異世界転生らしいです
「セオドア・アーレント。肝に銘じなさい。お前のすべては、この子のためにある。この子のために生き、この子のために死になさい」
「……はい。お父さま」
私の記憶は、そんな物騒な会話から始まった。
私は日本人だった。なんの変哲のない日常を過ごしていた、平々凡々な29歳。
なのに。
目が覚めるとそこは別世界だった。いや、比喩でもなんでもなく。
「……ばぶ?」
「まぁ、お嬢様。お目覚めですか?」
私は寝返りもうてない赤ちゃんになっていた。
きらびやかな部屋は、見るからに日本のものではなく。
世話をしてくれる乳母やメイドたち。そして父母はどう見ても日本人ではない。
「エレニカ。今日も可愛い私の娘……」
そして"母"が呼ぶ私の名前も、明らかに日本人のものではなかった。
(ふむ、)
どうやら、異世界転生、とやらをしてしまったらしい。
変に冷静に、私は事態を理解した。
エレニカ・アーレント。
これが私のこの世界での名前である。
乳母は寝物語のつもりなのか、今世の私の両親の話を鼻高々と語った。
「お父さまはこの国随一の公爵さまなのですよ。皇族方の次に偉いのです。それから、お母さまは昔から妖精姫と称えられたそれはそれはお美しいご令嬢で、お二人の結婚は当時とても話題になったんですよ。お二人並ぶと夢のように美しくて……ふふ。今でも仲睦まじいお二人ですからよくお分かりでしょう?よかったですわね、お嬢さま」
「……ばぶぅ」
そんなお美しい二人が、息子にどんなことをしているのか知るよしもない乳母は、いつだってうっとりと語った。
「……うにゅ、」
(今日も来た……)
私はまどろみながら、聞こえてくる足音を聞いていた。そして、しばらくして聞こえてくる二人の話し声も。
「セオドア・アーレント」
「……」
(毎晩、毎晩、赤ちゃんの前でよくやるわ)
父は、毎晩のように私が寝ている部屋に来ては、息子へまるで呪いのように同じ言葉を吹き込んだ。
「肝に銘じなさい。お前のすべては、この子のためにある。この子のために生き、この子のために死になさい」
(聞こえないと思って……全く)
父は私がぐっすり眠っていると思い込んでいるけど、中身は赤ちゃんじゃないからか、気配で目を覚ましてしまうのだ。勘弁してほしい。
そんなことを思っていたら、何かを叩く音が聞こえた。この日はなにかが違ったらしく、父が機嫌を損ねて、息子の頬を張ったのだ。
私はびっくりして泣いてしまった。
「エレニカ、エレニカ。どうした?泣かなくていい。お父さまがいるからな」
優しくあやしてくれる父の後ろで、頬を赤く腫らした小さな男の子が、成すすべもなく怯えている。
多分、私をあやす裏で、お前のせいで娘が泣き出したのだと睨み付けでもしたのだろう。
なにが気に食わなかったのかは知らないが、4歳にも満たない小さな子どもを、頬が腫れるほど叩くだろうか。なんて仕打ちだ。
(子ども相手に信じられない!)
私は盛大に泣くどさくさに紛れて、人でなし"父"の腕を蹴りつけた。
セオドア・アーレントは、アーレント公爵家の長男である。つまり、私、エレニカの兄だ。だけど、実際にはこの家の誰とも血が繋がっていないらしい。
身体の弱かった夫人に、跡継ぎのことで心労をかけたくなかった公爵は、ある日男の子を拾ってきた。
男の子は当時3歳。貧民街の道端で飢えて転がっていたところで、公爵と出会ったのだという。
それが、セオドアだった。
恐らく、セオドアにとって、貧民街から拾われて後は、まさに夢のような日々だったことだろう。
美しい両親は優しく、あたたかい食事は毎日与えられる。自分だけの豪華な部屋があり、たくさんの綺麗な服を与えられ……。
食うにも困っていた男の子の世界は、まさに別のものとなった。
だが、夢のような日々は、それから一年後、跡形もなく崩れ去る。夫人の懐妊によって。
セオドアにとってまだ幸いだったのは、夫人が産んだ子が娘だったことだろうか。公爵家を継ぐ後継者として、セオドアが公爵家から追い出されることはなかったからだ。
しかし、公爵のセオドアに対する態度は一変した。
セオドアは、公爵に冷たく扱われることとなるのだ。
服や食事は必要最低限なものだけとなり、跡継ぎのための教育だけがセオドアの日常となった。自由な時間はなくなり、少しでも不出来なことがあれば体罰は当たり前。
そして、娘が産まれてから毎晩のように行われる儀式が、セオドアを苛んでいく。
毎晩毎晩、娘の可愛い寝顔の前で小さな男の子に理不尽な誓いを立てさせる公爵の異様さに、異を唱えるものは誰もいなかった。
公爵にとって可愛いのは娘だけ。夫人はそんな公爵の態度を、なによりも喜んだ。
自分の愛する人が、自分が産んだ子だけを愛してくれるからだ。
跡継ぎである血の繋がらない男の子ではなく、女の子ではあるが、自分が命を懸けて産んだ可愛い子を。
夫人はすぐに、セオドアのことなどどうでもよくなった。
そうしてセオドアは、愛情を一心に受けなければならない幼少期にすら愛情の欠片も与えられず、ただ跡継ぎとしての役割をこなし、心を苛まれ、ただ公爵家の愛すべき娘のためだけに存在する、感情もなにもない、人形のように育っていく──。
どうしてこんなに詳しいか?
それは、私がセオドアという人物の人生を知っているからだ。
それだけではない。両親がどうなるかも、自分がどうなるかも。
この世界のすべてを、私は知っていた。
乙女ゲーム「カモミールの光」
それが、この世界の名前である。
男爵家の私生児として育った不遇の令嬢は、それでも清らかで優しい心を持ったままで成長する。そんな、優しい心の持ち主である令嬢がヒロインとなって、心に闇を持つ攻略対象の心を救っていく、そんな乙女ゲーム。
その世界には、自分のためだけに生きているセオドアを好き勝手に使って、この国の王太子と無理矢理婚約したあげく、気に食わない男爵令嬢に危害を加える我が儘令嬢がいた。
令嬢の名前は、エレニカ・アーレント。つまり、私。
そう、よりにもよって私は、前世で暇潰しとして時々やっていた乙女ゲームに登場する悪役令嬢に、転生してしまっていたのである。