


その言葉は、毎晩毎晩呪いのように繰り返される。

それでも、必要最低限の食事も部屋も服も与えられる今の状況は、ゴミ溜めの生活よりはましだったのだ。そう考えなければやっていけなかった。

そうしてセオドアは、すべてを諦めた。



そんな、ある日だった。


『にー!』


セオドアに光をくれたのは、セオドアの幸せを奪ったも同然の、父母の実の娘、エレニカだった。

エレニカがセオドアの部屋へ頻繁に訪れるようになったので、近くの部屋がいいだろうと、セオドアの部屋はエレニカの隣で、そこそこいい部屋に変わった。

エレニカがセオドアと一緒に寝たいというから、毎晩の呪いのような言葉を聞くことはなくなった。

それでも、同じ時間になると強張る身体にぴとりと寄り添ってエレニカは囁く。


『おにいさま。あのね、おにいさまは、おにいさまだけのためにあるのよ。だから、おにいさまは、じぶんのためにいきるの。ね?』

 

『……』


少しばかり眠そうにしながらも、ふにゃり、とエレニカは笑った。


『おにいさまは、しあわせになって』





そうして、エレニカがセオドアについて回るようになってから三年が経った。だが、セオドアは未だにエレニカを信じられずにいた。

父母は一年ほどで自分への態度を変えたのだ。エレニカだって、いつ、その態度を変えるか分からない。

セオドアはその日がいつ来てもいいよう、期待をしないように、エレニカと適度な距離感を保って過ごしてきた。


(今は、ぼくを本当の兄だと思ってるからなついてるだけだ。ぼくが本当は貧民街から拾われた子で、家族の誰とも血が繋がってないと知れば、この子だって、父母みたいに、ぼくがいらなくなる)


そして、運命の日はやってくる。





その女を見たとき、嫌な予感がした。覚えていないはずの昔の記憶が蘇ってきては、あいつは知っている顔だと告げる。


「ゴミ小僧じゃないか」


女は、セオドアが貧民街で暮らしていたころ、そこで日々生きるか死ぬかの生活をしていた子どもたちへ、カビの生えたパンなどを投げてはそれを奪い合うように食べるのを楽しそうに見ていた、たちの悪い女だった。

女は、下卑た顔でセオドアを指差す。


「お嬢さまはこいつがあの、ゴミ溜めの貧民街で暮らしてたことをご存じで?今は綺麗な洋服を来てるかもしれないが、あんなところで生活していた奴ですよ?身に染み付いた汚い臭いは消えやしません。あー、臭い臭い」


セオドアは握っていたエレニカの手を離した。そう言われると、本当に自分が汚なくて臭いのだと、そう思えてくるのから不思議だった。

この綺麗な女の子に触れていることが、途端に恐ろしいことのように思えた。

なのに。


「……」


離した手がぎゅ、と握り返されたので、驚いてエレニカを見る。エレニカは真っ赤な顔で、泣きそうに目を弛ませながら、怒っていた。


「え、エレニカ……?」


「なにしてるの?」


「え」


「アーレント家の後つぎをぶじょくしたふとどきものを前に、あなたたちは、いつまでだまっているつもり?」


エレニカは彼女を護るように前へ出ていた護衛三人に向かって怒っているようだった。

護衛たちは困惑している。それはそうだろう。彼らの仕事はエレニカの身を護ること。ついでに後継ぎが間違っても死なないように護ることだ。

セオドアがいくら侮辱のような言葉を吐かれたからとはいえ、それで動くようにはなっていない。

なのに、それをエレニカは咎めたのだ。


「きぞくをぶじょくしたこのぶれいな女を、さっさとつれていって!」


「お嬢さま、なにを……!あたしゃ、侮辱など……本当のことを言ったまでで……!」


「むかしがどうあれ、今は私のだいじなおにいさまなのよ!へんなこと言わないで!」


「お、お嬢さ……!」


「はやくつれていきなさい!」


女は護衛二人に引きずられるようにして連れていかれた。

貴族を侮辱した罪は重い。女は相当な罰を受けるだろう。セオドアはなんの感情もなくその背中を見送った。

それよりも大事なことがあったからだ。


「……エレニカ、泣かないで……」


「おにいさまもおにいさまです……いやなことは、大人しく聞くひつようはありません!」


「……うん」


「おにいさまは、だれがなんといおうと、私のだいじなおにいさまなんです……っ」


「うん、そうだね……」


ああ。この子は。

あんな話を聞いて、それでも自分を兄だと……大事だと言ってくれるのだ。 

セオドアは、とうとう声を上げて泣き出してしまったエレニカを、今度は躊躇いもなく抱き上げた。


「エレニカ……僕が悪かった。ごめんね」


自分は、この子に相応しい人間になろう。そう、思った。

昔のことや、公爵家と一切血が繋がっていない事実は永遠に消えないけど。それでも、この子が、こんな風に泣いてくれるなら。


(僕は、僕の意志で、君のための僕になる)


セオドアはこの日、そう、固く決意した。






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